ACTRESS ROUGE   作:宇宮 祐樹

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サイレント・シアター

 

 それから、グラスワンダーとライスシャワー、二人での練習が始まった。

 といっても基本的にはライスシャワーの指導に集中し、それにグラスワンダーを添わせるような形になった。元より、彼女は来春まで大きなレースの予定もなく、ここしばらくは基礎的な練習を予定していたため、むしろ丁度いいくらいだった。ライスシャワーのような生徒と併走する方が、彼女の成長にも繋がるだろう。

 二人の仲は、俺が見る限りではおおむね良好なようだった。予想通り二人とも、落ち着いた性格のため気が合ったのだろう。学園でも二人で一緒にいるところを、たびたび見かけるようになった。どうやら先輩・後輩としての関係も良好らしい。

 目標である有馬記念に向けての調整も、滞りなく何一つ進んでいる。

 ……ただ、一つだけ気になることがあるとすれば。

 

「私はこれで、失礼しますね」

 

 グラスワンダーが、普段よりも早く練習を切り上げるようになったくらいか。

 

「またか?」

「はい。ライスさんの練習に合わせていると、私の体力では足りなくて」

「…………そうか」

 

 確かに、無理に付き合って体を壊されるよりは、よっぽどマシだが。

 ただ、どちらかといえば彼女は、無茶をしてでもライスシャワーに喰らいつくと思っていたから、そこが意外だった。言ってしまえば……あまり、彼女らしくない。それこそ彼女は、同期の中でも人一倍、勝利に対して貪欲な生徒だ。だから彼女の振る舞いを不自然に感じてしまうのも、無理のない話だった。

 

「それでは、また。明日もよろしくお願いします」

「……ああ、お疲れさま。また明日な」

 

 恭しく一礼をしてから、グラスワンダーがコートから立ち去る。

 その後ろ姿を見送ってから、俺は手元のトレーニングメニューへと目を落とした。

 有馬記念までの調整は、順調に進んでいる。というのも、ライスシャワー自身の実力が非常に高いため、大きな手を加える必要がない、というのが正直なところだ。それこそ、長距離において彼女の右に出る者など、この世代には存在しないだろう。そんな確信を得られるほど、ライスシャワーは強いウマ娘だった。

 ……菊花賞は最も強いウマ娘が勝つ、なんてジンクスがこの世にはあるが。

 きっとそれは、こういうことなのだろう。

 

「グラスさん、いい人だね」

 

 記録表に並ぶタイムを眺めながらそんなことを考えていると、ライスシャワーが視界の端から俺の顔を覗き込んで、そんな声をかけてくる。

 

「そうだな。練習にも素直に取り組んでくれる。扱いやすい生徒だ」

「あなたはもっと、言い方を選んだ方がいいと思うな」

 

 くすくすと小さく微笑みながら、ライスシャワーが続ける。

 

「でも、そうだね。優しくて、言うこともきちんと聞いてくれる、いい後輩だよ」

「……気に入ったか?」

「うん。いいシュミしてる、って言ってたのは、まだ許してないけど」

「だから何なんだ、お前らのそれは」

 

 年頃の女子が考えることは、よく分からん。

 

「……それで?」

「うん」

「まだ、お前は残って練習するんだろ?」

「もう少しだけね。だから、あなたも見ててくれると嬉しいな」

「そうか」

 

 …………………………。

 

「当てつけか?」

 

 休憩を終えて、コースに戻ろうとするライスシャワーに、俺は。

 ついに耐えきれなくなって、そんな言葉を口にしてしまった。

 

「……当てつけ、って?」

「お前の担当だった頃、俺はお前の練習をちゃんと見てやれなかった。分かってる。お前は、俺のことを恨んでるんだろ? だからお前は、その恨みを晴らすために、こうして自分が練習しているところを俺に見せ続けてる。違うか?」

「まさか。ライス、そこまでヒクツじゃないよ」

「だったら、グラスワンダーを先に帰らせているのはどうしてだ?」

「………………」

 

 言葉は返ってこなかった。だが、言い淀んでいる様子も見られなかった。彼女はただ、素っ気ない表情で明後日の方に視線を投げているだけ。ともすれば、呆れてものも言えないといったような、そんな表情を浮かべていた。

 大人げないと思う。十八にも満たない子供に、こんな感情を吐露することなど。この光景を見る人間に見られたら、俺はトレーナーバッジを剥奪されるのだろう。

 ただ、彼女の振る舞いには、そうした感情が潜んでいるとしか思えなくて。

 だから俺は、前々から伝えられなかった言葉を、口にした。

 

「──すまなかった」

 

 あの頃からずっと、伝えられなかった言葉を。

 

「……え?」

「別に、恨むなとは言っていない。むしろ、お前のその対応は当然のことだと思う。今だから打ち明けられることだが……あの頃の俺は、お前と向き合うだけの勇気がなかったんだ。俺は……お前に、中身のない言葉をかけることしかできなかった。そうすることで、安心してたんだ。お前のために何かしてやれている、と」

 

 酷く傲慢で、独りよがりなやり方だと思う。到底、大の大人のすることではない。だが、そうでもしなければ、俺まで彼女のことを不幸な奴だと思ってしまいそうで。

 

「仕方がなかった、なんて今更、卑怯な言い訳をするつもりはない。お前の恨みは正しいものだ。気が済むまで、俺のことを恨んでくれて構わない。ただ……」

「……ただ?」

「頼むから、グラスワンダーにだけは迷惑をかけないでやってくれ」

 

 そもそも原因が俺にあることは、理解している。こんな頼みをすること自体が、見当違いであることも。今の俺に、そんなことを言う資格がないことすらも。

 それでも、これだけは伝えなければならないと、思った。

 だって俺はトレーナーで、今はグラスワンダーというウマ娘の担当なのだ。

 その成長の妨げになることがあれば、できる限りで是正しなければならない。

 きっと彼女は、こんな俺を更に恨んでしまうのだろう。だが、それでいいんだ。好きなだけ恨んでくれて、構わない。彼女にはその正当な権利があるのだから。

 だが、それで彼女の邪魔をすることだけは、どうかやめてほしい。

 未来あるウマ娘ときちんと向き合い、その夢を後押しすること。

 それが、今の俺が成すべきことなのだから。

 ……いや、違う。本当は。

 そうすることで俺は、あの頃の清算がしたかったんだ。

 

「……ふふっ」

 

 やがてライスシャワーは、そうやっておかしそうに笑ってから。

 

「あなたも相当、グラスさんのこと気に入ってるんだね」

「……ああ。そうでなければ、彼女の担当になっていない」

「一目惚れなのは、相変わらず?」

 

 思えば彼女を選んだのも、ステイヤーとしての実力に未来を感じたからだった。

 

「でも、やきもちは焼かないよ。だってライスは先輩だもん。もう、子供じゃない」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だよ」

 

 それから彼女は息を整えると、俺のことをまっすぐ見つめ直してから。

 

「ライスね、あなたのことは恨んでないの」

 

 なんて。

 

「嘘だ」

「ウソじゃないよ」

 

 俺の言葉に被せるように、彼女がそう返してくる。

 それから、しばらくの沈黙が流れた。俺も彼女も、何も言葉を口にしなかった。だからこそ、彼女の発言が嘘ではないと、理解するしかなかった。

 静寂と共に過ぎ去っていくのは、秋の終わりごろに吹く冷たい風で。

 

「でも、当てつけっていうのも案外、間違いじゃないのかも」

 流れていく髪を押さえながら、ライスシャワーはそう笑った。

「だってライス、ずっとあなたと一緒にトレーニングしたかったもん」

「……俺、と?」

「うん。だからね、この時間はあの頃の埋め合わせだよ」

 

 その言葉の意味が理解できないわけでは、ない。

 おそらく彼女は、俺が向き合えなかったあの時間を取り戻そうとしているのだ。こうしてグラスワンダーを一人で帰らせ、俺と一対一でトレーニングを行うことで。そこまでは、分かる。改めて考えてみれば、当然の帰結だとも思う。

 ただ俺には、彼女がそうするだけの理由が、どうしても分からなくて。

 

「そろそろ、冬だね」

 

 問いかけるよりも前に、淡い茜色に染まる空を見上げながら、彼女が呟く。

 

「冷えるか?」

「去年よりは、暖かいよ」

「……去年より?」

「だって、ライスはもう一人じゃないもん」

 

 そんな言葉を残して、トレーニングを続ける彼女の背中を。

 俺はただただ、眺めることしかできなかった。

 

 

「お疲れさまです」

 

 チームルームに立ち入ると、ソファーに座るグラスワンダーに声をかけられる。

 

「一人か?」

「はい。ライスさんは本日、急な用事ができたので遅れると」

「……急な用事?」

 

 言葉を返したところで、机の上に置かれたライスシャワーの荷物を見つけた。

 

「つい先ほどまで、こちらにいらしたのですが」

「みたいだな。……どんな用事かは、聞いてるか?」

「急いでいるご様子でしたので、そこまでは……すみません」

「いや、いいんだ。戻って来るとは言ってたんだよな? それなら、大丈夫だ」

 

 今が大事な時期だということは、誰よりも本人が一番理解しているはず。

 その上で用事を優先したというなら、それなりの理由があるのだろう。

 信頼と呼べるほどのものではないが、それくらいの認識はあった。

 

「そういえば」

 

 言い訳じみた思考をしていると、彼女が思い出したように呟いて。

 

「私が来た時、ライスさんがこちらの記事を読まれていましたよ」

 

 言葉と同時に、グラスワンダーからスポーツ紙を渡された。

 一面には、昨月にあった菊花賞のことが、写真と共に記されている。

 珍しいことではあった。確かに話題性に富んだレースだと思うが、それを一月も引きずっているというのは、あまり見たことがない。それこそ今は秋の天皇賞や、ジャパンカップについての記事で持ち切りのはず。

 それなのに、どうして。

 

「今年の菊花賞は、悪い言い方をすれば荒れていましたから」

 

 ……ああ、なるほど。

 

「だから、あいつは悪役なんて似合わない名前で呼ばれてるのか」

 

 記事の中で目についたのは、そんな単語だった。

 由来はもしかしなくても、ミホノブルボンの三冠を阻止したことだろう。

 彼女らの走りに魅入られた者たちが、相応しい二つ名をつけることはあるが。

 これでは、あまりにも。

 

「あいつ、何か言ってたか?」

「いえ、何も」

 

 ……なに? 

 

「本当か?」

「はい。眉一つ動かさずに、じっと読まれていましたよ」

「……そうか」

 

 彼女の性格を考えれば、必要以上に落ち込むと思っていたが。

 

「そもそもの話には、なるのですが」

「なんだ」

「こんな記事一つで気分を悪くされるのなら、ライスさんは今頃トレーナーさんを選ばず、一人で塞ぎ込んでいらっしゃると思いますよ」

 

 グラスワンダーが答えたのと、トレーナー室の扉が開かれたのはほとんど同時で。

 振り返るとそこには、少し息を切らしたライスシャワーの姿があった。

 

「あら、ライスさん。用事はもう済んだのですか?」

「ううん、もう少しだけ。忘れ物っていうか、取りに来たものがあって……」

 

 答えるライスシャワーの視線は、俺の──正確には、俺の持っている新聞記事を見つけたところで、ぴたりと止まって。

 

「……それ、ライスの記事だよね?」

「ああ」

「見てくれた?」

「一通りは。……お前が、どう呼ばれているかも」

「そっか」

 

 すると彼女は、くすりと小さく笑ってから。

 

「なら、これはもう必要ないよね?」

 

 俺の答えを待たずに、その記事をひょいと奪っていった。

 

「お前、何して……」

「そうだ、二人もいっしょに来る?」

「先程の用事ですか?」

「うん。トレーニングには、少し遅れちゃうけど」

「……いったい何の用事なんだ、それ。ちゃんと話せ」

 

 半ば詰めるようになってしまった俺の問いかけに、ライスシャワーは。

 

「ブルボンさんの退院祝いだよ」

 

 そう、答えたのだった。

 

 

 連れてこられたのは、学園から離れたところにある、大きな公園だった。

 離れた、といってもそこまでは距離が開いているわけでもなく、場合によってはトレーニングコースとして利用することも少なくない。また目立つ遊具もないため、子供の姿も少なく、よく言えば静かでのどかな、悪く言えば人気のなく閑散とした、そんな場所でもあった。だからこそ、練習するには都合が良かったりするんだが。

 

「その……こちらで本当に合ってるんですか?」

 

 川沿いに設置された歩道を進みながら、グラスワンダーが不安そうに問いかける。

 疑問に思うのも尤もだった。俺もはじめは病院へ向かうものだと思っていたから。

 

「大丈夫だよ。タンホイザさんが、ここでやろうって言ってたから」

「マチカネタンホイザが?」

「うん。ブルボンさんが退院したら一緒にお祝いしよう、って約束してたんだ」

 

 彼女の名前が出てきたのは意外だったが、よく考えれば当然のことだった。

 菊花賞という大舞台を共に走れば、それくらいの仲にはなるか。

 

「あ、お~い! ライスさん、こっちこっち~!」

 

 やがて歩道を抜け、噴水のある広場に辿り着くと、遠くからそう声をかけられる。

 そこにいたのは、こちらに大きく手を振るマチカネタンホイザと。

 

「……ライスさん」

 

 車椅子に座ったままこちらのことを見つめる、ミホノブルボンだった。

 

「ごめんね、少し遅くなっちゃった」

「ぜんぜん大丈夫ですよぉ。私もちょうど今きたところですし。ねえ?」

「はい。およそ十五分ほどの待機時間でしたので、問題はありません」

「ちょっと、ブルボンさん! そこはハッキリ言っちゃダメですよ!」

「あはは……」

 

 楽しげに話す彼女を見て、先程のグラスワンダーの言葉を今になって理解した。確かにあんな記事一つで落ち込むようでは、彼女は今、二人の前に立つことすらもできていないのだろう。そう考えると、俺は彼女のことを未だに何一つ理解できていない気がした。それこそ、彼女は俺のことをある程度理解しているはずなのに。

 なんてことを考えていると、ミホノブルボンの視線がこちらに向けられて。

 

「ライスさん、その……あちらのお方は、もしかして」

「うん。ライスの今のトレーナーと、後輩のグラスさんだよ」

「……どうも」

 

 遠慮がちに頭を下げてきたので、こちらも同じように返す。

 

「すみません。皆さんのお邪魔をするつもりは、なかったのですが」

「いえいえ、いいんですよぉ。むしろ、人は多い方が助かりますから!」

「……助かる?」

 

 問いかけに、マチカネタンホイザは先程から抱えていた紙袋を見せて。

 

「実は、うっかり三人じゃ食べきれないくらい買ってきちゃったので」

「何をだ?」

「おいもさんですよぉ」

 

 ………………。

 

「もしかして……」

「落ち葉やアルミホイルの準備は既に、タンホイザさんがしてくださいました」

「ほら、もう秋も終わりますし! 今のうちにやっちゃいましょう、やきいも!」

 

 おー、なんて一人で間延びした声を上げる、マチカネタンホイザに。

 俺とグラスワンダーはただ、互いの顔を見合わせることしかできなかった。

 

「ブルボンさんはおいも、いくつ食べる?」

「二つほどお願いします」

「遠慮しなくて大丈夫ですよ。おいも、まだまだたくさんありますから!」

「……では、みっつ」

 

 そんな俺たちを置いて、二人がどんどん積もった落ち葉に芋を沈めていく。

 ……何というか、まあ。

 

「退院祝いにしては、随分と逞しいな」

「……花より団子、というのはこういう時に使うんでしょうか?」

「確かに、そうかもですねえ」

 

 グラスワンダーの呟きに答えたのは、マチカネタンホイザで。

 

「花束よりこっちのほうが、私たちっぽいですもん」

 

 微笑んでそう言う彼女に、俺もグラスワンダーもそれ以上は何も返さなかった。

 

「それにしても、意外と早かったよね、退院。年明けまでかかると思ってた」

「本来であれば、それくらいの期間まで入院する予定でした。ですが、担当医から学園のリハビリ施設の利用を勧められて……こちらの学園の施設であれば、十分なリハビリも可能だと。ですので、このような早期の退院の流れに」

「そう考えると、やっぱりトレセン学園の施設ってすごいんですねぇ」

「……復帰はどれくらいになるって?」

「早ければ、来年の宝塚記念に。遅くても、秋の天皇賞の出走は見込めると」

「そっか」

 

 素っ気ない答えだったが、彼女の表情には確かな期待の色が浮かんでいた。

 

「また、この三人で走りましょうね! ぜったい!」

「……ええ、そうですね。特にライスさんには、菊花賞での借りを返さなければ」

「私もそれまでに、強くなりますので! 二人を追い抜いちゃうくらい!」

「うん。期待してるね」

 

 二人の言葉に、ライスシャワーが笑う。それはいつもの遠慮がちな笑みではなく、しっかりと二人の気持ちを受け取った友人として、そして同じレースを駆け抜けた戦友に送る、どこか勇ましさを感じる笑顔だった。

 やがて準備を終えたマチカネタンホイザが、ライスシャワーに向かって。

 

「軍手、こちらに用意しておきましたので、どうぞ」

「ありがとう」

「それと、頼んでおいた火種の方は持ってきてくれましたか?」

「うん。新聞紙も、ほら」

「では着火の方、よろしくお願いします!」

「わかったよ」

 

 そうしてライスシャワーは積もった落ち葉に──ではなく。

 なぜか、俺の方に歩いてきたかと思うと、おもむろにその手を差し出してきて。

 

「ライター、貸してくれる?」

 

 なんて、そんなことを突然、聞いてきた。

 

「どうして俺に」

「だってあなた、タバコ吸うから。持ってるかな、って思って」

 

 ………………。

 

「ちょっと待て。お前、いつから……」

「契約した時から、ずっと。お仕事終わった後にいつも吸ってるよね?」

「……見てたのか?」

「何回かだけ。それに……ほら。あなた、そういう香りするもん」

 

 なんてことをはっきり言われて、思わずため息が漏れた。

 ただでさえ、この学園は女子高なのだ。喫煙者など針のむしろだろう。だから、色々と手は打ったつもりだが、ウマ娘の嗅覚には何の意味もなかったらしい。

 というより、そういう香りがするということは。

 ……まさか。

 

「まあ、趣味嗜好の範囲ですから……」

 

 慌ててグラスワンダーの方に振り返ると、そんな困ったような言葉が返ってくる。

 

「お前ら、嫌なら嫌ってちゃんと言え。俺もある程度、自重はするから」

「イヤじゃないよ?」

「…………」

 

 すぐに返ってきた答えに、俺は何も言い返せなかった。

 だって、こうやって即答するときの彼女は嘘を吐かないと、理解していたから。

 ……まあ、というよりかは。

 これ以上この話題について、深く掘り下げないでほしいというのが本音だった。

 

「……気を付けて使えよ」

「ライス、そんなに子供じゃないよ」

 

 くすりと笑いながら、ライスシャワーは俺の渡したライターを受け取った。

 そうして一度、火が点くかどうかと確認した後、新聞紙を取り出して。

 

「あ、それって……」

 

 マチカネタンホイザの言葉を待たずに、その記事を丸め始めた。

 

「……よろしいのですか?」

「なにが?」

「いえ、ですから……そちらの、記事は」

「いいの。ライスは、これで」

 

 会話を無理やり終わらせるように、ライスシャワーがライターに火を灯す。

 じわじわと蝕むように広がっていく火は、やがて記事にある彼女の写真へ至り、瞬く間にその写真をただの黒い炭へと変えていく。浮かべていた遠慮がちな笑顔も、今ではもう分からない。もう二度と元に戻ることは、なかった。

 その様子をライスシャワーは、口を閉ざしたままじっと眺めていて。

 やがて積もった落ち葉の山へと、火種を投げ入れた。

 それからしばらくは、誰も口を開かなかった。ぱちぱちと炎の弾ける音だけが、公園の広場に響き渡っている。白い煙が、秋の空へゆっくりと昇っていった。

 

「……変わりましたね、ライスさん」

 

 続く静寂を断ち切ったのは、ミホノブルボンだった。

 

「変わった?」

「はい。少なくとも菊花賞を走る前のあなたは、こんなことしませんでした」

「……今のライスは嫌い?」

「まだ、分かりません。ですが、私は今のあなたと走りたいと思っています」

「そっか」

 

 少しだけ嬉しそうに、ライスシャワーは微笑んだ。

 

「二人はもう知ってると思うけど、みんなライスのこと悪役って呼んでるんだ」

「ほんと、失礼ですよね。ライスさんには、お姫さまとかの方が似合いますもん」

「ありがとう。でもね、それも仕方のないことなのかな、って思ってる」

 

 落ち葉の山を木の枝でかき混ぜながら、ライスシャワーが答える。

 

「……本当はね。ライス、みんなと走れるだけですごく嬉しかったの」

「嬉しい……ですか?」

「うん。だってライス、トレセン学園に入ったころは菊花賞に出走できるなんて、思ってもなかったもん。そのうえ、一着も取れて……本当はこんなことを言ったら、怒られるかもしれないけどね? ライス、ここで終わってもいいや、って思った」

 おかしいよね、なんて廃れた笑みを浮かべながら、彼女が続ける。

「でも、終われなかった。みんな、ライスを悪役って呼んでたから。ライスは……ライスシャワーは、ミホノブルボンを負かしたウマ娘で終わりたくなかったから。だから……」

 

 それは、あの日彼女の口から聞いた言葉だった。

 

「勝たなくちゃ、いけないんだ。ブルボンさんだけじゃなくて、他のみんなにも」

「……そしたら、また悪役って言われちゃうかもですよ?」

「いいよ、それでも」

 

 マチカネタンホイザの不安そうな問いかけに、彼女は笑いながら。

 

「どうせならただの悪役じゃなくて、名悪役にならなくちゃね」

 

 はっきりと、そう告げたのだった。

 

「ブルボンさんだけじゃない。他のみんなを負かすくらい、強いウマ娘になるんだ。……ひどいことを言ってるのは、分かってる。でも、ライスに残された道はもう、それくらいしか残ってないから。ライスはその道を進むしか、ないんだ」

「……自棄になってるのか?」

「かもね。でも、一人で塞ぎ込むよりは、そっちの方がよっぽどマシだよ」

「それ、は……」

 

 返ってきたその言葉を、俺は素直に受け止めることができなかった。

 これから彼女が進もうとしている道は、いわば覇道だ。向けられる軽蔑の視線や誹りを、全て自身の実力で捻じ伏せようとしている。そんな道を進ませることなど、トレーナーとして、そして何より担当として、認めるわけにはいけなかった。

 けれど、それを否定できるだけの理由を、俺は持ち合わせていなくて。

 押し黙ってしまった俺を見て、彼女は小さく微笑んでから。

 

「ごめんね。また、あなたに迷惑かけることになっちゃって」

「……謝らなくていい」

 

 そんな強がった言葉しか返せない自分を、ひどく恨んだ。

 

「でもね、ライスはあなたがいい、ってずっと前から決めてたから」

 

 言葉の意味を質そうとする前に──あるいは、それを遮るように彼女が続けて。

 

「そろそろ焼けたかな?」

「みたいですねぇ。あ、これとかいい具合なんじゃないですか?」

「ほんとだ。じゃあこれ、ブルボンさんにあげるね」

「……ありがとうございます」

 

 そうして彼女は、拾い上げたサツマイモをブルボンへと手渡した。

 ……二人とも、何も言わなかった。いや、違う。言葉にする必要がなかったんだ。そうしなくても、彼女の意志の強さと覚悟の深さは理解できたから。それはきっと、菊花賞という舞台を共に走った彼女たちだからこそ、できることだった。

 

「……菊花賞は最も強いウマ娘が勝つ、か」

 

 同じ舞台を走り抜けたあの二人だからこそ、信じているのだろう。

 ライスシャワーというウマ娘の、確かな強さを。

 

「羨ましいんですか?」

 

 ふと、グラスワンダーが俺の顔を覗き込みながら、そんなことを問いかけてきて。

 

「……何の話だ」

「あのお二人のように、もっとライスさんのことを知りたいのかと」

「どうしてそう思う」

「顔に書いてありましたから」

 

 ……そんなに考えていることが顔に出やすいのか、俺は。

 

「もう少し、ライスさんと仲良くされては?」

「充分してやってるだろ。あいつの無茶な頼みを聞いて、メニューも作って……」

「ですから、そうではなく」

「何だ」

 

 すると彼女は、呆れたようにため息をついてから。

 

「贈り物の一つでも、されてみてはいかがでしょうか?」

 

 なんて、妙に難しいことを提案してきたのだった。

 

「……………………」

「ご相談なら、いつでもしてくださって構いませんよ」

「……近いうちに、頼む」

 

 そうやって会話を続けていると、ライスシャワーがこちらへ駆け寄ってきて。

 

「はい、グラスさんとあなたの分。それと、ライター」

「ありがとうございます」

「熱いから、気を付けて食べてね」

 

 言葉を残して、彼女はまたあの二人の元へと戻っていく。

 そんな彼女の横顔を眺めていると、どうしても疑問に思ってしまうことがあって。

 

「……今日はオフにするか」

「よろしいのですか?」

「お前も休んでくれていい。その代わり……ひとつ、相談したいんだが」

「あら、随分とお早いですね?」

「それとは違う」

「……というと?」

 

 不思議そうに首を傾げるグラスワンダーに、言葉を続ける。

 

「あいつ、ずっと前から俺がいい、ってさっき言ってたよな?」

「ええ。はっきりとお伝えになられていましたね」

「……どうして俺なんだと思う?」

 

 彼女からの答えが返ってくるのは、思ったよりも早くて。

 

「地獄へ共に連れていくのなら、トレーナーさんだと思ったのでは?」

「……何の冗談だ」

「ふふっ」

 

 からかうように笑ってくる彼女に、深いため息をひとつ。

 ……やっぱり、子供の考えることはよく分からん。

 

 

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