ACTRESS ROUGE   作:宇宮 祐樹

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アクトレス・ルージュ

 

 有馬記念を三日後に控えた、ある日の夜。

 仕事を終えた俺は、帰り道の途中にあるコンビニエンスストアに立ち寄っていた。

 

「………………」

 別に、何か買いたいものがあるわけではなかった。敢えて理由をつけるのなら、気分転換をするのに丁度いいタイミングだったから。ただ、それだけだった。

 有馬記念に向けたライスシャワーの調整は、一通り終わった。あとは本番までに今の状態を保てるか、そして本番にその成果を発揮できるか、といったところか。

 前者は残りの練習期間を短くして、しっかり体調管理をさせれば大丈夫なはず。後者に関しては、仕方のないことではあるが、当日にならなければ何とも言えない。そこはやはり、担当としてあいつを信じる以外、できることはないだろう。

 とにかく、今の俺があいつにしてやれることは、殆ど終わったわけで。

 

「…………まあ、たまにはいいか」

 

 しばらく悩んだ末、俺はビールの缶をふたつ、手に取った。

 こんな時くらい、少しは贅沢をしてもいいだろう。

 レジで会計を済ませて──そのついでに、切れかけていた煙草を買い足した──再び帰路に着く。季節はもうすっかり冬の最中で、吹く風は刺すように冷たかった。ただ、どうしてか今は、それもあまり悪いことには思えなかった。

 今年の冬は特別だ、なんて歯の浮くような台詞を言うつもりはないが、いつものそれと違うことは確かだった。それこそ、トレーナーになった当初は、有馬記念へ出走するウマ娘を担当することなど、想像もできなかったから。

 きっと俺は、柄にもなく調子に乗っているのだろう。自分で言うのも変な話だが、今感じているどこか静かな高揚感を的確に表現するなら、そうなるんじゃないかと。

 などと考えながら、借りているアパートの前に着いたところで、ふと。

 

「………………」

 

 道路を挟んだちょうど向かいにある、小さな公園に一度、目が惹かれて。

 そして手に提げたビニール袋を一瞥してから、再びその公園へと視線を戻す。

 別にこれといって理由があるわけではない。わけではない、が。

 

「……これも、気分転換か」

 

 誰に言い訳をするわけでもなく、俺はそのまま公園へと足を踏み入れた。

 入口近くのベンチへ腰を下ろすと、ほどなくして冷たい風が背中から抜けていく。昨日までは鬱陶しかったその乾いた風は、何故か今となっては心地よく思えた。

 自宅も本当にすぐそこだし、一缶だけなら外で呑んでも問題ないだろう。

 普段なら外呑みなんて決してないが、今日の俺はまあ、調子に乗っているから。

 

「たまには、な。たまには……」

 

 プルタブを引いて缶を傾けると、アルコールの強い香りが喉を通り抜けていく。別に酒が好きなわけではないが、こうしてたまに嗜むくらいには気に入っていた。

 

「ふぅ……」

 

 ゆっくりと二口目を味わってから、ぼんやりと冬の夜空を見上げる。そうやって冷たい色をした雲を眺めながら、俺はライターと煙草を取り出して、火を点けた。

 白い煙が空にゆらゆらと昇っていく。枯れた香りが、体に染み渡るようだった。

 

「…………」

 

 それから、だいたい五分ほど経ったころだろうか。缶の中身もほどほどに減り、一本目も吸い終えてしまったので二本目の煙草に火を点けようとした、その時。

 誰かの足音が、聞こえてきた。

 

「………………?」

 

 別にそれ自体は不思議なことじゃなかった。確かに時刻はもう十時を過ぎていて、人が通るのは珍しいかもしれないが、仕事帰りと考えれば充分納得できる。

 ただ、どうにもその足音は、こちらへ真っ直ぐ向かってきているようで、

 思わず気になって、振り返ったそこに立っていたのは。

 

「……こんばんは」

 

 小さくこちらに手を振る、ライスシャワーだった。

 

「お前……何してる?」

「眠れないから、ちょっと飲み物でも買おうかなって……」

「だからって、こんな時間に……寮の門限、とっくに過ぎてるだろ」

「うん。だから、こっそり抜け出してきちゃった」

「…………」

「みんなには内緒だよ?」

 

 呆れて何も言えない俺に、彼女はそんなことを言ってくる。また、あの笑顔だ。こちらを揶揄うような、少し小馬鹿にするような……そんな、俺の知らない笑顔。少なくとも俺の担当だったころは、こんな風に笑う生徒ではなかった。

 

「……変わったな、お前」

 

 気づけば俺は、そんな言葉を彼女に向けて漏らしていて。

 

「ブルボンさんと同じこと言うんだね」

「ああ。だって、お前はこんな素行の悪いことをするような奴じゃなかったはずだ。……いつからそうなった? いったい、何がお前をそうさせている?」

 

 酒が入っているせいか、いつもより多く言葉が続いてしまう。そんな立て続けの俺の問いかけに、彼女は少しだけ表情を曇らせていた。それが自分へ向けたものか、あるいは俺へと向けたものなのかは、今の時点では分からなかった。

 やがてしばらくの時間が経ってから、彼女は口を開いて。

 

「隣、いい?」

「……好きにしろ」

 

 答えると、彼女はすとんと俺の右隣へ腰を下ろした。

 

「寒いね……今年はまだ、去年よりあったかいって聞いたけど」

「ああ」

「……あなたは、こんな場所でお酒なんて飲んで大丈夫なの?」

「家がすぐ近くだからいいんだよ。……お前、前にウチ来たから知ってるだろ」

「ああ、そっか……うん。そうだった。あはは……」

 

 会話は一度、そこで終わった。残ったのは、居心地の悪い奇妙な沈黙だけだった。煙草の燃えるじりじりとした音が、鮮明に聞こえてくる。空に昇っていく白い煙を、彼女はぼうっと見つめていた。薊の色をした瞳が、夜の闇の中で輝いて見えた。

 缶の中に残っていた僅かな酒を、一気に煽る。

 

「答えたくないのか?」

 

 投げかけた問いかけに、彼女は少し間を開けた後、改めてこちらに向き直って。

 

「あなたは、今のライスと前のライス、どっちの方がよかったと思う?」

 

 なんてことを、とても不安そうな表情で聞いてきた。

 

「そんなもの聞いて、何の意味があるんだ」

「いいから、答えてほしいの」

「………………」

「お願いだから……」

 

 声は震えていた。定まらないままの瞳をこちらに向けながら、彼女は俺の言葉を待っていた。その姿を見て、俺はようやく理解した。急かされているのだ。いや、違う。俺ではなく、彼女自身が。彼女を駆り立てる何かの正体はまだ分からないが、少なくともそれが彼女をこんな風に変えてしまったことだけは、理解できた。

 

「俺、は……」

 

 言葉が溢れては、喉の奥へと爛れ落ちていく。落ち着けるべきだろうか。でも、それでは何の解決にもならない気がした。だからといって、愚直に問いかけるのも違うと思った。それで彼女を追い詰める何かの正体が分かったとして、今の俺では何もしてやれない気がしたから。

 淡い紫の瞳が、こちらを覗く。急かされているのは、俺も同じかもしれなかった。

 やがて。

 

「……どっちでも、いい」

 

 足掻いた挙句、俺はそんな何の意味もない言葉を口にしていた。

 

「どっちでも?」

「担当するなら、前のお前がよかった。素直だし、指示も嫌な顔せず聞いてくれる。扱いやすい奴だと思った。……ただ、このままではいつか折れそうだとも、思った。

 見ているだけで不安になるような、そんな奴だった」

「…………」

「今のお前に、そうした不安は感じなかった。むしろ、一緒にレースに出るなら、今のお前がいい。菊花賞を勝った実績があって、ステイヤーとしての実力もある。後者はまあ、前から感じていたことだが。ただ……面倒なヤツになったとは、思う。俺は今のお前のことを、何も知らないから。お前の考えていることが、分からない。そこは……出会った時みたく素直になってほしいとも、思う」

 

 最後の方は、かなり愚痴っぽくなってしまった。担当している生徒に渡すような言葉ではないと自覚しているのに、どうしてか未だに俺の口は止まらなくて。

 

「だから、どっちでもいい。変な話だが、前のお前と今のお前が逆だったとしても、俺はきっとお前の担当になっていたと思う。……ああ、そうだ。前に言ってたな。一目惚れだって。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない」

 浮つくような言葉を続けてしまう。酔っているのだと、そう思うことにした。

「……そっか」

 

 果たして、彼女はそれ以上の言葉を続けなかった。しかし、浮かべている表情はどこか満ち足りているようにも見えた。

 

「こんな答えでいいのか?」

「うん」

 

 声の震えは、既に消えていた。

 

「満足したならさっさと帰れ。本番も近いし、体調を崩されたら困る」

「そう、だね。うん。分かってる、けど……」

「…………」

「……あと少しだけ、ここにいてもいい?」

「もう、勝手にしろ」

 

 残りの酒を一気に飲み干して、空になった缶の中へと煙草を放り込む。わずかに残った火種が、掠れた音を立てながら消えていった。

 それから、しばらくの時間が過ぎたあと。

 

「……それにしても」

 

 煙草の箱を取り出し、三本目を咥えたところで、ふと。

 

「やっぱり運がなかったのかもな、お前には」

「……どういうこと?」

「だって、最後の最後で頼れるのが、こんな契約を一度切ったトレーナーなんて。……お前にとっては、とんだハズレだったんじゃないか?」

 

 本番を目前にした今になって、思わずそんな情けないことを考えてしまう。いや、寧ろだからこそ、なのだろう。他のヤツなら、もっと上手くやれたかもしれない。彼女も後ろめたさや居心地の悪さを気にせず、のびのびと練習できたかもしれない。酔いの回った頭では、そんな今になってどうしようもない妄想をしてしまう。

 

「……すまなかった」

 

 もはや、どうして謝っているのかすらも分からなかった。ただ、その言葉を口にしないと、駄目な気がした。でないと俺は……俺は、また失敗してしまいそうで。

 

「別に、誰でもよかったんだよ?」

 

 そして、彼女から返ってきたのはそんな、素っ気のない言葉で。

 

「……なに?」

「だってライス、菊花賞で一着だったんだよ? だから、担当になってくれる人はたくさんいたと思う。それに名前を借りるだけなら、誰にも頼めたもん」

「だったら、どうして俺に……」

「有馬記念で、あなたと一緒に勝ちたかったから」

 

 即答だった。俺の知らない、迷いのないまっすぐとした眼差しが向けられる。

 

「確か、言ったよね? ライス、ずっと前からあなたに決めてた、って」

「……ああ。覚えてるさ。グラスワンダーに聞いた。それがどういう意味なのか、知りたかったから。あいつはこう答えた。地獄に連れていくなら俺なんじゃないか、って。その時は冗談だと思った。……まさか、本気なのか?」

「……グラスさんとは、後できちんとお話しするとして」

 

 少し呆れたような言葉を口にしてから、彼女は改めて俺のことを見つめ直して。

 

「ライスね、あなたのこと、とっても優しい人だと思ってるんだ」

「……いきなり、何を」

「だってそうじゃないと、あなたはライスの担当になってくれなかったもん」

「それがトレーナーとしての仕事だ、と言ったら? もしかすると、お前をただの金づるにしたかっただけかもしれない。そんな考えを起こす奴だっているだろ」

「……だったら、あの時にかけてくれた言葉は、なに?」

 

 それ、は。

 

「不幸じゃない、って。きっと報われる時が来るはずだ、って言ってくれたよね」

「お前を安心させたかったんじゃない。……ただ、俺が安心したかっただけだよ」

「それなら、ライスなんて見捨てればよかった。でも、あなたはそうしなかった」

「できるはずないだろ、そんなこと。俺はトレーナーなんだから」

「あなただから、ライスを見捨てなかったんだって、ライスは思うよ?」

「…………」

 

 何か言葉を返そうとしたけど、開いた口からは重たい息しか出てこなかった。

 薊の色に染まる瞳が、じっとこちらを見つめてくる。けれどそれは、責め立てるようなものではなく、どこか柔らかいもので。俺はそんな視線を送ってくる彼女に、ただ口を噤んだまま黙ることしかできなかった。

 

「きっと、どうしてライスが契約を切ったんだ、って思ってるよね?」

「……ああ。どういつもりだったんだ?」

 

 渡した問いかけに、彼女は少しだけ困ったように笑ってから、

 

「あなたにもう、無理をさせたくなかったから」

「無理?」

「うん。実はね、あの頃から知ってたんだ。あなたがライスのことを、何とかして励まそうとしてくれたこと。そのせいで、辛い思いをさせてたことも。……本当は、謝りたかった。でもね、そうしたところで何も変わらない、って思って。だから、これ以上あなたに辛い思いをさせないためにも、契約を切るしかなかったの」

「だからって、そんな……考えすぎだ、って自分で思わなかったのか?」

「思わなかったよ。だって、あなたは考えてることが顔に出やすい人だったから」

「………………」

 

 思わず頭を抱える俺に、彼女が小さな笑みを零す。

 

「だから、あなたに恩返しがしたかったの。ライス、トレーナー契約を切ったあと、すごく頑張ったんだよ? あなたに二度と、あんな辛い思いをしてほしくなくて……変わらなくちゃ、って思って。あなたの隣にいてもいいように、って」

「……それで、今みたく生意気な奴になったのか」

「もう、言いすぎだよ」

 

 不満げに頬を膨らませながら、彼女が続ける。

 

「もう一度あなたの隣に並ぶためなら、ライスはどうなってもよかった。それこそ、悪役だって演じてやるんだ、って。それくらいの覚悟はしてたんだよ? ……でも、あなたはさっき、どっちのライスでもいい、って言ってくれたよね」

「ああ。……すまなかった。そんなことを考えてるなんて、思ってもなくて」

「ううん、いいの。だってライス、嬉しかったから。どんなライスでもいい、って言ってくれた。それだけで救われた気がしたんだ。……あの頃みたいに」

「……あの、頃?」

「言葉をかけることしかできなかった、ってあなたは言ってたけどよね」

 

 すると彼女は、穏やかな表情を浮かべながら、

 

「そうやって言葉をかけてくれるだけでも、ライスは幸せだったんだよ」

 

 ……ああ、そうか。そういうことだったのか。

 何もできなかったと思ってた。もっと他にしてやれたことがあると。それこそ、俺ではない誰かだったら、もっと上手くやれたと、勝手に考え込んでいた。

 だが、そうじゃなかった。俺の言葉は確かに彼女へ届いていた。無駄なことでは、なかった。……それだけで、彼女にとっては充分だったんだ。

 それを彼女に言われるまで気づかないなんて、俺はどこまで鈍いんだろうか。

 

「だから、今度はライスの番。ライスが、あなたを幸せにする番なの」

 

 そうやって、彼女が手のひらを俺の手に重ねてくる。暖かかった。……そうか。こうやって触れ合うことなんて、今まで一度もなかったから、知らなかった。

 ゆっくりと手を握り返すと、彼女が満足げな表情で微笑んでくれる。

 

「プレゼントは、一着でいい?」

 

 一瞬、その問いかけの意味が分からなくて。

 

「……クリスマスか」

「そうだよ。……もしかして、忘れてたの?」

「この仕事をしてると、これくらいの時期はどうもな。周りも忙しいから……」

 

 答えると、彼女は呆れたような表情を見せてくれた。

 

「じゃあ、サプライズの方がよかったかな」

「……俺はお前が勝つと思ってるんだ。サプライズにはならないだろ」

「あはは、そっか。……そう、だよね」

 

 そう思っていなければ、こうしてもう一度担当になっていない。

 

「……ライス、そろそろ戻るね」

「ああ」

 

 やがてしばらくの時間が経ったあとに、彼女はそう言ってベンチから立ち上がる。

 

「もう二度と、こんな時間に出歩くなよ」

「うん、大丈夫。もう、伝えたいことは伝えられたから」

「……そうか」

 

 そんな会話を最期に、彼女は俺の前から去っていった。その後も俺は、少しだけ公園に残っていたが、それもすぐに止めた。ここにいても、寒いだけだから。

 空き缶を手にして立ち上がり、すぐ近くの自宅へ向かおうとしたところで、ふと。

 

『贈り物の一つでも、されてみてはいかがでしょうか?』

 

 先日、グラスワンダーが口にしたそんな言葉を思い出す。

 

「……まあ、丁度いい機会か」

 

 言い訳じみた言葉を口にしながら、俺は携帯を取り出した。

 

 

 そして迎えた、有馬記念当日。

 

「入っていいか?」

「うん、どうぞ」

 

 控え室の扉を開けると、勝負服に身を包んだ彼女が俺のことを出迎えてくれた。どうやら、姿見で衣装の調子を確かめていたらしい。袖周りを少しだけ整えてから、彼女は改めて俺の方へと向き直った。

 

「どうかな?」

「ああ。……いい感じじゃないか?」

「そっか」

 

 満足そうな笑みを見せる彼女に、問いかける。

 

「調子は?」

「大丈夫。いつも通りだよ」

「……みたいだな」

 

 有馬という大舞台を前にしている割には、だいぶ落ち着いているみたいだった。いいことだ。これなら、トレーニングの成果も充分に発揮できるだろう。

 

「出走表に目は通したか?」

「うん。……やっぱり、有馬記念って凄いね。みんな強い子ばっかり」

「お前だって負けてない。むしろ、距離的に考えればお前の方が有利だ」

「あ、違うの。別に、弱気になってるわけじゃないよ。ただ……」

「……ただ?」

 

 すると彼女は、少し考えるような素振りを見せてから、

 

「どうやって勝ったら、いちばん悪役っぽくなるかな、って思って」

 

 なんて意地の悪いことを、口にしていて。

 

「……お前、実はあの呼び名のこと気に入ってるだろ」

「まさか。そんなこと思ってもないよ」

「本当か?」

「……本当だよ」

 

 すぐに答えが返ってこなかったあたり、本心ではないのだろう。

 

「別に悪役でも何でも、好きに演じればいい。お前はそうやって決めたんだろ? それなら、咎めるつもりはない。……俺が何を言っても、聴かないだろうし」

「あはは……」

「ただ、一つだけ」

 

 そうやって言葉を置いてから、俺は。

 

「演者として舞台に立つつもりなら、化粧くらいしておけ」

 

 鞄の中から取り出した小さな紙袋を、彼女へと差し出した。

 

「これって……?」

「開けてみろ。その方が早い」

 

 答えると、彼女は少し迷ったあとに、俺の手から紙袋を受け取った。

 不思議そうな、あるいは不安そうな表情のまま、彼女が袋の封へと手をかける。そして中に入っていたそれを取り出すと、彼女はぽつりと。

 

「口紅……」

 

 茫然とした様子で呟いてから、くすりと笑みを零した。

 

「悪役に、口紅なんて」

「違う。悪役のお前にじゃない。俺の担当であるお前に、送ったんだ」

 

 悪役でも何でも、それを演じるのはライスシャワーという一人のウマ娘なんだ。そのことに変わりはないし、むしろ変わってほしいとも思わなかった。

 

「俺の隣に並ぶため、って言ったよな。そのためなら、悪役にもなる、って」

「……うん」

「そんな必要なんて、どこにもない。お前は、お前のままでいい。前のお前でも、今のお前でも。また、俺の隣にいてくれれば……俺は、それだけで充分なんだ」

 

 それがあの頃の償いだから、なんて後ろ向きな考えはもうしない。

 

「……甲斐のない、頼りない担当ですまなかった。できる限り治すよう、心がける。言葉が足りていないことも、自覚している。……それも、治す。あとは……そうだ。煙草もやめる。仕事が落ち着いたら、医者にでも相談してみる」

「鈍感なところは?」

「それも……まあ、頑張ってみるさ」

 

 だから。

 

「こんな担当でもいいのなら……どうかこれからも、よろしく頼む」

 

 頭を下げながら、そんな言葉を送った。

 果たして、彼女からの答えはしばらく返って来なかった。沈黙だけが流れていく。ただ、後ろめたさは感じなかった。向けられる視線が、どこか暖かく感じたから。

 やがて。

 

「口紅、つけてもいい?」

 

 彼女から渡されたのは、そんな問いかけで。

 

「……ああ」

「ありがとう。ライス、口紅なんてつけるの初めてだから……」

 

 緊張するような、でも少しだけ期待するような表情で、彼女が口紅の封を切る。

 それから鏡へ向かい合うと、淡い紅色に染まったそれを塗り始めて。

 桜色に染まる唇を俺に見せてから、彼女は照れくさそうに笑う。

 

「どうかな?」

「……ああ。似合ってる」

「なら、よかった。これで似合わなかったら、どうしようかな、って」

 

 答えてから、彼女が口紅のキャップを締める。

 

「……今のライスはね、悪役でも何でもない、ひとりのライスシャワー。それでも、いいのなら。あなたの隣にいても、いいのなら……」

 

 そうして彼女は、俺の手を静かに取ってから、はっきりと答えてくれた。

 

「これから先もずっと、よろしくね」

 

 ■

 

 有馬記念のファンファーレが、中山レース場に響き渡る。

 

「戻った」

「お疲れさまです」

 

 観客席に戻ると、こちらに振り返ったグラスワンダーが続けて問いかけてきた。

 

「ライスさんの様子はどうでしたか?」

「いつも通りだった。緊張もしていないみたいだし、期待できそうだ」

「そうではなく」

「……ああ、渡したよ。改めて、助かった」

「ならよかったです」

 

 観念して正直に答えると、グラスワンダーは安心したように息をついた。

 

「それにしても、急な相談でしたね?」

「いや、悪かった。その……クリスマスだって、急に思い出して」

「本当ですよ。でも、そこは気にしていませんので大丈夫です」

「……そうなのか?」

 

 てっきり、愚痴の一つや二つでも聞かされると思っていたが。

 

「どちらかというと、何を送るかという相談をされると思っていたので」

「それは……前々から、決めていたんだ」

「あら、そうなんですか?」

 

 意外そうに首を傾げる彼女に、俺は頷いてから。

 

「花嫁衣裳に袖を通すなら、紅の一つでも差したほうがいいだろ」

 

 言葉に返ってきたのは、きょとんと丸く見開いた二つのひとみで。

 

「……ふふっ」

「いや……まあ、おかしいことを言ってるのは分かる。変だよな」

「そんなことはありませんよ。ただ……」

「……ただ?」

「トレーナーさんにもロマンチストなところがあるんだな、と思いまして」

「勘弁してくれ……」

 

 実況アナウンサーの声が聞こえたのは、そうやって俺が頭を抱えた直後だった。

 

『晴れ渡る空のもと、中山レース場芝二五○○、十六人のウマ娘たちが挑みます』

 

 歓声が上がり、スタートラインに立つウマ娘たちの姿が見えてくる。彼女は八枠、十六番だった。大外からのスタートになるが、大した問題にはならないだろう。

 ……大丈夫、勝てるはずだ。今のあいつなら、必ず。

 

「作戦はどのように?」

「一応、誰かの後ろに張り付くよう指示はしたが……人選はあいつの好きにさせた。優先順位はトウカイテイオー、次点でメジロパーマーとナイスネイチャあたり……まあ、そのあたりは当日にならないと分からないからな。あいつに任せている」

「……テイオーさんを優先してマークするんですか?」

「ああ。……意外か?」

「少しだけ。妥当だとは思うのですが、今回のメンバーであれば、ヘリオスさんやパーマーさんを優先すると思っていましたから」

「まあ、そうだな。お前の言う通りだ」

「でしたら、どうしてそのような……」

 

 問いかけに答えたのは、俺ではなく。

 

『一番人気はこの子、トウカイテイオー。秋の三冠に王手をかけたウマ娘です』

 

 そんなアナウンサーの声を耳にした時点で、グラスワンダーが、ああ、と。

 

「……やはり、ライスさんは中々よい趣味をされていますよね」

「俺もそう思う」

 

 溜息を吐きながら、グラスワンダーと共にターフへと視線を戻す。

 

『各ウマ娘、ゲートに入って態勢整いました!』

 

 そして──

 

 

 ウイニングライブ会場の舞台袖、開演まであと五分を切ったころ。

 

「……もしかして、緊張してるのか?」

「そ、そんなことないよ……たぶん」

 

 スタッフの指示を待つライスシャワーにそう声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせてから、力の抜けたような、なよなよとした声でそう答えた。

 ……レースより緊張しているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。

 

「振り付けは覚えてるんだろ?」

「うん。何度も練習したから……たぶん、大丈夫」

「ならいいだろ。いつも通り気楽にやればいい。それに、折角のセンターなんだ。お前がそんな調子じゃ、他のヤツも恰好つかないだろ」

「でも……」

 

 そうやって、いつまでもくよくよ言葉を漏らしている彼女に、ふと。

 

「……そういうところは変わってないんだな、お前」

「ご、ごめんね……」

「いや……謝らなくていい。むしろ安心した」

 

 まあ、その方がこいつらしいというか、何というか。

 

「さっきも少し話したと思うが、たまにはそれくらい素直になってくれた方がいい」

「そうなの?」

「ああ。だって、お前はまだ子供なんだ。変に気を張る必要なんて、どこにもない」

「……ライス、高等部だよ? もう、子供じゃないもん」

「俺からしたら、中等部も高等部も同じだ」

 

 そこで一度、彼女はどこか不満げなまま、俺の顔を見上げたかと思うと。

 

「……あなたの中で、ライスはまだ子供なの?」

「当たり前だろ。それ以外に何かあるか?」

「…………」

 

 俯いた彼女は、耳を小さく動かしながら、何か考え込んでいるみたいだった。

 気に障っただろうか。いや、これくらいの子ならそう思うに決まってる。

 失敗した。あろうことか、ライブを目前にした担当の機嫌を損ねるなんて。

 ……だから、子供は苦手なんだ。

 

「あなたって、本当に……ずるい人だよね」

 

 やがて何と謝ろうかと考えているうちに、彼女がそんな風に呟いて。

 

「ライスシャワーさん、準備できました! こちらにお願いします!」

 

 その意味を質そうとした瞬間、スタッフの呼びかける声が聞こえてきた。

 

「とにかく、練習通り気楽にすればいい。思う存分、踊ってこい」

 

 そうやって軽く肩を叩くと、彼女は小さく声を上げてから、こちらに振り向いて。

 

「……あのね。ライス、本当はライブにあまり緊張してないの」

「そうなのか?」

「うん。だってセンターで踊るのは、初めてじゃないもん。もう、慣れたよ」

「……なら、どうしてあんなに」

 

 言い終えるよりも前に、彼女が俺の顔をじっと覗き込んでくる。言葉はなかった。あるいは、その必要がなかったのかもしれない。こちらを見つめる彼女の瞳には、どこか憂うような、切なさを含んだ何かが宿っているような気がした。

 ……揺れる髪の隙間から、淡い薔薇の香りがする。

 そうして彼女は、もう一歩だけ、俺の方へと近づいてきて。

 何を、と俺が言葉を発しようとするよりも先に、彼女はその唇を──

 

「……じゃあ、行ってくるね」

 

 小さく笑みを零してステージへと向かう彼女を、俺は黙ったまま見送ることしかできなかった。残されたいくつかの疑問と、唇に感じた柔らかな感触の残滓で。

 

「は……?」

 

 驚きのまま声を漏らす俺を置いて行くように、舞台袖の灯りが落とされていく。やがてウイニングライブの開演を告げる音楽が流れ始め、ライトが舞台を照らした。

 センターで踊る彼女が、ステージの光の中に見える。

 

「お疲れさまです、トレーナーさん」

 

 茫然とその姿を眺めていると、いつの間にか隣に並んでいたグラスワンダーに、そう声をかけられた。そして俺の様子に気づいたのか、不思議そうな──あるいは、何か面白そうなものを見つけた子供のような顔になって、俺に聞いてきた。

 

「……どうか、されたのですか?」

「ああ、いや……」

 

 ……馬鹿正直に話せるわけがないだろ、あんなこと。

 

「そういえば、贈り物にはそれぞれ意味が込められていることはご存知ですか?」

「意味?」

「はい。たとえば、香水には『あなたと親密になりたい』という意味がありますし、時計には『あなたと同じ時間を共有したい』なんて意味もあるみたいですよ」

 

 それなら。

 

「……口紅は?」

 

 恐る恐る問いかけると、グラスワンダーはくすりと笑ってから。

 

「あなたに口づけしてほしい、なんて意味があった気がします」

 

 …………………………………………。

 

「どうして教えてくれなかった」

「あら? 私はてっきり、もうご存知だったのかと」

「そんなわけないだろ……」

 

 思わず頭を抱えてしまったが、今更そんなことをしても何の意味もなくて。

 

「きちんと責任は取らないといけませんね、大人として」

「……いや、でもまだあいつは」

「子供だから、なんて言い訳はもうできませんよ? そうさせたのは紛れもなく、トレーナーさん自身なんですから。ね?」

「………………」

 

 何も返せない。返す言葉が、見つからない。

 答えることから逃げるようにステージへ視線を移すと、そこにはセンターで歌う彼女が見えて。淡い灯りに照らされたその横顔は、まるで舞台に立つ女優のような、そんな大人びたものに見えた。

 口元へ手を当てると、まだ微かに彼女の感覚が残っているような気がして。

 

「……もう、子供じゃない、か」

 

 ついさっき彼女が口にしていた言葉の意味を、俺はようやく理解した。

 

 




2022年10月9日に開催された、プリウマイティ名古屋杯7Rで頒布したものです
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