滑らかな肌触りと、ふよふよした柔らかさを顔面全体に感じながら、星野アクアは眠りの世界から帰還した。
同時に、自分にかかっていた身体の怠さを中心にした不調の全てが、きれいさっぱりなくなっているのにも気がついた。
頭痛は消え、視界は良好。変な耳鳴りもなし。質のいい睡眠というだけでこんなにも違うのかと、アクアは笑いそうになり……。直後、淀みなく回り始めた本来ならば優秀だった筈の思考回路により、アクアは今天国と地獄の両方にいるのだと実感した。
まず天国とは言わずもがな。今もなおアクアを包み込む魅惑の温もりだった。気を抜けば悪いこと全てを吹き飛ばしてしまえそうなほどに心地よいのだが……。
今のアクアには、それが出来ない理由が……地獄があった。すなわち――。
「(嘘だろ? 誰か嘘だと言ってくれ……どうなってんだ俺の身体は! 恥知らずなのは所業だけにしとけよ! 肉体までただの変態だったら……救いようがないだろうが……!)」
熟睡できてしまった。女の子に添い寝してもらうという、とんでもない方法で。
もうダメだ。結局自分は、あの男の血もひいてしまっているのだ。
底しれぬ絶望がアクアを襲う。死して尚こうして苦しめてくる辺り、カミキヒカルという男の強大さと邪悪さが実感出来てしまうようだった。
「(いや、俺が救われるとか、あのクソ野郎の血はこの際どうでもいい。……どうする? こんな状態で、これからどうすればいい……?)」
同時にアクアは今後のことを考えねばならなかった。
寿みなみと共にでなければまともに眠れぬこの現状。加えて自分が完全回復したとも言い切れないのが辛いところだった。
「(毎日のように寿に添い寝を頼むのは論外。仮に完全回復していないなら、何らかの代替案が必要だ)」
因みに抱きまくらは既に試したが無意味だった。
ならば、鍵なのは人肌なのか? それならば、別の人に……。
いや誰に頼むというのか。眠れないから添い寝をしてくれなんて……そんなことを頼める知り合いなんていないだろう。一度なりゆきで同衾してしまったみなみだから、弱みを見せてこれ以上下がるものなど何も無いから、なんとか頼めただけで……。
「(彼女なら、俺が魘されたとして心配はしてくれても、哀れんだりはしないと信じられるから……頼んだんだ)」
実際他の知り合いだったなら、あそこまで身を委ねられたかは分からない。100%安眠できるかと言われても、今の自分は信用できなかった。
例えば黒川あかね。彼女はただでさえ忙しいのに、これ以上迷惑はかけられない。訳を話せば寧ろ喜んでやってくれそうなのが尚更ダメだ。アクアはもう、彼女を都合好く利用したりはしたくなかった。彼女のぬくもりの心地よさは知っているけど、それは自分なんかが縛っていいものじゃない。
有馬かなは……ダメだ。彼女にスキャンダルのリスクなんて背負って欲しくはないし、自分の弱い所を見せたくない。頼めばやってくれるだろうなとは思うけど……やっぱり頼めない。特別だからこそ。推しと添い寝なぞ畏れ多い。
ルビーは問題ない相手なのだが、現状では一番頼めない相手だ。状況が悪すぎる。というか、ここ数日は自分が弱りきっていたのと、スケジュールのすれ違いで全然会えておらず、しっかり話したくても話せていなかった。ルビーに仕事がたくさんあるのはいいことだけれども。……少し切ないのは秘密だ。
どの口でと言われるかもしれないが、仲直りがしたい。
ミヤコさん。……駄目だろう。なんやかんやで一番大丈夫そうな気がするが、彼女は社長だ。面倒なことが多い立場なのに、更に厄介事を負わせる訳にはいかない。心配を、かけたくない。
他にもあれこれ候補を思い浮かべるが、基本はいや無理だろ。の一言で片付けられてしまう。
詰んでいた。というか、知り合いが駄目な理由を並べているうちに、もう一つの問題に気がついてしまった。
「(酷い話だ。まるで寿なら巻き込んで大丈夫……。みたいじゃないか)」
既に巻き込んでしまってはいるけれど。
スキャンダルのリスクだってある。グラドルではあるが、グラビアモデルとしての面もある彼女は、アイドルとしての活動はしていないとはいえ、男の影はないにこしたことはないだろう。なのに……疲れから自分はここに来た。
「(ああ、そうか。俺は……また彼女と話したかったのか)」
……いや、一度何もかもを捨てた夜を経たからわかる。素直にあの快適な睡眠が。今も味わえている優しい匂いとぬくもりが……忘れられなかったのだ。
復讐を失った時、贖罪という道と幸せになっていい筈という光を見せてくれたことが……。救いであり、多分心の何処かで嬉しかったのだ。
だからあかねと再会する前に、“あんな言葉”を言おうとしたのだ。お礼の気持ちだけじゃない。彼女とまたかかわりを持ちたくて……。
「……最低じゃねぇか。俺」
そんな独白を漏らす。
これは、危険だ。だから離れなければ。
彼女を思うなら、ここをさっさと離れて……。
「また自分を苛めたらアカンよ、お兄さん」
そんなマイナスな感情と行動は、あっさり引き戻される。
そもそも反省しながらもみなみの乳房から離れなかったアクアもアクアだったのだが、結局そのまま、一瞬彼女から身を離そうとして、失敗した。
再びアクアはみなみに抱きしめられるような形で、ベッドの中に引きずり込まれた。
極上の柔らかさが再び顔全体を包み込み、アクアは一瞬だけ全身の力が抜けそうになる。
「モゴッ……ちょ、何する、離せ!」
「嫌や。離さへん。またウジウジ無駄に考えてそうなお兄さんは、ウチとこれから二度寝すんねん」
「ウジウジなんか……オイやめろ、顔に押し付けるな! たまにガチで息出来ない時がある! シャレにならん!」
「んっ! お、お兄さん、あんま激しく動かんといて……あっ……!」
「〜〜っ!!」
それはズルいだろ。と叫ぶのを堪えて、アクアは全力でみなみの胸からは脱出した。
互いに多少暴れたせいか、みなみのパーカーとキャミソールの紐が肩からずり落ちかけている。一瞬目を奪われながらも、アクアは平常心と三回心で呟きながら、乱れた着衣を整えてやった。
朝から目に毒だが、保養にもなる。とんでもない同級生がいたものだ。
「いつから起きてたんだ?」
「えっと……お兄さんが、ウチの胸の中で悲しそうな呻き声上げてた時?」
いつだ? でも恐らくは、自分がカミキヒカルの血を呪っていた辺りだろう。どうも彼女には情けない姿ばかり晒してしまっているような気がする。
そんなことを考えていると、みなみの手が音もなく伸びてきて、アクアの顔をペタペタと触りだした。
「……寿?」
「くまも消えとるし……よかった。よく眠れたんやね」
「……ああ。本当にありがとう」
「急に引っ張ってごめんなぁ。なんかお兄さん、また悪〜いこと考えてるんやろなぁ思ったら、身体動いてもうて」
「……優しすぎて心配になるぞ。てか、悪いこと前提かよ」
「だって、お兄さんやもん」
「…………何も言えねぇな」
現状自分が考えたことが全て裏目に出ているアクアからすれば、ぐうの音も出なかった。
同時に、何だか肩の力が抜けていくような気もする。話しかけられて、引き止められてホッとしている? いやいや。それは流石にチョロすぎる。チョロすぎるのだが……。
「(弱いと自覚はしていたが……。やっぱり復讐が完全になくなってるからか?)」
以前のような、一時的に目をそらした訳では無い、暗い戦いの終わり。
だが、アクアは今まさにその先を生きることが、復讐以上に難しく、悩ましいことに気がついた。
「なぁ、寿。俺の思考って……まさか結構面倒くさいのかな?」
「えっと、お兄さんが? まぁ、…………………………せやな」
「そ、そうか。…………そうかぁ」
不器用ってか、無駄に考えすぎな感じはあるやん? と、申し訳無さそうに追い討ちするみなみ。
アクアは内心で結構落ち込んだ。かといって考えるのを止めるわけにもいかない訳で……。そんなことを思っていると、みなみが遠慮がちに指でちょんちょんとこちらをつついてきた。
「お兄さん、今日はオフ?」
「えっ? ああ。オフだな。今日は何も無い。寿は?」
「……ウチもオフやねん」
「そう、か……」
「……うん」
沈黙が流れる。二人の距離は今、握り拳二つ分程。手を少し動かせば、余裕で触れ合える距離だった。
考えすぎ。
アクアは改めて自分を省みる。最近余裕がなかったのは事実だ。俺に必要だったのは休息で、これからの俺に必要な事は……。そこでアクアの心に静寂が訪れた。ああ、“コレ”か。こういう所か。
気づいてからは早かった。実際に考えすぎてドツボにハマッていたならば、自分とは違う視点を取り入れるのが手っ取り早い。即ち……。
時計を見る。朝の五時。そもそも昨日の就寝が二十二時少し前。久しぶりかつ、充分な睡眠は取れていたが……それはそれとして、癒しになるのんびりとした時間は悪くない筈だ。
「二度寝、するか」
「へ……?」
アクアがそんな提案をするとは思っていなかったのか、みなみの目がわかりやすく丸くなる。
だが、それも一瞬で。彼女はとても嬉しそうに何度も頷いた。
「――、うん! ええやん! ええと思うで! 今日はゆっくり休む日!」
ウチも協力する! と、目に見えてはしゃぐみなみをみつめながら、アクアは色々な不安などを一先ずは横にどけて置くことにした。こんなにあっさり自分を切り替えれたのも、よく眠れたからだろうか? だとしたら……みなみにはもう頭が上がらなそうだ。
「…………」
「…………」
そこでふと、みなみと目が合う。特に何かがあった訳では無い。ただ二度寝と考えたら彼女を見ていた。多分、彼女も同じような理由でこっちを見たのだろう。
「……寝るん、よね?」
「……そう、だな」
「……悪夢見ないか、心配やなぁ」
「……大丈夫、だとは思いたいがな」
不思議な間合いの取り合いが発生する。
もじもじとするみなみと、それを見ていたらあらぬ所へ目線を向けてしまいそうになり、慌てて顔を伏せるアクアの両名は、最後の一言が言えずにいた。
やがて、アクアが観念したかのように拳一つ分身体を寄せて、片腕を出すと、みなみはそれをじっと見つめて。やがて嬉しそうに彼の胸に飛び込んだ。
「心配させるのも悪いからな。悪夢見るのも嫌だし」
「せやな。うちも心配やねん。念には念入れとこ」
白々しい言い訳だった。
みなみがアクアの鎖骨上辺りに顔を乗せ、アクアがみなみの頭に頬を寄せた所で、二人は互いの身体に腕を回す。
「……好きなのか? そこ」
「あったかいし、いい匂いするし、なんか落ち着くねん。……お兄さんあんま髪嗅がんといてね。恥ずかしいから」
「寿だっていい香りするぞ。あと単純に、ここに顔乗せると楽なんだよ」
「……なら仕方ないかぁ」
穏やかな時間が流れる。キュッとみなみが強めにアクアにしがみつき、それに応えるようにアクアも彼女を強く抱きしめた。
「………っ」
「んっ……」
ピリピリするような痺れが身体を駆け巡る。
なんとなく、昨日の夜もした強めの抱擁。まるで存在を刻み付け合うかのようなそれを、二人とも気に入ってしまっていた。
激しくも甘く、そして熱い時間はほんの数分間。
やがてゆるゆると力を抜き、お互い僅かに乱れた吐息を感じながら、眠りの世界へと旅立とうとした矢先――、アクアは思い出したかのようにそれを口にした。
「ああ、そうだ。寿、願いごと……考えといて」
「願い、ごと?」
みなみが首を傾げると、アクアは「ああ」と、小さく頷いた。
「たくさん世話になったから、俺に出来ることなら何でもする。いつまでとか期限も設けないから、好きに使ってくれ」
ずっと考えていたことだった。贈り物をと思ったが、みなみの好みはわからない。故に何でもする権利をと思ったのだが……。
当のみなみはポカンとした表情でアクアを見上げていた。
「もしかして、前に言いかけてたやつなん?」
「ああ、そうなるな」
「……何でも、ええの?」
「無理なものは無理っていうが……まぁ、寿なら大丈夫だろ。極力叶えるよ」
「…………」
みなみは少しだけ考えてから、コクンと頷いて「じゃあ決まったら言うわ」とだけ呟いて、再びアクアに寄り添った。
まぁ、変なことにはならんだろう。これがルビーや有馬かな辺りなら願いごとを増やしたりしていたに違いない。みなみならば、その辺は信頼出来る。アクアはそう思っていた。
そうしているうちに、少しずつ眠気が迫ってきた。
充分な睡眠は取れたが、まだ身体にわからないレベルで疲れが残っているのか。
あるいは抱きまくらとしてみなみが凄いのか。……確かに色々と凄いのは事実だけれども。
なんてくだらないことを考えながら、無意識にみなみの髪を優しく撫でる。極上の指通りと相変わらずの焼き菓子みたいないい匂いにクラクラしそうになりながら、アクアは身体を少しだけ起こして、みなみの耳元に唇を寄せた。
今まで一方的に(?)寝かされてばかりで、言うべきことを言えていなかった。そんなありきたりな感慨でアクアはそれを口にした
「おやすみ、寿。……俺を助けてくれてありがとう」
それは、いつも寝かしつけてもらってばかりで、ずっと言いたくても言えなかった言葉だった。
ピクンとみなみが軽く身体を動かしたのを感じながら、アクアは目を閉じる。ぺちぺちと可愛らしい拳が胸を叩く心地よさを感じながら、アクアは穏やかな微睡みへと落ちていくのであった。
※
ああ、また難しいこと考えて自分を苛めとる。
目覚めた瞬間にそう思った。
よく眠れた様子だったのには一先ずホッとしたけども、どのみちこのままではいけない。だからこそ、自分でもびっくりするくらい自然に二度寝へと誘えたのだ。
自分の寝起きに服が乱れていたのは途中で気付いた。直してくれた時、慣れてそうな印象とは裏腹にドギマギしていたのが、何だか可愛らしかった。
その後も時々目線がキャミソールから覗く、胸の谷間を捉えていたのには気づいている。……もっと見てくれてもいいのになぁ。は、流石にはしたないだろうか。
何だかまた妙な葛藤があったらしいが、アクアの方から二度寝しようと言ってくれたのは嬉しかった。
くっついて寝たいなぁと思っていたら、何となくアクアの方も同じ気持ちだったのはドキドキした。
癖になってしまった、短くて情熱的なハグは……色々と駄目になりそうで。同時に何だか眠る前に恋人同士が交わすキスみたいや。なんて妄想に囚われた。
……本当にキスなんてした日には、どうなってしまうのか。多分バターみたいに溶けてしまうに違いない。
何だか無性に気になって。
彼が心を痛めていたら、同じように自分も痛くて。
些細なやり取りにドキドキしながらも歓喜して。
そして……目覚めて、見つめて、抱きしめ合って。
優しくだいぶ遅めのおやすみを伝えられた時、みなみは胸の奥で花開くものがあることに気がついた。
「(ああ、そっか。やっぱりウチ……この人のこと好きなんや)」
その気付きは恐ろしい程にしっくり来て、同時にジワリと染み渡るような幸福感があった。
それに身を委ねながら、寿みなみは目を閉じた。
どうしよう、お兄さん。
願いごと、たくさんあるねん。
恋人になって。もっと抱きしめて。名前で呼んで。名前を呼ばせて。キスして。ずっと一緒にいて。
他にもルビーとお兄さんが、仲直りできますように。幸せになりますように。よく眠れますように等、本当にたくさん。
ただこれは、きっとお礼という形で受け取るものではない筈だから。
いつかきっと、全部くれると。手に入れられると願いたい。
「(……願いごと、かぁ)」
一個だけ、思いつくことがある。言った時の反応も楽しみだし、アクアからしても悪くはない提案の筈。……そう思いたい。
内心で自信がないのは色々と自覚したが故か。ともかく今はこの幸せを噛み締めながら眠ることにしよう。
「(起きたら朝ごはん……作ってあげるのもええけど、食べにも行きたいなぁ)」
二人の休日は、まだ始まったばかりである。
……尚、思い描いていたこの願いごとが、後に色々ととんでもない事態を引き起こすことになるのだが。そんなこと、今のみなみには知る由もなかった。