絶園の商人 作:ポーシャ
手応えはあった。
私を貫くはじまりの樹の根から、急速に力が失われて行くのが分かる。ただ、トカゲの尻尾切りよろしく、本体に手を伸ばさんとして──断たれたのを知覚した。
「どうにか……収まった、か」
「上出来だ、はじまりの姫宮」
「っ、そうだ、そんなことを言っている場合では」
立ち上がり、自らを貫いていた樹の根を抜く。
大量の血液や臓器、骨片のついたそれは見ていて気分の良いものではないけれど、確かに私の中から排出された。
「お前は……」
「何を驚いている、はじまりの姫宮。お前とて手足の一本や二本もがれた程度で死にはしないだろう。同じことだ」
もう誤認の、関係性の絶縁を行う魔法を使うまでもない。
声も顔も不破翔花のまま、鎖部葉風に向き直る。
「翔花!」
けれど、声を発したのは鎖部葉風ではなく、真広の方だった。
鎖部左門の球体結界の中から、その壁を叩いて私の名を呼ぶ。
「おい、おっさん! 早くこの結界を解け! 脅威は去ったんだろ!?」
「咎めてやるな、不破真広。限界を超えた魔法の行使に気を失っている。元よりはじまりの樹由来の魔法である鎖部の魔法。それを用いてはじまりの樹の猛攻を凌いだことは称賛されこそすれど、責められることではない」
「翔花……」
「翔花ちゃん、じゃ……ない、のかな、君は」
「この肉体は不破翔花のものだ。それは間違いない。──だが私はジェシカだ」
腹部から胸部にかけて開いた大穴を修復していく。
鎖部の魔法にできて絶園の魔法にできぬこと無し。どちらも由来は同じなのだから。
「絶園の……ジェシカ。お前の目的はなんだ」
「はじまりの樹の消滅だ、鎖部葉風。流石にもう理解しただろう。はじまりの樹は必ずしもお前の制御下にあるわけではなく、姫宮たるお前の言うことを聞かないこともあるのだと。そして──鎖部左門の言う通り、この世界をリセットしにかかるのははじまりの樹の方であると」
結界を張る。
不可視と防御の結界。それは絶園の樹に対して、だ。鎖部の魔法よりも堅固なそれは、一瞬赤い光を纏い、そして外部から見えなくなる。
「それでもまだ疑うのなら、富士山麓から離れて確認すればいい。世界各地は今大混乱だ。なんせはじまりの樹が地中から突き出て、短い時間だったとはいえ高度な文明の産物を食い荒らしたのだから」
「……おい、葉風。そのクソどうでもいい問答は後にしろ。……答えろ、絶園の魔法使い」
「なんだ、不破真広」
「どうすれば翔花を連れ戻せる。どうすればテメェをぶち殺せる。──今、お前の頭蓋を吹き飛ばしたら、翔花は戻るのか」
「さて、どうだろうな。やってみるか?」
「……ッ、上」
「代わってください、真広」
上等だ、と言いかけた真広の肩を引っ張って、今度は愛花が前に出てくる。
「ジェシカさん。質問します。対価を要求して構いませんので」
「ああ、なんだ、不破愛花」
「はじまりの樹の消滅がここで適わない、ということは、正直分かっていました。はじまりの樹が絶園の樹の近くにコアを露出させるはずがないので。ただ仮に、今後はじまりの樹のコアを見つけ出し、消滅させることが叶った場合──ジェシカさんはどうなるのでしょうか?」
「どうなる、とは?」
「その身体は翔花のものです。貴女の認めた通り。あなたは翔花を契約書にして絶園の樹から力を借り受けていると言っていました。これらの事実は矛盾しません。つまるところ、ジェシカさんという人物は私の血縁者である翔花の身体を媒介に絶園の力を揮っている。翔花に宿ることで、翔花の身体を操ることで、絶園の魔法を使っています」
「そうだな。その解釈で合っている」
「ではジェシカさん。あなたの元の身体はどこにあるのでしょうか。はじまりの樹が消滅した場合、絶園の力も消えてなくなるわけですが……その時、ジェシカさんはどこへ行くのでしょうか」
……。
これは心配、じゃないな。そうじゃないことくらいわかっている。
「成程。絶園の力と共に私が消え、不破翔花がお前たちの元に戻って来たとして──私に復讐ができない。だから困る。そういう顔だな」
「ええ、そうです。だって不合理じゃないですか。私達の妹を攫い、勝手に使って、事を終えたら死に逃げる。そんな勝手が許されると本気で思っていますか?」
「無論だ。はじまりの樹消滅のためには致し方のないことだった」
目を細める愛花。
今にも爆発しそうな真広。
そして──酷く冷静な、吉野。
「そうですか」
「そうだ」
「愛花。話は終わったか? んじゃとっととこの結界ぶち破って、絶園の魔法使いをぶちのめすぞ」
「マヒロ、それは無理です。今のジェシカさんに攻撃を仕掛ければ、翔花が傷つきます。翔花が傷ついた状態で仮にジェシカさんが消えた場合、その傷は治癒されることなく残ります。残念ですが、絶園の魔法は他者の治癒に向いていないのです。ただ死に瀕するような傷を治すとあれば、鎖部の魔法ももっと大仰な供物を欲するはず。そして──勘違いでなければ、はじまりの樹は私と翔花を執拗に狙って来ていました。鎖部の魔法が私達に対してはそもそも発動しない、という可能性すらあります」
「絶園の力の元宿主と現宿主。どちらもはじまりの樹にとっては蛇蝎だろうな」
吉野が。
吉野が、ずっとずっと冷静だ。何を考えている?
初めて会った時も思ったことだけど、この三人の中で一番怖いのは吉野だ。この単なる少年が、感情を抑えきる術を知っている少年こそが、一番のブラックボックス。はじまりの樹よりも強い加護に守られた少年。
その吉野が──口を開く。
「未来視」
ポツりと呟かれた言葉は、そんなに大きな声ではなかったのに、波紋のように響き渡る。
「ジェシカさんは、未来が見える……んですよね」
「先ほどの不破愛花の対価をここで使おう。黙秘する」
「ええ、構いません。これは僕の整理に過ぎない。……あなたには未来が見えている。あなたが愛花ちゃんから絶園の力を奪おうと思ったのは、多分……愛花ちゃんがはじまりの樹消滅の使命を遂行できない未来が見えたから、なんじゃないですか?」
中らずと雖も遠からず、か。
「そして……世界ははじまりの樹によってリセットされた。愛花ちゃんが失敗して、葉風さんの制御も受け付けなくなって、この世界は崩壊の途を辿る結果になった。その未来が見えたから、ジェシカさん、あなたは愛花ちゃんから力を奪った。そのために翔花ちゃんを使った」
「仮にそうだとして、なんだ、滝川吉野。私に同情でもしてくれるのか?」
「何故ですか? 還るべき肉体を失っているような発言をしていたあなただ。相当な無理を通して絶園の魔法使いになったんじゃないんですか? なぜ、そんな無理をしたんですか? 愛花ちゃんのように幼少から絶園の使命を理解していたというわけでもないのに」
「近い将来、世界が破滅すると知っていて、それをさせないように動く。何かおかしなことがあるか?」
「貴女へのメリットが無さすぎる」
「だな。吉野の言う通りだ、ジェシカ。お前の言動がまるっきり事実だとしたら、滅私が過ぎる。献身的すぎる。その手段こそ褒められた行為ではないし、真広や愛花にとって到底許すことのできないものだったとしても、未来存続のために自身の存在を支払うなどあり得ん! その未来にお前自身がいなければ何の意味もないではないか!」
ああ。
あまりにも簡単な話過ぎて、つい笑ってしまいそうになる。
「ただ、受け入れられなかった。だからやった」
未来存続のためなんかではないし、滅私や献身精神から来るものではないけれど。
ただ受け入れられなかっただけだ。
愛花の妹となり、愛花の死にゆく運命が、ただ、受け入れられなかった。だからやった。
──たとえその最後に、無理を通したツケが待っているのだとしても。
「はじまりの姫宮」
「鎖部葉風だ。私がジェシカとそう呼んでやっているのだから、お前も名で呼べ」
「鎖部葉風。気を抜くな。いつまた、はじまりの樹が暴威を揮うかわからない。私は世界各地を巡り、はじまりの樹の根を消滅させて回る。そうしてやればいずれ、はじまりの樹は本気を出すはずだ」
「本気……」
「そこがねらい目だ。本気。あるいは本体。それが露出した場所がどこであれ、私はそれに急行し、必ずやこれを消滅させてみせる。だが」
愛花を見る。
……私は良い。絶園の力がある。
だけど仮に、私が世界各地の根を破壊し続けたとして……愛花は。
「"いざという時は翔花ではなく愛花を優先する"。……それがその肉体、俺達の妹の翔花との誓いだ」
「そうか」
「だから、お前の中で眠ってる翔花に伝えておけ。愛花は俺達が必ず守る。守り通す」
「そうしてくれると助かるな。不破翔花と絶園の樹の関係性は断たれたわけではない。お前達に何かあれば、なんでもなく、普通に、絶園の樹が狂乱状態へと移行するだろう。そうなったらそうなったではじまりの樹との全面戦争が見込めるが──」
「鎖部一族の代表として、責任をもって私が彼らを守る。だからジェシカ、一つだけ頼まれてくれ」
「なんだ」
「私には、今でもわからん。はじまりの樹が何を考えているのか。私に何をさせようとしているのか。だが、お前には何かが見えている。何かがわかっている。今はそれだけでいい。──ジェシカ。私は真広との契約により、なんとかしてお前と翔花を分離させ、お前を真広の前に引きずり出し、コイツの復讐を遂げさせてやらねばならん。だから」
「頼まれるまでもない。世界を救うのは私の使命だ。お前こそ余計なことを考えるなよ、鎖部葉風」
背を向ける。
これからまた、しばらく会えなくなる。
言い残すことはあるだろうか。
「最後に一つ、いいですか?」
「なんだ、不破愛花」
「目的が合致した以上、私達はもう敵ではない、という認識で良いのですよね」
「愛花。違うぞ。コイツは翔花の誘拐犯だ」
「ええ、それはわかっていますよ、真広。しかし敵の敵は味方というように、少なくともはじまりの樹に付いての事柄だけは、共闘関係を結べると思うんです」
「……それは、そうだが」
「なら、行動を共にしませんか?」
一瞬。
空気が凍った……というか、何を言われているのか理解できなかった。
今さっき、私は、世界各地のはじまりの樹の根を消滅させてくると言ったはずなんだけど。
「確かに、いいアイデアだね、愛花ちゃん」
「……何を」
「これは推理でもなんでもない直感ですけど、はじまりの樹の本体って、日本の近くにあるんじゃないですか? 絶園の樹がそうであったように。そうでないと、双方の樹が互いにダメージを負って眠りに就いた、という逸話の説明がつかないと思うんです。はじまりの樹と絶園の樹は互いが視認し合えるくらいの距離にあって、今もなお互いを睨み合っている。そう考えると、世界各地を巡るより日本にあるはじまりの樹を消滅させて回っていった方が、本体の発見も容易になる」
「確かに……言われてみれば、そうかもしれん。何故ならはじまりの姫宮である私が日本にいる。根拠として薄いのは重々承知だが、はじまりの樹の加護を受けた一族が海外にいると聞いたことはないし、自身の配下たる鎖部一族を自身の傍に置かない理由がない」
そんなの後付けだ。
理由付けは、絶対に、確実に、どうでもいいものを繋ぎ合わせている。愛花はそういうことを平気でしてくる。
これは。
これは。
「私、ジェシカさんとお友達になりたいんです」
「愛花!」
「いいじゃないですか、マヒロ。見た目は翔花ですし。それに、マヒロとしてもジェシカさんがこのまま行方を晦ませる、などしてきたら困るでしょう? はじまりの樹の消滅が使命だ、と口癖のように言っている彼女ですが、それが嘘かどうかなんて私達にはわかりませんし、未来視のことだって俄かには信じがたい。元絶園の魔法使いとしては消滅が使命であることへの納得はできますが、そもそもがそうではないジェシカさんの言い分は少しばかり違和感を残します」
「……だから、手元に置く、と。それは……合理的だな」
「最後に殺すのだとしても、消えていなくなるのだとしても、私はジェシカさんと思い出を作りたいと思っています。未練さえ残ればジェシカさんも消えずに残り、私達の復讐が完遂されるかもしれませんし」
──バレている?
姉愛花は。
私が、ジェシカ、なんて存在じゃなく──本物の翔花だと。
「……勝手にしろ。俺は、ダメだ。コイツが絶園の魔法使いだってわかってるだけで、ぶち殺したくて仕方なくなる。……俺は一旦距離を置く。だから、はじまりの樹の本体が出てくるまでは、お前の好きにしろ、愛花」
「ええ、マヒロに許可を取らずともそうします。ジェシカさんが近くにいれば、私達を守ることもできますし、ジェシカさん側からしても良い提案だと思うのですが、どうですか?」
考えろ。
仮にばれていたとして、だ。
私が愛花のそばにいて、どうする。吉野との時間が減るじゃないか。私は愛花に幸せになってほしい。私の存在で愛花の幸せが損なわれる未来は欲さない。どうする。どうすればいい。
私は。
「私もジェシカと共にいよう。そうすれば、仮にジェシカが裏切りを起こしたところで対処できる」
「えーっと、流石に男が僕一人だけになるのは……苦しいから、真広」
「無理だっつっただろ。この気ィ失ってるおっさんとか、鎖部一族の誰かとかに頼れよ」
「ご安心ください。吉野さんはヘタレですので、誰に手を出すこともありませんよ」
「それはそれで嫌な信頼だ……」
私、は。
*
絶園の力を使い、愛花に付けられていた盗聴器を破壊する。
「あら、何か付けられていましたか?」
「盗聴器と発信機だ。場所を変えるぞ」
「ええ、どこへでも連れて行ってください」
あの事件から少しばかりの時が過ぎた。
結局私は断り切れず、なし崩し的に彼らの日常へと加わった。けれど真広の態度の通り、誰もが私から距離を置いての日常だ。愛花と吉野以外、だけど。
また、いつもの誤認の魔法を用いて鎖部葉風と共に日本各地のはじまりの樹を消滅させて回ることも忘れていない。透明になるわけではなく誤認させる魔法なので、この死神のような姿も相俟ってか「はじまりの樹を死神から守る会」、「絶園の魔法使い討滅計画」など様々なアレソレが打ち立てられているけれど、当然意味を為していない。
ゼロ距離で88㎜口径をぶっ放されようとも平気なのだ。人間など文字通りの烏合の衆でしかなかった。
そんなある日、私は姉愛花に呼び出された。
二人だけでお話があります、と。
それが冒頭に繋がる。彼女に付けられていた機器を全て潰し、全く関係のない場所にまで高速移動。さらに周囲との情報を絶縁する結界を張って、一息。
「あなたは、翔花でしょう?」
開口一番が、それだった。
「……どうしてそう思う?」
「ジェシカさんが翔花なら、色々納得が行くから。翔花が頻りにあの二人に誓いを立てさせたがったことも、私に大義や使命を捨てて吉野さんを愛せ、なんて言ってきたことも。翔花の行動一つ一つが私を絶園の魔法使いだと知ってのそれで、今も適当な理由を付けて私を守ろうとしている。翔花の感情が絶園の樹とリンクしていて、翔花の感情が揺れるだけで絶園の樹が狂乱状態に陥る――なんて、嘘ばっかり。仮に本当だとしても、翔花の感情がそう簡単に不安定になるわけがない。あなたはもっともっと硬く、強い感情の持ち主だから」
ああ。
ああ。
敵わないな、と。そう思った。
「……せっかく先延ばしにしたのに、全部台無し。もう少しくらい待てなかったの? 姉さん」
再会はもっと後の予定だったのに。
こんなに早く、なんて。
「だって、消えるつもりだったでしょう?」
「……そんなことは」
「ある。あなたには多分、本当に未来視の類の力が備わっていて、けれど何かを代償にしている。いざという時翔花より私を優先する、なんて誓いは、そう遠くない未来で翔花か私かを選ばなければならない未来が訪れることを知っていたから。違う?」
「高校受験、ギリギリだったクセに。なんでそんなに察しがいいの、姉さん」
「姉だから。翔花のことはわかるの」
そうか。
……そうか。
「うん。消えるつもりだった。だから今まで私に関わる全ての記録を消してきた。写真もデータも、気付かれないように改竄を重ねてる」
「消える、というのは──本当に消える、ということなの?」
「そう。死ぬとかじゃなくて、消える。私という存在がいなかったことになる。はじまりの樹、絶園の樹と共に、不破翔花は元から存在しなかったことになる。それが絶園の樹と交わした契約。姉さんから絶園の力を奪うための代償」
あんな宣言一つで絶園の力が手に入るわけがない。
誓いを立てたのだ。あるいは質を入れた、でもいい。
肉一ポンドだけでは成立しなくなるから、存在自体を明け渡す契約をして、私は
シャイロックがはじまりの樹なのか絶園の樹なのかはわからないけれど。
「記憶からも、消えてしまうの?」
「そうなる。だから私との思い出づくりなんて無駄。そんなことをしている暇があったら、吉野と一緒にいた方が良い。真広とちゃんと和解した方が良い」
「別に喧嘩なんてしてないけれど」
「ううん、だったら自覚していないだけ。私……ジェシカに関する扱いを決めた時、真広は明らかに不満げだった。絶対納得していない。そういう罅は、放置しておくといずれ修復不可能なほどにまで深い溝となる。だから」
「それなら、翔花。あなたに一つ、呪いの言葉を授けましょう」
姉愛花は。
ゆっくりと私に近づいて──ハグをしてくる。
「私の幸せを願ってくれる、私の大事な妹。でもね、私の世界から貴女が損なわれても、私は幸せになれないの。吉野さんと添い遂げることができたとしても、真広との関係が修復されたとしても──貴女がいなかったら、意味がない」
「大丈夫。私が消えたら、私がいた、という事実自体を思い出せなくなる。姉さんの日常は欠けない」
「もう、わかって言っているでしょう? その未来を私は望まない、と言っているの」
知っている。
絶園の魔法使いでなくなったことで、人間味を取り戻しつつある姉愛花が、しっかりとした愛情を獲得し始めていることくらい。
吉野へ、のものだけではない。家族愛。姉妹愛。
愛情というものを急速に理解していっていることくらい、知っている。
でも。
「ごめん。ごめんね、姉さん。私は、私の視た未来を受け入れられない。だから、私は消える選択をする」
「……どうして、そこまで? はじまりの樹を消滅させなくても、また深いダメージを与えて眠りに就かせて、次代に任せることだってできるでしょ?」
「うん。多分できる。でも確実じゃない。──ごめん。ごめんなさい、姉さん。勝手に決めて、勝手にいなくなって。勝手にいなくなることを決めて。でも、これ以外の道が無い。だから、ごめんなさい」
「翔花……」
契約は変えられない。
私はもう全霊を絶縁の樹に預けている。今更心変わりしたところで、それは変わらない。
「あなたの視た未来は、そんなに酷かったの?」
「うん。受け入れられなかった」
「それは、私や吉野さん、マヒロが……死ぬ、みたいな未来?」
「うん。そう」
「そっか」
「私だって世界の命運なんかどうでもいい。私だって人類の存続なんてどうでもいい。でも、姉さんが私を愛してくれているように、私も姉さんを愛している。私はただ、その自覚が姉さんよりももっともっと早かったというだけ」
だから、消える。
もともと存在しなかった不破翔花を犠牲にして不破愛花を未来へ繋げられるのなら、そんなに嬉しいことはない。
ここは絶園。けれど、ハムレットでもテンペストでもなく、ヴェネツィアだ。
「誓いは要らない。約束もしないでいい。この事実を真広や吉野に話すかどうかは、姉さんに一任する。ただ、私はまたジェシカとして振る舞う。不破翔花という存在を覚えている人間は少ない方がいいから」
「それでも、お願い」
「なに?」
「私と一緒にいてほしいの。お友達のジェシカさんとしてでもいいから、一緒にお買い物へ行ったり、ピクニックに行ったり、散歩をしたり……したい」
「だから、それは吉野と」
「あなたが消えたあとからでも、吉野さんとは一緒にいられるもの。だから、ね?」
……。
珍しい。いや、これが……絶園から切り離された不破愛花、なのかな。
合理的じゃない。効率的じゃない。
消えると知っていながら、思い出に残らないと理解していながら、人生の貴重な一ページを私に使う、なんて。そのページが破り去られることを知った上で尚、なんて。
「"慈悲は強いられるべきものではない。恵みの雨のごとく、天よりこの世界に降り注ぐもの。そこには二重の祝福がある。与えるものも受けるものも、共にその祝福を得る"」
「ハムレット、引用しないんだ」
「前に、吉野さんに言われたの。こういう時悲劇から引用するのはやめようよ、って。だから、喜劇から。ハッピーエンドから、あなたに」
「……うん。わかった。あと少しの間だけど、よろしくね、姉さん。──だけど、まずは真広と仲直りして。吉野ともちゃんと向き合って。というか吉野と付き合ってることを真広に認めさせて。じゃないと安心できない」
「マヒロ、吉野さんを殴らないといいけれど」
「三発までなら大丈夫」
「……それもそうね。それじゃあ、翔花」
「ジェシカ。次にその名を呼ぶのは、最後の最後にしてほしい。今の私は、ジェシカだから」
最後の最後に、愛花の声が届く場所に私がいるとは思えないけれど。
それでも。
「姉さん。──再会できて、本当に嬉しかった。またね」
「ええ、また。……これからよろしくお願いしますね、ジェシカさん」
それは。
記録にも記憶にも残らない、姉妹の──。