ソファーの上でアクアを抱きしめながら、寿みなみの脳は盛大にパニックを起こしていた。
言ってしまった。なんなら少し前にもっと大胆なことを口走ってしまった気もするが、もうそんな直近の出来事すらみなみは忘却の彼方に追いやっていた。
もう後には引けない。高鳴る心臓は押し付ける形になった胸を通して、多分触れ合っているアクアに伝わっていることだろう。彼の鼓動も、今まさにみなみに届いているのだから。
アクアの身体は硬直して動かない。多分戸惑っているのか、あるいは必死に今の状況を理解しようと頭を回しているのか。
そのうち静かにアクアが身動ぎしたのを感じて、みなみは思わず身体を離す。顔が赤くなっているのは自覚しているが、もはや隠すのは無理そうなのでじっとアクアの瞳を見上げる。
星を宿した瞳が揺れていて。やがて何かを覚悟したように瞼が閉じられた。
「無理は……してないのか? 本当に、心の何処かで嫌だって気持ちがあったら……」
「してない言うたやろ」
「今ならまだ……もし義務感とかで、俺が眠れないから仕方なくなら……」
「お兄さん、ウチだって怒るんやで? ……ウチそんな軽い女に見えるの?」
見える、かもしれない。アクア視点ならば、二度も夜に男を部屋に招いたグラドルだ。……そう考えたら、ちょっと泣きそうになる。アクアだけだと伝え続けている筈なのに。
寧ろ気になってる人の力になれるかもしれないから、こうしてパニックだとかを追い風に勇気をふり絞っているのだ。そして何より……。
十分だけソファーで眠っていたアクアを思い返す。化粧で隠しているのはくまだけではなかった。よく観察しなければ分からないが、肌も髪も荒れ気味で、血色も悪い。
明らかなバッドコンディションぶりを顔の良さで無理矢理誤魔化す。という頭の悪い力技で、アクアは現状を維持していたのだ。
このままでは本当に倒れてしまう。過労で体調を崩したり、精神的な負荷で帰らぬ人になる人は芸能界では珍しくないのである。だからこそ、みなみはアクアを……アクアだからこそ放ってはおけなかった。
勿論、アクアの結構な弱りっぷりにみなみ自身も動揺していた。というのもある。実際普段では考えられない大胆さを発揮しているのは、自分でも分かっていた。それでも……。
「(引いたらアカン。ここで引いたら、多分お兄さんは、これから誰にも甘えられなくなる。一人で背負い込む癖が悪化してまう……!)」
アクアは良しとしないかもしれないが、他の誰かに対しても、隙を見せるというか、少しは弱い所を見せれるようになれば……彼の罪悪感が少し軽くなったことの証明になるから。
それはそれとして、他の女とよろしくするところはあんまり見たくはないけれども!
「見えない。君は、危なっかしいけど……軽々しいことはしないって分かってる」
「じゃ、なんも問題ないやろ?」
一部気になる評価はあったものの、概ね満足な返答にみなみは微笑みながら。と小さく頷いた。
同時に少し不安にもなる。お風呂は入ったが、大丈夫だろうか? 歯磨きも、もう一回する? 別に深い意味は無いけども。
「そや。お兄さん、お風呂使う?」
「あっ、いや……風呂とかは、入ってきた」
「そ、そうなんね」
謎の沈黙が生まれる。互いに妙な心配はなくなった。
なくなった筈なのに、二人はソファーに座ったまましばらく動けなくて。
先に行動に移したのは、みなみの方だった。改めてアクアの顔に滲んだ消耗の気配が痛々しく、彼女は再び、アクアの服の裾を指で引っ張った。
「じゃ……ベッド、行こ」
アクアの顔が何ともいえない歪み方をしていたのだが、恥ずかしさで目をそらしてしまったみなみには、それを笑う余裕はなかった。
「だからそういうとこだぞ……」という、妙に疲れたような呟きにも、心を割く余裕はなく。
二人は何故か足を忍ばせながら、部屋の片隅にあるベッドへと移動した。
「えっと、じゃあお兄さん、ど、どうぞ……!」
「あ、ああ……」
ギシリと、二人分の重みを受けて、ベッドのスプリングが音を立てた。そのままゆっくりと、みなみはプルプル震えながら両手を広げる。
それを見たアクアは、少しだけ深呼吸をして。
みなみの方により近づいた。
「何度もいうけど、無理はするな。少しでも嫌だったら言ってくれ。……力、抜いて」
「はわわ……は、はいっ!」
「……誓って、君を襲ったりしない。そこは安心してくれていい」
優しく、労るように、アクアの腕がみなみに回される。
おずおずと、みなみも倣うようにアクアの肩に腕を手を回した。
※
「(アカンかも……………これ)」
「(…………………マズイかもしれん)」
奇しくもその瞬間、寿みなみと星野アクアの両名は、優しくも痺れるような快感が身体を突き抜けていくのを感じていた。
自然に二人の身体がマットレスに沈み込み、どちらからともなく引き寄せた掛け布団を被り、そのまま少年と少女は己の体温を共有するかのように密着する。
甘い焼き菓子の匂いと、爽やかな花に似た香りがベッドの中で混ざり合い始めるのに、そこまで時間はかからなかった。
「(あっ……腹筋。それに腕も……背中も……かたい)」
役者としてアクアは常に肉体を鍛え続けているとは聞いていた。おかげで服越しでも、寿みなみはその腕の中で彼のたくましさや頼もしさを存分に感じていた。
「(かたい……お兄さん、前も思ったけど……すごい……かっこいい……)」
うっとりとしながら、みなみはアクアの首元に顔を埋める。喉仏も、鎖骨も全部がセクシーに見えて、今のみなみには目に毒だった。
「(それに……あった、かい……)」
不思議な安心感に包まれながら、みなみは無意識に身体をアクアに擦り付けていく。くっつく箇所を少しでも増やしたい。という無邪気な欲求がそのまま行動になってしまった結果なのだが……。
「(マジでヤバいな。どれくらいヤバいかって……マジヤバい)」
その行動は、ただでさえ死にかけていたアクアの脳を更に駄目にしていた。
具体的にいうならば……星野アクアも所詮はただのオスであり、男子高校生だった。
現役グラドルのハグである。喜ばない訳がない。
更には格好もキャミソールやホットパンツ。開かれたパーカーもそのまま。
いつかのパジャマもそれは眼福な上にサテン生地が素晴らしかったが……今回は肌色部分がそこそこにある。具体的には生足だとか、胸元だとか。全力で(本人は無自覚なのか?)理性をなぶり殺しに来ているのである。
「(……ありえんレベルで、ふわふわ柔らけぇ)」
胸だけでなく、全身が。素晴らしきかなマシュマロプリン。
しかもただでさえ抱き心地が最高すぎるのに、当人が更に身体を寄せてくるわ、首筋に顔を埋めてきて吐息がこそばゆいわで、アクアは色々と大変だった。
「(ああ、でも……なんだろうな)」
そういった欲求がないわけではない。けれど今は……心地よさと、あまり味わったことのない安らぎが勝っていた。
桃色の髪が丁度目の前にあり、アクアはそこに顔を埋める。抱きしめる力が強かったのか、あるいはまた別の要因か。みなみの身体がピクリと反応した
「っ、お兄さん……」
「ごめん、痛かったか?」
「んっ、そうやないよ。ちょっと、くすぐったかっただけやねん……眠れそう?」
「…………ああ」
正直、添い寝の。もといみなみの感触を楽しみすぎて、この間だけ疲れを忘れていた。
何て言える筈もなく、アクアは素直に頷くしかなかった。だが、そこでようやく、とろけるような眠気が徐々に降りてきて、アクアは胡乱な思考のまま、目をしばたかせた。
「お兄さんこそ、痛くない? ウチ、強くしがみつき過ぎてへん?」
「平気だよ。……なぁやっぱり怖いんじゃ……」
「そうやなくて! 何かこう、うまく言えへんけど、安心してより引っ付きたくなっただけ…………何言わすねん」
「いや、寿さんが自爆したんだろ今のは。……別に、全然痛くないから、思いっきりやっていい」
「そうなん? …………ウチも、そんな割れ物扱うみたいにしなくてええんよ?」
目線は合わさない。ただ、みなみが思い出したかのように枕元のリモコンを操作して、照明が落とされる。
視界が真っ暗になり、感じられるのは相手の匂いや微かな吐息。そして、感触のみだった。
「………あっ」
「………っ」
知らず知らずのうちに抱きしめ合う力が強くなる。思わず漏れたみなみのか細い声にアクアが尻込みしかけるが、みなみはそこで逃さないと言わんばかりにますます強くアクアにしがみついた。
「大丈夫やで」
「いや……」
「ウチもするから。“もう、どこにも行かへんから”そうしたら……お兄さん、安心やろ?」
「……っ!」
敵わない。そんな気持ちがアクアの中に芽生える。
同時にまだ少しだけ持ち合わせていた恥じらいや遠慮が氷解した瞬間だった。
委ねて大丈夫だろう。今だけは……甘えよう。
この場で取り繕うことは、何も無いのだから。
そう思ったアクアは、今度は遠慮なくみなみを引き寄せた。
「寿……さん」
「……お兄さぁん……」
「……寿……っ」
「っ! お兄さん……もっと。もっと、ぎゅ〜……して?」
呼び合う声が脳を痺れさせているかのようだった。傍から見れば完全に愛し合う恋人同士のように、若い二人は熱烈なハグに没頭する。
そのうちにお互いの香りすら好みだと気付いたが最後。無意識に二人は求め合い……止まらなくなった。
あっ、ここ。ここに顔くっつけるの……なんか好きや。
髪を触るのは……ああ、もういいか。
ん、撫で撫で……嬉しい。ウチもしてあげたいなぁ。
同級生に背中ポンポン叩かれるのは……どうなんだ?
アカン。添い寝、クセになりそう。戻れなくなってまう。
何かもう色々と、どうでもよくなった。監督、アンタは正しかったらしい。
てか、癒やしたいけど、ウチが一番癒やされてへん?
なんなんだ俺は? 前世や今世でそんなに徳を積んだだろうか?
かたい。柔らかい。
素敵。最高がすぎる。
……もはや痺れているというよりも、二人共駄目になっていた。
ここに例えば有馬かながいたとしたら「いや、寝ろよお前ら!」と叫んでいたことだろう。
だが、幸せな時間はここまでだった。度重なる疲労があったのは紛れもない事実であり、ついにアクアは、ウトウトし始めて、全身からゆっくりと力が抜けていく。
「お兄さん、眠くなってきたん?」
「ああ……そう、みたいだ……」
それを聞いた寿みなみは内心で静かに祈る。どうか悪夢が来ませんように。彼女が出来るのは、寄り添うことだけだから。
……なお、ついさっきまでの戯れで当初の目的を忘れかけていた事実には、全力で蓋をした。
「……ありがとう、寿。何だか、心地よさで……今ならちゃんと眠れそうな気がする」
「うん、それなら、よかったわぁ。でも……」
少しだけ身体を離して、みなみはアクアの頬を撫でる。
さっきまでは彼の意外なたくましさや力強さにドキドキしていたのに。今は不思議と可愛らしい。なんて感想が漏れてしまう。
だからだろうか。曲がりなりにも気になっていた男の子との情熱的な触れ合いは、少女にとって明確な毒となり……。
「大丈夫? ウチのおっぱい……いる?」
星野アクア曰く、寿みなみはちょっとバカ。が証明されることになった。
「……ああ、いる」
尚、半分以上意識が微睡みの中にいたアクアもまた、考えることをやめていたのでそんな返事をしてしまう。
結果、アクアは促され、誘われるままに、みなみの胸にダイブした。
「んっ……お兄さん。その、……どう、やろか?」
「ああ……あったかくて柔っこい。いい匂いもする。最高だ」
「――っ! もぉ〜お兄さんったら……恥ずかしいわぁ」
いや、恥ずかしいのは今のアンタ達よ。と、何処かの元天才子役がいれば罵倒していただろうが、この場は頭が蕩けた男女二人きり。
残念ながら止める者など誰もいなかったが、斯くしてアクアに救いがもたらされたのもまた事実であった。
二度目となるおっぱい枕の心地よさに浸る暇もなく、恥と思考を捨てた幸せ者は、十秒も経たずに夢の世界へと旅立っていったのである。
※
「……どこにも行かんでね。お兄さん」
漠然と生まれかけた不安を打ち消すかのように、寿みなみは眠るアクアに話しかける。貴方は自分が思っている以上に愛されている事。彼のトラウマを消すにはそれを伝えつづけるのが一番なのだろう。
そっとアクアの身体を引き寄せる。その柔らかい髪を優しく指で梳いてあげれば、彼は自分の乳房に顔を埋めたまま、心地よさげに身動ぎする。寝息はずっと穏やかなままだった。
「……可愛いっ。やっぱり、甘えたさんやなぁ」
そんな姿に幸福を覚えながらも、みなみは少し前のことを思い出していた。
『……寿……っ』
何処か余裕のない、切なげな声。それで呼び捨てにされた時、みなみは全身が歓喜で震えたのを覚えている。
「(ちょっとだけ、前よりも心開いてくれたんかな? そうだとしたら嬉しいなぁ)」
ニヘラとだらしない笑みを浮かべながらも、みなみはアクアを観察する。
……やっぱりよく寝ている。そう確認できてしまうと、ちょっとずつ欲望というか悪戯心が芽生えてくる。
今ならば、多分聞こえないと思うから。そう自分に言い聞かせ、みなみはそっとアクアの耳元に唇を寄せた。
「おやすみなさい………………アクア、さん」
言ったその瞬間に、みなみの顔がボヒュンと音がしそうなくらいに赤くなる。やっぱ恥ずかしいわぁと嘆きながら、彼女は再びアクアを見る。いつか、彼にも名前を呼んで貰いたいなと思う。残念ながら自分はまだ心の準備が出来ていなかったみたいだけども。
「(今でこれなら、言われたらどうなってまうんやろ……まぁ、ええわ。今はまだええもん)」
よかったら、ウチの夢を見てな。そういってぐりぐりと軽めに自分の額をアクアに擦りつけてから、みなみもそっと目を閉じる。
明日はオフだ。アクアは……どうなんだろうか?
一日で今までの疲れは抜けるものなのだろうか。わからないが……もしもアクアもオフだったなら。
「(お兄さん、スーパーリラックス大作戦とか、駄目やろか?)」
食べ物なら、何が好き? 何食べたい?
好きな物語は?
お休みならどう過ごすの?
……好きなタイプとか。なんなら相手はいるの? とかも。
何だかんだで、みなみはアクアについて知らないことが沢山ある。それも聞けたらいいな。そんな素敵な未来予想図を描きながら、みなみもアクアの後を追うように、眠りの世界へと船を漕ぎ出した。
翌朝、疲労と睡眠不足から解放されたアクアが、本当に無事熟睡できてしまった事実に頭を抱えることになったり。
乱れたキャミソール姿のみなみに悶々とする羽目になったりするのだが……。それはまた別のお話だ。