【本編完結】諏訪子様になった、負け戦を回避したい   作:洩矢廻戦

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 バトルは当然書いてて楽しいんですが。
 どうやら最近は、こういった心情描写の方が自分は楽しいらしい。
 勿論、8章のメインディッシュはもこたんのVS〇〇による激"熱"バトルを予定なのでお楽しみに。


115話.恋焦がれ

 ――日が昇る。

 

「早太」

「はい」

 

 変わらず、晴天が頭上に広がっている。

 霧が晴れ、日光と月光の両方が失われた荒涼の時期はもう、過去の話。

 今更、かつての都の恐怖を口に出したところで、それの話題を続けることができるのは、もう十数人程か。

 それでも、あの日に出会ったものの名を。

 存在を、そして今に至るまでの全てを、決して忘れることはない。

 

「以前言った、鵺退治のことを覚えているか」

「…はい」

 

 ()()()伸びた髭を摩り。

 頼政は縁側に腰かけ、宙を見る。

 早太もまた、同じように隣に座り、そうして同じ方向へ視線を向けた。

 

 主と従者。

 時間の経過によって、変わってしまった二人の間柄。

 

 かつての幼馴染、話し方も背負うものも、全てが変わってしまったのだと。

 柄にもない一文をふと、早太は思考の海から拾ってしまった。

 

(いや、変わったのはむしろ自分か)

 

 かつての故郷。

 親同士が、権力者同士として話し合いをする。

 そんな背景なんて自分たちは知らずに、笑いあって野を駆けた。

 互いにとって、目の前のものが全て真実だった頃。

 

(この人は昔から、ずっと自分のままだ)

 

 背丈が大きく。

 肉が増え、骨が強く、戦による生傷を経て、『痛み』を知った精神に比例するように。

 灯に集う蛾の如く、彼に魅せられた数多の人間たちが、一つの勢力を築きあげていくのを、傍でずっと見てきた。

 

(歳はとるものではない………)

 

 世の『汚さ』なんて知らずに。

 ここからでも見える、辺りにある山の木々、まだ子供だった頃、あそこは桃源郷そのものだった。

 湧いて出た水、人の手なんて入っていないから、栄養不足で奇形となった果実も。

 今思えば、あれらを見つけた時の喜びは、子供時代のかけがえのない、貴重な『宝』と言えるものだったのだろう。

 

 大人になって、『未知』という名の喜びは消え。

 いつの日か、それは『既知』という名の『傍受』となって。

 

 何をするにも、既に知った過去の情景と照らし合わせる、ただの『作業』になる。

 思うに、子供と大人の違いとは、それをどれだけの時間できるか、なのだろう。

 

「………お前はいつも、俺に口うるさい」

「えぇ、分かっております」

「だが決して、お前は間違った道には進まない男だ」

 

 信頼の瞳。

 それを横から感じて、照れを覚える程、二人は浅い関係ではなかった。

 

「えぇ、そうですとも」

 

 早太は肯定した。

 

「俺は天才だの、強者だのと崇め奉られる時がある」

「見る目ないですよね、彼ら」

「……………そういうところだ。お前はずっと、変わらず『俺』を見ていてくれる」

 

 ――知っているからだ。

 

 一緒に野を駆けた時、あなたは転んで泣ける程に、情緒が豊かなこと。

 普段あまり喋らないのは、ただ話し相手に飢えているだけなこと。

 本当は遊ぶのが大好きで、今でも偶に、野を駆ける時があることを。

 

 それでも、次代を継ぐ男としての、責任を果たすことを決めた日に。

 大好きな遊び時間を捨てて。

 周りが想像する更に倍、自分の時間を使って、必死に弓を会得したものということも。

 全て。

 

「責任、期待。それに今更押しつぶされるヘマはしない、が。それでも稀に、気が滅入る時がある」

「……………」

「お前の存在が、俺を救ってくれたんだ」

「…どうも」

 

 あまりに直球な友愛。

 少し返答に困って、早太は上手い返しが思いつかず、その場しのぎに酒をちょびっと口に含んだ。

 辛い、舌全体に響く痛覚の波。

 それが、思わず胸から溢れそうになった何かを、押さえつける。

 目頭が熱くなった気がしたのは、きっとこれも、歳をとったせいだと思うことにして。

 

「俺が間違えて、雅美の家に送る筈だった、ある預かった『歌』を、楓に送ったことがあった」

「――?」

 

 突然、脈略のない新たな話題。

 何のことか、何の答えを期待してのものか――刹那の空白で考える。

 そうして、答えにたどり着く。

 

「…一体いつの話ですか、もう三十年は前でしょう?それ」

「まぁ聞け、とにかく俺は、間違えたんだ」

 

 雅美、楓。

 一体誰の事を話しているのか。そう思ったのは一瞬。

 すぐに、早太は埋もれた己の記憶の欠片の数々、そこから光る何かを拾い上げ、そして会話を途切れさせることなく、展開を広げた。

 あぁそうか、確か――

 まだ子供だった頃の、子供だからできた。

 

 そう、なんてことのない色恋話だ。

 

 今でこそ、権力という名の繋がりを求める『大人』と違って。

 純粋無垢に、綺麗な好意で繋がりを求める『子供』の差。

 今、その話をする意味。

 薄々とそれを、早太は感じ取った。

 

「不思議なものだ。一体誰に送ろうとして、そして誰に間違えて送ったのか。…女の名前は憶えているのに、肝心の『歌』を預かった男の名が思い出せん」

「まぁ、そうでしょう。…『その話』のことを考えれば、自然と頭から消しても仕方がない」

「本当に、今思えば申し訳のないことをした」

 

 好意を向ける相手の為に、一つの『歌』を作り上げる。

 胸のときめき、視界が色づき、世界が変わるかのような錯覚を含めて、全てを言葉に込めて。

 そうして作った『恋歌』を、きっと彼は伝えたかった。

 恋が実るか、実らないかは時の運。

 女の想いが、必ずしもこちらに向いてくれる訳でもない、それでも、彼は『歌』を伝えることを選んだのだろう。

 

 「どうかこれを、あの人に渡してほしい」と。

 

 そうして受け取ったものを、頼政は間違えた。

 子供だから仕方がない、それでもやはり、やるせない。

 そんな、酒の肴には適さない話。

 

「待ち合わせた場所に来た女は、彼が決して好いた女ではなかった。…それでも、女の方は違った」

「全く。今思えば笑えない話です、本当に子供か?と疑いたくなる有り様でした」

 

 三角関係、というやつである。

 男は雅美を好いていて、彼女の為に『歌』を作った。

 頼政は間違えて、それを楓の方に渡してしまった、そして肝心の楓自身が、男のことを好いていた。

 

 男からすれば、これほど理不尽な話はないだろう。

 女からしても、こんなに酷い話はないだろう。

 

 好いた女を待ち続け、いざ来たのは眼中に存在しない、別の誰か。

 好いていた男に呼ばれ、いざ来てみれば真実はこう。自分に向けられた好意が、全くの別人に向けられていたものだった。

 両者ともに救われぬ、あまりにもあんまりな話。

 

「……………結局、俺は二人から心無い言葉を浴びせられた」

「…」

 

 当然の話だ。

 それは早太も思うし、そして他ならぬ頼政もそう。

 こうして話に出すのは、実際には三回目であり、最後に話したのはもう六年以上前。

 彼の幼心に残り続けた、決して消えぬ後悔の一つなのだろう。

 男の名を忘れる程には摩耗したが、それでもきっと、こうして『間違えた』と思い出す程には。

 彼はこれからもずっと、永遠にこの苦みを味わい続けるのだろう。

 

「俺が悪いのは当然だ、それでもやはり、子供ながらに考えたんだ。『どうして直接伝えない?』と」

「……………」

「どうして俺が悪いんだ。『お前が俺に頼まなければ』、『それくらい自分で渡せば良かった』、『そうすればこんなことには』…たくさん不満が出た」

 

 仕方のないことだろう。

 たとえ、世の不条理や不幸を「そういうものだ」と割り切り、次に生かせる『大人』たちとは違う。

 間違いなく、その時の頼政は『子供』で、精神も未発達。

 どうして、何で自分がと、そう当たり散らすのも、決して悪ではない。むしろ『子供』として見れば、健全な精神の成長とも言えるだろう。

 

「だがな、今になって思うんだ」

 

 あれから、三十年以上。

 若く、水すら弾く肌は皴が増えて。

 白い絹のような肌は、黒く、硬くなっていった。

 肉体が成長し、最盛期を迎えた次の瞬間から、少しずつ終わりに向かう『老化』が始まる。

 頼政自身、とっくに肉体の最盛期と、『強さ』の全盛期は過去の話。

 

 世の全てに『未知』を見出せた眼。

 宛てもなく走ることに、違和感のない楽しみを覚えた幼年期。

 

 魂の輝き、精神の成長を重ね続けたことで、ようやく一つの答えを見いだせた。

 

「ままならぬもの。思いは、ままならないんだよ」

 

 どうして、ヒトはこうして迷うのか。

 どうしてあの時、彼らは自分の好意を伝えられなかったのか。

 否。自分を介して伝える勇気はあったのに、どうして直接の好意だけは無理だったのか。

 

 ふと、頭に浮かんでは、後悔して。

 罪悪感で胸が痛み、そうしてもう一度考える。

 

 何度も何度も、漂う記憶の欠片の中から。

 ある意味真理にして、ある意味要領を得ない、たった一つの…――

 

「早太」

 

 もう一度。

 頼政はまるで、罪を告白する信徒のように。

 

「俺は、お前の『信頼』という名の沈黙に甘えていた」

「……………」

「お前は俺を、心の底から信じてくれている。だからこそ、今日に至るまでずっと、俺から詳しい事情を聞こうとはしなかった」

「…………」

 

 静かに、早太は言葉の続きを待つ。

 

「きっと、彼らも同じ思いだったんだろう」

 

 人間の『思い』ではなく『想い』とは。

 あの日、彼らが臆したものは、きっと――拒否されること。

 自分が作った、自分が内心で築きあげた、この感情を吐露した時の、相手の顔が変わる時。

 

 それがもしも――もしも、拒否の感情で染まってしまったら。

 今まで自分が抱いたものが、悪いものだと思えてしまうから。

 そんな、単純明快に恐れる『もしも』。

 

 だからあの日、彼は『歌』を渡して欲しいと、それしか要求しなかった。

 『歌』の返答を求めることもせず、彼は『歌』を相手に捧げることだけを選んだ。

 待ち合わせた場所で、彼はずっと、信じて待つ道を選んだ。

 もしも拒否されたとしても、そこで、ただ時間を無駄に消費して、そうして、諦めて去ればいいだけなのだから。

 

「きっと、彼らが怒った本当の理由は――『自分の気持ち』を、目に見える形に俺がしてしまったから」

 

 ――なら自分は?

 頼政は考える。

 ずっと、それこそ一目見た時から。

 弓と矢を手に、あの霧が立ち上る夜の闇で。

 全力を振り絞り、そうして相対した敵を――

 

「……………俺の駄目な所だ」

「……頼政殿」

「今こうして、ようやく本心を打ち明ける決心をしたというのに、こうも、遠回りをしてしまうな」

「それでいいではありませんか」

 

 早太はもう、まともに残っていない器の中の酒を、一気に喉の奥に流し込んだ。

 

「主と従者の二人きり。所詮は男同士のくだらぬ…戯言の交わし合いです」

「……………」

「着飾った言葉で彩って、それでいいではありませんか?遠回りを続けて、この時間を、無駄に過ごすのもまた一興」

「…………そうだな」

「えぇ、そうです」

 

 頼政は笑った。

 そして、深く、息を吸って。

 

「……………そうだな」

 

 そこから、早太は静かに待った。

 口の形は、これから発する秘められた内心。その第一節を開始しようと、歪に固まっている。

 頼政はそこから、何度も同じことを繰り返した。

 何もない虚空を見上げては、そして己の手元に視線を落して。

 再び、虚空を見上げては、また己の手元を見る。

 

 数十秒。

 言葉が彼の口から発せられることはなく。

 

 掠れた、声にならぬ空気のみが、早太の耳に入り込んだ。

 

「…………………………」

 

 ――日が昇る。

 それでも、待った。

 早太は静かに、頼政の方に耳を傾けつつも。

 しかし、己の目前に広がる数多の木々、それの枝一本一本を深く、広く見るように。

 決して、頼政を焦らせないように、自然体のまま待っていた。

 

 数分。

 

 ずっと、早太は無言のまま待った。

 そうしてとうとう、頼政は勇気を振り絞り、言う。

 

「……………………………………………………俺は」

 

 ようやく発せられた言葉。

 早太は反応を見せずに、静かに続きを待った。

 

「一人の女として、ぬえのことを好いている」

「あ、でしょうね」

 

 そして、笑った。

 彼からすれば一世一代の告白だったのだろうが、正直そんなことは今更だ。

 だってそうだろう、あまりにもわかり易すぎる。

 早太は続けて、困惑の表情を隠せない頼政を後目に、ケラケラと愉快そうに笑って。

 

「……………は?」

「クククッ…本当に今更ですね、あなたという人は?バレバレでしたよ、そんなこと」

「え、いや待て。お前俺が何を言ったのか…」

「だから、ぬえのことが好きなんでしょう?一目惚れしたんでしょう?あの日に」

「な、な…」

 

 どうやら本気で、自分の気持ちが悟られていないと思っていたらしい。

 そう、あまりにも、あまりにも彼の態度や視線は正直で、『覚妖怪』でなくとも簡単に分かってしまう。

 彼がぬえの手を引き、歩く時。

 会話を交わす時に、僅かに浮かぶ高揚の声色。

 視線。無感情だと、節穴の召使たちが評したその瞳が、ぬえを見る時にだけ――

 

「というか、あなたが妖怪を殺さず、ここに置くと言った時点で薄々察していました。確信に至ったのはやはり…」

「お前は……………」

 

 頼政は問う。

 

「お前は、何も思わないのか」

「はぁ?…どうでもいいです」

 

 彼ほどではなかったとしても。

 自分もそれなりに、戦う術は持っている。

 

「恐れを失い、平穏という名の『毒』を傍受している今のぬえは、もはや危険な妖怪ではない。それにあなたとの誓いを、彼女は律義に守っているでしょう?」

「……………いや、しかし…」

「それともなんです?『人間が妖怪に恋をするのがおかしい』と、そう言って欲しかったんですか?」

「…………………………」

 

 自分で言っておいて、早太は『普通』は、こう思うのが当然と断じる。

 人間と妖怪、ヒトとアヤカシ。人外という名の脅威の牙。

 子供でも分かる簡単なこと、それは決して、妖怪に近づいてはいけない、心など通わせられないというもの。

 狐や狸のような例外こそあれど、そもそも彼らの根本は『動物』という名の魂の核であって、真に恐怖のみで抽出された、『鵺』や『鬼』のような生き物ではない。

 封獣ぬえは当然、後者の妖怪。

 本当の意味で、きっと彼女と寄り添うことなど叶わない。

 ヒトとアヤカシ、その寿命という名の高すぎる壁。

 逆に言えば、早太が懸念しているのは()()()()()()()

 

「…自分で言っておいて、俺は俺が分からなくなってきたんだ」

「珍しい、私の言葉を素直に受け入れないと?」

「それが難しいことくらい、分かってるだろうに」

 

 頼政は、また虚空を見る。

 まるで宙に浮かぶ、見えない文字を辿るかのように、落ち着きのない視線。

 続けて。

 

「俺は異端だ。覆しようのない事実だろう」

「ですね、正直ぬえの件が露呈したら死にますよ、私たち。おー怖い」

「…お前本当にそう思ってるのか?」

「失礼な」

 

 どうせ、その時はその時だ。

 何も考えていない。は悪く言いすぎだが、実際頼政の指摘は間違ってるとは言えない。

 変わったもの。

 時間の経過で、妖怪は恐れを含めた力の強弱が変わるが、人間は違う。

 見た目は当然、精神の成長――老衰も含めて、自分たちは変わっていく。

 

「今更、死を恐れる年齢ではないでしょう」

 

 ――日が昇る。

 早太の零した言葉。

 それを頼政は、あえて拾い上げることをしなかった。

 

「…………………………」

 

 深く、息を吐いてから。

 

「そうだな」

 

 ――日が昇る

 今日この日、こうして二人きりになって、言葉を交わし合う。

 戦を終え、日々の作業を終え。

 ただ、呆然と時間を使い潰す幸せは、永遠には続かない。

 

「以前にも話した、諏訪でのことだ」

「………平家との話し合い、ですか?」

 

 もはや、妖怪退治は二の次となり。

 今の世では、人間同士の戦いが――即ち戦争が、より強い人々の恐怖を集めていた。

 

 それに今更、時代の変化を憂うつもりはない。

 

 早太にとって、所詮争いは争いであり、わざわざ口にして言及したくはないものだから。

 仮想は仮想のまま、現実は現実であった方がいい。

 妖怪という幻想は、幻想だからこその畏怖と、そして抗えぬ魅力が存在するのだ。

 なのに何が悲しくて、同じ人間同士の、何の面白味もない血と肉の爆ぜ合いを語らねばなるまい。

 

 自分は怪談は好きだが、争いの話(軍記物語)は嫌いなのだ。

 

 早太のそんな趣味嗜好を、表にする間もなく、頼政は。

 

「件の、棟梁となった彼に会った」

「――清盛殿か」

 

 『正四位下』。*1

 まだその立場を手にして、まだ間もない時期ではあるが、決して無視できない影響力を秘めた、平氏の新星とも呼べる存在である。

 『正四位下』は地方の行政、そして官職に従事する貴族や官人に振り分けられる事が多いと聞く。

 噂通りの存在であるなら、あの男ならこれをきっかけに、頼政に匹敵…あるいは超える『何か』になると危惧していた。

 だが。

 

「やつは()()…『鵺退治』の凱旋を、どうやら遠目から見ていたらしい。――諏訪で会った時に追及されたよ、『どうして偽の妖怪を?』とな」

「なっ――!?」

「彼の性格からして、これを弱味と見ることはしないだろう。だが…」

 

 ――()()

 人々の不安を終わらせる為に、『正体不明の種』で作った鵺の偽物。

 それを、彼は見破っていたというのか。

 

「人の心は、変わるものだ」

 

 ――()()()()()()()

 『正体不明の種』に惑わされぬ、選りすぐりの強者に分類される、『源頼政』に並ぶ逸材。

 あの『平清盛』はまだ、こちらに強い敵意を持っている訳ではない。

 杞憂。――そうであって欲しい、そんな思いはきっと、叶わないのだろう。

 

「きっと、『それ』を火種にして動く」

 

 あの、身の毛がよだつ戦場の気配。

 

「……また、戦争が始まるだろう」

 

 それを想起し、頼政は年甲斐もなく、身体を弱弱しく震わせた。

 

 血。

 自分の足元に広がる、おびただしい量の不浄。

 臓物を踏み、骨を踏み。

 

 そうして、まるで「お前は汚れているのだ」と、そう突き付けてくるような。

 あの、不快感しか与えぬ空気。

 

「ぬえは、どうするのです」

 

 早太は問うた。

 当然、それへの答えなど分かっていて。

 それでも尚、彼の口から直接、聞きたかった。

 

「…きっと、アイツは何も知らない」

 

 ぶつくさと口では文句を吐きつつ。

 荒事を立てず、自分の帰りをなんだかんだで待ち続ける、美しい黒髪。

 

 汚したくなかった。

 自分以外の誰にも、見せたくなかった。

 

 呆れた表情の中に、僅かにこちらに見せる綻んだ顔。

 警戒心が消え、自分たちの事を、僅かでも『信頼』してくれたと、そう確信できる眼も。

 

「十数年前から変わらない」

 

 ――日が昇る。

 すっかり白が混じり、衰えてきた己の身体。

 人間の身体、許された時間のことなんて、きっと彼女は分からないのだろう。

 毎日、毎週、毎年。

 ずっとずっと、彼女は変わらない容姿と声で。

 ――自分に対して、「帰ってきたの?」と、言葉を投げかける。

 

「……………女々しいな」

「えぇ」

 

 早太ももう、すっかりと歳をとった。

 光沢のあった髪も、肌も、見る影もなく。

 そんな自分の事も含めて、ぬえは特に気にすることなく、ずっと変わらずに、こちらの言葉に反応を見せる。

 

 ――あいつ、次はいつ帰ってくる?

 

 そう、屈託のない表情で。

 口ではそっけなく言いつつも、どこか再会を待ち望むような、甘い少女の声。

 

「今更、俺は死が恐ろしいものと思えてしまう」

 

 ――だが、遅すぎた。

 彼がぬえに与えた寵愛。

 時間と言葉、家族のような、友人のようなそれは確かに、封獣ぬえという存在に『心』を与えた。

 何十年もかけて、ようやく実った一途な恋。

 

 だが、あまりにも。

 

 あまりにも、それは遅すぎた――

 

「その言葉こそ、ぬえにかけるべきではありませんか?」

 

 早太は、相変わらず優柔不断で。

 仕方がないと、数十年前から変わらない、かつての親友にそう諭す。

 

「その言葉を、あの世に持っていくつもりで?」

「…………あぁ」

「彼女は変わった。あなたの根気強い行動と言葉で、間違いなく」

「………………あぁ」

「『それ』も、許される筈です」

「いいや。今更、彼女の『心』に甘えるなど」

 

 それでも、なお。

 頼政は己の心を、最後まで欺くことを選んだ。

 

「『それ』は、彼女にとって呪いになる」

 

 頼政は自嘲する。

 

 忘れないで欲しい。

 悲しんで欲しい。

 

 自分という男の名を、生き様を、永遠を生きる彼女の記憶の中に。

 そんな、女々しく情けない自分が、自分で信じられなかった。

 

「俺は、あいつの笑う顔が好きだ」

 

 だからこそ、これは『最後』まで閉まっておく。

 

「手癖で作った料理を食べる、陽の当たる洗濯物を眺めて、西日の中をただ歩く」

 

 そんな『当たり前』を、彼女が生きてくれるなら。

 

「そこに、俺という異物は必要ない」

「………本当、あなたという人は」

 

 ――日が昇る。

 治承四年。

 人が『正体不明』ではなく、同じ人を恐れるようになった時。

*1
平安時代の官位制度、その位階の一つ。全部で『正一位』から『従八位下』まであり、正四位下はその中の中間。




 久しぶりに第1部を読み直していたんですが。
 自分で書いておいて「あれこの作品面白いな?」って自画自賛して、結果一時間くらい時間が溶けました(キモイ)。

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