アメリカのワシントン州には、ピュージェット湾とワシントン湖があり、その中央に鎮座するようにシアトルがある。アメリカの主要都市では最北端に位置する、大きな都市だ。
その都市の中央、大通りから少し離れた裏路地に、小さなカフェが存在する。
扉を開くと、豊かなコーヒーの香りと、ヴィンテージで落ち着いた内装とは裏腹に、天井に吊るされた2つのBoseのスピーカーから流れるのは、Led Zeppelinの『The Rain Song』だった。
多種多様の珈琲と甘いケーキ。
カウンターの棚には大量のレコードが並び、その店の主はマグカップを磨きながら私を待っていた。
「おヒさしブリデェス、サトウ、サン」
不慣れながらも丁寧な日本語で私を出迎えてくれたのは、かつてこのアメリカのビルボードチャートのトップへと上り詰めたバンド『SIDE LOSS』のドラムを務めた男性。今年で50になると言う、白髪を綺麗に揃えた、黒縁眼鏡が似合うイギリス系の紳士的な男性だった。
名前はピーター・アシュフォード。
――お久しぶりです。『SIDE LOSS』解散から約1年が経ちましたが、お変わりはないでしょうか?
『もちろん。元気にカフェのマスターをやらせてもらってるよ。おまけにこんなロートルのドラムが必要だと言ってくれるバンドマン達が今でも何人もいてね。たまにセッションに混ぜてもらいながら楽しくやらせてもらっているよ』
彼はそう言って、店の奥にある小さなステージに目をやった。そこには、小さなステージながらもピアノとアンプ、そしてドラムセットがライトアップに照らされて置かれている。
――立派なステージですね。
『ここではカフェをやるついでに、小さなライブイベントを開いたり、近所の子供や若者にドラムを教えたりしてるんだ。カズとヨヨコも、去年お忍びで一回来てくれて手伝ってくれたよ』
――憧れのレジェンドに教わるなんて、とても幸せでしょうね。
私がそう言うと、彼は困ったように笑いながら温かい珈琲が入ったカップを出してくれた。
『レジェンドだなんて、そんな大層なものじゃない。私は本当に、幸運だったんだ。あの日本から来てくれた二人と出会えたことに』
――その二人が、大槻ヨヨコと井上和正だったと。
『そう。あの二人がいなかったら、私は今頃故郷の田舎で寂しく親戚の農家をやっていただろうね。でも、彼と出会えたことが、すべての幸運の始まりだった』
その頃の私は、レコーディング専門のスタジオドラマーとカフェのスタッフをやっていた
スタジオドラマーと言えば聞こえはいいけどね。私のドラムは正直に言うとあまり評判は良くなかった。プロデューサーからは『華がない』だとか、『音が地味だ』なんてよく言われたものだよ。50近くにもなる男の何が華だとか思っちゃいたが、的を射ていたのも事実だった。
私より若くて華やかなドラマーは、この国にいくらでもいる。そいつらに声をかけたほうが、曲は売れる。
それでもドラムを演るのは好きで、毎日練習を欠かしたことはない。けれど堅実なドラムは受けがよくなかったのか、あまり呼ばれることも多くはなかった。だから、ドラマーを務める傍らでカフェのバイトもやっていた。
昼はカフェで珈琲豆を焙煎して、夜になればヘルプとして色んなバンドを渡り歩いた。ドラムを叩かない日はなかったと言ってもいい。けれど、自分より若い連中に頭を下げてヘルプで演らせてもらって……どうすればこの停滞から抜け出せるのか、頭を抱えていたのも事実だ。
収入は少ないが、ドラムを叩き続けることはできる。だが、私の才能やセンスが開花するのはいつになるんだって、神に何度も問いかけた。
この業界にいる以上、一度ぐらいは日の目を見たい。好きな楽器で、大きなステージに立ちたいと思うのは当然だろ?
だが、いくら私がプロデューサーに懇願しても、その願いは届かなかった。
無情に時間は過ぎていき、私はどんどん年老いていく。体力も衰えた。何時間でも振れていたスティックが、いつからか長続きしなくなっていった。
それでも負けたくなくて、筋力トレーニングやランニングは欠かさなかった。最新のヒットチャートを練習して、いつでも舞台に立てれるよう備えていたつもりだった。
だが、努力が報われるとは限らない。
『ごめんなさい、ピーター』
長年連れ添った恋人に振られたのは、3月のことだった。
15歳年下の彼女に、婚約指輪を突き返されたのは、さすがにこたえた。
『あなたの事は愛してる。それは本当よ。でも、あなたの叶わない夢に付き合うのは――もう疲れちゃったの。私は別の人と結婚するわ』
そう告げられて、彼女が席を立って見えなくなっても、しばらくカフェのテラス席から立つことが出来なかった。
彼女の心が自分から薄々離れているのは分かっていたつもりだった。私がドラムを手放せずに見苦しく足掻く私を、彼女は明らかに飽いていて。
それでも諦めきれず、あがいてあがいて――結局、彼女に見限られてしまった。
カフェのバイト中に出会った彼女と交際を始めてから、もう何年経ったか。もう、彼女が笑った表情を何年も見ていないと、気付いたよ。
『……もう、やめようか』
潮時だと、ため息が身体の内から漏れ出そうになった、その瞬間に電話が掛かってきた。
その電話は、あるハンバーガー屋の……そう、ジワタネホのマスターだったよ。彼の店で何度かライブをやらせてもらったことがあって、その縁で電話の番号を交換していた。
『ピーター、今夜空いてるか?』
『……ああ。空いてる。なんだい、またバンドのヘルプかい?』
彼は私がフリーのドラマーだということを知っていたからね。それで電話を掛けてくることは少なくなかった。急遽出られなくなったドラマーの代役としてね。だから今回もヘルプだと思った。
『いや、ヘルプじゃない』
でも今回はそうじゃなかった。
『最高に面白い話があるんだ』
『面白い話?今の俺を笑わせてくれるなら、是非笑わせて欲しいね』
『ああ、きっと気に入る』
『ある二人組がいる。そいつらと組んでみないか?』
後から思うと、その日は私にとって人生最悪の日であったのと同じく――人生最高の日でもあったんだ。
マスターの話を聞いて、店に行ったら驚いた。
まさか、ジャパニーズの、それもまだ10代の二人が私を待っていたんだ。
『おい、何の冗談だ?こんな子供と組めっていうのか?』
『子供じゃない、二人とも18だぞ』
『子供だろ!』
私はマスターに問い詰めたが、マスターは楽しそうに笑うだけだった。
『ジョークじゃなく、本気で言ってるのか?』
『そうさ。お前さんもいつまでも腐ってないで、そろそろ本気になる時が来たんだ』
『何を言って……』
『初めまして』
最初に凛とした態度で私に手を差し出してきたのはガールの方だった。
『ヨヨコ・オオツキです』
ジャパニーズは若く見えるというが、それは本当だった。先に18歳だと言われなければ、彼女はまだハイスクールも卒業していない子供に見えた。
一方で、黒髪の少年の方は見たことがあった。
『初めまして、ピーター。僕がカズマサ・イノウエです。僕がマスターに無理言って、あなたに繋いでもらったんです』
『君は……
その少年は、シアトルのバンドマンの間じゃ有名な少年だった。
ドラム以外は何でも演る、ヘルプ専門のミュージシャン。ジャンル問わずに様々なバンドに飛び入っては、渡り鳥のように次のバンドへと移っていくフリーな日本人。
ただでさえこの辺りでは珍しい日本人で、その上どんな楽器でもその辺のアマチュアより上手いと聞けば、嫌でも印象に残るだろう。
『僕のことを知ってるの?』
『去年、大通りのジャズクラブにずっと出入りしてただろ?君のピアノは、とても繊細で美しかったからよく覚えている』
フローターの名は、ジャズ仲間の同業者から聞いていた。名前は、カズマサ。
飛び入りで様々なバンドがライブをするそのクラブに出入りすると聞いて、興味本位で私も彼のピアノを聞いたことがあった。とても繊細で美しく、かと思えば荒々しいピアノを弾くから、印象に残っていた。
『そ、それは……ありがとう』
褒められるとは思ってもいなかったのか、年相応に照れる少年の表情を見て、思わず吹き出しそうになった。毒気を抜かれた私は、息を整えて改めて彼に向かい合った。
『それで、君が俺を呼んだのかい?』
『
ちらりと横にいたガールを見ると、彼女はそのツリ目で私を値踏みしていたね。その目はなんというか……本当に真剣だった。強い意思と、決意が、私に問いかけてきた。
――お前は演れるのか、って。
10代の少女の目つきじゃなかった。本当に力強い視線だったんだ。私を問いかけるその目つきに、年甲斐なく緊張してしまったよ。
対して、ボーイの方は……なんていうんだろう。楽しみを堪えきれないような目で私を見ていたな。少なくとも、初対面の人間を見る目じゃなかった。まるで、何年も会っていなかった友人に出会ったみたいな、そんな顔をしていたんだ。
『……どうして俺を?』
訊きたいことは山程あったが、まず理由を尋ねることにした。
こんな華のないロートルのドラマーを、もう諦めて田舎にでも帰ろうかと悩んでいた私を、どうして呼んだのかって。
そしたら、カズはこんな事を言ったよ。
『あなたがこのシアトルで、一番強いドラマーだからです』
『……何?』
『僕は――いえ、僕達は、このアメリカで、ロックバンドをして勝ちます。でも、そのためには生半可なドラマーじゃなく、本気で勝ちに行こうとするドラマーが必要だったんです』
まっすぐな目だった。
ガールの、真剣で剣呑な目つきとは違う。
自分達が成功する事を信じて疑っていないような、そんなまっすぐな目だった。真正面から見た私は、思わずたじろぎながら反論したよ。
『なら、尚更俺のようなロートルではなく、若いドラマーを呼ぶべきだ。こんな全盛期を超えた、老いたドラマーなんかじゃなく……』
『へ?何言ってるんですか、ピーター』
『あなたは、今がまさに全盛期ですよ』
反論しようとした私の言葉が、止まったよ。本当に、何も言葉がでなくなった。
『あなたのドラム、僕も聞いたことがあります。色んなバンドで。色んな曲を叩くあなたの演奏を見た。入ったばかりのバンドの他のメンバーにぴたりと合わせるレパートリーの広さや、多種多彩な音色を淀みなく繋げるあなたのテクニックは、随一だ。僕はこんな上手いドラマーに今まで出会ったことがない。それに――』
『ジョン・ボーナムのファンでしょ?ジャズのソロで、時々ツェッペリンのビートが出てたし、何より叩き方がジョンのスタイルとそっくりだった』
なんでそれを――と、空いた口が更に塞がらなくなった。
『実は……僕も大好きなんです。ツェッペリン。だから、いつかあなたとは会って直接話したいと思ってた』
そこまで行って、彼が私を見て楽しそうにしてた理由が分かったよ。私も自然と笑っていたからね。
誰だって、自分が好きなバンドを好きだと言ってくれる奴が眼の前に現れたら――そいつはもう友達になってしまうんだって、私は随分久しぶりにその事を思い出したよ。
――それで、二人と組むことにしたんですか?
『まさか。さすがの私も、それだけで即決できるほど若いつもりじゃない。だが、彼との話が弾んだのは確かだった。私が若い時のロックが、こんな若くて、それも日本の少年がファンだって言うとは思いもしなかったんだ。それに、私がジョン・ボーナムの信者で、その上ジャズのソロでツェッペリンのビートをこっそり引用してたことがバレるとは思っていなかったから。驚きと、気付いてくれた嬉しさに感激してしまったんだ。だから、その時点で彼に心を許してしまったのは確かだったね』
――それでは、加入することを決めた理由は?
『……』
――ピーターさん?
『ああ、すまない。話せない訳じゃないんだ。なんというか……あの日の夜のことは特別で……なんて言葉にしたらいいか分からなかった』
――話すのが難しいのであれば、別の質問に――
『いや、大丈夫ですサトウさん。話したくない訳じゃなく……本当に、私の言葉では語り尽くせない、例えるなら、一生分の幸運があの夜にいっぺんに起きたような……それぐらいの衝撃がある夜だったんです』
――ジワタネホでのデビューライブ、ですよね。ファンの間では語り草になっています
『そうらしいですね。あの夜のことを、私と同じように覚えてくれている人がたくさんいることに、とても誇らしく思っています。カバーしか演っていないのに、どうしてあれだけ盛り上がれたのか……今でも時々不思議に思うんですけどね』
本当に不思議そうに、彼は首を傾げながら唸った。
――とにかく、即決で加入はしなかったと。
『ええ。私も50手前で、芽が出るかそれとも朽ちていくかの瀬戸際でしたから。とにかく、慎重にならざるを得なかった。だから、仮加入ということにしてもらって、とにかく二人と一緒にライブに一回出てみよう、と決めたんです。それで駄目だったら――諦めて故郷のイギリスに帰ろうと心のなかで決めて。そういうわけで、一週間ほど彼らと一緒に練習させてもらったんですね』
――二人との練習はどうでした?
『……正直に言うと、酷かった。ああいえ、演奏が下手というわけじゃないんですよ?とにかく喧嘩するんですよ。ああいや、あれは喧嘩というより、ヨヨコが一方的にカズを怒鳴っていたな……。後にベースの娘が入って、もっとひどくなるんですけど。とにかく言い争いが絶えなかった。単純なミスなんか見たくないし聴きたくもない、そんな風にヨヨコが怒鳴って、カズはぶつくさ文句言いながら修正してはヨヨコに言い返して、それを私がなんとかなだめて、と思ったら今度は文句の矢先を私の方に向けてきて……さながら子供のお守りでしたね』
――そ、そうだったんですか
『驚くでしょう?無理もないと思います。でも、言い争いをするのは練習の時だけなんですよ。普段は二人とも仲が良いと言うか。お互い付かず離れずの相棒って感じでした。まあ、当時は仲が良すぎるなとは思ってたんですが、あれで付き合ってないってのも……おまけに、カズの方は日本に恋人を残していたんでしょう?それであの距離感は……。正直、
――傍から見ると、どう見ても友人の域を超えた距離感ですからね(笑)
『おまけに、ヨヨコはカズの家に居候していましたから。彼女が怒ってアメリカに来るのも、当然だとは思うな……』
『……ちなみに、ピーターさん。これはオフレコで訊きたいんですけど……本当にヨヨコと和正は……そういう関係じゃなかったと?』
『本人たちは違うと言ってるし、実際にそういうことはしなかったと思います。特に、ヨヨコは隠し事が恐ろしく下手なタイプでしたから。そういうことをしたなら、多分一発で私とベースの娘にバレます』
『そ、そうですよね~……』
――こほん。すみません、話が逸れました。SIDE LOSSの練習は、それほどハードだったんですね
『はい。年長者の私も、負けるものかとそれはもう必死になってました。けれど練習はともかく本番の時は……驚くほど息が合うんですよね、あの二人。それに私も引っ張られた形で。若くて純粋なエネルギーがうねるほど有り余っていたのを、私がなんとか食らいついていたんだと思います。練習のときも、本番のときも。どんな時も全力で手を抜かない。それが、SIDE LOSSの完成度を上げていく形になったんだと思います』
インタビュー風の話を息抜きにひとつまみ。
本編の方を書いてたんですが、ふとこんなインタビュー風景というか、アメリカに行った後に生まれたバンド『SIDE LOSS』のドラマーの話を思いついちゃったので、息抜きに少し書いてみました。
バンド名の『SIDE LOSS』は、感想欄でミナシロガネノヘビさんが出してくれたアイデアを頂戴しました。意味は「傍らが欠けている」です。
シデロスから抜けてアメリカに来たヨヨコと、結束バンドを置いてアメリカに来たカズ君、二人にぴったりなバンド名です。素晴らしいバンド名をありがとう。
本編はまだまだ掛かりそうです。ごめんなさい。