今更やけど、妙なことになってもうたなぁ。
寿みなみはそんなことを考えながら、部屋に“彼”を招き入れた。
思い返すのは、一時間程前のこと。
撮影の帰りに通りがかった公園で、見覚えがある人物の姿を捉えてしまったのが……言い方は悪いが、運の尽きだった。
整いすぎた顔立ちと、しなやかな肢体。柔らかそうな金砂の髪。名をあらわすようなアクアマリンの瞳。自分の友人であり、クラスメイトでもある星野ルビーの兄。星野アクアその人が……、豪雨の降りしきる公園のベンチで、力無くうなだれていたのである。
「え、えぇ〜……」
みなみが思わず二度見したのは言うまでもなかった。
基本的にアクアは公私共に隙がない少年だ。それが目に見えて落ち込んでいるのは、珍しいどころか初めて見るかもしれない。……尚、そもそも普段あまり関わりがないのはここでは置いておくことにする。
「えっと……お兄さん?」
兎に角。流石に素通りは躊躇われたので、取り敢えず話しかけてみることにしたのだが……。顔を上げたアクアの表情を見た瞬間、みなみの身体は稲妻に打たれたかのように硬直した。
「寿……さん、か」
絶望。
アクアの瞳と声から感じ取れたのはその二文字につきた。
学校やテレビで見るクールな印象からかけ離れた、弱々しい姿。それは、彼に起きている何かが、ただ事ではないのを告げているようだった。
何があったん?
風邪、ひいちゃいますよ?
……ルビーは?
そんな言葉が喉から出かかり、みなみはそれらを必死に押し留めた。
シスコンとブラコン。そう表現するに相応しい仲良し兄妹の間に軋轢が生じていることを、みなみはだいぶ前から察していた。故に口からこぼれたのは「なにしてはるの?」という、ありきたりな問いかけだった。
※
青天の霹靂。星野アクアにもたらされたそのニュースは、まさにその言葉をあてるに相応しいものだった。
『神木プロダクションCEO、カミキヒカルさんが歩道橋より転落し死亡しました』
『カミキヒカルさんを突き落としたと見られる被疑者は現在逃走中とのことです。警察は目撃者の証言を――』
テレビのニュースを目にした瞬間に、昼食のシリアルが木皿ごと手から滑り落ちていく。べシャリという嫌な音が耳にこびりついた。
仲違いする前のルビーだったら、「うっわ。お兄ちゃん何してんの〜」と笑うだろうか。そんな想像をぼんやりと思い浮かべつつ、アクアは必死に思考を巡らせる。巡らせ……ようとした。
「嘘……だろ?」
早鐘を打つ心臓。冷や汗が一気に吹き出し、呼吸が乱れているのがわかる。今自分がどんな感情になっているのか。それすら把握できなくなるくらいに、彼は混乱していた。
カードは揃ってしまっていた。だから愛しくて幸せな時間に別れを告げて、止まらないことを選んだのに。
いくつかのプランが頓挫することも想定して、何重にも保険をかけていたのに。
こうもあっさりと前提が覆されるなんて……。復讐の対象がこの世から消える。という形で計画が頓挫するとは、夢にも思わなかったのである。
殺したかったけど、今死んで欲しくはなかった。
アクアがあの男へ贈る言葉はそんな所。ただ、同時に何処かホッとしている自分がいることにも気がついて……やがて、次にジワジワとアクアの胸中で鎌首をもたげたのは、明確な絶望と諦観だった。
――ああ、何もなくなってしまったんだ。
あらゆる望みの総てを叶えた瞬間に。星野アクアは、生きる意味を失ったことに気づいてしまったのだ。
その後の行動は、アクア自身が驚くほどに迅速だった。
まずは斎藤社長。復讐の対象がカミキヒカルだったことを告白し、もうどうしようもないということを伝えつつ、ずっと真実を隠していたことを謝罪する。ただ、余程酷い声色だったのだろうか。スマートフォンでの通話越しに、「お前……大丈夫か?」と心配されてしまった。誤魔化しに使った言葉は……ついさっきの出来事なのに忘れてしまっていた。
「………ふぅ」
一仕事終えたアクアは、適当に立ち寄った公園のベンチでぼんやりと空を仰ぐ。どんよりとした曇り空。一雨来そうな気配がするが、もはやどうでもよかった。
これで終わり。他に自分が情報を共有していた相手はほとんどいない。復讐を企てていたことを知っているのは、あかねくらいだろう。
そのあかねも……二度と道を交えることはない。
事実を再認識した時、アクアの心がギシリと軋みを上げた。
酷い振り方をしてしまった自覚はある。あかねを巻き込みたくなかったという気持ちと、何もかも忘れて彼女の傍にいたかったという気持ちがぶつかり合った時は……本当に胸が締め付けられるかのようだった。
救ってあげたかったな……と、言ってくれた彼女の泣き顔が忘れられない。それでも計画上、“戻る気はなかった”から彼女を突き放したのだ。ならば、今は? 形は奇妙なものになってしまったが、復讐は終わった。それならば、もう一度あかねと……。
「バカか」
自嘲するようにアクアは鼻を鳴らす。最悪にも程がある。身勝手に放り投げておいて、もう大丈夫になったから、また一緒にいてくれ。だなんて、どの口でほざくのか。
もう戻れないのだ。それをわかった上で、破局の道を選んだのだ。自分にはもう、あかねの彼氏でいる資格はないとわかっていた。
いや、それどころか……。
ありとあらゆる人の顔が、まるで走馬灯のようにアクアの脳裏に過る。
次に浮かんできたのは太陽のような笑顔。好きだった。恋愛的な意味なのかはいまいちわからなかったけど、間違いなく自分の中で特別だった人物――。
有馬かな。
復讐が終わった今ならば……もう何の憂いもなく、彼女の活動を応援出来るだろうか。こうなってみて初めて自覚した、有馬かなは、星野アクアにとっての推しの子なのかもしれない。という感情。だが、今のアクアにはそんなキラキラした宝石のような思いを抱えること自体が罪に思えてしまう。
利用してやろうとしていた分際で推しを語るな。胸の奥でそんな声が聞こえてくるようだった。
そして――。
「アイ……ルビー……」
もっとも重い、許されない業に彼は目を向ける。復讐を免罪符にして背け続けていたこと。
ルビーが笑顔を向けてくれることは、きっともうないだろう。だがそれは至極当然のことでもある。
アクアは世界で一番大切な存在を……貶めて、傷つけたのだ。
生きている人間のために使うべき情報? お前は死んだアイの為と嘯いて動いていたのに?
持ち続けていた自己矛盾。それすらも目的の燃料として進み続けた。だが……全てが終わった時に、燃やしていた炎がそのまま自分を焼くことになることを、分かっていなかったのだ。
幸せは、自ら捨てた。その結果が……今のアクアだった。
「……もう。いいか」
そうしているうちに、ポツリポツリと彼の身体に水滴がいくつも降り注いできた。
頬を伝う熱いものが急速に冷やされて、あっという間に勢いづいた奔流が身体を濡らしていく。
篠突くような雨は、アクアから未来を嘆く時間すら没収してしまった。
「――――さん?」
熱が奪われていく。何もない世界から色が消えていく。やがて叩きつけるような雨音だけが周りを支配して……いっそ意識も掻き消して欲しいとすら思い始めた頃……不意にアクアを打つ水の叱責が、何者かに遮られた。
「……お兄さん? なにしてはるん?」
顔を上げると、見知った女の子がそこにいた。
ゆったりとしたテンポの関西弁。桃色の髪と瞳。そして……下世話な話になるが、男の目を惹く抜群の美貌とスタイル。
ルビーの友人にして、グラビアアイドル。寿みなみが、傘を傾けたまま、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
※
「ほっといてくれると……助かる」
「ほ、ほっといてって、いわれましても……」
ずぶ濡れな上に、まるで迷子になった子どもみたいな様子のアクアをハイそうですかと言って置いていけるほど、みなみは図太くはなかった。
「うち、帰らへんの?」
「……必要ない」
「ルビーが心配……」
「しないよ。少し前から家族と思われちゃいないさ」
「そ、そないなこと……」
「あるんだよ。……それだけのことをしたんだ」
「…………せやからそうやって、自分をイジメてるん?」
「どうでもよくなった。それだけだよ。いっそこのまま凍え死ぬくらいが丁度いいかもな」
「…………本気で言っとる?」
みなみ自身でも驚くほどの低い声が出た。アカン、本気やこの人。このままほっといたら、本当に死ぬ気や。
そう察したみなみは、しばらくの間ウンウンと唸りながら頭を回す。
誰かに連絡するべきか。ルビーは複雑そうなので、他に誰か……。少なくともこのままは駄目だ。だが、ここまで憔悴しているなら、アクアはその姿を親しい人に晒すことを良しとしないだろう。
有馬かな。MEMちょの二人は、否応なしにルビーに繋がりそうなので却下。というか、あまり話したことがないどころか連絡先自体知らなかった。
事務所の……名前は知らないが女社長さんが一番無難? しかしここもまたルビーに伝わってしまうかもしれない。
黒川あかね。……却下。破局報道されていた相手にアクアを引き渡すなんて気まずいなんてものではない。そもそもこちらもまた連絡先を知らない。
不知火フリル。……論外。ただ面倒事を押し付けるだけになってしまう。というか売れっ子な彼女に迷惑だろう。
そこまで考えて、みなみは想像以上にアクアの交友関係を知らない上に、共通の知り合いが少なすぎることに気がついた。
「(アカン、どないしよ。本人がこんな状態やし、あんまりお兄さんと接点がなくて、それでいてお兄さんにとってほどほどに無関心になれる相手で……取り敢えず雨風しのげる場所を提供出来る人……いや、無理やろ! そんな都合のいい人間おるわけ…………ん?)」
ペカッと、みなみの脳内に電球が灯る。因みにこの時点で知人が自殺する可能性に遭遇してしまったことで、みなみの頭も多少は慌てていたのかもしれない。
結果……。
「……ウチやん」
そんな結論が出てしまう。そうと決まればもう後はあれよと言う間だった。
グチグチイジイジとゴネるアクアに「ウチが寝覚め悪いんですよ!」と一喝し、みなみはふらつく彼の手を引いて歩き出した。
傘は一本。何気に人生初となる異性との相合い傘だったのだが、そんなことに気づく暇はなく。こうして人生初の自宅に男を招くという乙女の重大(?)イベントも無意識に消化して……話は振り出しに戻る。
「ち、ちょっと待て。寿……さん、一人暮らしだったのか?」
「え? うん、そうやよ。ウチ実家は神奈川やけど、事務所もお金出してくれるし、仕事上こっちにいた方が都合がええねん」
セキュリティもそれなりにしっかりしたマンションの一室。その玄関で立ち尽くすアクアの表情には、困惑と焦燥の色が見て取れた。
「お兄さん?」
「……い、いや。なんでも、ない」
謎の葛藤があったように見えたが、気の所為だろう。一先ずずぶ濡れのアクアをお風呂場に無理矢理突っ込んでから、みなみは手早く電気ケトルに水を満たしてスイッチを入れた。
冷えた体には温かい飲み物を。そう思いながら食器棚からお気に入りのマグカップとスープカップを引っ張り出した頃、ようやくお風呂場からシャワーの音が聞こえてきた。
さんざん抵抗はしても、肌寒さには敵わなかったのだろう。愛飲するレモネードの粉末スティックをテーブルに置きながら、みなみは思わず苦笑いする。
おもてなしの算段が整った所で、手持ち無沙汰になった。そこで考えることは、アクアに何があったのかということ。そして……。
「(……アレ? 今気づいたけどウチ、わりととんでもないことしてへん?)」
雨で濡れた男子を自宅に連れ込む。
シャワーを浴びさせる。
帰るあてがない? この後は?
というか、年頃の高校生男女が部屋に二人きり。
自覚をした途端、みなみの思考が軽いパニックを起こす。どうすべきだった? 何が最適だった? そう自問自答するも答えは出ずに、そうこうしているうちに浴室のドアが開き、シャワーを浴びたアクアが戻ってくる。
「……悪い。助かった」
「――っ、あ、うん。かまいませんよぉ」
貸し出したTシャツのサイズは問題なかったらしい。ただ、それを確認する以前にみなみの心臓はいつもの二倍は忙しなく動いていた。
濡れた髪。血色を取り戻し、少し上気した肌。まだ憂いを閉じ込めたアンニュイな表情。
「(フリルやないけど、目の保養ってこういうことなんかなぁ……)」
シンプルに顔がいい。と、クラスメイトの誰かがアクアのことを評していたのを思い出しながら、みなみは慌てて目線を逸らした。
「……寿さん?」
「あ~。レモネード、飲みます?」
「……ありがとう。じゃあ、貰うよ」
特殊な状況だからだ。それを認識してしまったから少しドキッとしただけ。そう自分に言い聞かせながら、みなみはカップにお湯を注いでいく。ほこほこと湯気が立ち上り、甘くてすっぱいフレーバーが鼻腔を満たせば、無意識にため息が漏れた。
肩の力が抜ける。どうにか心の平静さは取り戻せたようだ。……そういうことにしておく。
「……はい、どうぞぉ」
「ああ。……いただきます」
居間のテーブルをはさんで二人は対峙する。ぼんやりと、目線を合わせることなく。たっぷりの沈黙がその場を支配していた。
「(き、気まずいわぁ……)」
内心で泣きそうになりながら、みなみは必死に言葉を探す。
普段二人で話す機会もなく。ルビーを介していても一緒に行動することは全くない。
どうしろというのか。それでもこの状況を作ったのは自分である。会話のきっかけくらいは自分で切り出すべきだろうか。
チラリとアクアの方を伺う。彼は無表情のまま、ぼんやりとレモネードの水面を見つめていた。
……疲れている。普段彼と接していない自分ですらそう感じてしまう。同時に、やはり引っ張ってきて正解だったとみなみは確信する。今のアクアは、放っておけば霞のように消えてしまいそうだった。
「えっと……すんません。強引に連れてきてしもうて」
「ああ、いや。それは……俺の方がお礼を言うべきというか……」
「その……言いにくいならええんですけど、何かあったんです?」
「…………どうして?」
「めちゃくちゃ辛そうに見えるし、話だけでも聞けるかなぁなんて思いまして」
「そうじゃなくて。何でそれを寿さんが気にするんだ? 普段はその……言っちゃうと、俺達はそんなに絡みがないだろう?」
うっ……と、思わず言葉に詰まる。野生動物が間合いをはかりあうような会話のせいで、より普段から関わりが薄いことが浮き彫りになってしまう。
「そ、それは……」
「……すまない。ちょっと言い方がキツかった。――気にしなくていいよ。ちょっと仕事でミスしちゃってさ。落ち込んでいただけなんだ」
あっ、この男ナチュラルに嘘つきおった。
直感でみなみはそう悟る。こう言えば引き下がるだろう。そんな思考が透けて見えたのだ。みなみもそこそこの年数ではあるが、芸能界に身を置いている立場だ。嘘や打算。野心や欲望。負の感情に対するアンテナは常人よりは鋭敏だった。
「……お兄さん、ウチの好きな食べ物、知ってはります?」
「……え?」
何だかムカッときた。故にみなみは切り込むことにした。普段なら他人事と一線を引くのだが……何故だかわからないがこの時はそうしようとしてしまったのだ。
「因みにウチ、お兄さんが好きなものはしらへんねん」
「お、おう。……いや、それが一体――」
「お互いそんなに興味ない同士……やろ? 恥ずかし〜いお話の一つや二つ、吐き出しても問題ないんとちゃいますか?」
「……っ、話した所で……!」
「ウチはルビーやないから、お兄さんは頼りにならなくてもええんです。あの美人な彼女さんでもないから、格好良くなくてもかまへんねん」
「……なんで、そこまで」
暗い視線が、みなみを射抜く。気持ちを偽ることは許さない。そんな圧をひしひしと感じる中で、みなみは出来るだけアクアを安心させるように微笑んだ。
脳裏にクラスメイトであり友人の顔が浮かぶ。キラキラしていたルビーの瞳に、少しだけ暗い影が混じり始めたことに気づいた日を思い出す。
別に今のルビーとの関係が悪いわけではない。ただ……それでも、何かモヤモヤするものを抱いてしまったことも事実なわけで。
故にこれは、自分には珍しいお節介だった。
「ほっとけない。じゃアカンの? 最近ルビーも時々苦しそうやから……何か気になってしもうて」
「とんだお人好しだな……本当につまんない話だぞ?」
後に、寿みなみと星野アクアの両名は語る。
お互いを少しだけ知るきっかけになったこの出来事が、自分たちにとっては大きな意味を持つことになったのだ……と。
「ええよ。い〜っぱいたまってるんやろ? 好きなだけウチに出してな」
「……いや、言い方」
「……?」
「そこは素なのかよ。俺も男なんだから、気をつけてくれよ? 本当に」
何はともあれ。
――嵐の午後、“今は”特にお互いに興味がない二人による、永い永い語らいが始まろうとしていた。