絶園の商人 作:ポーシャ
心のざわつきが収まっていく。
目的を思い出して、自らがその器でないことを思い直して。
ざわめいていた囁きに、その耳を閉じて。
「少しだけ、止まってもらおうかな」
「ッ!」
──気付けば仰向けだった。
そんなはずはない。ここは上空8,000m付近。雲の無くなるスレスレを飛んでいたのだ。
だというのに、なぜ彼が。
「……何のつもりだ、星村潤一郎」
「あ、僕の事認識してはくれていたんだ。僕と君には全くのかかわりがなかったから、いないものとして扱われているんじゃないかって思ってたよ」
すぐさま起き上がってみれば、彼の足元には青。その全身にもだ。
鎖部の魔法。だが、彼にその素養はないはず。
「中立を貫く。それがあなたの在り方だと思っていた」
「それは変わらないよ、今も。ただ、お願いされちゃったからね。昔から葉風ちゃんのお願いには弱いんだよ僕」
「……女好きめ」
「酷いな。別にソレ目当てで葉風ちゃんの言うことを聞いているワケじゃないよ。勿論目は行くけど」
何故彼が魔法を使えるのか。そんなのどうでもいい。
どうせ鎖部左門や鎖部鉄馬がアシストしているとかそういうことだろう。
だけど、鎖部葉風のお願い、というのは何だ。
私の足止めがお願い? それに何の意味がある。時間稼ぎにしかならない。結末は変わらない。
「だから、時間稼ぎだよ。足止めってそういうものだろう?」
上空から落ちる影に、鎌で対応する。
思い切り叩き落した……つもりだったのに、受け流された。
「鎖部夏村。……二人がかりならば、勝てると?」
「そんなこと思ってないよ。魔法の使えない僕と、使えても大したことのできない夏村くんじゃあ絶園の魔法使いを相手取るには不足が過ぎる。けど」
「時間稼ぎならば、私達は互いに得手。付き合ってもらうぞ、絶園の魔法使い」
……時間稼ぎ。時間稼ぎ。
何の、だ。何かの儀式のか? 何の準備をしている。私のクローン作りがまだ間に合っていないとか、そういうことか? それとも全く別の、また時を越える何かしらを画策しているのか。
わからない。疑念は尽きない。
尽きないけど──。
「星村潤一郎。あなたの強さは知っている。鎖部夏村。お前の強さは知っている。ゆえに、相手をする必要はないと判断した」
「逃がしはせん!」
「ここは通さないよ」
「通らなくてもいい」
飛翔に使っていた魔法を全て停止させる。
さすれば当然、この身は重力に引かれて落ちる。雲を突き抜け、地面へ真っ逆さまだ。
「何をしていても必ず転がしてくる相手への対処法。簡単だ、初めから自らの意思で動かなければいい。この自由落下に私の意思はなく、この気流に乗って移動することに法則性はない」
「そのために私がいる!」
「槍は通らない。私は自らの防護を解いたわけではない。そして──」
絶園の魔法で、星村潤一郎の足場を作っている防御フィールドを破壊する。
「あ、マズ」
「ッ潤一郎殿!」
「礼は言っておく。──ありがとう、そうも身を危険に晒してまで私を守ろうとしてくれて。けど、そら、彼を助けに行くと良い。私が消えても、私が付けた傷が消えるわけじゃない。仮にこの場で彼が死んだとして、はじまりの樹が消えてなくなっても彼は蘇らない。優先事項を履き違えるな、鎖部夏村」
「……ッ」
「夏村、潤一郎殿のことはこっちに任せろ! お前はお前の為すべきことを為せ!」
一度は揺らいだ鎖部夏村の目に光が戻る。
今のは、魔法で遠方に声を収束させたのか。鎖部鉄馬め、余計なことを。
落ちるのをやめて、分厚い雲の中に留まる。
周囲にはバチバチと雷が。……ここも嵐、か。
「状況は変わらない。お前では私の相手にはならない」
「……」
「高度な文明の産物の存在しない上空は、ある意味で絶海。孤島ですらない」
「……」
「退くつもりも、答えるつもりもないか」
「言葉は不要。来い、ジェシカ」
「そうか」
鎌を振る。
背後に。
「──!?」
「そこまで深い傷じゃない。地上で治癒を受けると良い」
どれほど鎖部一族が力を高めようとも、絶園の魔法使いには勝てない。
それは私の驕りではなく、システムとしてそうなのだ。
はじまりの樹を守る一族が、はじまりの樹を消滅させんとする絶園の魔法使いを拘束できないように、その力関係は大きな壁として横たわり、隔たっている。
さらに言えば、彼らが魔法を使えば使う程私にも力が入る。鎖部一族の誰しもが魔法を使い続けている現状であれば、枯渇どころか無限。
「お前も、それが分からないクチか」
「いいや、私はお前との差を理解している。彼我の差を理解してこその真の強者といえよう」
「お前が強者であったことなどただの一度もないだろうに。それで、時間稼ぎでないのなら、何用だ鎖部左門」
落ちて行った鎖部夏村と入れ替わるようにして、鎖部左門が来た。
……敵意も戦意も見受けられない。
「確認をしに来たのだ。万が一があってはこちらが損失を受けかねんからな」
「確認?」
「そうだ。ジェシカ。お前が絶園の樹と交わした契約は、"自身の存在消滅を代価に不破愛花の役割を貰い受ける"──で相違ないな?」
「正しい。ゆえにはじまりの樹を消滅させたと同時、契約履行の形で私は消える。お前やお前の関係者、及び人類には何の被害も行かない」
「理解した。──私からは以上だ」
そう、と呟いて、彼の横を通り抜ける。
妨害も追跡もない。……なんだったんだろう。
わからないけど──さぁ、最後の山場は、目の前だ。
*
愛花たちが御柱の見える高台に辿り着いた時、そこには関係者の全てがいた。
「左門! 状況は!?」
「不破翔花は現在御柱付近で停滞中です。その不破翔花に対し、各国の砲撃艦隊が火力を集中させている様子。また、はじまりの樹側からの迎撃も激しく、各国が神の意を得たり、と言わんばかりの連携を見せて不破翔花を攻撃しています」
「効いている様子はありませんがね。どちらかというとアイツはアイツで何かの準備をしていて、だから留まっているだけに思えます。はじまりの樹の攻撃も砲撃も全く意に介していない……絶園の魔法使いと我々の力量差を見せつけられている気分ですよ」
「そんなことはもうとっくにわかっていたはずだ。そんなことより左門、確認は取ったな?」
「はい、しっかりと。不破翔花はその口で認めました。"不破翔花が払う代償によって他者が被害を受けることはない"と」
それは、計画の第二段階完了を知らせる言葉だった。
ならば残すは最終段階だけ。
「よし、左門、鉄馬。各国の船に張り付かせている一族の者に通達をしろ。機械を狂わせるなり舵を無理矢理操作するなり、なんでもいい。周囲にいる奴らをはじまりの樹から離すようにな」
「既に。姫様の姿が見えた時点で通達済みです」
その言葉の通り、各国の船が段々と連携を崩していくのがわかる。夜だから、だろう。夜だから、サーチライトの乱れでそれが理解できる。
安堵は、けれど束の間だった。
赤黒い光を身に纏う翔花が、その大鎌を消し──目を灼く程の黄金色に輝く剣のようなものを取り出したからだ。
アレがなんなのか。
今までの攻撃の全てと違うそれの出現に、葉風は──大きな笑みを見せる。
「よし──行ってこい!」
「ああ!」
背を叩く。
真広、吉野、愛花の順に。背を押して、その瞬間三人の姿が掻き消えた。
「……祈るしかない、というのは、悔しいものだな」
「祈るのは止めた方が良いんじゃない? なんせ捧げる相手を今消し去ろうとしているわけだし」
「そうか。なら、若者の雄姿を、その背を見守ることにしよう。大人として、だ」
「ええ。それしかない。それしかできないもの」
彼らの視線の先。
先程までそこにいた三人が、黄金の剣を構える不破翔花の上空に出現したことを確認する。青い光ははぎ取られるように消え、代わりに赤い光が三人を包み込んだことも。
計画、最終段階。
残った鎖部一族は、保険の準備を進める──。
さて、文字通りぶっ飛ばされた愛花たち。
鎖部の魔法ははじまりの樹の周囲では効果を失うために、最後の方はただ高速移動の慣性で前に進んだに過ぎない。
そこから始まる自由落下に、けれど包まれる感覚を覚える。
「──何をしてる。何しに来た。馬鹿なのか、三人とも」
「話をしに来たんだよ馬鹿」
「話は終わった。今すぐあちらに返すから、もう馬鹿な真似は──」
「話をしに来たんだよ、翔花ちゃん。君に、じゃなくて──はじまりの樹に!」
翔花なら必ず助けてくれる。高高度から落ちれば、海にたたきつけられて大怪我を負う。絶園の魔法に治癒魔法は無いから、はじまりの樹の力の及ぶ圏内で鎖部一族を頼るということはない。だから必ず、どれほど集中していても翔花は三人を助ける。
その一点読みで三人は葉風に打ち出されたのだ。
「翔花、コレ、解かないでね。海に叩きつけられたら生きてはいけないだろうし、そもそも私泳ぐの下手だし」
「俺と吉野は骨折程度で済むかもしれねえが、愛花はぺちゃんこだろうな。長ネギより細い体だ」
「……今はマヒロの挑発を聞き流してあげます。吉野さん」
「うん。じゃあ、始めようか」
声が力を持つ。
全身が絶園の魔法に包まれているから、今、三人もまた絶園の魔法の一部のようなものだ。
だから届く。声が届く。言葉が届く。
「っ……そんなことを許すわけがない! 帰れ!」
絶園の力が愛花たちを押し戻していく。
けれど、いいのだ。
一瞬さえあればいい。
「はじまりの樹! ここに宣言する! 証明する!」
「翔花ちゃんは幸福を享受している。だから、愛花ちゃんを絶園の魔法使いと認めないのなら、彼女だって認められないはず」
「そして──そもそもがおかしいんです。人類が進化するための試練を与えるのがあなたであるのならば、その方法が間違っています。仮にここで翔花があなたを打ち払ったとして、人類が前に進めると本気で思いますか?」
遅くなった。
翔花が操る絶園の力が、彼女らを押し戻すその力が、弱まった。
「ッ──今更何を迷っている!? はじまりの樹! 契約は成った! 私が代償を支払うことに何の不満がある!」
「これを人類に対する試練とするのならば、人類の全員が挑戦し、乗り越えるべきことです。翔花一人に乗り越えさせて、あるいは私一人に乗り越えさせて、それで人類が何か変わりますか?」
「人類に代表者なんつーモンはいねぇんだよ。誰か一人に責任を押し付けたら世界が救えるだぁ? 馬鹿言ってんじゃねえ、人間なんてモノは群れの生き物だ。突出した個を作ったところで導くことはできても成長させることはできねぇ。そりゃあんまりにも不合理だ。条理を司るはじまりの樹の名が泣くってモンだ」
「だから、ください。それ」
「寄越せよはじまりの樹」
「今全員に、というのは無理でも、とりあえず一人だけ、というのは公平ではないので、四人で分け合いたいと思うのは間違っていないと思います。──責任の所在の分散。トカゲの尻尾切りをさせないためにも、非常に合理的な判断だと思いますが」
そうして──完全に止まる。
絶園の力が翔花の言葉を受け付けなくなったのだ。
どころか、真広や吉野の意思で、それが動かせるようになっていく。
愛花は昔を懐かしむように、その力で剣を作り出して。吉野たちは丸鋸を思わせるものをその手に溜めて。
「──もういい! 御託は結構だ! 私は使命を実行する!」
黄金の剣が振り被られる。
今までの魔法とはまるで違うそれが、御柱に対して水平に振り抜かれ──直後。
その剣も、御柱も、光の蝶となって弾け散る。巨大で巨大で巨大で巨大な樹は、一秒に満たない時間で消え去っていく。
一瞬だった。誰が口を挟む余裕もない。三人が魔法を使う暇なんかない。
固い意志のもと、強い決意のもと、翔花ははじまりの樹を絶園する。
「……ほら、徒労だった。無駄だったよ、姉さん、真広、吉野。……最期の残滓があってよかった。三人を……運ぶことは無理そうだけど、怪我をしない高さにまで下ろすくらいはできる。どうせ、救出班が待ち構えている……と、思ってる」
した。
したから、崩れていく。
──翔花の身体が、これもまた輝く蝶のように、消えていく。
「姉さん」
手足も身体も、胴も胸も、顔も。
全てがザァと消えていく翔花が、にっこりと笑う。
「幸せになってね」
そうして。
不破翔花は、その存在は、この世から完全に消え去った──。
こうして世界に日常が戻る。
はじまりの樹の突然の消滅。それは世界に災厄の予感を齎したし、混乱を招いたけれど、それでもおかしな理に惑わされることは無くなった。
鎖部一族も次第に魔法を失っていき、これ以降絶園の魔法使いも生まれない。
合理によってのみ動く、舞台でさえない現実へと戻ったのである。
何故かはじまりの樹周辺で浮かんでいた不破真広、不破愛花、滝川吉野の三人は、同じく何故か周辺で待機していた鎖部一族の乗る船に助けられた。
疑問は尽きない。何故はじまりの樹が突然消えたのか。絶園の樹もいつの間にか富士山麓からなくなっていたし、あらゆる魔具も次第に効果を失っていった。
けれど今も世界は回っている。外れてしまった世界の関節は、ようやくしっかりと嵌ったのだ。
はじまりの樹消滅から一週間は経っただろうか。これまたなぜか吉野たちに宿っていた微かな絶園の力ももうほとんどが使えなくなっていて、今にも消えそうな頃のことだ。
ようやく真広公認でのデート──真広自身も以前知り合った少女とデートに行くらしいので──に来た吉野と愛花。
デート場所は。
「……何も墓地を選ばなくともいいんじゃなかったのかなぁ」
「そうですね。デートスポットとしては最悪の部類かもしれません」
「ご両親に挨拶、っていうのはまぁ、わかるけどさ」
不破家之墓、と大きく刻まれた墓石。
資産家である不破家は他家よりも扱いが良い。その大きな墓に持ってきた線香を添え、火をつける愛花。それを見ながら手を合わせ、黙祷する吉野。
「……」
「……」
それは。
それは、黙禱中のこと、だった。
アラームが鳴ったのだ。
「僕じゃないよ」
「そうですね。私みたいです」
高校指定のバッグを漁り、ケータイを取り出す愛花。
電話ではなくアラーム。いつ設定したのか、愛花自身も覚えていないアラームだった。
「……?」
「どうしたの?」
「……いえ。唐突ですが吉野さん、ヴェニスの商人は知っていますか?」
「シェイクスピアの喜劇だね。シャイロックの悲劇、とも言われている作品だ」
「はい。……ふむ、これは謎ですね」
「謎?」
謎。
言いながら愛花は、ケータイの画面を吉野に見せる。
スケジュール表のこの日には、件名が「ヴェニスの商人」で、内容が「To:ポーシャ」。
そして。
「この添付ファイルについて、詳しくお聞かせ願えますでしょうか?」
「……え」
内容欄に添付されていた写真。
それは、誰かと共に吉野がカラオケに入っていく姿。しかも女子。
今まさにデート中で、その彼女から見せられた身に覚えのない写真。でもこれはあまりにも決定的すぎる浮気の証拠。
「吉野さん?」
「……ええと、合成写真、とか?」
「はあ。私が、私へ向けたアラームに、こんな違和感のないほどの編集を施した合成写真を載せる、ですか」
「いやでも決して僕は浮気とかしてないよ! これは本当だって!」
「はい? ああ、いえ、別に吉野さんが浮気をしている、と疑っているわけではありませんよ。そんな勇気ないでしょうし」
「う……嬉しい信用のような、どことなく貶されているような」
「言ったでしょう、謎ですよ、吉野さん。ミステリー小説はあまり嗜んでいない私ですが、こういう謎にはわくわくするものがあります」
だから。否、探偵の前置きとして、愛花はこの言葉を使う。
「さて──」
この写真の謎を、解いてみましょう、と。
「まず、この写真。僕には本当に覚えがないんだ」
「わかりました。証言1、吉野さんにはこの写真に覚えがない。こっちの影になっている少女についてはどうですか?」
「流石に……誰かを判断できるほど何かが写っているわけでもないし、そもそも僕、そんなに女の子の知り合いいないし。けど中学生なのはわかるよね。制服がさ」
「はい。背格好的に中一か中二でしょうね。私と同じ髪色なのもヒントかもしれません」
「いやぁ茶髪の子、別に珍しくないからなぁ」
墓前から離れて、ベンチで謎について語らう二人。
写真から出る情報はこれくらいだろう。あるいはこのカラオケに行って、来客者情報のデータを見せてもらう、という手段も取れなくはないが、流石にやり過ぎだ。何か事件が絡んでいる、とかでもないのだから。
「では次です。このアラームが設定された今日について。何か記念日とかでしたか?」
「うーん。僕の記憶している限りでは、そんなことはないと思う。というか誰かの誕生日とかだったら僕もスケジュールに入れているだろうし。……仲の良い人のだったら、覚えてるし」
「葉風さんとかはどうでしょうか」
「あー。聞いたことはないけど……どうだろう。というか、葉風さんや左門さんだったとして、愛花ちゃんがアラームを付けるほどのことかな」
「ふむ。では記念日の類ではなさそうですね」
「それより分かりやすいヒントから行こうよ。件名がヴェニスの商人だ。主要人物はバサーニオと正義漢のアントーニオ、悪徳高利貸しのシャイロック。富豪の娘ポーシャと結婚するために、バサーニオは先立つものとしてお金が必要になる。そこでバサーニオは友人であり商人であるアントーニオにお金を借りようとするけれど、アントーニオの財産も商船の中にあった。だけどアントーニオは友人の結婚なんていう大事に答えてあげたくて、悪名高いシャイロックにまでお金を借りに行って、それをバサーニオに貸す」
シェイクスピアの喜劇、ヴェニスの商人。
ヴェネツィアの貿易商、という意味を持つこの喜劇は、見方によれば悲劇ともなる読み応えのある作品だ。
「その時にシャイロックと交わした契約が、期日までにアントーニオがお金を返せなければ、アントーニオの肉1ポンドをシャイロックに渡す、というもの。殺人罪にも近いその契約ですが、アントーニオは十二分に稼いでいる貿易商であったために船さえ戻れば容易だと良い、契約を了承します。ですが、アントーニオの船は難破してしまい、シャイロックにお金を返せなくなりました。シャイロックはこれを喜びます。彼はアントーニオに個人的な恨みがあったからです」
「うん。で、そのサイドストーリーとして、そんな非道で悪名高い父親シャイロックを嫌って、彼の娘であるジェシカがロレンゾって人と駆け落ちしちゃうわけだけど、まぁこっちはいいか」
「その後バサーニオにもそこそこの苦難がありますが、結婚相手のポーシャによって導かれ、見事二人は結ばれます。ただ、彼は知りませんでした。アントーニオがお金を返すことができなくなっている事態を。そして交わされた非道な契約を」
だから、バサーニオはすぐにアントーニオの元へ向かう。いや、シャイロックのもとへ。ポーシャは富豪の娘だったから、その大金を用意することができたのだ。
しかし。
「シャイロックはバサーニオからお金を受け取りませんでした。理由はアントーニオが嫌いだから。アントーニオが死んでくれたらシャイロックの商売が上手くいく。だからバサーニオからお金を受け取ることはない、と。そして期日が過ぎ、シャイロックはアントーニオからお金が返されていないことを裁判所へ訴えます」
「でも、その裁判を担当したのは法学者に扮したポーシャだった。ポーシャはいろんなことを言ってシャイロックに慈悲の心を促すけれど、シャイロックは譲らない。だから仕方がないと、ポーシャはアントーニオの肉1ポンドを切り取ることを許す」
「ただし」
ただし。
「切り取っていいのは肉だけ。血は一滴たりとも流してはいけない。──屁理屈ですし、そもそも本物の裁判官でも法学者でもないポーシャの言葉で裁判が決まるのは些か指摘点に溢れる話ですが、結果としてシャイロックはアントーニオの肉を諦めます。血を流さずに肉を奪う方法なんて存在しませんから」
「うん。ただまぁ、シャイロックはお金自体はちゃんと貸していたし、アントーニオの船を故意に難破させたってわけでもない。偶然が重なった結果シャイロックにとって嬉しい結果になったから、正しい法のもと交わされた契約を履行しようとしただけ。なのに彼の行為は死罪とさえ咎められて、全財産没収、死罪を免れたいのなら改宗しろ、とまで言われる。シャイロックは確かに悪徳だったかもしれないけれど、彼はただ人間らしかっただけなのに──って話だね」
これがシェイクスピア作、ヴェニスの商人のあらましだ。本来であればもっといろいろな艱難辛苦があったけれど、概要はこれ。
喜劇なのはバサーニオ、アントーニオ、ポーシャの側だけで、シャイロックは財産も信仰も娘も失った。見方によって喜劇か悲劇か変わる、というのはこれを指す。
「では、To:ポーシャ、というのはどういうことでしょうか」
「宛先がポーシャってことだよね。とても頭のいい、機転を利かせて恋人も恋人の友人も救うポーシャ。アラームを設定した時の愛花ちゃんは、この場にポーシャがいることを予見してこの写真を送った、ってことかな」
「ポーシャは創作上の人物ですし、ヴェニスの商人自体16世紀の作品ですよ?」
「じゃあポーシャの役割を求めただけなんだよ。シャイロックからアントーニオを守るポーシャの役割を、このアラームを見るだろう誰かに求めた」
「誰か、とは?」
「そりゃ、まぁ愛花ちゃん自身なんじゃないかな。僕が一緒にいるとは限らないわけだし」
ふむ、と顎に手を当てる愛花。
謎。自身が設定した覚えのないアラーム。ヴェニスの商人。ポーシャ。シャイロック。そして写真。
「……逆に考えてみるのはアリかもね」
「逆ですか?」
「うん。これだけ意味深で、伝えたいことがありそうなのに、詳しい文章を書いていない。ということは、うーん、まぁ現実味のない話だけど、このアラームを設定した時の愛花ちゃんは
「成程。それなら辻褄が合います。正しくリマインダーということですね」
「そう。そして、この情報だけで辿り着けるとも思っていたということだよ。ああ──なら、話は簡単だ。僕たちポーシャは、奪われそうになっているこの少女を取り戻さなければならないんだ」
「この子が誰かもわからないのに、ですか?」
そう。そうだ。
そうだ、と。──誰かが、吉野ではない吉野が、愛花ではない愛花が。
忘れてしまった自分が、あの時手に入れた微かな力が背中を押す。
「この子がアントーニオだとしたら、どうだろう。この子はシャイロックに奪われてしまった。ポーシャは間に合わなかった」
「……それではアントーニオが死んでしまいます。1ポンドは453.6グラム。大した重さではないようにみえて、人体の一部ですから、致命傷ですよ」
「じゃあポーシャは間に合ったのかもしれない。同じことをしたんじゃないかな。つまり、この子を奪おうとするシャイロックに対して、一滴でも血を流したら契約違反だ、って言ったんだ」
「では、それを仮定としましょうか。この場合ヒントになるのは私達がこの少女を覚えていない、ということでしょう。それは言い方を変えれば、
忘れられてしまった。
誰からの記憶からも消えてしまった。
この、吉野と共に映っている顔の見えない少女は、いないことになってしまった。
「であれば、契約違反を指摘するのは簡単ですね」
「……そう? 僕には思いつかなかったけど」
「ポーシャは屁理屈の天才です。だから同じ手段でいいんです。肉を切り落とすのはいいけれど、血を流してはならないように」
愛花は一度言葉を切って。
空に向かって、ソレを吐き出す。探偵としての答えを。
「
だってそうでしょう?
愛花は吉野に笑いかける。吉野も意図を察して、彼女の目を見た。
「私達は高利貸しと契約をしていませんから、私達の記憶、というものを奪う権利はシャイロックにないんです。私達の記憶に欠落を生じさせたというのなら、それは契約違反というものでしょう。そんな裁判は間違っています。法のもと、正しい結果を生じさせなければならない」
「僕たちの記憶は僕たちのもの。この子のものでも、高利貸しシャイロックのものでも、裁判所のものでもない。だから」
「はい。だから」
蝶が──。
春の予感を告げるには、まだ少しばかり早い蝶が。
舞う。
赤く、儚く舞って。けれど絶園の果実を思わせるようなおどろおどろしさの無いその蝶は、舞って舞って羽ばたいて嵐を起こして。
「返してください。この契約は、根本から覆されるべきものです」
そこに──少女を一人、降ろす。
栗色の髪の、愛花をそのまま幼くしたかのような少女。酷く歪んだその顔は、今にも泣きだしそうで。
「おかえりなさい」
翔花。
こうして世界に本当の日常が戻る。
はじまりの樹は絶園の魔法使いによって消滅させられ、絶園の魔法使いもいなくなった。けれど、絶園の魔法使いが消滅することはない。あらゆる人々の記憶の欠落。それを埋め合わせる手段を持たない理は、彼女の消滅を無かったことにするしかなかったのだ。
はじまりの樹はもうない。絶園の樹ももうない。魔法も不合理も不条理も、存在しない。
大歓声のように鳴りやまない着信音に一切手を付けず、姉の腕の中で感情を露わにする少女。
二人を見て、吉野は思う。
いや、言う。
「愛花ちゃん、できれば僕一筋で、この先も迷わないでいてくれると嬉しいんだけどなぁ」
「──ダメ。こうなった以上、二人が完全に成熟するまで私が監視し続ける。爛れた関係は許さない。私にはまだ少しばかりの未来視の力が残っているから、ギリギリまで二人を見続ける。でも」
「別に爛れた関係とかは望んでないけど……」
「それが見えなくなったら、今度は私の目で二人を見ているから。──今度こそ、何のしがらみも無く、何の憂いも無く……愛しあって、幸せになってね、二人とも」
溜め息は双方からだった。
まだ蚊帳の外でいるつもりの少女に。
「もう、貴女も幸せになるの。わかってる?」
「翔花ちゃんだって幸せになっていいんだよ。だってこれは」
ヴェニスの。
いいや、絶園の商人は──喜劇なんだから。
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