【本編完結】諏訪子様になった、負け戦を回避したい 作:洩矢廻戦
白い月の大地の一部は、どこまでも静まり返っていた。
音という音が虚空に吸い込まれ、砕けた硝子のような光だけが、白い大地を照らしている。
「はっ、はぁっ……ッ!」
八雲紫は、既に限界を迎えようとしていた。
『世界』ごと断絶された式神との再接続、それと並行した同じ空間系の能力者との異空間の主導権争い。
人間であればもうとっくに、脳が焼き切れて廃人になっていてもおかしくはない重傷。
「ぐ、ぅ……っ…………ッ」
無慈悲な月の大地の白の上、美しい金髪は砂塵に塗れ、細い肩は小刻みに震えている。
呼吸は浅く、近くで倒れている藍と変わらない程の、それは今にも途切れそうな位に弱々しいものだった。
喉が焼け付く様に熱く、痛い。
指先に力すら入らず、白い地面を僅かに掻くだけに留まる。
――動かなければ。
だがそう思う度に視界が揺れ、意識を手放しそうになる。
その時だった。
「ハハッ、これは随分と滑稽な絵面ね?」
乾いた足音が響く。
あり得ない筈の方向から届く声。
青い影が、ゆらりと星の光の中に立つ。
夏の晴れ空よりも蒼い青が、重力を忘れたかのように静かに漂う。
その澄んだ瞳は八雲紫を見下ろしていて、口端は歪に歪められていた。
「妖怪の『賢者』とまで謳われた女が落ちぶれたものね」
月の静寂に、その嘲笑だけが不釣り合いに響いた。
紫の瞳がぎらりと光る。
「どうして……あなたがここに……」
掠れた呼吸の合間に歯を食いしばる。
その弱々しい姿を見て、青髪の少女は――。
「さあ?」
――比那名居天子は、笑って見下す。
「最後に会った時とは比べ物にならないわねぇ、賢者様」
その声音には、普段の退屈しのぎの我が儘ではなく。
目の前の対象を見下す、確かな愉悦と優越感が含まれていた。
「計略を巡らせて相手の生殺与奪を握る、それが当然ってツラの態度と言葉使い」
天子は軽やかなステップを踏み、紫のすぐ傍まで歩み寄る。
その足元が立てる砂塵が、紫の頬を無機質に撫でた。
「そんなあんたが今はこう、無様で見苦しい事ね。いつもの尊大な態度はどこへ行ったのかしら?」
「っ……!」
紫は歯を食いしばる。
喉の奥からせり上がる血の味を飲み込み、血走った瞳で天子を睨みつける。
だがその眼光は今の天子にとって、格好のお笑い種でしかなかった。
「もう一度言ってあげましょうか。あんたは『無様で見苦しい』ってね」
天子の言葉は、月の空気を伝って紫の鼓膜を直接震わせるようだった。
紫は、自身の肺から空気が抜けていくのを感じた。
先程までの異空間での激戦で紫の身体機能はとっくに限界を超えており、思考を維持するのさえ困難な状況。
そんな最中、途切れる事無く続く天子の嘲笑が紫の精神を更に削り取っていく。
「いい気味ね」
天子は白い月の大地に片膝をつき。
そして、泥と血に塗れた紫の金髪の間に、白い指を滑り込ませた。
「ぐ……っ」
そのまま、紫の顎先を掴んで強引に持ち上げる。
「ハッ! そう、その顔が見たかったのよ」
「っ……」
天子の澄んだ赤い瞳が紫の顔を覗き込む。
いつもの優雅で余裕のある賢者の顔、それが今は苦痛と屈辱に歪められている事実。
「……ホントいい気味」
その呟きの裏で、天子の瞳の奥に一瞬だけ、澱んだ暗い翳がよぎった。
だが、それを言葉にして口に出すことはしない。
「ぐっ……っ!」
胸の奥で渦巻く黒い澱を押し隠すように、天子は紫の顎を掴んでいた指を離す。
そして、代わりに喉を強く掴み、そして常人離れした力を込める。
「っ、が……ッ!」
それは、紫の細い頸をすり潰しかねない程の凄まじい圧。
天与呪縛による強靭な肉体を持つ天子にとって、いくら相手を殺さないようにした『手加減』でも、それは圧倒的な力そのもの。
骨が砕けてもおかしくない痛みを前に、紫は意識の端で歯を鳴らした。
紫の柔肌に、天子の白い指がより強く食い込む。
「ククッ…アハハ! ほんと情けない顔」
天子は、静かに嘲る。
逃げ場を塞がれた紫の喉からは掠れた窒息の音が漏れており、息を吸おうにも気道が圧迫され、より身体は呼吸を求めて苦しむという負の連鎖。
注がれた畏怖の強さ。
妖力の強大さに比例し、妖怪はより物理法則に縛られるようになる。
そんな『八雲紫』という強力な妖怪の肉体的弱点を、天子は容赦なく攻める。
「がっ……ッ、うぁ……」
「ねぇ、八雲紫」
半ば宙に浮くような形で紫の身体を持ち上げる天子。
その苦痛に喘ぐ顔を下から覗き込みながら、呟く。
「――お前
その言葉に込められた意味は、軽口でも脅しでもない。
本気で、今すぐにでも目の前の命を奪えるという自信の下に沸き立つ漆黒の殺意。
それが静かに、そして底知れぬ殺気を孕んだ天子の赤い目に浮かぶ。
かつて、美しく咲き誇る桜の下で。
自らの命を投げ出し、多くの命を救った少女――生前の『幽々子』という存在を胸に抱き続けた者にしか出せない、それは呪詛に近い怒りだった。
天子は確信している、八雲紫が妖怪たちを連れて月に攻め入った理由を。
これは多くの妖怪たちが死に、後世に残るべきものを選別するという、そんな紫の身勝手な目的での仕組まれた『負け戦』である事を。
「もう充分生きたでしょう」
何かの犠牲を、盤上の駒のようにしか思わない。
そんな女が、あんなにも優しく、美しかった彼女の隣になぜ平然と顔を並べていられるのか。
失われた温もりの代わりとして、何食わぬ顔で友人として隣に立っている事実。
記憶を失い、まっさらとなった今の『幽々子』の隣にいるのが、こんな存在であるという現実が、天子の内なる不条理な怒りを沸騰させていた。
「死ね」
ミシリ、と。
月面の真空に響くはずのない、紫の頸骨を破壊する一歩手前の乾いた音が、残酷に周囲へこだました。
紫の視界が急速に黒く染まり、指先がピクリと動いたのを最後に、完全に力を失っていく。
――その時だった。
「おっと、その辺にしてやってくれ」
静寂を断ち切るように響いたその声に、天子は僅かに眉をひそめた。
天子の背後――その何もないはずの空中に、ふわりと一つの『扉』が浮かび上がっている。
その空間を断ち切るようにぽっかりと開いた裂け目から、姿は見せずとも、紛れもない主の気配が溢れ出していた。
「はぁ……やっと声だけでも繋げられたと思ったらこれだ。もう少し加減をしてやりなさい。比那名居の娘」
「……」
扉の向こうから聞こえてきたのは、やれやれと言った調子の声。
天子は冷ややかに鼻を鳴らすと、手元の頸を締め上げていた力をふっと抜く。
ぐらりと、紫の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ち、砂塵を立てて無様に転がった。
しかし天子はそれらに見向きもせず、ただ冷淡な視線を虚空に向けたまま。
「……私の邪魔をする気? 摩多羅隠岐奈」
天子は淡々と言葉を返す。
「邪魔、ねぇ」
――『扉』の主、摩多羅隠岐奈はふっと小さく笑い。
「こっちはこの『負け戦』の裏での後始末に奔走しているというのに。それに邪魔もするに決まってるだろう、お前が
「……」
「お前が紫と幽々子の関係に複雑な想いを向けているのは知っているが、今は堪えてくれ」
当然のように告げられた、こちらの真実を暴く一言。
天子は、背後の『扉』に向かって吐き捨てるようなため息を一つ。
「はぁ、で? どこまで知ってるのよ」
「私はこれでも生死・命の神としての側面もある。『西行妖』に関するあれこれは紫より詳しい自負があるよ」
「……」
「まぁ、同情はする。お前が紫を殺したい気持ちは分からないでもないけれど、それは一応私の友人でもあるんだ。見逃してやってくれ」
「……うっざいわね」
晴れ渡るような青い髪が、月面の冷たい微風に揺れる。
「どいつもこいつも、私を腹立たせる事にかけては天才的だわ」
忌々しげに吐き捨て、その場から離れようと踵を返そうとした。
――その時だった。
轟ッ、と。
遥か遠く、月の大地の果てから、常軌を逸した凄まじい衝撃波が押し寄せた。
月面には本来、まるで空間そのものが割れるような爆音が、彼方から鼓膜と脳髄を叩く。
「なに……?」
天子は思わず動きを止め、怪訝に眉をひそめる。
この月面戦争において、現在この領域で暴れ回れる存在など限られている。
それに、その筆頭である紫は今や瀕死で足元に転がっている。となれば、あれほどの規模での戦闘力を発揮しているのは一体誰なのか。
その反応を裏付けるように、空間の裂け目に浮かぶ『扉』の向こうから、摩多羅隠岐奈がふう、と深く息を吐き出す気配がした。
「はぁ、全くあいつは……」
隠岐奈の声には、先程までの余裕とは打って変わった強烈な呆れと。
どこか、やれやれと言った気怠さが滲んでいた。
「……加減ってものを知らんのか」
「オマエこそなんだ」
続く言葉の代わりに放たれたのは、理不尽極まりない死の気配。
洩矢諏訪子――否、八坂神奈子の言葉が月の大気に溶ける間もなく、依姫の足元に大地を砕く強烈な大渦が発生する。
「ッ!?」
大気が引き裂かれ、重力すら捻じ曲げるような嵐の奔流。
依姫は瞬時に地を蹴り、後方へ大きく跳躍してその渦の呑み込みを回避した。
遅れて、先ほどまで立っていた場所に隕石でも落ちたかのようなクレーターが生まれたのを依姫は見た。
滞空する一瞬の隙、視線に捉えた近くの地に刺さる一本の刀。
着地と同時にその柄へと手を伸ばし、引き抜くと同時に神下ろしの祝詞を紡ごうと口を開く。
「『
だが、その神の名を呼び切ることすら、目の前の存在は許さなかった。
「わた――ッ!?」
言葉が喉を通り抜けるより早く、依姫の視界から神奈子の姿が消え去る。
次の瞬間、神奈子が存在していたのは自身の目と鼻の先。
――間合いを消失させた、極限のゼロ距離。
「ッ!?」
風を、神力を凄まじい密度で纏い上げた神奈子の拳が音を置いて突き出される。
依姫は神下ろしを中断し、咄嗟に引き抜いた刀の腹でその拳を受け止めた。
ズドンッ、と衝撃波が月面を円状に削り取る。
刀を通して伝わる、その物理的な質量を超越した威圧により依姫の足は地を離れ、まるで砲弾のように遥か後方へと吹き飛ばされた。
(速い……! だが、空中にいる間なら……っ)
体勢を立て直し、吹き飛ぶ勢いを利用して再び別の神を呼ぼうと意識を集中させる依姫。
しかし、神奈子の動きは彼女の『速い』という認識すらも甘く、過小評価に過ぎなかった。
「――こっちだ」
宙を舞う依姫の視界から、またしても神奈子の姿が掻き消える。
追いつかれたのではない。
神奈子は吹き飛ばした依姫の肉体を既に置き去りにし、彼女が着地する筈の『先』へ既に回り込んでいた。
「なッ――!?」
驚愕に目を見開いた依姫の背後。
そこに佇む青髪の神が、冷酷に脚をしならせる。
無防備な背中に叩き込まれたのは、領域の空間そのものを破砕するかのような、神奈子の全力が乗せられた一撃の蹴り。
「――っ、ぐ、あッ……!?」
言葉にならない苦悶の声が、圧迫された肺から絞り出される。
脊髄を通り抜ける激痛と共に、依姫の身体は上空から地表へと叩きつけられ、白い月の大地に巨大なクレーターを穿ちながら激しく転がった。
凄まじい衝撃によって膨大な粉塵が巻き上がり、辺り一帯を覆い尽くす。
咳き込み、口から吐き出される血を撒き散らしながらも、依姫の眼光は死んでいなかった。
(このままでは……神を下ろす間すら……!)
依姫は体内に残る霊力を限界まで搾り出し、自身に宿る
だが、その対象は神奈子ではない。
己が触れる、今足をつけている月の大地そのもの。
理を乱し、形を融解させる。
無機質な月の白い地表が、まるで湿った粘土のようにどろどろと柔軟に変質していく。
依姫はその粘土と化した広大な土地を『調和』の力で一括して統制し、上空へと向けて一気に跳ね上げさせた。
津波のごとき泥土が上空へ伸び、空中で滞空していた神奈子の全身を呑み込む。
逃げ場を塞ぐように全方位から押し寄せた泥土は、そのまま球状となって強く凝縮し、神奈子の身体を完全にその内部へと閉じ込めた。
(――分かっている! こんなものが、あれに長く通じるはずがない……!)
足止めにしかならないことは百も承知。
だが、そのほんの「一瞬」さえあれば依姫には充分だった。
(更に時間を作る!その為に呼ぶのは――!)
一瞬の隙さえ作れれば。
自分はこの状況に応じた神の力を下ろし、この戦況を覆すことができる。
泥の球体を見上げながら、依姫は息を整え、全身の霊力を研ぎ澄ませて神を下ろすための『祝詞』を紡ごうとした。
「須佐之――」
しかし。
その一瞬の隙が訪れるよりも早く。
「
――
そんな、硬質であまりにも澄み渡った斬撃音が、領域内の空間を震わせて響き渡った。
「――ッ!!??」
思考より先。
幾度の死線を潜り抜けてきた依姫の生存本能が、自身の腕を本能のままに突き動かす。
手にした刀を、自身の正面へまっすぐ縦一文字に突き立てる防御姿勢。
そして次の瞬間。
「~~~~ッ!!!!」
ズザザザッ!と、遅れて依姫の全身に無数の不規則な傷口が弾け飛び、血飛沫が舞う。
突き立てた刀に目に見えない強大な圧力が加わり、ミシミシと悲鳴を上げる。
もしもこの刀を盾にしていなければ。
今ごろとっくに身体ごと真っ二つに斬られていたという確信が、冷や汗となって彼女の頬を伝った。
更に、その衝撃は依姫だけに留まらない。
『神籬常在』の領域内に整然と並び、突き刺さっていた何十本もの神下ろしの為の刀たち。それら全てが、目に見えぬ不可視の斬撃の波に一瞬で呑み込まれ、鉄くず一つ残さずに粉々となって弾け飛び、光の塵となって消滅していった。
「私は諏訪子で、諏訪子は私でもあるからね」
上空で神奈子を閉じ込めていた泥の球体が、内側から爆ぜるように微粒子となって四散する。
「だから、私も
粉塵と光の塵が舞い散る中。
上空からゆっくりと、何事もなかったかのように舞い降りてくる神奈子。
その身体の周囲には、本来であれば洩矢諏訪子の神秘の象徴であり、そして力の象徴でもある小さな『鉄の輪』が幾つも浮遊している。
それらはまるで衛星のように、そして狂おしいほどの神力を帯びながら、神奈子の身を護るように静かに回転していた。
「……思ったより効いてないな」
全身から血を流しながらも、しかし倒れる事なく立ち続けている依姫を見て、神奈子はそう小さく漏らした。
依姫の身体に刻まれた傷は決して浅くはない。
だが、領域の無数の刀を粉砕し、『世界を断絶する壊』ほどではなくとも、それに準ずる斬撃の威力を考えれば、彼女が未だ命を繋ぎ止めているのは不自然ですらあった。
「……あぁ成程、
その理由は、先ほど神奈子が実行した『壊』に込められた『力』の性質の違いにある。
本来、諏訪子が扱う『壊』は、万物を侵す『瘴気』を刃に纏わせている。
だが対して、神奈子が実行する『壊』には一切の瘴気が含まれていない。
その代わり、削ぎ落とされた瘴気の代わりに純粋で莫大な『神力』が上乗せされ、攻撃力そのものは限界まで強化されている。
「『調和』である威力を分散したのもあるだろうけど」
しかし、純粋な神力による攻撃には少ない弱点がある。
その一つこそ、相手が同じ神であったり、あるいは神の祝福をその身に宿す『巫女』であった場合、同質の神秘によってその威力が飽和し、弱まってしまう事だ。
神を下ろし、神聖な力を纏う依姫の肉体に対し、神奈子の『壊』は同質の力として相殺され、殺傷力が減殺される。
こと純粋な『壊』の効きやすさであれば、諏訪子の方が上。
――なら。
「よし、ならこうだな」
神奈子は即座に思考を切り替え、獰猛な笑みを深める。
そう、概念的な威圧や神力による削りが通用しづらいのであれば、答えは極めて単純。
――
神奈子の姿が、再び依姫の視界から消える。
「くっ――!」
概念でも能力でもない、ただの質量と速度による暴力の体現。
眼前へ疾風のごとく肉薄した神奈子は、依姫が死力で掲げた刀の上から、容赦のない踏み込みと共に全力の蹴りを叩き込んだ。
金属が跳ね上がる悲鳴と、骨が折れるような鈍い衝撃音。
神力の相殺など何の意味もなさない純粋な物理の衝撃が、依姫の体内を破壊する。
受け止めた刀ごと、依姫の身体は宙を裂く弾丸となって凄まじい勢いで吹き飛んだ。
直進する依姫の背後にあるのは、『神籬常在』の中央に立ちそびえる盆燈籠と神籬が融合した領域のシンボル。
ドゴォンッ!と、依姫がそれに激突。
轟音と共に月面が大きく跳ね上がり、領域のシンボルがひび割れ、粉砕される。
背中から強烈な衝撃を受けた依姫の口から、鮮血が大きく噴き出した。
「ガ、っ……、ァっ……!?」
支えを失った身体が、無造作に白い大地へと崩れ落ちる。
視界が急速に狭まり、世界から音が消えていく。
領域を維持する為の霊力も霧散し、全身を襲う途方もない苦痛すらも急速に遠のいていく。
(また、私は……)
思考が途切れ、依姫の瞳から光が失われる。
闇の中へと深く、深く沈んでいく意識の中で。
綿月依姫の記憶は、ある日の過去の景色へと巻き戻されていった。
『お姉さま、聞いてますか?』
『ええ聞いてるわよ。ほら依姫、この桃とっても甘くて美味しいわよ? 一つ食べたら?』
『……桃の話をしているのではありません! あの子たちったら、ちょっと目を離すとすぐに訓練をサボって逃げ出すのですから……!』
『まあまあ、そこが玉兎たちの可愛い所でもあるんだから、そうカリカリしなくてもいいじゃない。はい、あーん』
『……自分で食べます。と、とにかく! あれでは月の「戦士」としての自覚がまるで足りません。あんな体たらくで、万が一の時に月の都を守れるとでも思っているのでしょうか……!』
サクッ、と瑞々しい果肉を噛みきる音が静かな部屋に響く。
怒り冷めやらぬ様子で桃を口に運ぶ依姫を横目に、豊姫は手にした桃を眺めながら、ふと動きを止めた。
『そうかしら?』
『え……?』
『だって、あなたですらまだ「戦士」になれていないのよ? なのに、あの子たちにそれを強制するのは酷でなくって?』
『……意味が分かりません。今、一体何を? 私が何になれていないと?』
一瞬で場の空気が緊張を帯びる。
依姫の立ち昇る、気圧されるような霊力を前にしても、しかし豊姫の穏やかな気配は何一つ変わらない。
『私は日々怠らずに鍛錬を積み、誰よりも強くあり続けています。現に今も、月に攻め入る愚か者を斬り伏せている。それを「戦士」と呼ばずして何と呼ぶのです』
『ええ、あなたは強いわ。誰よりも、何よりもね。……でもね依姫、あなたは強すぎるのよ。だからこそ、本当の意味で「戦士」になれていない』
『……?』
『負けたことがない者には、絶対に届かない境地がある。私は姉だけど、あなたより弱い。だから分かるのよ』
『……――』
『いい? 依姫。いつかあなたを負かすほどの強い相手が目の前に現れたら、それが分かるわ」
豊姫は優しく目元を緩め、果汁に濡れた指先を拭いながら。
『その時、あなたもきっと「戦士」になれる』
そう、小さく笑った。
「なに……?」
目前の神奈子の呟きと共に、依姫の過去の記憶が遠のいていく。
意識が暗転したはずの月面。
粉砕された領域の残骸が散らばる中で、神奈子が放った止めの一拳を受け止めていたのは、一本の刀。
ボロボロの肉体と血に濡れた腕で動かした刀。
だというのに、依姫が垂直に突き立てたそれは、神奈子の拳の威力を完全に殺し、その前進を拒んでいた。
「…………」
立っている事すら奇跡と言える重傷でありながら、依姫の全身から溢れ出す気配には、先ほどまでとは根底から異なる重みが宿っていた。
「お姉様……」
途切れ途切れの息の中で、依姫は小さく言葉をこぼした。
世界を歪曲する領域『神籬常在』が、硝子の細工のように音を立てて崩壊していく。
光の粒子となって消えていく、自身の人生の集大成とも呼べるそれらの残骸を背に、依姫は静かに息を吐いた。
「やっと……分かりました」
戦わないといけないから戦うのではない。
ただ強者として戦いたいから戦うのでもない。
強くなりたいから、負けたくないから――そんな純粋な欲望ですらなかったのだと、依姫は今、己の魂の深底で理解していた。
力を振るうことに理由を求める、守るべきもののために刃を握る。
それは確かに、絶対的な『強者』の在り方としては歪で、不純なものなのかもしれない。
けれど、その理由があるからこそ、守りたいという覚悟を抱くからこそ、人は人として留まり続け、真の『戦士』であれるのだと。
目の前に立ち塞がる、八坂神奈子という理不尽で圧倒的な脅威。
この瞬間、依姫の胸を満たしていたのは、己の強さを証明したいという欲求ではなかった。
ただ純粋に――この恐るべき脅威から、自分が愛する月を『守りたい』という、ただ一つの強い意志だった。
(『神籬常在』は消えた)
思考は研ぎ澄まされ、冷徹なまでに冴え渡っていく。
領域が潰散した今、二重三重に神を下ろす術は失われた。
(肉体の傷的にも宿せるのは一柱だけ……)
加えて、今の己が下ろせる神は、たった一柱のみ。
だが、迷いはなかった。
「……御力、お借りします。███様」
依姫は既に、最後にその身に呼ぶべき神を定めていた。
「――『
小さく、しかし領域の崩壊音すら呑み込むほどの確固たる声でその名を紡ぐ。
(領域が破壊されたなら、やれることは――)
直後、依姫の肉体そのものが神の器となり、途方もない神気が奔流となって体内を駆け巡った。
領域が破壊され、小細工も使えない圧倒的不利。
それを覆すのは。
目の前の脅威を超えるのは、より純粋で、そして純然な『力』そのもの――。
(武具による斬殺――!)
バチバチと耳を刺す放電音が鳴り響き、依姫の全身を眩いばかりの雷光が包み込む。
削られた霊力が怒涛の勢いで押し寄せ、破砕されたはずの脈動が激しく鼓動を打ち始めた。
それはあらゆる小細工を、異能の可能性を『肉体強化』にのみ絞る絶大な『縛り』。
(限界まで上げろ! 肉体の強度と速度を――!)
神の威光を己の肉体全てに還元し、肉体強度と神経伝達速度を極限まで底上げしていく。
迸る雷光を散らしながら、依姫は力強く刀の柄を握り直した。
その瞳には、一切の迷いも恐れもなく。
ただ、眼前の神奈子という存在を真っ直ぐに見据える強い光だけが宿っている。
「お姉様」
崩れ去る世界の真ん中で、依姫はもう一度、愛おしい姉の名を呟いた。
そして、静かに確信を込めて言葉を繋ぐ。
「私――『戦士』になります」
人類未踏。
綿月依姫、亜光速で舞う。
タイトルがまんま仮面ライダーオーズ。
投稿時間は何時がいいか
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