シンガポール・チャンギ国際空港。
世界で最も忙しい海の1つ、シンガポール海峡に面したこの空港では、既にベトナムやタイなどの北側の都市から到着した乗客の間でそのクィムガンの情報が噂されていた。
曰く、海の上にでかい怪物がいる。
曰く、それのせいで飛行機は急旋回を強いられる羽目になった。
今のところ船舶や航空機に被害が出たという情報は入っていないが、いつ最初の被害が発生しても不思議ではないのがクィムガンというものだ。特に飛んでいる飛行機が攻撃を受けてしまえば、生還の為に対処する時間的猶予はほとんどない。
「おっけ、聞いた話通り」
「動きは変わらない、と」
「うん。今もアナンバス諸島の北をジョホールに向かって南に向かってるって」
そのクィムガンがそのまま進めば、ここシンガポールに近づくことになる。だが、このシンガポールの南のシンガポール海峡はただでさえ交通量の多いマラッカ海峡の中でも特に船の密度が高いことで知られている海域だ。そこにクィムガンを近づける訳にはいかない。
俺達は空港でのヒアリングを切り上げて、近くのタナメラフェリーターミナルからシンガポールを出て、海峡の向こう、インドネシアのバタム島に渡る。アナンバス諸島への飛行機に乗り、そのクィムガンのもとへと急行するために。
「……おかしい」
波や機関の音にかき消されそうなほど小さな声で、タカサゴはそう呟いた。
「何がおかしいんだ?」
「どうしてまだ被害が出ていないのに、私まで連絡が来たのかなーって」
全てのクィムガンが被害をもたらす訳ではなく、中には無害なものもいる。例えばバーって
だからこそ、見つけたクィムガンは討伐するか常に監視しておく必要がある。今回は後者としての役割が大きい。
……だが。
「ただの
タカサゴはそこを訝しんでいた。そもそもこれだけ小規模となったタンゴ14にわざわざ向かわせるだけの理由があるはずなのに、それが何なのかがわからない、というのだ。
「なぁに、あの電話リゼからだったの?」
「うん。やっぱり変だよね」
「たしかに変ね。でも、リゼが無意味なことをするかしら」
そう言いながらオリオンは首を傾げた。
どちらの言い分も確かに一理ある。だけどさ、それって。
「当該を見てみなきゃ解らないだろ」
「そうだけど……」
「でも、警戒はしておくに越したことはないわね」
そして飛行機がアナンバス諸島、ジュマジャ島へ到着しようかといったころ。俺達はそのクィムガンを上空からようやく視界に捉えた。
飛行機を降り、急いで海へ出る。今のところは被害の報告はないらしいということはわかっているが、報告が届いていないだけの可能性も否定はできない。
「コアちゃん、リオちゃん。準備はいい?」
「あぁ」
近づくにつれ、その姿もだんだんと顕になってくる。全長100m長、中型の貨物船よりは一回りほど小さいくらいのそいつは、およそ10ノット強でゆっくりと南へ向かっていた。
「さぁ、探すよ」
半海里ほど距離をとり、連絡を取りあいながらそのクィムガンの周りを周回する。
海に発生する大型のクィムガンには特徴がある。体のどこかに特徴的な4つの模様が現れるのである。タイヨーアライズではそれをクィムガンの個体識別に利用しているので、差し迫った緊急性のない限りまずはそれを探すことになる。
……のだが。
「まずいわ! ズールーを掲げた船がいる。どうし……」
「助けなきゃ!」
クィムガンの進路上。小型の船が、黒黄青赤の4色の旗を掲げているのが見えた。
その旗は、国際信号旗
なぜそんなところに? そんな疑問よりも早く、タカサゴはその船の方へと駆けつけてゆく。
「ちょっとタカサゴさん!? 下手に刺激したら二次被害が」
「悪いけど! 目の前で助けを求める船を見逃すことなんて、絶対にできない!」
「はぁ。いっつもそうなんだから」
オリオンはそう言ってため息をついた。そしてゆっくりと、こちらの方を向いた。
「あなたはいいの?」
「全員で突っ込んでったら、急にあのクィムガンの動きが変わったときに動けないだろ? まぁ、少し近づいた方がいいかもしれないけど」
「……わかったわ。私がワッチしておくから、あなたも行きなさいな」
……バレてたか。
どうしてかわからないけれど、俺もまたあの船を見捨ててはいけないという気持ちが膨れ上がっていた。そうしてしまったら、おしまいなような気がしていたのだ。
オリオンに礼を言いつつ、タカサゴをフルアヘッドで追いかける。
「コアちゃん?!」
「ふたりで曳いた方が、早く速力を増せるだろ」
「……そうだね、ありがと」
Z旗を掲げているその船に近寄れば、その船の人もこちらに気がついたようで、バウラインの係留索をこちらに向けて投げてきた。言葉を交わさずとも、かのクィムガンから逃げるべきだという考えは当然のごとく共有できていたのだ。
「ハードスターボードでフルアヘッドで」
「ラジャー、ハードスターボード、フルアヘッド」
縄を拾い上げ、クィムガンの進路から斜めに逃げる。水の上では大きなものであればあるほど急に曲がるのは難しい。だからこそ、クィムガンでなくとも衝突の機器がある時には斜め右に逃げるのがセオリーだ。本当は近い陸地的には左に逃げたいのだが、これにはもう1つ大きな理由があった。
だが、しかし。
「しまった、
少しずつスピードも乗ってきたころ、明らかにクィムガンの動きが変わった。クィムガンもまた、進路を右に動かしはじめたのだ。
しかしここで逃げたい方向の逆向きに逃げたのが効きはじめる。最小旋回半径の小さいと思われる大きなものから逃げるのならば逆方向にぐるりと回ったほうが逃げやすいのだ。
「ここまで速度が出たらもう大丈夫。コアちゃんはリオちゃんの方に戻って」
「わかった、ご安全に」
曳航索から離れ、クィムガンを警戒しながらオリオンのいた方へと戻る。明らかにクィムガンはこちらに気がついている様子で、ただただ進んでいただけの先程までとは様子も、そして纏う雰囲気すらも異なっていた。
「ごめん、気づかれた」
「見ればわかるわよ。まだ手は出してはいないみt……」
そう思ったのも束の間。
次の瞬間、俺達とタカサゴ達の間を遮るように、大きな水しぶきがあがった。