【本編完結】諏訪子様になった、負け戦を回避したい 作:洩矢廻戦
――諏訪大国。その天を穿つように聳え立つ巨大な山の頂に、最強の二神が佇む洩矢神社があった。
山麓から雲上の境内へと至る詣道は、まるで巨大な龍が山に巻き付いたかのように登っていく螺旋状の石段。
鬱蒼とした原始の森を切り拓いたそれは、到底人の手で造られたものとは思えない代物であり、それは長い歳月を経て深く青苔を纏い、古代からの圧倒的な規模と厳かさを現代に伝えている。
極太の注連縄が渡された、威容ある鳥居の奥。
広大な境内の中央にただ一社、圧倒的な存在感を放つ重厚な本殿が鎮座していた。
千古の時を生き抜いた大樹たちに囲まれ、神々しい神威が満ち満ちるその神域。
そこは本来であれば、下々の穢れを一切寄せ付けぬ静謐と格式に満ち溢れている。
――しかし。
「ッ、ク、ッッハハ!」
それが、今この時に限っては違っていた。
豪勢な料理と酒瓶が所狭しと並べられた大広間。そこで響き渡っていたのは、腹を抱えて転げ回る洩矢神――諏訪子による下品な爆笑声だった。
「アッハハハハハ!! 顔ッ! 顔が腫、れて……ッッ!!」
畳をバンバンと拳で叩きつけながら、涙を流して大笑いをしている諏訪子。
そして、その前方で座敷牢のような重苦しい気配を放っている者こそ、現在進行形で諏訪子によって嘲笑われている八坂神奈子であった。
綿月依姫との戦いで生じた傷。
それにより彼女の顔は今、元の顔の倍近くにまで膨れ上がった生々しい腫れ跡のせいで、威厳ある筈の顔面が見事に肥大化し、四角く歪んでいるのである。
神奈子は酒盃を握りつぶさんばかりの力で握り締め、殺気立った眼光で手元を睨みつけている。
不機嫌そうに酒を煽り、耐える。
「ヒーッ! ヒーッ……く、苦しい……ッ! 死、死ぬッ! 殴られた神奈子よりも死にかけちゃう!」
だが諏訪子は容赦しなかった。
過呼吸気味に呼吸を乱しながら今も笑い転げる諏訪子。
神奈子はその乾いた笑い声が耳に届く度に額の青筋を増やし、酒盃を持つ手を震わせる。
そして、そんな二人の惨状を少し離れた席から眺めている者がいた。
再び洩矢神社へ『タダ飯が食える』という理由で呼ばれた『因幡の白兎』こと因幡てゐである。
てゐは箸を止めて、二人の様子をジト目で見やり、それから心底呆れ返ったような表情を浮かべた。
「諏訪子、あんたいい加減に笑い過ぎ」
やれやれと肩をすくめ、長いため息を吐くてゐ。
しかし、諏訪子の笑い発作は一向に収まる気配を見せない。
それどころか、お腹を押さえて身を捩りながら、あからさまに意地悪なニヤニヤ顔で切り出す。
「だってさぁ! でもさぁ! いくらこっちが主導権を手放しかけたからってさ、あんなに有利な戦いだってのにさ! いきなり交代してきて普通に負けるなんて――」
「――フンッ!!」
直後、空気を切り裂く凄まじい風切り音が響いた。
いよいよ我慢の限界を迎えた神奈子が、手元から高速で放った箸を一直線、諏訪子の眉間へ向けて投擲したのである。
――ズブリ。
「ギャアアアアアッ!!??」
呆気なく額に箸が突き刺さり、諏訪子は情けない悲鳴を上げて後ろへとひっくり返った。
だがすぐに額から箸を引っこ抜き、額の傷を反転術式で治しながら、諏訪子はガバッと跳ね起きる。
「痛いじゃんか!? 何すんのさ神奈子!!」
「やかましいわ馬鹿!! 大体あれは不覚を取ったのではない! 相手の願いに応えてこっちも同じく純粋な斬り合いを……」
「はいはい言い訳言い訳~ッ! いくら言い訳を重ねようともさぁ! あんたが依姫から顔面に一撃喰らって、そのまま一発でやられたって事実は変わらないってのォ~!!」
「言わせておけば……お前だってあいつの領域に手を焼いていただろうが! それにまんまと『混沌』と『調和』に弄ばれて……」
「私はちゃんと危機管理徹底してただけだしぃ? 領域も使わない理由がちゃんとあったしぃ? 勝手にでしゃばって来てその上負けて顔膨らませて帰ってきたあんたとは実績が違うんだよ!! あんたと違ってね!!」
「ぬぐぐ……っ! このっ、もう一度言ってみろ!! もう一度『諏訪大戦』を始めてやろうか!?」
「へっへーんだ! 今度はもう片方の頬を腫らしてやる!!」
――割愛。
「…………はぁ」
てゐはため息。
威厳も何もない、まるで幼い子供のような怒号の応酬にうんざりする。
ギャーギャーと叫び合い、いよいよ互いに酒の肴を投げつけ合っている二人を前にして、てゐは静かに首を傾げた。
(……なんかなぁ)
かつて、この二人にあった一つの共通点。
『絶対的な強者、それ故の孤独』――それは圧倒的な力を持つ者が抱える、深遠で、誰にも理解されない強者の苦しみ。
今から数百年以上前とはいえ、それを分かち合っていた神秘的で恐ろしくもあった二人の姿が、今の彼女たちからは微塵も感じない。
毒が完全に抜けきり、顔を腫らした神とおでこにコブを作った神。
そこには、かつて神代の重苦しい空気を持った偉大な神など何処にもいなかった。
本当に……そう、ただひたすらに酷い有様だった。
(……もしかして)
咀嚼していた人参をゴクリと呑み込んだてゐの頭の中に、ある一つの確信が湧き上がる。
(強さだの孤独だの、矜持だので悩む奴って馬鹿しかいないのか?)
世界の真理すら射抜きかねない、あまりにも的を射すぎた答え。
それはもう、今までに相対した数々の妖怪や神、それこそ月人も含めた者たち。
てゐはそれら全員に対しただの『馬鹿』という一言で片付けられるのではないかと本気で思い始めていた。
「言ったな諏訪子! 今夜は朝まで酒の飲み比べだ! 潰れた方が負けを認めろ!!」
「望むところ! 腫れ上がったその顔を酒でもっと膨れ上がらせてやる!!」
再び争いが激化し、互いに互いの杯にドバドバと酒を注ぎ合い始める二人の神。
……それ以上は、もう見ない振りをするのが一番だろう。
「ま、タダ飯が美味いから何でもいいか」
てゐは深く考えるのを諦めた。
そして呆れ顔のまま、目の前に並べられた豪華な食事へ再び静かに箸を伸ばしたのだった。
月面戦争と呼ばれたあの大騒動から、早くも数日が過ぎた昼下がり。
降り注ぐ陽光は柔らかく、のどかな村の舗装されていない土道を温かく照らしている。
遠くで薪を割る音や、子供たちの戯れる声が心地よく響く憩いの中、そこを静かに歩く白髪の少女がいた。
そしてその少女の手には、もう一人、一回り小さな体躯をした、青の混じる銀髪の少女の手がしっかりと握られている。
「……はぁ」
――『蓬莱人』藤原妹紅は今、とんでもなく暇を持て余していた。
「平和すぎるのも考えものねぇ」
ここ最近の出来事を思い返せば、目まぐるしいなんて言葉は生温く感じてしまう程に怒涛の連続だったのは確かだ。
同じ不老不死として何やら謎の因縁をつけてきた、かの『かぐや姫』こと蓬莱山輝夜との大喧嘩。
そこからなし崩し的に、喧嘩の場所として選んだ山――その持ち主である天狗たちのドロドロとした政争に巻き込まれ、挙句の果てには『月面戦争』という規格外の戦場への乱入。
自分でもよく分からないまま、ただがむしゃらに暴れ、目の前の『月人』と血で血を洗う事となった。
しかし、そんな大戦争も無事に終わり、地上へと戻ってこれにて一件落着。
……とは、全くならなかったのだが。
あれは、地上へ帰還してしばらくした時の事だ。時間にして二日にも満たないと思う。
妹紅の目の前に飛び込んできたのは、あまりにも凄惨で、同時に呆れるしかないような光景。
戦後の後処理で騒ぐ天狗たちにしれっと紛れ込んで、自由を謳歌していた輝夜。
彼女の呑気な態度は『見つけた』という、地獄の底から響くように恐ろしい声で終焉を迎えた。
『このお馬鹿ッ!!』
『ぐぇええ――ッ!!??』
無防備な輝夜の背中に向かって、妹紅の目でも捉え切れない速度で一人の影が突撃。
その後、輝夜の従者である永琳と名乗った存在によって、輝夜はがっしりと前腕で喉を絞め上げられ。
白目を剥いて気絶し、泡を吹いたまま死んだ虫のように痙攣し始めたのである。
『ぁぺ、ぴゃぺ……』
『ほんッッッとうにあなたという人は……!!』
――ゴキ、メキ……
絶対に生身の人体から鳴ってはいけない、聞いているだけで痛みが伝わってくるようなヤバい音が、輝夜の華奢な頸から軽快に奏でられていた。
いくら不老不死の『蓬莱人』とはいえ、即死に至らないあの攻撃は間違いなく『効く』だろうと妹紅は見ただけで直感。
そのまま、永琳は気絶してぐったりとした輝夜を抱え直すと、再び目にも留まらぬ速さでそそくさと皆の前から去って行ったのだった。
(口ぶりからして、私を追って従者をほっぽり出して来たって感じか)
正直、これからの腐れ縁も含めて色々と話をしておきたい事があったのだ。
だが、あの目に見える形で、そして恐ろしい怒気を全身から放出していた永琳の尋常じゃない凄味に、さしもの妹紅も思わず本気で怖気づいてしまったのである。
(……あいつ、あれから何回ぐらい死んだのかねぇ)
不老不死ゆえに死ぬことはないのだろうが……と。
怒り狂った従者の手に揉まれ、どれほど酷い目に遭わされているのだろうと、輝夜の災難をどこか雑に思い浮かべる妹紅。
そして、そんな妹紅はふと、隣を歩いている少女――慧音と繋いでいる手に、ほんの少しだけ力を籠めた。
(ま、今は……)
小さくて柔らかい手。
そこから伝わる温もりが、妹紅の手を握り返すように微かに動く。
慧音は歩みを止める事なく、どこか不思議そうに、どうしたと言わんばかりに首をこてんと傾けて尋ねる。
「なんでもなーい(どーでもいいか)」
妹紅は短くそう返すと、ふっと口元を緩めた。
慧音の持つ、少し高めで心地よい子供体温をしっかりと味わうように、ふにふにと握る手の力に強弱を加える。
急ぐ理由も、追われる理由もない。
そんな穏やかな昼下がりを、妹紅は隣の温もりに安らぎを感じつつのんびりと歩き続けていった。
だが、その時ふと前方から届いた物騒な怒号。
「……ん?」
妹紅は足を止める。
そこでは何やら、複数の男たちが怒鳴り合い、言い争っている声が響いてくる。
妹紅の隣で、繋いでいた手を引かれた慧音も足を止め、その後首を傾げて「なんだ?」と小さく呟いた。
声のする方向へじっと視線を向ける妹紅。
だが、そこに広がっていたのは――あの月面戦争での狂騒が嘘のように、呆れかえるほど『普通』のくだらない騒動だった。
見るからにガラの悪そうな男が二人。
道幅の狭い村の通路の真ん中を堂々と占拠し、胸ぐらを掴み合って互いに口汚く罵りあっている。
遠巻きに見ている村人たちの反応からするに、どうやら彼らは普段からロクなことをせず、周りからも全く良く思われていない連中のようだった。
一部抜粋しても「またやっているよ」、「ホント、いい加減にして欲しいものだ」と散々な言われようであった。
しかし、当の本人たちは周囲の冷ややかな視線など耳に入っていない様子だった。
今もなお喧嘩の熱は段々と高まり続け、互いにいつ手が出てもおかしくないくらいだ。
前方、それも人通りのある道の真ん中を我が物顔で塞ぎ立てる、
妹紅からしてみれば、所詮は特別な異能の一つすら持たないただの人間程度。
弾幕や軽い術を使うまでもなく、素の腕力だけでも簡単に捻り潰せる程度の相手でしかない。
邪魔だし、何より目の前でやられると目障りで仕方がない。
(さて、やるか)
妹紅は「ちょっと待ってな」と慧音の手をそっと離す。
そして意気揚々と長袖の裾を軽くまくり上げ、少しばかりお灸を据えてやろうと男たちの方へ歩き出した。
その時だった。
「この野郎、調子に乗りやがって……!」
怒りで顔を真っ赤にした片方の男が、とうとう我慢の限界を迎えたように太い腕を大きく振り上げて拳を握る。
だが――その握った拳が振り下ろされ、相手の男の顔面に届くよりも先に、その暴力を唐突に阻む手が割り込んだ。
妹紅の目の前。
喧嘩の渦中にあった男たち二人の真ん中に、滑り込むように突如として現れた影。
それはまるで、夏のどこまでも澄み渡る晴れ空よりも蒼い、鮮やかな青髪の少女だった。
「な、誰――」
突如割り込んできた存在に男たちが毒気を抜かれたのも束の間。
次の瞬間に巻き起こったのは――理不尽極まりない『制裁』の連続だった。
ボガッ! と、重苦しい衝撃音が鳴り響く。
青髪の少女が繰り出した握り拳が、そのまま拳を振り上げていた方の男の顔面に寸分の狂いなくねじ込まれた。
男の巨体は紙切れのように軽々と宙を舞い、そのまま数メートル後ろにあった民家の土壁へと凄まじい勢いでめり込んだ。
更に、それと全く同時。
青髪の少女はもう片方の手で、呆然と立ち尽くしていた男の顔面を容赦なく鷲掴みにする。
そのまま一瞬の猶予も与えず、勢いよく地面へ叩きつけた。
ズドオッッ! と、凄まじい落雷のような破砕音が鳴り響き、男の頭部を中心に固い地面が凹み、派手に陥没する。
『…………』
悪漢たちは、悲鳴を上げる事すら許されなかった。
あまりにも桁違いな威力の『制裁』、その想像を絶する痛みに悶絶する余力すらなく、一瞬で意識を刈り取られて白目を剥き、完全に沈黙したのである。
静まり返る街道。
人間離れした恐ろしい荒業を平然と成し遂げた青髪の少女は、自分が行った壊滅的な惨状に対し、罪悪感など微塵も感じていないようで。
そのまま満足そうに「あースッキリ」と、パンパンッと両手を叩いて埃を払い。
「やっぱり、喧嘩は『する』より『止める』に限るわね」
そう言って、晴れやかな笑顔を浮かべてみせた。
壁にめり込んだ男と、顔面を地面に叩きつけられた男。
二人の、そのあまりにも一方的かつ壊滅的な惨状を目にして、それまで彼らに冷ややかな視線を送っていた村人たちは一転して静まり返り、すぐにそれ以上の恐れと驚愕の混ざった感情を、目前にいる青髪の少女に対して向け始める。
「なっ……な、んだあいつ……?」
「おいおい、あいつら息はあるのか……?」
「関わらん方がいい、去るぞ……!」
さっきまでの人集まりが、まるで蜘蛛の子を散らすようになくなっていく。
皆がこちらを見ることもせず、無言で距離を取っていく中、妹紅はまくり上げた袖を下ろすことも忘れて、目の前に佇む青髪の少女を見つめていた。
その全身の輪郭。一見すると華奢な見た目だが、そこに内包された筋肉の出力と、踏みしめる足の重心の位置。
それらをじっくりと観察し、確信する。
(何だ、この違和感……? いやそんな事より……立ち姿だけで分かる。コイツ――)
――強い。
それも、生半可な強さではない。
果てしなく、どこまでも底が知れない
かつて陰陽師としての修行を叩き込まれた日々の記憶。
そして不老不死となり、その道を捨ててから今日までの、途方もない星霜の中で築き上げてきた、血と硝煙に塗れた戦闘経験。
その双方を総動員しても、目の前の少女が放つ気配はこれまで妹紅が出会ってきた並の妖怪に匹敵するか、あるいは超え得る程の純然な『暴力』としか判断できない。
だが、目の前の少女にはそれら圧倒的な強者に連なる一種の覇気を纏いながらも、そこに纏う雰囲気にはどこか浮世離れした幼さと、徹底的な身勝手さが同居している。
夏の澄み渡る晴れ空よりも鮮やかな青い髪。
その独特な佇まいと桁外れの力量。
妹紅の頭の中でいくつかの情報が繋ぎ合わさり、即座にその少女の正体へ行き着いた。
(……なるほどね。前に噂で聞いてた、あいつが……)
畏怖に怯えていなくなった村人たちとは対照的に。
妹紅は一切臆することなく、ポケットに手を突っ込み、飄々とした足取りで少女の元へと近づいていく。
そして、何でもない雑談でも持ちかけるかのように、ごく自然な調子で彼女へ声をかけた。
「修業はどうしたのさ? 天人様」
その言葉を聞いた瞬間、青髪の少女――比那名居天子は片眉を跳ね上げ、それから心底退屈そうに口を尖らせた。
「うっざいわねぇ人を不良みたいに」
「いや事実でしょ。修行をサボってる時点で普通は天人失格だっての」
妹紅が間髪入れずに即答すると、天子は言葉に詰まったように口を噤ぐ。
ぐうの音も出ない正論を突かれ、反論の言葉が見つからない腹立たしさを隠すように、天子はフンッと横を向いて大袈裟に鼻を鳴らす。
「チッ……」
舌打ちを一つ。
「……こっちはただ地上の飯を食いに来ただけなのよ。なのに何で、こんな薄汚いの二匹に邪魔されなきゃいけないわけ?」
天子は不機嫌そうに愚痴を吐き捨てる。
それから、うつ伏せになってピクピクと動いている男の腹を、つま先で軽く蹴り上げた。
「がッ……ッ!?」
意識を失っていた男が、内臓を直接揺さぶるような激痛で声にならない呻きを漏らす。
天子はそれを見下ろし、憂晴らしができたと言わんばかりに、小さく意地悪な笑みを浮かべた。
「アハッ。駄犬らしく惨めに鳴けて偉いじゃない」
そして、天子は更に調子に乗って、ますます加虐的な嗜好を覗かせる。
ゆっくりと無造作に右足を高く持ち上げ、今度は男の頭部を踏みつけようと準備する。
「さて、なら次は……」
だが、天子のその足が容赦なく男の頭へ踏み下ろされる直前。
天子の目の前に、突如として一つの小さな影が割り込んだ。
「おい! お前、やり過ぎだぞ!」
幼い体躯でありながら、凛とした強い響きを持つ声。
そう言って天子の前に立ちはだかったのは慧音であった。
慧音は両手でしっかりと自身の腰に手を置き、天子を真っ直ぐに見上げ、何一つ臆することなくそう叱り飛ばす。
「へぇ?」
天子はまるで珍しい玩具でも見つけたかのように、愉快で面白そうな笑みを唇に浮かべた。
そして、そのまま優雅に膝を折り、しゃがみ込んで慧音の小さな顔を覗き込んだ。
「…………」
何ひとつ言葉を発することなく、ただじっと、その鮮烈な赤い瞳で慧音を見つめるだけ。
そこには言葉による威嚇も、露骨な敵意すらも存在しない。
だが、それは天の上から全てを見下ろす『天人』という種族が生まれ持つ、あまりにも絶対的な種族としての格の違い。
そして、圧倒的な強者としての『圧』。
それが、沈黙と共に津波となって慧音の全身へと押し寄せた。
「ッ……」
皮膚を押し潰すような重圧に、慧音の小さな身体が一瞬震える。
それは本能が鳴らす警鐘。
目の前にいる存在が、気まぐれ一つでこの村ごと自分を消し飛ばし得る圧倒的な暴威であると、肉体が恐怖を告げた証。
しかし。
しかし慧音は――それだけだった。
「ッ――!」
慧音の身体の震えは、ほんの一瞬で収まった。
逃げ出したいという本能的な恐れをその強い意志の力で即座にねじ伏せる。
慧音は天子が放つ威圧に対し、負けじと鋭い瞳で視線を返し、真っ直ぐにその赤い瞳を見つめ返した。
幼い少女の姿を借りながらも、折れぬ矜持と覚悟を宿した眼光。
天子と慧音、交錯するふたつの視線の間。
その一切の隙間もない無言の膠着状態が数秒間、息を吞むような緊張感と共に横たわり――そして。
「……はぁ」
やがて、天子は退屈そうに深くため息を一つ吐き出すと、静かに立ち上がった。
威圧感を一瞬で消し去り、いつもの気怠げな素振りに戻ると、吐き捨てるように呟く。
「ったく、これ以上私を惨めにさせるんじゃないわよ」
そして、未だ自分を睨みつけている慧音の小さな頭の上に、無造作に手を置いた。
それからわしゃわしゃと、その頭髪を雑に撫で回す。
急に乱暴に頭を撫でられ、慧音は「む……ッ」と不満げに眉をひそめた。
「……興が削がれた」
満足したのか、不満が残ったのかどちらともつかない表情のまま、天子はくるりと背を向けて歩き出そうとする。
だがその時、天子は近くに立つ妹紅の方へ一切視線を向けることなく、ただその声だけを掠れさせるように届けてきた。
「――お前は、捨てなくてもいいものまで捨てるな」
静まり返った街道の空気を通り抜け、妹紅の耳元へと明確に届く声。
それは本当に小さく、しかし驚くほどによく透る声だった。
「死んでも捨てるな、守り切れ。あれを抱えて醜く生きろ」
天子は、それだけを淡々と告げるだけだった。
そして結局、一度も振り返る事のないまま、悠然とした足取りで村の外へと去っていく。
「…………」
妹紅はポケットに両手を突っ込んだまま、遠ざかっていく天子の背中をじっと見つめ続けていた。
やがて、その背中が完全に消えたのを見届けてから、妹紅は低く、誰にも聞こえないほどの声量で呟く。
「あぁ、勿論」
繋いだ手から伝わってきた慧音の柔らかな体温。
守るべき小さな命の感触を思い出し、それを噛み締めるように、言葉に力を込めて言う。
「……この不死の命、燃え尽きるまで」
地味に真理に辿り着いたてゐさん。
投稿時間は何時がいいか
-
7:00~9:00
-
10:00~12:00
-
13:00~15:00
-
16:00~18:00
-
19:00~21:00
-
22:00~0:00