シンボリルドルフは、後悔している事がある。
深い、深い後悔。どうしてあんな事を言ってしまったのか。
幼い頃だからと言い訳のしようもない言葉を、彼女は言った。
アレはきっと、ウマ娘の夢を殺す一言だった。
それを、シンボリルドルフは実の妹に言った。
ベッドの上でしかまともに生きる事が出来なかった、あの頃の妹に。
昔のルドルフは、それは良く妹に話しかけていた。
会話じゃない。話しかけていただけ。
何故ならシンボリルドルフの妹は、話すのも難しい容態だったからだ。
傍から見れば、シンボリルドルフは出来損ないの妹に対して真摯に対応している、出来の良い姉に見えていただろう。
小さい内から、介護のような事をしていて偉いね、と。
実際にそう呼ばれた。そういう風に直接言われた事すらある。
そしてそういう評価と言葉が、シンボリルドルフは心の底から嫌いだった。
憤慨だった。理不尽に対する怒りでもあった。
シンボリルドルフは、妹と差を感じた事はない。差別をした事もない。
だって妹だから。同じ家族だから。
親が子に無償の愛を注ぐのと同じように、姉が妹に無償の愛を注いで何が悪い。
どうしてたったそれだけの事が、まるで尊い事のように持て囃されるのだろうか。
当たり前の事に、何故特別な意味など見出される必要性があるのだろう。
理解出来ない。
気持ち悪いとすら感じた。
当たり前の事を当たり前にやって、それが褒められる意味。
家族、それも妹を大事にして驚かれる意味。
その頃のシンボリルドルフは、世の理不尽に対して感情的に糾弾出来る幼さがあった。
周囲を気にせずに行動出来る甘さがあった。
故に、嫌いだった。心の底から。
自分と妹に差を作りだすモノ。
生まれ育った環境。生まれ付き持ってしまった病気。周りからの言葉。
それだけで、何もかもを断ち切られるという世の理不尽。
妹に接している理由が、まるで同情しているからとか、かわいそうだからなどと思われるのも。
周りの全てが、嫌いだった。何もかもが煩わしかった。
シンボリ家という名門ですら、ルドルフにとって不愉快な檻でしかなかった。
妹は知らない。この頃のシンボリルドルフは父と母……特に妹の前以外ではかなり荒んでいた事を。暴威を以って周囲を傅かせる獅子でしかなかった事を。
——………エウロス? 実はな、中央トレセン学園にはこんな言葉があるんだ。
——……………?
だから、言ってしまったのかも知れない。
妹があまり喋らないのを良い事に。
本当は、言ってはならないのに。
——『Eclipse first, the rest nowhere』
——……………。
——これは唯一抜きん出て並ぶ者なし、と言うんだ。
エクリプスというウマ娘がいた。
今から何百年も前、まだトゥインクルシリーズはおろか、レースという概念が今とは全く別だった時代に生まれたウマ娘。
そして、今のレースの基礎と概念を作り出した、始まりのウマ娘。
今の時代、ウマ娘の名門と呼ばれる家は、家系図を辿っていくとそのほぼ全てが必ず、何らかの形でエクリプスに辿り着くという。世界中の名門がだ。
嘘か真か、三女神の血を引いているとすら言われた、ウマ娘レースの始祖。
数マイルという、約4800〜6400mの超長距離を何回も走り切るだけだった時代から、レースという駆け引きと勝負の舞台へと変えた、伝説の存在。
18戦18勝。もしくは20、あるいは26。
正確な記述はもう残っていない。
ただ一つだけ分かっている事がある。
彼女は一度たりとも負けなかった。
生涯無敗。その全レースが楽勝だった。
唯一抜きん出て並ぶ者なし。
これは比喩でも何でもない。
誰もエクリプスと並べた者などいなかったから。
当時、1着から240ヤード以上離されたウマ娘は失格になるというルールがあった。
そして、エクリプスは1番早くゴールした。
2着に最低でも240ヤード………約220mの差を、本当に叩き付けて。
つまり約90バ身。2着のウマ娘が見えなくなるほどの差。
ヒートレース。
同じウマ娘が複数回勝つまで続けるレース。
それを、エクリプスは最初の一戦で終わらせた。
自分以外全員を失格扱いとなる着外に沈める事によって。
その伝説は歴史として広まり、各国のトゥインクルシリーズに語り継がれ、そして日本では『唯一抜きん出て並ぶ者なし』という言葉で伝わった。
他の匹儔を許すな。我々が目指すべきは常に頂点。
それは全てのウマ娘が目指すべき頂点であり、どれほどの強さと力を持っても尚、まだ目指す地平があるという意味だ。
例えば、エクリプスの様に。
約90バ身差という、神域の大差勝ちをしたウマ娘レースの始祖のように。
そういう意味で、この言葉は使われている。
シンボリルドルフは信じていた。
いつかきっと、妹が走れるようになると。
だから、そういう目標と理想を言う事が出来たし、夢を語る事が出来た。
残酷な言葉かも知れない。
でも夢を抱く事は出来る。
夢すら抱けないのは間違ってる。
そう、シンボリルドルフは信じている。
——でも、エウロス………私にはこういう意味もあると思うんだ。
いる癖に、言った。言ってしまった。
シンボリルドルフは、妹と差を感じた事はない。
だって必ず、いつか一緒に走れると信じていたから。
信じていたのに、言った。
——どんなウマ娘でもきっと皆同じ。皆、変わらない魅力があるんだって。
——…………。
どんなウマ娘でも、きっと皆同じ。
何故、そんな意味があるか?
『
これは、本当はこう言う意味だ。
エクリプスが1着。2着はなし。
或いは——エクリプスと、それ以外。
あまりにも隔絶した差は、下位の能力を均等にする。
夢も目標も理想も、全てを無念の残骸へと変える。
エクリプスの前では、どのウマ娘も変わらない。
だから、別に良いと思う。たとえエウロスが走れなくても。
——…………。
そういう後ろ向きな意味で言った。
ウマ娘にとって走れないというのが、どれほどの意味を持つのか。
それを知らないルドルフではない。勿論、妹も。
皆同じだから、走れなくても大丈夫。
だから私達に、差なんてない。
そんな励ましの言葉のフリをした、何よりも差を意識させる言葉。
捉えようによっては、お前は居ても居なくても別に何も変わらないなどという意味になる言葉を、今言った。
差を作り出したのは、姉からだった。
走れる姉が、走れない妹に、私達は同じだと言った。
妹は走れなくても良いんだよと、一番信じなくてはいけない姉が、その日妹の未来を信じるのをやめた。
走れなくても良い。
それはウマ娘の夢を、最も端的に殺せる言葉。
全てのウマ娘が幸福に過ごせる世界を。
その夢の果てしなさは知っている。勝者がいれば敗者がいるのがウマ娘のレースだ。
全てが勝者にはなれない。全てが幸福にはなれない。
でも、夢を見る事は出来る。
その夢を共に支えてくれる人が居れば、共に目指してくれる人が居たという事実があれば、決してウマ娘は落ちぶれたりしない。
だってウマ娘は、想いを乗せて走るのだから。
夢を受け継いで、走るのだから。
じゃあ——その夢すら抱けなかったら?
夢を支えてくれる誰かもいなかったら。
想いを込めてくれる誰かもいなかったら。
励ましの言葉という形で諦念を抱かせ、仕方がないからと意欲を削がれ、夢を殺される言葉を与えられたウマ娘は、どうなるのだろう。
——…………うん。
全てのウマ娘が幸福に過ごせる世界を。
その夢の始まりは、名門の家に生まれていなければそのまま亡くなっていた、たった一人の妹から。
あの日、沈黙と静寂の後に出た、妹の小さな頷き。
アレがどういう意味だったのか、シンボリルドルフは未だに聞けないでいる。
中央トレセン学園の生徒会長は、どんな時でも生徒が頼れるようにと、基本的に生徒会長室にいる事を心掛けている。
例えば、昼食や朝食の時間もカフェテリアに行かず、自らお弁当を作って生徒会長室で食べているし、放課後も寮の外出禁止時間ギリギリまでいる。
もっとも、じゃあ気軽に相談されているかというと別にそんな事はない。
何なら生徒会長に悩みを相談する勇猛果敢なウマ娘は全くいない。
生徒会長室に入室するのは、玉座に君臨する偉大な皇帝に話しかけるくらい勇気がいる。
尚、生徒会長は実際にウマ娘の頂点という王座に君臨している『皇帝』である。
ついでに言えば、現在のトレセンは理事長不在が続いている為、実質的な学園のトップは生徒会長のシンボリルドルフのようなものであり、更には理事長秘書の駿川たづなや運営に携わる業務員ばかりが生徒会長室を訪れるので、余計に生徒が入室する隙がない。
故に本人の苦労虚しく、今日も生徒会長室は至って静かで厳かだった。
「ん?」
ウマ娘は耳が良い。
だから大抵、部屋の扉をノックされる前に足音で誰かが来たか分かる。
特に静かな生徒会長室なら余計にだ。
コンコン、と扉がノックされる。
ルドルフの誰何を待つ事なく、扉をノックした者は生徒会長室に入室して来た。
その無礼が許される立場の者だった。
「…………」
「あぁ……もう少し遅くからでも良かったんだが」
「…………(フルフル)」
「そうか。いつもので良いかい?」
「…………(コクッ)」
短い言葉だけで伝わる間柄。
手慣れた動作で、ルドルフは擦り下ろした生姜を入れたハチミツ湯を、席に座ったエウロスに手渡した。
糖分補給も兼ねながら、強い抗菌作用と粘膜保護、感染症予防も出来る喉に良い飲み物としてエウロスは愛飲している。同じようにルドルフも愛飲していた。
要は、超柔め・超薄め・普通+生姜トッピングの、シンボリブランドはちみーである。
個数限定&皇帝の手作りという、人によっては凄まじい付加価値がつくレベルの。
エウロスが生徒会長室を訪れる時に限り、ルドルフは来賓用のお茶ではなく、ハチミツ湯を出していた。
「まずはこの前の選抜レースからかな。
あのレース結果を見ていたよ。馬良白眉の活躍だった。凄いぞエウロス」
「うん」
頷くだけで済ませる事の多いエウロスが、相槌を打った。
満足そうに、少し微笑んで。儚く笑う。そんな笑み。
エウロスの学園態度を知っているクラスメイトからしたら、信じられないくらいの反応だった。
「アレくらいはやるよ。負けられないから」
「そうか」
そして相槌だけで済ませず、自分の身の上まで口にする。
対するルドルフの反応は、非常に淡白に見えた。
でも、二人の間ではこれだけで充分なのだ。
何より『皇帝』の雰囲気が違う。否、もはや『皇帝』と呼ばれるウマ娘はそこには居ないようなもの。
僅かな言葉で通じている。
そしてルドルフも、分かっていた。
負けられないから。
それを同期に負けられないからではなく、姉に負けられないからという事を。
それは同期をハナから見ていないと言っても過言でもないだろう。
失礼。スポーツマンシップに欠けるとも言われるかもしれない。
だがルドルフはそれでも良いと思っていた。
妹は、最初から見ているモノが違う。——世界すらも。
同期という横は見ていない。見ているのは上だけ。つまり世界最強の頂。
凱旋門賞という、シンボリ家の悲願にしてURAの悲願。
戦っているのは同期ではない。戦っているのは自分自身と、日本四強と言われた……シンボリエウロスと長い間並走をしていた、あの四人だけだから。
それが誇らしくもあり、少しだけ寂しかった。
「エウロス。走るのは好きか?」
「皆と走る方が好きだったな」
「……まぁ、うん。そうだな」
皆、とは例の四人である。
マルゼン、シービー、ルドルフ、シリウスの四人。
学園にいる以上あまりそういうのは良くないのだが、それはそれとして妹からそう言われると照れるのがルドルフだった。
「大丈夫、ここで走るのも楽しいよ」
「……ありがとうな」
「ううん」
ただ、シンボリ家の使命だから走っているのではないか。
そういう姉の不安を全く寄せ付けない返事。
カチカチと、時計の音が響く穏やかな静寂の中、ポツポツと一言二言で会話していく。
それが姉と妹の、いつもの光景だった。
特にハチミツ湯を飲んで喉を温めた後、エウロスは頷く事でではなく、会話で意思疎通を積極的に図る。
明らかに、姉との会話は特別である事の証左であった。
「なら、学園生活は上手くいっているか?」
「うん。皆優しい」
「そ、そうか」
え? 本当に?
そんな言葉が顔から出かかったのを、ルドルフは堪えた。
何を考えているのか分からない。全く喋らない。他を寄せ付けない孤高の天才。怖い。凄く怖い。めちゃくちゃ怖い。レース中にやる事も怖い。かわいい顔して末脚の切れ味が鉈。
話に聞くシンボリエウロスの総評はそんな感じである。
たづなさんと危惧していた事そのまんまだ。
喘鳴症である事を公表すれば印象も変わるのだろうが………友人は同時にレースで競い合うライバル、言葉を選ばなければ敵である。
深刻な弱点は教えられない。
更にはメディアによってはスキャンダルとして晒される可能性があった。
だからシンボリ家は、出来損ないだった頃から彼女を秘匿して来たし、彼女の特異性と才能が知られてからは、更に存在そのものを完全に隠して来た。
全ては、できなかったが。
四年前のあの日、秘匿が破られたあの瞬間から。
「でも困ってる事はないか? それにエウロスは一人部屋だろう?」
「ううん。大丈夫。一人でも大丈夫」
「ならまぁ……良いんだが」
妹は察しが良い。かなりだ。
だから学園内では結構、針の筵状態になっているのを理解している筈だ。
皆が優しいというのはちょっと違うだろうし、何より妹は今まで同学年と触れ合った事がないから結構困るような気がするのだが。
……まぁ、良いって言っているならいいか……。
妹がそう言っているのだから、多分大丈夫だろう。
それとなく、裏から気にしていれば良い。
あまり表だって過干渉するのは良くないから。
姉と妹という家族としても、生徒会長と生徒という関係にしても。
それはそれとして、ルドルフは結構、妹に対して甘いところがあった。
「それにさっき、一緒に遊びに行こうって誘われた」
「…………」
ウソでしょ……。
偏見、良くない。
周囲からの評価はお世辞にも良くないが、ただまぁ仲の良い友人が一人いるのかも知れない。浅く広くではなく、深く狭く。それも一つの形だ。
何とか納得したルドルフは、ぐっと呑み込んだ。
「だから、大丈夫」
「……うん。そうだな、すまない」
「ううん。心配させてごめん」
妹は不思議なところで、凄い強さを見せる。
それが、こういうところだった。
一人でも立っていける。一人で全てを決断出来る。
他の人なんて誰もいらない。他の人の協力もいらない。
時にはそんな鋭利さになるほどの強さ。
生き方すらもが簡素で端的。比喩でも何でもなく、全神経をレースに勝つ為に使っている。
これから間違いなくG1の舞台に上がるだろうウマ娘である為、入学時期から彼女には、G1ウマ娘が着られる勝負服の案を尋ねられたのだが、その時に妹はこう答えた。
——緑・白襷・袖赤一本輪。
日本のトゥインクルシリーズでは、ウマ娘は競争者としての側面だけではなく、アイドルとしての側面も求められる。
それにウマ娘達は年頃の少女だ。華やかな勝負服を求めるというのが多いのに対し、彼女は原案は一切考えず、ただ色合いと特徴だけしか述べてない。
具体的なデザイン。雰囲気。
それは全て勝負服デザイナーの人に任せる。
私はただ、走って示すだけ。そんな質実剛健さが滲み出ている。
彼女の答案を受け取った、たづなさんの苦笑いが忘れられない。
軍人さんの勝負服を聞いて来たんじゃないですよね? とは彼女の言葉だ。
ついでに言えば、シンボリエウロスの勝負服デザイナーを請け負った人はめちゃくちゃに働き詰めになってしまったらしい。
これから国を代表する国家軍人の正装を考えなくてはならないくらいのプレッシャーだと。あまり間違ってない。
実を言うと、シンボリエウロスの勝負服はもう出来上がっている。
出来上がったが、彼女はそれを調整の為だけに袖を通しただけで、着飾る事も撮影した写真を貰う事もなかった。誰かに晴れ姿を送る事すらなかった。
勝負服に袖を通したウマ娘が、両親や親しい間柄に晴れ姿を送るのは恒例だ。
G1は、この時代15しか開催されてない。そして一つのG1に出走出来るのは、僅か十数人だ。
勿論G1に何度も出走出来る強者が居れば、重なった分だけG1に出走出来るウマ娘は減る。
そもそも大抵、G1レベルになると距離ごとに大体の顔触れは決まる。
勝負服を着られるウマ娘は、一つの世代で僅か100人もいない。
だからこそ勝負服というのは誉高い装いとしてウマ娘達の目標の中核に存在し、一世一代の晴れ舞台に立つ事を許されたウマ娘は、その喜びを両親達と分かち合う。
そういうモノだ。
それを、妹はしなかった。
——私は必ず、シンボリルドルフを越えると誓ったウマ娘です。それ以前に私はシンボリの冠を頂いた者です。何の実績もない道半ばのウマ娘でありながら、勝負服に袖を通しただけの情け無い姿をシンボリ家に晒す事は出来ません。
——………うむ。
——私がシンボリ家の門を再び潜るのは、姉上の偉業を超えたと胸を張って言えるようになった時だけ。或いは私達の悲願、凱旋門賞の頂を手にした時のみ。それまではどうか、私の事を遠くから見守ってくれると幸いです。
——………………うむ。
え? そんなに?
そういう言葉を溢さなかった父と母は凄いなとルドルフは思った。
ルドルフの時は『経過報告』として勝負服に袖を通した姿を送ってくれたからエウロスもそれで良いんじゃない? なんて本心を漏らす事の出来ない、厳しい両親は長い沈黙の後に相槌を打った。
ちなみに、エウロスから何の報告もない事に不安になった両親がかけた電話でそう告げているので、普通に電話越しである。
尚それ以降、厳しい事で通している両親から、不安だからとエウロスに電話をかける事は出来ず、またエウロスはマジで何の連絡も寄越さないので、結局父はうむと二回しか話してない。
ちなみに母とは一切会話してない。
多分泣いてるかもしれない。
堅忍不抜。堅忍果決。一念通天。不撓不屈。不退転。
そんな文字が背後に浮かんで来そうな気迫だ。
本当に軍人でも良いかもしれない。
ちなみに、なんでもう勝負服が出来ているのかと言えば、URAが全面協力して来たからだ。
然もありなん。あらゆる記録を過去にした史上唯一の十冠ウマ娘の妹。
そしてURAの悲願である凱旋門賞を取る可能性が一番高いウマ娘がシンボリエウロスなのだ。
しかも、昨年度凱旋門の2着を取り、今年もまた凱旋門賞を狙いに行く『唯我独尊の開拓者』シリウスシンボリがいるのも大きい。
そりゃあ、露骨な贔屓や不正にならない範囲なら全面的な協力をして来る。
というかURAは一部のスターウマ娘達の専用特番やCM作成など、ウイニングライブといった宣伝を始めとする様々な方面にかなり力を入れている。
故に協力するから、悲願を叶えてくれ。世界に通用する強いトゥインクルシリーズへと引き上げてくれ、なんて意味合いがシンボリエウロスには大きいだろう。
……故にこそ、URAは彼女が一体どんなトレーナーを選ぶのかにも注目している。
だから、間違いなくこのタイミングで噛んで来る。
いや、もう噛んで来ていたか。
「なぁエウロス」
「うん?」
「トレーナーはどうするか、決めたか?」
「どういう人にしたいかは決めてる」
自分達は選ばれる側ではなく、決める側。
そういう認識は、二人には最初からあった。
そして単純に、しがらみに囚われず自由に走って欲しいとルドルフは思っていた。
妹がどういう評価を受けているかを、ルドルフは当然知っている。
そして今の言葉から、彼女にスカウトをかけたトレーナーは結局現れず、そしてエウロス自身からもお眼鏡に適ったトレーナーがいない事をルドルフは察した。
「じゃあ、今日の本題だな」
「ありがとう」
棚から取り出したトレーナー名簿を、エウロスに渡す。
現在、中央トレセン学園に在籍している全てのトレーナーと、その人柄・性格・実績・所属している他のウマ娘。そのほぼ全てが書かれた書類だった。
まぁまぁ職権濫用の域に片足を突っ込んでいるのだが、仕方ない事でもあった。
生徒会長として特別扱いはいけないのだが、それはそれとして特別な存在を特別扱いしないのもまた、学園運営上問題になるのだ。
たづなさんも黙認している。何ならたづなさんが協力している。
ルドルフと、その妹のエウロスなら悪用はしないだろうという信頼を買われた形である。
「………」
「………」
元々、会話が無くて通じ合う関係だ。
そして会話が無くても気不味い雰囲気にならない間柄でもある。
片方が読み物に集中し始めれば、自然と穏やかな静けさが広まった。
紙片を捲る音。飲み物を啜る音。庶民同士ではなく、貴族同士の対談として絵になりそうな光景が続いた後、ルドルフは口を開いた。
唐突さはない。
それが二人の会話の仕方だから。
「私のトレーナーは」
「ごめん。出来ない」
「そうか……すまない、ただの確認だ」
「ううん、大丈夫」
周囲の人間は、シンボリルドルフを担当したあのトレーナーが、シンボリエウロスも担当するんじゃないかと思っている。
仮にそうなっても、ルドルフはそれを歓迎しただろう。
シンボリルドルフを担当したという実績があり、経験があり、そしてシンボリルドルフを通して蓄積された、レースに勝つ為の様々な方法がある。
相性が悪いとも思えない。
だが、エウロスは自分のトレーナーのところに来ないだろうなともルドルフは思っていた。
エウロスがトレーナーに望んでいる事は、ルドルフのそれとは違う。
後は精神と気持ちの問題がある。
姉を越えると言いながら、姉を担当したトレーナーの下に行く。
これは分かり易く言えば、父より大きな会社を作ると言いながら、コネを使って父の会社に勤めるようなモノに近い。
だから似たように、エウロスはルドルフと相部屋にはならなかった。
生徒会長と生徒。中央トレセンではそういう関係。
流石に二人だけになれば姉と妹になるが、それでもやはり無条件に力を貸す、借りるの関係にはならない。
ルドルフが生徒会長として、今後活躍するだろうウマ娘のトレーナー選びが難航しているから目をかけただけだ、なんて方便を使わなければ、妹は生徒会長室にも訪れなかっただろう。
つまりこうしてトレーナー選びに協力しているのは、ルドルフからのお節介だった。
「…………」
トレーナーは、ウマ娘の人生を預かる。そして夢と想いを預かる。
ウマ娘が想いを乗せて走れるかは、隣で夢を支えてくれるトレーナーにかかっていると言っても過言ではない。
ただそういう夢や想いはきっと、エウロスの場合は後から付いて来るだろう。
彼女自身、一人で何でもかんでも出来てしまう要領の良さがある。
勝手に夢を叶えてしまうくらい。
放っておいたら——そのまま空へと消えて、霧散してしまいそうなくらい。
——私の夢は、私の妹に託したいと思います。
ルドルフはそういう言葉で妹を縛った。縛る事で、現実に引き留めた。
おかしな話だ。
夢に殉じて死ぬというのはあるだろう。
だが妹は、託された夢というものがないと消えてしまいそうな気がした。
何の躊躇いもなく、光すら置き去りにして、現実を飛び越えて、そのまま先の人生を捨ててしまうような恐怖があった。
だから妹のトレーナーに付く人は、彼女を地上に引き留めてくれる人、彼女を止められる人が良いとルドルフは思っていた。
苦悩し悩んで歩む道が正しいか不安になってしまった時に、寄り掛かる事を許し、支えてくれる杖ではなく。
最初から彼女の方向性を定め、歩む道そのものを何個も作ってくれる、管理者。
何より妹は喘鳴症だ。
そういう病気があっても受け入れ、管理という形で方向性を定め、怪我の可能性を消しながら、未来への選択肢は用意する。そんな人が、妹のトレーナーになって欲しい。
——な……本格化前のウマ娘を相手に何をしているのですか貴方達は!?
そういうと浮かぶのが、唯一エウロスの走法が今後深刻な怪我に繋がると見抜き、そしていつもの四人が妹と並走するのを止めた、あのURA職員なのだが。
あの人がエウロスのトレーナーになってくれたら、収まりが良い。
URAからしても、シンボリ家としても、エウロス自身にしても。
あの人は、まだ幹部になる前からシンボリ家に訪れていたURA職員の人だから。
唯一の弊害は……担当ウマ娘のオーバーワークを許容し引退に追い込んだ、なんて評価がまだある事だが、それは彼女のアレからの実績と、最年少でURA幹部職員に登り詰めたという才能を信じるしかない。
彼女が妹のトレーナーに相応しいか。URAが納得するか。
そして、妹の眼鏡に適うか。
ルドルフは、そういう辺りの判断はシビアだった。
「……まぁなに。まだデビューまでは時間があるだろう。ゆっくり決めれば良いんだ」
でもそれはそれとして妹には、誰かの思惑とかは関係なくトレーナーを選んで欲しい。
だって妹が何かの理由や理不尽に縛られる事なんて、もうさせたくないから。
そう思うのは姉としての我儘だった。
託した夢という形で縛り上げていながら。
シンボリルドルフは後悔している。
そして今もまた、後になって後悔するかもしれない事をしている。
「ううん。出来れば早く決めたいかなって」
そんな感傷を知らない妹は、受け取ったトレーナー表をペラペラと捲りながら口を開いた。
「……そうなのか? まぁ確かに、早くトレーナーが付く事に越した事はないが、それで大事な選択を失敗しては元も子もないだろう」
「それはそうなんだけど………」
一瞬だけ妹の表情が曇り、口籠る。
少しだけの沈黙の後、エウロスは告げた。
「私はさ、まずは無敗三冠を目指してる」
「あぁ」
まずは、で目指して良いものではない。
あぁ、で流して良いものでもない。
ただその事を指摘する他者はいなかった。
尚指摘されたとて、この姉妹は常識の範囲外にいるので、己の認識を修正しない。
「何故なら私は姉上を超えたいから。
でも、無敗三冠を成し遂げただけじゃ、私は姉上に並んだだけ」
ルドルフは察しが早い。
喋りたがらない妹の為に、そういう能力を高めた。
故にその言葉だけで全て分かる。
「だから、私がやらなかったジュニア級から記録を打ち立てると?」
「うん」
やれなかった、ではなくやらなかった、と言う辺りに彼女がシンボリルドルフであるところが現れている。
元々ルドルフは、無敗三冠を目指していた訳ではない。
己の夢を叶える為には実績を重ねる事が必要で、それ故に一番の実績になるのが、未だ誰もが実現出来なかった無敗クラシック三冠なのだ。
そしてその三冠を狙っていた為、ジュニア級は余裕を持ったローテーションで望み、ジュニア級王者を決めるレースは見送った。
やろうと思えば出来た。ただ、やらなかった。それだけである。
「となると朝日杯FSか阪神JFか。
前哨戦の京成杯かデイリー杯を叩くかどうかは………というかアレだな? エウロス、もう大体のローテーションは自分で作り上げてるな?」
「うん」
「全く……」
呆れ3割、賞賛7割の感嘆。
正直トレーナー要らずだな、と思っているが似たような事をルドルフ自身もやっていたので、そこまで驚きではない。
一応、ルドルフはトレーナーと一緒にローテーションを考えてはいたが、元々妹はトレーナーになるよう養育されたのだ。
他のウマ娘は、まだそういうローテーションやレースに関する知識はこれから学んでいくのに対して、エウロスはもう基礎が出来ている。トレーナーレベルで。
付焼き刃だとしても、他のウマ娘に対してアドバンテージとなるだろう。
何なら妹の場合付焼きじゃない可能性もある。
「でもね、ジュニア級G1を取るだけ以外の実績も立てたい」
「ん? あぁ」
「だから各競馬場で施行するジュニア級重賞レース、取れるだけ取って来ようかなって」
「ん……?」
風向きが変わった。
今度は、あぁと頷いて流せなかった。
「流石に重賞レースが一週間以内に連続する場合は諦めるけど、一ヶ月に一回ずつなら大丈夫だと思う。だからまずは、ジュニア級重賞レースが一番最初に施行される札幌競馬場、8月2日のダート1200m。G3札幌ジュニアステークスに出走したい」
「………うん」
「私はさ、ダートの方が得意だから、まずはダートから始めようかなって」
——良いですか。貴方の加速力とトップスピードは速過ぎます。その力を本格化前の貴方が芝で出せば脚が壊れ兼ねません。まずは負荷の軽いダートから始めてください。
芝はダートより反発が大きい。
大きいから速度が出る。速度が出るから足へのダメージが大きい。
一方、反発の少ないダートは同じ力で蹴ってもスピードが出ない。
結果、同じ距離を走ればダートの方が多くのエネルギーを使い、足へのダメージが少ないながら、負荷のかかったトレーニングが出来る。
あるURA職員が言ったそれを、今に至るまでシンボリエウロスは忠実に守って来た。
本当に、忠実に。実はシンボリエウロスは、今までほとんどダートしか走って来なかったなどという事を、選抜レースを見ていたトレーナーの何人が理解出来ただろう。
シンボリエウロスにはパワーがない。それは当たっている。
じゃあ、技術で補えば良い。走り方を変えれば良い。
そういう事を、彼女は本当にやった。
芝は才能で、ダートは技術なのだ。
「そこから逆算して、6月中旬にはコース場把握の為に札幌競馬場でメイクデビューするつもり。遅くても7月にはデビューする」
「…………そっか、うん」
「選抜レースで1200mの感覚は分かったし、この時期は本格化がまだしっかりしてない子ばかりだから、ほぼ全て1200mのジュニア級重賞レースは全て私が一番有利だと思う」
「…………」
「大丈夫。もしも脚の不調を覚えたら無理はしない。
それにジュニア級の今の内に、レース中でしか出来ない経験を積みたい。
特に芝での走り方とレース展開の操作をクラシック級でも通用させられるように。
選抜レースでも出来た事を、実際のレースでも出来たら私はかなり強いと思う。
実績が欲しいって言ったけど、それは副次的なだけで、私はクラシック三冠を狙っているから。冗談とかではなく、本気で狙ってる」
「……うん。そうだな」
妹を窘めるにしては、ガッツ精神が凄すぎるのと覚悟の決め方が本気過ぎるのと、普通に具体案を出して来られて、ルドルフはあまり強く言う事が出来なかった。
ルドルフは察しが良い。だから分かる。
普通はこんな多くのレースにジュニア級から出走する事はしないと理解しながら、本気で狙いに行っているのだと。
出走するのは実績が欲しい以外にも、ちゃんと明確な理由があるのを。
ルドルフは思わず天を仰いだ。
妹、ジュニア級重賞レース、半分独占しようとしてる。
⚪︎
十冠ウマ娘→偉大さを感じる圧力
慈愛に満ち溢れている→高貴さを感じる圧力
姉→格差を感じる圧力
ダジャレを挟まず普通に喋る→普通に圧力
妹以外本当に生徒会長室に寄り付かない。
⚪︎
ナリタブライアンのローテーション以上の事しようとしてるやべー奴。
理路整然と語ってはいるが普通におかしい事しようとしてるやべー奴。
でもこれでオグリキャップのローテーションと同じくらい。
イクノディクタス、ダイタクヘリオスのローテより断然マシ。
どういう事なの。
⚪︎シンボリ家知り合いのURA職員
元トレーナー。女性。トゥインクルシリーズで優秀な成績を残していた。
既に廃れたとあるチーム対抗戦にて、自らが担当していたウマ娘が疲労骨折により故障。引退している。