【本編完結】諏訪子様になった、負け戦を回避したい   作:洩矢廻戦

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 今日も書く。


147話.第一次月面戦争⑯茶

「この茶、飲んだあと少し甘いんだ」

 

 静寂を割るように、その言葉が響く。

 そこは荒れ果てた月面ではなく、わずか三畳ほどの小さな和室だった。

 磨かれた木目の机を挟み、相対して座っているのは依姫、そして諏訪子の二人。

 先ほどまでの死闘と世界の崩壊がまるで遠い幻であったかのように、あたりには穏やかで濃密な静けさだけが充満していた。

 諏訪子は手元の茶を飲み干すと、置かれたもう一つの湯呑に手慣れた動作で新しく茶を注ぎ入れた。

 湯気がふわりと立ち上るそれを、机の上を滑らせるようにして依姫の前へと渡す。

 

「飲みなよ」

 

 気負いのない諏訪子の促し。

 依姫は目を落としたまま静かに首を振った。

 

「……甘い茶は苦手です」

「ありゃりゃ」

 

 小さな拒絶の言葉に、諏訪子は意に介した様子もなく楽しそうに笑った。

 

「まぁまぁ、これは私からの『敬意』ってやつだからさ」

 

 そう言いながら、諏訪子は机に肘をつき、頬杖をついて依姫を覗き込む。

 

「好き嫌いだけで終わらせるのは勿体ない。そうは思わない?」

 

 依姫はじっと、目の前に置かれた湯呑を見つめた。

 澄んだ茶の表面に立ち上る薄い湯気、そこから漂う凛とした茶の香り。

 永遠にも思える沈黙の後、彼女はゆっくりと手を伸ばし、傷一つない指先で湯呑を包み込むように手に取った。

 そして、傾けた湯呑から、静かにその茶を飲み始める。

 温かな液体が喉を潤し、舌の上に残る微かな余韻を確かに感じ取って――。

 

「……甘い」

 

 そう、小さく呟いた。

 

「確かに、あなたの言った通りです」

 

 茶を飲み終えた依姫は、静かに呟く。

 

「ただの戦い、殺し合いで終わらせるのは勿体ない」

 

 そう言って、依姫はいつの間にか目の前に現れていた桃――姉が毎日好んで食しているものと同じそれを、一つ手に取った。

 滑らかな肌触りと瑞々しい重みを確かめるように、そっと指先を這わせる。

 

「あの日、初めて不覚を取った日からずっと、私の中には『あなた達』がいた」

 

 依姫は思い出す。

 今から約数百年以上前、神下ろしの訓練中に起こったあの『事故』を。

 その時、未熟だった依姫は偶然にも神奈子と接続を果たしてしまい、その圧倒的な威光を前に不覚を取り、全身に深い傷を負わされた事。

 そしてあの日以来、己の深層には巫女としてではなく、超えるべき壁として常に『神』の存在が刻み込まれ続けていた。

 依姫の考えていることを何となく察したのか、諏訪子は苦笑いを浮かべた。

 

「あれは偶然。あの時は月人の天敵とも言える妖精の生得領域に引きずり込まれたんだし、むしろ勝つ方がおかしいって」

 

 諏訪子はカラカラと笑って言葉を継ぐ。

 

「それに、あんたはその雪辱をしっかりと晴らしたんだしさ。それでいいじゃん」

「……」

「おかげで今も神奈子は表に出てこれないんだよ? 私がいなきゃ最悪消滅してたかもね」

「…………」

 

 依姫は僅かな無言のあと、言う。

 

「思えば、私は私自身で思っていた以上に、生き方を迷っていたのかもしれません」

 

 己の中に芽生えた『戦士』としての自意識。

 そして、力を振るうことに理由や意味を求めることの真理を理解するまでの、力を求めた過程。

 

 それは、依姫がまだ絶対的な『強者』として未熟である事の証明。

 

 純粋なる強者とは、約束された不変の強者とは即ち、ただ存在することそのものが力である。

 理由など必要とせず、そして過程も介さず、生まれ落ちたその時から力を研ぎ澄ませる『意味』を見据えているのだから。

 己がままに世界を塗り替え、歪曲していくものなのだから。

 神奈子のように、そして諏訪子のように。

 

 強くなるのに理由はいらない。

 

 だが、その強さを振るうことの『理由』を泥臭く抱え続けるからこそ。

 人は『人』として留まり続けられる。

 手に持った桃を愛おしむように見つめながら、依姫は胸の奥に灯る温もりとともに、己の選んだ生き様を静かに噛み締めていた。

 静寂に満ちた和室。

 手の中の桃を見つめていた依姫が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……それでも、私は私の過去を間違ったものとは思わない」

 

 その声には迷いを払った透き通るような響きがあった。

 かつて、ただひたすらに強さを求め、終わりのない研鑽を愚直に積み重ねていただけの日々。

 衝動に身を任せ、獣のように意味も理由もなく力を振るうことに、どこか背徳的な快楽すら感じていた自分。

 そして、そんな危うい生き方を重ね、誰よりも大切で優しい姉に、どれほどの苦労と心配をかけてしまったか。

 過ち、そして遠回りに見えたかもしれない、愚かしい過去の全て。

 だがそれらの内一つでも欠けていた場合、今の自分には辿り着けなかっただろう。

 

「私が今生きている。私は刀を振るって、誰かの為に戦うことが嬉しいと思えた。今あるのはその結果だけ」

 

 依姫は胸の前で拳を小さく握り締め、力強く断言する。

 

「私が今、強くなってここにいる。その事実のみが真理です」

 

 神の如き絶対の不変ではない。

 傷つき、迷い、不純な動機すら飲み込んで生き抜いてきたからこそ鍛え上げられた、泥臭くも折れぬ『人間』の矜持。

 故に――依姫は言いはなった。

 

「私はもう迷わない」

 

 その瞳には、かつて神奈子と出会ったあの日の傲慢も、己の弱さへの焦燥も微塵も残っていない。

 ただ真っ直ぐに、澄み渡るような強固な意志の光だけが宿っていた。

 

「私は、これからも誰かの為に刃を振るう」

 

 宣言にも似たその言葉が、和室の静謐の中に静かに溶けていく。

 静かな刻の流れ。

 それは一瞬のようにも、永遠のようにも思える濃密な沈黙。

 果たして、どれだけの時間が経ったのだろうか。

 

「……いいね」

 

 頬杖をついたままじっと依姫の顔を見つめていた諏訪子は満足そうに目を細め。

 

「やっぱりさ、あんたはかっこいいよ」

 

 心からの敬意と親しみを込め、そう楽しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 視界が、世界が反転する。

 温かなお茶の湯気も、桃の瑞々しい甘香も、あの静謐な三畳の空気も瞬時にかき消える。

 代わりに広がっていたのは、熱線と超光速の衝撃によって穿たれ、無残に荒れ果てた月の大地。――現実の光景だった。

 

「…………」

 

 絶大な過負荷と自壊の代償により、指一本動かすことすらできず、冷たい地表へと崩れ落ちている依姫。

 その目の前。

 依姫のすぐ真横の地表へと突き刺さっていたのは、空間すら歪ませる『(イグニ)』の爆炎だった。

 立ち昇る熱気が二人の影を大きく揺らす。 

 轟々と燃え上がる神の火を静かに見つめながら、諏訪子は目の前で倒れる依姫を緩やかに見下ろし、可憐な唇を緩めて笑う。

 

「私はそれを知らないからさ。そういう強さは羨ましいや」

 

 ――諏訪子は最初から『(イグニ)』による炎の矢を依姫に当てる気などなかった。

 依姫の前にゆっくりとしゃがみ込むと、諏訪子は焦げ付き、痛々しく傷ついたその身体へと静かに手を触れた。

 次の瞬間、諏訪子の体内から溢れ出した莫大な神力が練り上げられ、癒しの力が依姫の体内へと注入されていく。

 

「気張んなよ、あんたにはまだまだ敵がいるんだから」

 

 反転術式による治療を施し諏訪子の脳裏を過ぎるのは、ここから遥か遠い先の未来の出来事。

 狂気と怨嗟を抱えてこの月を激甚たる破滅で満たしにやって来るであろう復讐の化身。

 純化の神霊の存在を想起し、諏訪子は応援する。

 

「……よし、これでいいかな」

 

 ザラリ、と月面の砂を踏みしめる音。

 治癒を終えた諏訪子は、倒れたままの依姫へと背を向けて静かに歩き出した。

 そして諏訪子はふと足を止め、地面に落ちていた刀の残骸をひょいと拾い上げた。

 

 依姫の展開していた領域『神籬常在』は既に消失している。

 そのため本来ならば、彼女が能力によって模倣し生み出していた数々の刀は、領域の崩壊と共に全て跡形もなく消失している筈だった。

 

 だが――その刀だけは、今もなお砕けた鉄の破片として月面に残り続けている。

 それどころか、異様なまでに濁った、祟り神にも匹敵するおぞましい瘴気を周囲に撒き散らしていた。

 段々と黒く変色し始めているその破片を、諏訪子は指先で弄び、じっと見つめながら。

 

「これかぁ」

 

 深く納得したようにぽつりと呟く。

 そして、そんな呟きの直後、静まり返った月面にどこからともなく声が響き渡った。

 

『おやおや、しっかりと弱ってますねぇ』

 

 姿は見えず、ただ空間の歪みから滲み出るように届いた声。

 それは黒く濁った瘴気を放ち続ける刀の破片を見下ろすような喜色が滲んでいて。

 どこか心底満足そうに、くすくすと弾む笑みが目に浮かぶ様子だった。

 

「で、あとはどうすればいいの? ドレミー」

 

 慣れた様子で虚空に向かって諏訪子が問いかけると、声の主ドレミー・スイートの声が拍子抜けするほど軽く返ってきた。

 

『あ、じゃあそのまま燃やしちゃってください』

「燃やす?」

『ええ。既に「虚無」の世界から引きずり降ろされたその神に、もはや抵抗する術はありません。その刀という名の「媒体」さえ消失させたら、あとは私がなんとかしますから』

 

 それは淡々と告げられる死の宣告そのもの。

 忘れられたものたちが辿り着く、無と静寂の世界。

 かつてその領域をただ一柱で独占していた、原初の『忘却』の存在――それが『常世神』だった。

 依姫が『極ノ番』によってようやく干渉を成し遂げ、そして現世に呼び出して封じた刀。

 それの破片を摘む諏訪子の指先になだれ込んでくるのは、怨嗟と悲哀、そして何よりも凄まじいまでの『生』への執念。

 

 神でありながら忘れ去られ。

 虚無へと追いやられ、それでもなお存在し続けようと足掻いた哀れな存在。

 

 その伝わってくる熱量に、諏訪子は胸の奥で静かに同情を寄せる。

 

「……もう少し早く幻想郷の計画が進んでたら」

 

 もしも、かの賢者たちの計画がもっと早く形になっていれば。

 この神も消し去られることなく、別の生き方があったのではないだろうか?

 そこまで考えを巡らせて、諏訪子は小さく首を振った。

 

「……ま、たらればで物事を語るのは嫌いなんだよね」

 

 過去を悔やんでも、存在し得なかった未来を夢見ても意味はない。

 諏訪子はそう口にすると、瘴気を吐き出し続ける刀の破片を、その小さな拳の中で強く握り締めた。

 

 次の瞬間。ドッ――と、諏訪子の右拳が激しい炎に包まれる。

 

 それは先ほど依姫が見せた火之迦具土神……『愛宕様』の権能すらも凌駕する、全てを焼き尽くす神の火。

 ギ、と断末魔のような不快な気配が焦げ付き、拳の中で怨念の瘴気が爆ぜる。

 だが、それも一瞬の事だった。

 理を超える灼熱の前に、常世神の残滓は抵抗する間もなく、灰すら残さず綺麗に灼き尽くされていった。

 

 それと同時に。

 今まで『虚無』の世界を不当に独占していた最大の邪魔者が完全に消滅したことで、長きにわたる全ての準備が整った。

 

 世から忘れ去られた存在、追いやられた怪異たちが最後に行き着く先。

 あの何もない『虚無』の世界に、これから創り上げられるであろう妖怪たちの新しき楽園。

 それの名は――『幻想郷』。

 

「ふふっ、楽しみだなぁ幻想郷」

 

 諏訪子は満足そうに口元を綻ばせると、ぎゅっと握り締めていた右拳をゆっくりと開いた。

 そこにはもう、禍々しい瘴気を放っていた刀の破片は、ただの一欠片も残されていなかった。

 

「さぁ、帰ろっか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静寂と頽廃が漂う地上。

 とある山に位置する、見晴らしの開けた平地。そこには虚空を裂いて現れた幾つもの巨大な『スキマ』が開かれていた。

 そして、そこからぞろぞろと無数の妖怪たちが這い出ている。

 だが、その全員に強者としての気配は微塵も残っていなかった。

 地上に帰って来た妖怪たち全員の顔からは生気が失われ、全身を凄惨な傷と返り血、そして焦げ痕で汚している。

 

 月へと攻め入る前に存在していた膨大な大軍のうち、無事に帰還できたのは実に三分の一以下。

 惨憺たる壊滅、ぐうの音も出ない一方的な大敗北である。

 

 そんな、地上へと戻り傷だらけの妖怪たちを山頂の岩場から見下ろし。

 摩多羅隠岐奈は小さく鼻で笑った。

 

「予想以上に持っていかれたな。本来はもっと少なく済む予定だっただろう?」

「…………」

 

 隠岐奈は隣にあった大きな苔むした石に座り込んでいる八雲紫を、横目で見やりながら語りかける。

 

「思っていたより犠牲は大きいが、何か感想は?」

「……」

 

 紫の姿もまた、大侵攻を指揮した賢者とは思えぬほど痛々しいものだった。

 豪華な衣装はあちこちが破れ、全身に細かな切創を負っている。

 そして何より目を引くのは、その細い白い喉元に残された痛々しい青紫の指痕。

 それは地上に戻る直前に、比那名居天子によって力任せに首を絞め上げられた生々しい暴力の証。

 隠岐奈は細い指先を紫の喉元へ伸ばすと、その青紫の痕にすっと優しく這わせた。

 

「まぁ、被害で言えばお前も大概か」

 

 クツクツと胸の奥で愉しそうに笑いながら、傷痕を撫でまわす隠岐奈。

 パシンッ、と乾いた音が響き、紫は弾くようにその手を力任せにはたき落とした。

 そして、殺気すら帯びた鋭い眼光で隠岐奈をキッと強く睨みつける。

 

「……それ以上、言わないで」

 

 絞り出すような声だった。

 おそらく、まだ喉の奥が痛むのだろう。紫は片手で自身の喉元を痛ましそうに固く押さえつけると、敗北と不覚に対する屈辱で眉を酷くひそめ、力無く俯いた。

 

「あの天人……私の『スキマ』にも反応しなかった……」

 

 ぽつりと落とされた、小さすぎる呟き。

 隠岐奈は小さく肩を竦めると、長いため息を一つ吐き出した。

 

(さて、どうしたものか……)

 

 紫にとっては、突如として目の前に現れ理不尽な暴力をぶつけてきた忌々しい小娘でしかないのだろう。

 だが西行寺幽々子を中心とした、彼女たちの重苦しく歪んだ三角関係を全て把握している隠岐奈にとっては、これは極めて複雑で難しい問題だった。

 

 天子が紫に対して執念とも言えるほどの強い恨みを抱く理由は、痛いほど理解できる。

 しかしだからといって、何も知らぬ紫が完全に悪いのだと断罪できるわけでもない。

 

 これはそれぞれの譲れぬ想いと選択が交錯した結果であり。

 結局のところ、誰が正しい、誰が悪いという明確な答えはどこにも存在しないのだ。

 

(いっそここで答え合わせをする手もあるが……)

 

 少なくとも、天子という存在に対して一定の同情の念を向けている隠岐奈にとって、天子とかつての幽々子との間にあった深遠な関係を、何も知らない紫に暴露することには強い抵抗があった。

 それに、他ならぬ天子の方も、そんな無粋な種明かしを隠岐奈の口から語られる事を望む筈もない。

 故に――隠岐奈がここで選ぶ唯一の答えは、『沈黙』だった。

 

「お前の『スキマ』も、まだ全能ではないという事だな」

 

 隠岐奈は天子に関する重大な情報を胸の奥に秘めたまま、どこか他人事のように適当な言葉を紫へ言い渡した。

 

「まぁ天人のことはいい。問題はこれからだ」

 

 それから、隠岐奈はパンッと乾いた音を立てて両手を叩き、強引に話題を切り替えた。

 これ以上、触れられたくない部分を突いて紫の不機嫌を募らせても不毛だからだ。

 

「おそらくあの神霊剣士の仕業だろう。常世神が虚無の世界から消えた。これを利用しない手はないな」

 

 月面で起きた壮絶な死闘。

 そして常世神という巨大な存在の消滅。そして同時に、おそらくその結末へと巧みに状況を誘導したであろう『虚無』に連なる『無意識領域』の主――。

 とある獏の存在を思い浮かべながら、隠岐奈はどこか感心したように、それでいて淡々と語る。

 

「早く土台を作らなければ、いつ第二の常世神が生まれるか分からない。お前の式神も傷は癒えたんだろう? なら早めに……」

「分かってる」

 

 隠岐奈の言葉を遮るように、紫は短くそう吐き捨てた。

 そして、重苦しい身体を硬い石の上からゆっくりと起こすと、裾を翻して歩き出す。

 

「まずは『博麗』を呼ぶわ。そして現実との位相を結界でずらしてから、本来『虚無』に注がれる筈の忘却された神秘の受け皿を作る」

 

 大敗を喫し、身体を傷だらけにされながらも。

 紫のその瞳には、妖怪の賢者としての冷徹な光が戻っていた。

 だが。

 

「藍の体調も万全ではないけれど、それでも今やるしかない」

 

 歩みを止めることなく、前を見据える紫。

 そんな彼女の右手は、痛々しい青紫の指痕が残る己の首元へと静かに伸びていた。

 

「…………」

 

 指先でその生々しい傷に触れながら、紫は低く、地獄の底から響くような声で小さく呟く。

 

「いつか必ず、この屈辱は晴らすわ」

 

 己の誇りを踏みにじり、喉を絞め上げたあの忌々しい天人。

 ――比那名居天子。その存在への激しい憎悪を胸の奥で静かに、そして苛烈に燃やしながら。

 紫は目の前の虚空に大きく裂け開いた『スキマ』の中へ、迷うことなく足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして一方。

 ――その頃、月では。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地上の惨状とは対照的に、月の大地は物理的に凄惨な戦果の痕跡を残していた。

 かつては穢れなき美しさと絶対の静謐を誇っていた月面。しかしそれは今や、その地表の半分以上が光速による凄絶な衝撃波によって抉られ、途方もない巨大なクレーターとなって黒々と口を開けている。

 微かな気体すら焼き尽くした光速の二次被害の残滓が未だ立ち上るかのように漂う空間で、戦の終わりと共に必死の復興作業が取り仕切られていた。

 あちこちで大型の復旧機材が重苦しい機械音を響かせ、右往左往する玉兎たちが半狂乱の焦燥の中で必死に機材を操作している。

 崩壊し、粉砕された地表を少しでも元通りへ近づけようと、玉兎たちは血と汗に塗れながら作業に追われていた。

 

「…………」

 

 綿月豊姫は、そのけたたましい喧騒を後目に、ただ無言で歩き続けていた。

 玉兎たちの悲痛な叫びも、機材が撒き散らす不快な重低音も、今の豊姫の意識には何一つ届かない。

 視界に映る壊れた月面の風景すら、まるで他人事の幻灯のように通り過ぎていく。

 豊姫の脳裏を埋め尽くし、冷たく塗りつぶしているのは――ただ一つ、傷だらけとなって冷たい床に横たわる最愛の妹、依姫の痛々しい姿だけだった。

 

『命に危険はありません。過剰な霊力による肉体の疲弊です』

 

 医師たちは、そんな形式ばった安堵を込めて口々にそう言った。

 だがそんな気休めの言葉で、この胸の痛みが治まると思っているのだろうか。

 白く凍てついた医務室のベッド。そこに横たわり、全身の皮膚を焼け焦がされ、壊れた人形のように幾つもの無機質な医療機材と管に繋がれた妹。 

 途切れ途切れの、今にも消えそうなか弱い呼吸を繰り返すその小さな体躯。

 命を育む『生』の躍動などどこにもなく、死の淵を踏みとどまっているに過ぎないその凄惨な痕跡を目にした時、豊姫の胸を突き穿ったのは、底知れぬ絶望と狂気にも似た感情だった。

 

 考える。

 一歩踏みしめるごとに、深く、深く。己のあまりの不甲斐なさを自虐的に苛むように。

 

 そう――自分は、あの極限の土壇場において傷つく妹のために何一つとしてしてやれなかったのだ。

 依姫が自らの命の灯火を容赦なく削り取り、人間の限界どころか理の壁さえも幾重に突き破り、最強と名高い神々を相手に死闘を繰り広げていたその時。

 自分はずっと、月に不法侵入を果たした『蓬莱人』の理不尽な暴力に縛り付けられ、一方的に弄ばれていただけだった。

 

 藤原妹紅。

 そう名乗った『不死身』の化身。

 

 どれほど完璧に滅ぼそうと、どれほど絶望的な死を叩き込もうと。

 何度でも炎と共に泥臭く立ち上がり、終わりなき『生の呪い』を突きつけてくる存在を前に。

 自分は焦燥に身を焼きながらも、妹の元へ駆けつける事ができなかった。

 

「……洩矢諏訪子」

 

 低く、地獄の底から引きずり出すような声で。

 豊姫はそれらの名を呟く。

 

「八坂神奈子……」

 

 その整った口唇から零れ落ちる言葉には、日常で誰にでも見せていた、あの穏やかで朗らかな豊姫としての面影は微塵も残されていなかった。

 光を完全に失い、ドス黒く苛烈な憎悪に染まりきった漆黒の双眸。

 それを誰もいない虚空へと向けて、豊姫は静かに、だが恐ろしいほどの熱量を込めて次の言葉を紡ぐ。

 

「――お前たちにも、失うことの恐怖があるのか?」

 

 静まり返る月面の静謐の中、豊姫の差し出した細い指先に反応し、空間へ青白く静かに展開していく操作パネル。

 そこに鋭く刻まれた、冷たい光を放ちながら浮かび上がる二文字――()()

 その文字を見つめながら、豊姫は誰に届くとも知れぬ呪詛のような問いを、静かに真空の空へ投げかけた。




 亜光速の向こう側に行った依姫でもラスボスランキングでは二位です。
 三部ラスボスに果たしてレミリアは勝てるのか。

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