【本編完結】諏訪子様になった、負け戦を回避したい 作:洩矢廻戦
作者はそもそも応募自体をしてないので杉田智和ルートです。
人間の権力同士のぶつかり合い。
歪み、争いによる日々が当然となり、人々の畏怖は分散する。
暗闇を恐れるよりもまず、人間は目前の敵を恐れるようになった。
御伽噺に出てくる物の怪、それを恐れるよりも、戦争の話に身の毛がよだつようになった。
妖を屠る筈だった陰陽の術は、いつしか味方同士である筈の、人間を相手に向けられるようになった。
いつからだろう。
対妖怪に特化した『霊力』、かつて巫女や選りすぐりの陰陽師のみが扱えた、そんな神聖な力ではなく。
人が人を傷つける為に、より強く効果を発揮する『呪力』が、道具に込められるようになったのは。
すぐ傍にいた筈の『彼ら』は、もう眼中に映ることはない。
妖怪という存在は、もう人間たちにとってそう重要ではなくなった。
己の命、財産を守る為。
とにかく一秒でも長く、この戦火に塗れた時代を生き抜く為に、なりふりなど構ってはいられなくなった。
『平家にあらずんば人に非ず』。
後に二つの『乱』を経て。
己の名を冠する政権を台頭させた男。
平清盛による、間違いなく彼を中心に世が『廻る』時代。
人は後に、この平氏の全盛を――『平家物語』と
平家の圧力を前に、不遇を噛み締めるしか、彼に道はなかった。
次期天皇、そんな期待の視線や風評は影も形もなく。
栄華を取りこぼし、それを皮切りに、時代の流れは強く変わる。
その時、彼に牙を剥いたのもやはり、平氏の実力者――平清盛。
政争が始まり、彼らに土地を奪われ。
皇位も望みもない、経済の基盤とも呼べる土地すらもなく。
惨めに成り下がる自分とは対極的に、栄華を手にし続ける清盛。
もはや、以仁王の選択は決まっていた。
挙兵である。
単独での勝率、希望など、語るに値しない。
無抵抗にやられ、このまま惨めに、人として『死んで』いく位ならせめて。
そんな、男として、落ちぶれたとはいえ元皇位の資格すら持っていた、自分自身の『尊厳』の為に。
彼は戦う道を選び、そして――協力者を求めるに至る。
敵である清盛。
それを誰よりも知り、そして他ならぬ、平氏からも強い信頼があった者。
――それこそ、時の人であった、『鵺退治』の源頼政。
平氏に対し、敵意と不満を抱く者は、決して彼だけでなかったのも大きい。
各地の目代*1といった、清盛に対し強い不満を抱いた者たちを集め。
頼政の協力により、平家の監視の目を潜り、彼らは兵を募らせた。
――平清盛の耳に、彼らの反逆の情報が入る。
窮地に追い込まれた以仁王、園城寺に逃げ込む彼。
『王』を逃がす為に、頼政は戦った――
かつて、「天を射る程の」と畏怖された時。
一つ向こうの山の木々すら、くっきりと見える程に澄んだ視界が、今では半分も見えていない。
腕も、足も何もかも、いざ頭で「こう動こう」と念じても、実際にその通りに動くのは、数秒遅れてだ。
錆びつき、まともに機能しなくなった己の身体。
かつて天下無双を体現し、世の羨望と畏怖を集めた努力の結晶。
それは、こうも脆いものだったのか――?
「…ままならないな」
誰に聞かせる訳でもなく、そう呟いた。
時の流れという、人間が決して逃れることのできない運命を、詩人を気取って憂いても、『ここ』では一銭の価値もない。
足元に流れるのは、桃源郷を思わせる美しい河川ではなく、血の河。
季節という名の癒しを、人間の耳を通して与える動物たちの声は、今や四方八方から響く、誰かの怒号によってかき消されている。
悲鳴、血が噴き出す音と、臓物が地面を汚す音。
この場所が、否が応でも戦場であると、そう強く突き付けてくる。
かつて青年期に、自分が経験した地獄絵図。
子供も、大人も老人も例外なく、等しく尊い筈の命が無下に、切り捨てられる悪夢。
二度と味わいたくないと、起こって欲しくないと思っていた筈だ。
だからこそ、自分は封獣ぬえという少女の命を救う際に、過去の悪夢を理由に仕立て上げ――
「悪因悪果よの」
政争の為。
世の為、彼の為と己を偽り、結局は決して少なくはない、数多の人間が犠牲になる戦争。
それへの参加権を、道を、自分で選んで手繰り寄せたのだから。
結局、自分の青い覚悟なんて、その程度だったのだ。
「世の中を変える」、「このままだといけない」なんて、曖昧な己の『善悪』を指針にして、争いの為にまた弓矢を手にした。
その時点で、自分はとっくに死んでいた。
とっくにもう、一人の人間として負けていた。
自分を曲げて、戦火に身を投じた自業自得。
かつて誇りすら抱いていた筈の、己の人生の化身とも呼べる武具。
生涯にわたって背負い続けた弓矢はもう、酷使による摩耗で使い物にならない。
足元に転がる木の残骸。それがかつての相棒だと受け入れるのには、そう時間は必要なかった。
(もう、俺は終わりか…)
――彼は、以仁王は逃げ切れたのだろうか?
そう呆然と、星も何も映らない空を見上げて、頼政は考える。
園城寺程の場所であれば、きっと一方的に嬲り殺されるようなことはない。
だが、だからといってここから『勝ち』を狙えるかどうか、それを問われれば『否』だ。
「…足も動かん」
詰み。
腕もまともに力が入らず。
加齢による体力の低下を含めても尚、戦場で過敏に『敵意』を察知し続けたことによる、精神の疲労も含めて。
精神論など関係ない、正真正銘の『終わり』が近づいてきたのだと、分かる。
「……………………」
痛みで震える声で、問う。
「…やっぱり、最後はお前が傍にいてくれるか」
足音がする。
四方八方に敵が跋扈するこの場所で、動けない人間にわざわざ、『慈悲』をかけてくれる者はいない。
かける必要もない。この争いは、そうやっていくつもの命を削り、奪い。
他ならぬ、自分自身が行ってきたものだったから。
だからこそ、理解する。
こうして自分に対し、何かを確認するような。
「あぁ…」と、憐憫の音の乗った息が聞こえて。
「早太」
「……なんて、お労しい――」
数十年以上の付き合いの、親友。
自分とは違い、彼の身体に傷はなく、服にも当然、血の汚れも付着していない。
老兵の自分とも違って、彼は戦う術をもう持っていないからこそ。
先に、園城寺に向かって走っていた筈なのに。
「お前というやつは、どうして戻ってきた…?」
「………………」
死ぬのは怖い。
痛いのも、辛いのもこれ以上は嫌だ。なんて。
そんな赤子でも分かる簡単なことを、今更思う自分の情けなさに。
もう一つ、そんな自分を今でも、こうして慕ってくれている彼の存在に、頼政は笑った。
「本当にどうしようもない。…本当に、どうしようも…」
それでも、嬉しい気持ちが隠せない。
人間が死ぬ時、それは何時いかなる場所であろうとも、等しく『孤独』であると、肝に銘じていた筈だった。
死ぬ。その時に誰が傍にいようと、それは何の価値もないものだと、先人の教訓から学んでいた筈だった。
筈、だった。
「お前がいてくれて、本当に良かった…………」
早太は、泣きそうな顔をしていた。
いや、もう本当はとっくに泣いて、湧きだす感情の濁流を、受け止め切れていないのだろう。
戦火の灯に照らされて、彼の頬に走る、涙の乾いた跡が、その事実を証明する。
「…………」
強く歯を食いしばって。
早太は、それでも、震える喉を意思の力で押さえつけてから。
言った。
「それは、お互い様
――嗚呼、懐かしい。
こうして彼が、自分に話しかけてくれる事実。
二人の老人は、互いに涙を滲ませて、座り込む。
それこそ、かつての少年期のように。
「あんたの我儘には苦労した、本当に苦労した」
「ああ」
「馬鹿なことをしたよ、本当に昔から変わってないな。…いっそのこと、三人で逃げればよかったんだ」
「…あぁ、そうだな早太」
頼政と早太、そして…ぬえ。
人間二人と、妖怪が一匹。
時代が、人々の常識が許さない異種、異類の交友関係。
だが、幸せだった。
言葉にできない、文章に表すこともない。
ただ帰る、そうして彼女が、面倒臭そうに「おかえり」と言って、三人で日の光に当たる。
その日にあった事だとか、明日の予定だとか。
そんな『何か』なんていらなかった。
ただ、お前がいる。
ただ自分と、お前たちがいる。
その事実だけで、身の丈に充分見合ったものだと。
――これが、「幸せな時間なんだ」と、そう反芻して。
「早太」
「…………」
――それだけでよかったんだ。
皇位も、政争も。
人間の――『大人』のしがらみなんて忘れて、全てを捨てて。
『三人』で一緒に、もう一度生きてみたい。
そんな、『子供』の幻想への羨望を胸に。
「俺は結局、何がしたかったんだろうな」
「…………」
逃げて、逃げた癖に。
「言葉にできない、曖昧な動機で決心を裏切って、また戦争なんかに参加して…」
「…………」
「情けない、本当に。……自分が情けなくて仕方がないんだ」
足音が強く、周りから聞こえてくる。
兵士が兵士を追い、そして追いつかれた兵士はそのまま、追っていた兵士によって命を奪われる。
そんな一幕を、簡単に脳内で形成できるくらい現実の、凄惨な叫び声と血しぶきの音。
追われる者と、追う者。
どちらが優勢で、そして一体どちら側が、自分たちの陣営なのか…言葉にするまでもない。
こうして、会話を続けられる事自体が奇跡。
そして当然の話だが、奇跡とは、そう長く続いてくれるものではない。
簡単なこと、子供でも分かる簡単なこと。
「早太、逃げろ」
――即ち、別れの時間。
「…………」
頼政の膝には、既に矢が。
蓄積された疲労と、何より本人の精神がもう、限界を迎えてしまっている。
彼はもう、ここを一歩も動くことはできない。
「俺は、ここでいい」
短刀を取り出し。
彼は、視線を伏せてただ一言。
――それの意味は、すぐに分かった。
「お前は生きろ。介錯は別の者に任せる」
「…………そうか」
「早く行け。何が悲しくて、昔ながらの親友に、自分の腹を切る姿を見せねばならん」
「…………」
足音がする。
だがそれは、決して敵のものではなく、味方のもの。
別の者に、それ即ち、この男はこのまま、以前に話した『それ』を、本当にあの世にまで持って行くつもりなのだと。
自分に生きろと、この場から去れと。
そう、告げて――
「
なら、せめて。
友人として、そして部下として、この男の『思い』を汲んでやると。
早太は強く、決意を新たに、頼政にそれを渡す。
筆と、一枚の紙だった。
「…………早太」
頼政もまた、それの意味がすぐに分かった。
こちらに差し出される、筆と紙という、この場において、たった一つの目的にしか使わないそれら。
――何を、誰に向けて書くものかは、すぐに理解できた。
「もう時間がない、早く」
「駄目だ、『それ』は、絶対に――」
「――ッいい加減にしろ!!」
痛む身体が何だというのか。
自分より老け込んだ、哀れな老人が相手だとしても。
それでも、早太は襟元を強く握り、そして感情のままに、叫んだ。
「本当に後悔しない人間が!――そんな顔する筈がないだろうが!!」
「――――」
「もう一度だけ言ってやる。――さっさと書け、絶対に。俺がぬえに『それ』を届けてやる!!」
「――――――」
沈黙は、一瞬だった。
「…――。分かった」
そう言ってすぐに、頼政は筆と紙を手に。
傷口から流れる血を、墨汁の代わりに。
ゆっくりと、文字を刻む。
昔から、血と筆を使った『
だが早太はこれを、それらの『穢れ』た物とは違うと、そう確信した。
あれは、人間の本領。
ヒトがアヤカシに向ける、たった一つの純感情。
――あれこそ、正に。
「感謝する」
口ではああだこうだと言っておいて。
実際にはもう、書く文の内容は…彼女に向ける言葉は決まっていた。
「…早太」
たった一文。
だが彼の、頼政の『想い』全てが込められた結晶。
それを、早太はしっかりと受け取った。
「あぁ」
「…頼む」
「あぁ、託された」
他の仲間たちが、自分と同じく頼政の安否を問いに来た。
今度こそ、もう何も悔いを残さない頼政はきっと、彼らの前で、『終わらせる』つもりなのだろう。
早太は駆け出した。
「――」
親友。
「――――」
たった一人の、人生を共に過ごした親友。
それが、もう――
「――――――」
思わず、振り返りそうになる。
もう一度、もう少しだけ。
彼と、まだ話を――!
まだ、時間はある筈だと――!
「――ッ!ぅう…!」
だが、駄目だ。
苦渋の決断で、早太は振り向きそうになった己の顔を、より強い意志の力で矯正する。
もうこれ以上ここにいれば、平家の人間がやって来る。
たとえ木々に隠れて駆けたとしても、人間の視覚や聴覚は、決して侮れるものではない。
だから今のうちに。
彼らが、自刃によって気を取られているうちに。
悲しみに喘ぐことすら許されない。
自分は彼に、友に『託された』人間なのだ。
彼はただ、真っすぐに走る。
背後から小さく響く、仲間の慟哭と、何者かの肉が切れて落ちる音。
それを、聞こえなかったことにして。
彼は、いつも不愛想だ。
この屋敷は、ぬえにとっては小さな『
そこに住み、朝日が昇るのを見て、また月が夜空で輝くのを見て。
その都度、彼らはいつも自分に話しかけてくる。
ただいま。
何も悪戯はしてないか?
人を襲うことも、悪戯をすることも満足にできなくしたのは、何処の誰だ。
そう言い返しても、彼らは困惑するでも、ましてや嫌がることもせずに、微笑する。
まるで「仕方がない」とでも言わんばかりの、甘っちょろい笑み。
「…………」
絆された。
こんなに生易しく、温くなった自分。
かつての全盛、都を恐怖に陥れたあの頃の自分が、今の自分を見たらどう思うだろうか。
幻滅。もしくは見ていられないと、殺しに来るだろうか?
「…………フン」
――ただいま。
人間は、住居に戻ると毎回それを口にする。
誰に聞かせる訳でもなく、ただ「そういうものだ」と、習慣づけているのだ。
最初、それは自分に向けられたものだと、ぬえは思った。
まるで自分のことを、仲間のように扱っているのか?と。
そう思ってからは、誰がお前なんかに返すかと、そう意気込んでいた。
でも、違う。
人間の言葉とは、『言の葉』と呼ばれるそれは違う。
彼は、頼政も早太も。
ぬえがその場にいようがいまいが、何よりぬえ自身が、それらを完全に無視しようが。
決して、彼らはその言葉をやめることはなかった。
それからだ。
彼ら『人間』の持つ力、言葉という名のぬるま湯に、自分がいつの間にか毒されていたのは。
いつしか、彼らが持ってくる話が楽しみになった。
意識せずとも、彼らの「ただいま」に、「おかえり」と返せるようになった。
いつの間にか、この瞬間が当たり前で――「いつまで続くのだろう」と、そんな疑問すら抱かなくなって。
――あっという間に、数十年。
彼らの頭髪は黒から白へ。
若者の括りであった彼らはもう、次代を見守る老人に。
人間という、儚い命の火。
ぬえは、今更気づいてしまった。
「…………」
今日、しっかりと伝えよう。
今更だけど、本当に今更過ぎて、きっと鼻で笑ってしまうかもだけど。
頼政も、早太も、三人で過ごすあの平穏な時間が。
改めて、これからも続いて欲しい。一緒にいて欲しいと。
遅すぎる言葉を、彼らに伝えるつもりだった。
「…遅いなぁ」
ぬえは縁側に座って、一人ごちる。
どこかに行ってしまった頼政と早太、二人のことを考える。
別に、彼らが普段、時間をきっちり守るような人間じゃないことぐらい知っている。
早くて五分、遅くて三十分以上だろうか。
彼らは絶対に、「大体これくらいの時間に着く」と言った、それより遅れて姿を見せる。
だが、今日はあまりにも遅い。
日が沈み、空に茜色が刺す。
それでも、彼らはまだ帰ってこない。
(何かあったのかな…………?)
何か、面倒なことに巻き込まれでもしたか?
それこそ、自分ほどではないにしろ、例え昼だろうとも、人間を襲う妖怪はいる。
それの対処で、もしかして――?
「いや、まさかね」
だって彼は、
ぬえの一抹の不安を、現在の甘い日常の原因となった、過去の対決が拭った。
――"違和感"――
すぐに気持ちを切り替え、ぬえは立ち上がる。
「あ、洗濯物入れなきゃいけないんだった………」
屋敷を出る前。
頼政が今日は、少し遅くなるからと、自分の代わりに頼んだ家事。
正直、昼寝に夢中で完全に忘れていたそれを、ぬえは「面倒臭い」という気持ちを隠せない顔で、思い出す。
――"違和感"――
「もう、なんで私が…………」
充分に乾いた布の数々を、慣れない手つきで回収していく。
ぬえは妖怪であるため、衣服を含めて自分の身体として認識している都合上、こういった生活で使う物を自分が使うことはない。
だからこれも、あれも全て、頼政たちが使うだけのもので。
――"違和感"――
それを、どうして自分が…と愚痴を内心で吐きつつ――
「…………」
――"違和感"――
先ほどから不愉快な、胸の奥底で躍動する『何か』。
まるで目を反らすなと、しっかりと見据えろとでも言いたげな。
「大丈夫」だと、そう内心で繰り返す度に。
さっきから、ずっと――
「――――あぁ、いた」
声。
あまりにもか細い、弱弱しいそれ。
「…………え」
ぬえは最初、本気で『それ』が誰なのかが、分からなかった。
それ程に、髪も服装も、全てが見るに堪えない――まるで落ち武者のように、哀れなものであったから。
黒く、艶のあるぬえの髪。
歳をとる、そんな人間の当たり前が存在しない、人外の輝きとは正反対に。
泥と土、そして汗で汚れに汚れた、目の前に立つ男の髪が、夕日の光に照らされている。
「早、太…?」
ここ数年で初めて、「おかえり」以外の言葉を投げかけた。
外になんて滅多に出ない、砂埃などとは無縁の自分とは違う、彼ら。
――彼"ら"――
彼が、隣にいない。
ぬえは、問う。
「頼政は…?」
「ぬえ」
ゴポッ!血の吹き出す音が、早太の喉から聞こえてきた。
そうしてすぐに、彼の身体がまるで、倒木のようにぐらりと、大きく前方に倒れそうになる。
切り傷からの血とは違う。
唾液、胃液の混じった粘性の高い、本当に危険な時にしか吐かない――大量の血。
その有り様から、どれだけ鈍いぬえでも、今の彼の身体がどれ程のものか、すぐに分かった。
「っ!し、しっかりして!ねぇ!ねぇ!?」
「こ…ご、れ"を…!」
――軽い。
一体、一体何があったというのか。
彼がここを出たのは朝方で、そして今は夕方で、まだ一日も経っていない。
だというのに、何故こうも。
まるで何も食べず、何も飲まず。即身仏になろうとでもしたのか?
彼の身体から感じられる、人間としての当たり前の『生命力』とも呼ぶべきそれが、もはや風前の灯火ではないか。
だというのに。
彼は懐から取り出した、一枚の紙を。
ぬえの手を掴み、握らせる。
その後、今までの濁音が嘘のように。
「――頼政が残した言葉だ」
走り、走り続け。
走って走って、追手から逃げ続け。
たった一つの、親友との約束を果たす為。
喉が裂け、足の神経が削れて、潰れようと。
こうして、この屋敷に帰ってきた。
「……ぬえ」
「早……――!」
――頼んだぞ。
そう言って彼は、まるでプツンと糸が切れたように。
そのまま瞳を閉じて、
「い、――ま、いく――――」
同時に――
ぬえは、呆然と立っていた。
いつまでそうしていたのかは分からない。
夕日はとっくに沈み、星々が輝く、いつもの夜。
そう、いつもの夜。
いつも三人で、縁側に座って、そして意味もなく空を見上げた日々だった。
いつの間にか当たり前になった、そんな甘ったれた『日常』の。
それが、今は――
「………………」
託されたもの。
頼政が残したという、最後の言葉。
ぬえは震える手で、その紙を広げた。
そして、見た。
「――――――――」
暇なとき、彼が教えてくれたもの。
早太が、頼政が、一文字ずつ教えてくれた、人の文字。
まだ全てを覚えられていない、そんなぬえでも簡単に理解できるもの。
たった三文字。
彼の長い生涯と。
そして、あの『鵺退治』の時からずっと、自分を支えてくれたその言葉――
『好きだ』
たったそれだけの。
「馬鹿よ」
あまりにも残酷に。
妖怪という、長い永い時を生きる存在に、消えない傷を刻む言葉。
終ぞ――彼があの世に持っていくと、そう決心までした言葉。
それは、決して『
「馬鹿よ…っ…………!」
あまりにも残酷な。
愛という名の『
『ぬえと頼政』(2011年例大祭)に捧ぐ。
東方先代録は当然、pixivにもハーメルンにも、忘れたくない作品というのはたくさんありますね。
さて、次回からもこたんによる8章ラストスパート(体調さえ崩さなければ四日連続投稿予定)。
…大学卒業に合わせて残り155話を書けるかな………あと挿絵依頼用のお金もまた貯めなきゃ……
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