【本編完結】諏訪子様になった、負け戦を回避したい   作:洩矢廻戦

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 次回で二部最終回


149話.「ただいま」

 地上の喧騒から遠く切り離された、地下深くにある世界。

 かつて悪人に罰を与える『地獄』として栄えたその場所は、もうかつての凄惨な風景を残しておらず、生活感溢れる木造の古い街並みが連なっていた。

 微かに揺れる赤提灯の灯火が、湿り気と熱気を帯びた闇を仄暗く照らし出す。

 その妖しくも、どこか懐かしい哀愁を漂わせる地底世界は、今や地上から流れ込む古き妖怪たちが蠢く立派な都だった。

 

 だが、そんな和風の街並みが広がる地底の奥深くに、ある異風を解き放つ異質な建物が存在する。

 大聖堂を思わせる天を突く高天井に、壁面に連なる重厚なアーチ状の柱列、そして揺らめく光を透過させる蒼いステンドグラス。

 静寂と地底の冷気が満ちるゴシック調の邸宅は、未だ荒々しさを残す地底世界で不気味なまでの荘厳さを誇っていた。

 

 その屋敷の一室。

 精巧な彫刻が施された木製の壁面と、足音を優しく吸い込む深いゴシック風の赤いカーペットが一面に敷き詰められた丁寧な作りの室内で、それらの声はゆったりと響き渡った。

 

「なぁもう酒はないのか?」

 

 豪快で、少しばかり酒気を帯びた声が重厚な部屋の空気を揺らす。

 

「…………」

 

 グラスを傾け、琥珀色の液体をちびちびと口に含みながら、自身に投げかけられた声に不機嫌そうな顔を隠さない少女。

 波打つ淡いピンク色の髪に、小柄で華奢な体躯に薄紫の衣装を纏った姿。だがその胸前には不気味に蠢く赤い『第三の目』が鎮座している。

 その正体は人間、妖怪からその存在を嫌悪され、同時に畏怖される心を読む妖怪。

 ――この大邸宅の主、古明地さとりはグラス越しに冷ややかな視線を向けた。

 

「……ある訳ないでしょう。鬼のために私財を投げ捨てる気はありませんので」

「ちぇっ、なら今ある分をしっかり楽しまなきゃな」

 

 さとりの視線の先、豪華な装飾が施された部屋のソファを大きな体躯で占領しているのは、酒気を帯びた鬼――星熊勇儀。

 角を虚空に突きたて、大盃を抱えるようにしながら、勇儀は不満げに部屋を見渡す。

 

「……なぁ、本当にないのか? こんなにデカい家を持ってるのに?」

「しつこいですね、ないもんはないんです。それに、これはただ八雲紫から与えられただけですよ」

 

 不機嫌そうに、さとりは短く返した。

 

「知ってるでしょうが、私はただこの家を与えられ、同時にここで仕事をするように言われただけ。私が選んで建てた訳じゃありませんし、酒も少ししかありません」

 

 グラスを卓上に静かに置き、冷めた眼差しで屋敷の天井を仰ぎ見る。

 

「それにしても、私を飼うための『籠』にしては……」

「いいじゃないか。派手で豪華だ」

 

 勇儀は足を投げ出し、ソファの背もたれに深く体を預けながら笑う。

 だがさとりはその言葉に眉をひそめると、小さく鼻を鳴らした。

 

「逆ですよ、逆。この邸宅では『私の素晴らしさ』に釣り合ってないんです」

 

 謙遜の色など微塵もない。

 まるで当然の事だと言わんばかりに、さとりは小さな胸を張って堂々とした態度でそう言い放った。

 それから『第三の目』を薄っすらと細めながら、更に言葉を続ける。

 

「まっ、八雲紫の私を見る目がなかったって事ですよ」

 

 かつて自分をこの地底へと追いやる要因を作った地上の大妖怪の名を挙げ、事もなげに切り捨てるさとりの高い自己評価。

 それを聞いた勇儀は、可笑しくてたまらないといったように肩を揺らして豪快に口元を緩める。

 

「ははっ、おもしれ」

 

 さとりの尊大な言葉を意に介することもなく軽く笑い流すと、勇儀は適当な相槌を打つ。

 それから空になった大盃を片手で揺らしながら、さとりに問いかけた。

 

「で、そんなお前から見てどうだった?」

「どうとは? ……あぁ、あれですか。『月面戦争』とやらの」

 

 『第三の目』で勇儀の心を読み取ったさとりは、琥珀色の液体が入ったグラスを緩やかに傾けながら、そっけない調子で応じる。

 

「つまらない『負け戦』になる事は分かっていましたからね。最初はそこまで期待していませんでしたよ」

「あぁ、やっぱりか」

「月って寒そうだし、うさぎさんしかいなさそうだしで退屈そ~」

 

 勇儀はさも当然と言わんばかりに深く頷き、『彼女』もまたつまらなさそうに言う。

 さとりと勇儀が使っている酒器の傍らにある、もう一つの小さなグラス。

 そこに入っていた琥珀色の液体は、ほんの僅かに液面を揺らしながら減っている。

 

「……ふぅん。八雲紫はあなた達に何も言ってなかったんですね」

 

 それを後目に、再び勇儀の心を読み取ったさとりは肘を卓につき、頬杖をついて言った。

 

「まぁ……妖怪の癖に妖怪を間引くなんて思い切った計画。誰にも言えなくて当然ではあるんでしょうけど」

 

 八雲紫の『幻想郷』計画はかなりの博打だったと言わざるを得ないだろう。

 忘却の滅びから救う対象である筈の妖怪を、月の科学を利用し滅ぼすという、自分以外全ての妖怪を敵に回しかねない目的。

 だが覚妖怪、それもさとり自身が持つ読心能力すら欺ける『スキマ』の力があるのなら、関係者以外に計画がバレる心配もない為、博打ではあるが負ける可能性は低いという、なんとも言い難い内容である事も事実。

 故に、一つの誤算は。

 

「まさか、八雲紫自身が『負ける』とは」

 

 グラスを指先で緩やかに揺らしながら、さとりは冷淡な声を落とした。

 その言葉を聞いた勇儀はふっと目を細め、月から帰って来たばかりの八雲紫の姿を脳裏に思い浮かべる。

 月へと攻め入る前と変わらぬ、あの張りつめた堅苦しい表情。

 決して取り乱すこともなく、一見すると見事なまでの平然を装っていた大妖怪の立ち姿。

 だが、勝負事に関して極めて鋭敏に反応する『鬼』としての勇儀の勘は、その表情の奥底に硬く押し殺されていた感情を容易く見抜いていた。

 

 あれは――屈辱の感情だ。

 

 この先自身の手で、自身の力で敗北の原因へ一矢報いる事による完全な『決着』でしか払拭できない。

 そんな、魂の奥深くにまで刻み込まれた敗北の結果。

 

「これからのあいつが見物だね」

 

 勇儀は短くそう吐き捨てると、手にした大盃へまた新たな酒を注ぎ入れた。

 

「他人事ですね」

 

 さとりは呆れたようにグラスの縁をなぞり、持ち上げる。

 透明なグラス越しに勇儀の顔を見つめながら、問いかけた。

 

「今回の戦争で、少なくない数の鬼が参加したと聞いていますが……それならあなたにとって、八雲紫は同族の命を無作為に奪った存在と言っても過言ではない筈では?」

「確かにな」

 

 勇儀は大盃を傾けて一気に酒を飲み干す。

 それから、そのまま天井の豪奢なアーチを見上げるように虚空へと視線を投げた。

 

「――嘘は嫌いだ」

 

 その声は、驚くほど静かだった。

 

「心を偽ることは、何よりも気に入らない。昔は、それだけだった」

「…………」

 

 さとりは黙ってその言葉に耳を傾ける。

 胸元の『第三の目』を通している為、勇儀の心が紡ぎ出そうとしているその先の言葉など、とっくにもう分かっていた。

 しかしさとりは、あえてその思考を言葉で遮ることなく、彼女の口から紡がれる音を待った。

 

「それでも、世の中は変わっていくものだ。妖怪も、人も」

「当たり前の事ですね」

 

 さとりが静かに淡々と返す。

 

「あぁそうだ。当たり前のことだ、だがその変化についていけなかった奴がいる。その限界が、あの戦争に行った奴らだった」

 

 勇儀の言葉と同時に、その思考の波がさとりの『第三の目』へと流れ込んでくる。

 さとりの脳裏に再生されたのは、かつて地上で繰り広げられていた、あまりにも生々しい過去の鬼たちの光景だった。

 

 人を攫い、恐怖に怯える子供の目の前でその親を貪り喰らう姿。

 やがて復讐に燃えてやって来た人間どもと血みどろの喧嘩を繰り広げ、返り討ちにして殺しては、笑い転げて酒と宝を奪い去っていく無軌道な鬼たち。

 

 かつての『鬼退治』の全盛期。

 鬼が地上最強の妖怪と謳われるが所以。

 覚妖怪と正反対な、純粋な恐怖の体現者とも呼ぶべき種族の栄華がそこにはあった。

 

(なんと愚かで馬鹿馬鹿しい……)

 

 記憶の中で暴れ回る鬼たちを、さとりは胸の奥で冷ややかに見下していた。

 知性も品性もなく、ただ本能のままに肉を貪り血を流すだけの存在。

 その上、人間たちが知恵と策略を用いて鬼と戦う道を選んだ事を嫌悪し、勝手に嫌って地底に逃げ込むその性根。

 そんな醜い暴力の化身とも呼べる鬼を、さとりは本気で蔑んでいた。

 

「世の中に酸いも甘いもあるように、心に嘘と真がある事もまた世の理だ」

 

 もうこの世にはいない、月で散っていった愚直な同族たちを思い浮かべながら、勇儀は呟く。

 

「これから先、新しい時代がやって来る。それにあいつらはついて行けない。……いや、来ちゃいけないんだ」

「…………」

「そして、もうあいつらの居場所もない」

 

 時代の変遷から取り残され、地上からも弾き出された古い鬼たち。

 だからこそ――と、勇儀は続けた。

 

「だからせめて、最後にあいつらが生きていられる時代と価値観の下で、その最期くらいは好きにさせてやりたかったのさ」

 

 豪快なはずの鬼の顔に、どこか切なく、寂しそうな笑みが浮かんでいた。

 それを聞いたさとりは、しばらく黙っていた。

 足音を吸い込む深い赤のカーペットが、仄暗い灯火に揺れる静寂の中。

 胸元に漂う『第三の目』を小さく脈動させながら、目の前の鬼をただじっと見つめる。

 

「……?」

 

 やがて勇儀の言葉を聞き終えたさとりは、ふっと首をかしげた。

 

「…………??」

 

 視線を右上へ、続けて左上へと順に動かす。

 それから、フンッと小さく息を吐いて。

 

「あ、そうですか」

 

 勇儀の独白を、たったそれだけで終わらせた。

 

「おいおい、それだけか?」

 

 拍子抜けしたように、勇儀が尋ねる。

 

「えぇそれだけです。予想通りつまらない答えでしたね」

「つまんなーい」

 

 さとりと『彼女』はそう返してから、再びグラスを傾けた。

 琥珀色の液体で微かに喉を潤すと、冷ややかな視線を勇儀へと戻す。

 

「微塵も興味のない内容でした。人間ですら、変わっていく時代と怪異に適応して身の丈を知っていくというのに、あなた達にはそれがない」

 

 グラスを卓上へと静かに戻し、さとりは言葉を重ねる。

 

「そんなザマで、よくもまぁ天狗たちを見下せたものです。私から見れば、天狗も鬼も無様さでは同格ですね。むしろ人間を倣って上下関係をきっちり作ってる向こうの方が立派ではあります」

 

 己の種族の矜持を一蹴され。

 同格、あるいは格下と切り捨てられたというのに、勇儀から不機嫌の気配は微塵も生じなかった。

 むしろ、肚の底から込み上げる面白さを抑えきれないといった様子で、豪快に肩を揺らして笑った。

 

「あっはっは! 確かに言えてるなぁ!」

 

 勇儀は膝を叩き、手にした大盃を揺らしながら愉しげに笑い声を響かせる。

 

「あぁ違いないな! 規律だの格付けだのに縛られて、コソコソやってるあいつらを昔は反吐が出るほど嫌っちゃいたが……時代を生き残る為の知恵としちゃ、確かにあいつらの方がよっぽど賢かったわけだ!」

「えぇ」

「で? その立派な天狗も含めた妖怪、人間や神やらを丸ごと囲い込もうとしてる八雲紫。……お前ならどう料理する?」

「料理なんてしませんよ」

 

 さとりは心底不快そうに眉をひそめ、椅子の背もたれに深く体を預けた。

 

「忘却からの救いだの、理想郷だの。そんな大それた理想には微塵も興味ありません」

「じゃあ何であいつに従って、この『旧地獄』の上に立とうと思った?」

「暇でしたので」

 

 さとりはやれやれ、と頭を振って。

 

「地上から逃げ込んで来た行き場のない怪異。それらの過去は刹那多様的で、勝手に動く開かれた本のようなもの」

 

 その時初めて。

 さとりは一体の妖怪らしい、愉悦に歪んだ笑みを浮かべる。

 

「――死ぬまでの暇潰しとして啜る分には丁度いい」

「ハッ」

 

 勇儀は笑う。

 

「相変わらず言い草が最高に不遜だ、気にいった! つまりこの地底は、これからはお前ひとりが握る支配領域って訳だ」

「そんな大層なものじゃありませんよ。ただ少し大きめの『庭』が用意された……それだけです。鬼だろうと何だろうと、私に隠し事は通じませんから」

「違いない。どんな悪党もお前には敵わないだろうねぇ」

 

 勇儀は大盃にまた並々と酒を注ぎ、満足気に目を細めた。

 

「ククッ、どうやら私も退屈しない場所になりそうだ」

「退屈しないのは結構ですが、私の部屋にいつまでも居座るのはやめていただきたいのですが?」

「まぁそう言うなよ。酒の肴としちゃ、お前のその辛辣な口車が一番の絶品だ」

 

 勇儀は悪びれもせず酒を煽り、さとりは心底辟易したように小さく溜め息をつく。

 さとりは手元のグラスを軽く傾け、残された数滴の琥珀色の液体が揺れる様を、どこか退屈そうに見つめている。

 勇儀もまたその豪快な身振りを崩さず、大盃に入った残り少ない酒を喉へと流し込むと、息を吐いてソファの背もたれに深く体重を預けた。

 

「それに……」

 

 勇儀は赤い瞳を緩やかに巡らせ、天井の重厚なアーチから、部屋の隅々に至るまで、ぐるりと部屋を見渡した。

 酒気を帯びた低い声が部屋の壁に反響する。

 

「これだけデカい場所、お前ひとりで住むとなると寂しくならないか?」

「なるわけないでしょう」

 

 さとりは変わらず、心の底から面倒臭そうに即答した。

 呆れたように眉を寄せ、グラスの縁を指先でなぞりながら、フンと鼻を鳴らす。

 

「私に『寂しい』などという情緒を期待しているのなら大間違いです。こんな素晴らしい読心能力を妬み嫌う見る目のない愚か者たち。そんな奴らの存在を求めるはずもないでしょう」

「相変わらず可愛げのない奴だ。そういう所が嫌われる原因だろ」

「なら、この程度の『可愛げ』すら我慢できない、堪え性がない向こうが悪いんです」

 

 相変わらずの自己評価の高さ。

 清々しさすら覚える程のその様子に、本日何度目かの大笑いを見せる勇儀。

 

「ハハッ! まぁそれでもだ。これだけ広けりゃ足音一つ立てるだけで部屋中に響くぞ。夜なんて静かすぎて気味が悪いくらいだ」

「鬼が夜を気味悪く思う、と? それに静寂は私の好むところですし、他者の雑念が飛び交う騒々しい場所より落ち着きますから。……まぁ」

 

 そこでさとりは言葉を区切り、ほんの少しだけ視線を泳がせた。

 

「今ここにはいませんが、最近手のかかる妖怪を一匹飼い始めたんですよ」

「ほう、妖怪?」

 

 勇儀が大盃を膝の上に置き、興味深そうに身を乗り出す。

 

「へぇ? お前程の女が自分以外の妖怪を身近に置くなんてねぇ、珍しいじゃないか。地底に落ちてきたばかりの荒くれ者か?」

「いえ。この地底の死体捨て場をうろついていた怪奇の類です。それから色々あって、私が主となりました」

「可愛い子だよ~」

 

 さとりと『彼女』は続ける。

 

「私に拾われた立場だというのに、図々しく廊下を自分の縄張りのように走り回ってるんです。なので、夜はむしろ騒々しいくらいです」

「死体の匂いは勘弁して欲しいけどねぇ」

「ほう」

 

 勇儀は短くそう口にすると、不敵な笑みを深めた。

 

「あの覚妖怪の屋敷で好き勝手走り回る物好きがいるとはな。一体どんな妖怪だい?」

「『火車』ですよ、ただ……」

 

 さとりはふふっと小さく微笑んだ。

 手に持っていたグラスを卓上の目の前へと静かに置く。

 そして、小さな両手を胸の前で丸く広げてみせた。

 

「これくらいの猫の姿にも戻れるんです」

 

 それから、満面の笑みで。

 

「私が一番評価している点でもありますね、あの子無駄に場所を取らなくていいんですよ」

「愛玩動物に対する評価じゃないだろ、それ」

 

 勇儀は呆れたように、思わず突っ込みを入れた。

 罪人の亡骸を奪うとされる怪異の火車を、単に『場所を取らない小型の動物』として扱っているさとりの感性に、流石の勇儀も苦笑いを禁じ得ない。

 

「場所を取らない…か。まぁお前らしいといえばお前らしいが」

「事実ですから。人間に化けた時も、そこらの妖怪に比べれば随分と小柄ですしね。放っておけば死体を拾ってきてはこの屋敷のあちこちに隠そうとするので、その都度叱り飛ばさなければなりませんが……」

 

 口では不満を並べ立てながらも、さとりの胸元の『第三の目』は、柔らかく穏やかな脈動を打っていた。

 心の底では、そんな騒がしい存在によって退屈せず、面白がっているのだという感情が。

 

「まぁおかげで、この家も()()()と一匹で賑やかになりそうです」

 

 さとりは何気ない風を装い、そう言葉を締めくくった。

 だが、その言葉に含まれた僅かな違和感を、勇儀は聞き逃さなかった。

 

「ん?」

 

 勇儀の眉がピクリと動く。

 大盃を抱える手が止まり、鋭い眼差しがさとりへと向けられた。

 

「ふたり?」

 

 酒気を帯びていた筈の勇儀の声から、ふっとそれが引いていく。

 

「お前以外にも誰かいるのか?」

 

 さとりと火車、今聞いた限りではこのふたりがこの場所に住んでいる。

 ならば、今さとりが言ったもう『ふたり』の片方とは、一体誰のことだ?

 勇儀の問いかけが、重厚な室内に落ち、再び静寂が両者を包み込む。

 

「…………」

 

 さとりは暫く黙った。

 それはまるで、答えを焦らすように。

 あるいは、その問いが投げかけられるこの瞬間を、ずっと前から待ち望んでいたかのように。

 

 静寂の中、卓の上に置かれた()()()()()()に、ステンドグラス越しの光が反射し、妖しく輝いていた。

 一つのグラスは、さとりが今まで傾けて、そして使い続けていた琥珀色のグラス。

 そしてもう一つは――この宴の間、ずっとそこに存在し、さとりと勇儀の会話の合間に『彼女』が使っていたグラス。

 

 さとりは、ふっと楽しそうに笑った。

 冷酷でもなく、不遜でもない。

 胸の奥底から溢れ出る、僅かな愉悦と安堵を隠さない、少女らしい可憐な笑みをその唇に浮かべて。

 

「えぇ、いますよ」

 

 そう静かに呟くと、さとりは小さな両手を伸ばした。

 右手には、先ほどまで己の使っていたグラス。そしてもう片方の左手には、『彼女』が使っていたグラス。

 それらを優しく持ち上げ、困惑する勇儀に見せつけるように掲げた。

 さとりは視線を勇儀から外し、自身のすぐ隣――何もないはずの虚空に、左手に持つグラスを向かわせる。

 それから、一言。

 

「随分長い旅行だったようね?」

 

 さとりの問いかけが、部屋の空気を優しく揺らす。

 そして、次の瞬間。

 

「――あらら、もう気づかれちゃった」

 

 誰もいないはずの虚空から、すっと輪郭が浮かび上がるかのように。

 『無意識』によって隠されていた存在が、久しぶりに姿を現し、さとりが持っていたグラスを手に取った。

 

「おかえりなさい、こいし」

「ただいま~」

 

 まるで鈴を転がすような、無邪気で可憐な声。

 さとりの妹――古明地こいしの言葉が、部屋全体に響き渡った。

 それからぽすんっ! と、さとりの肩の上に顎を乗せたこいしは、楽しそうに鼻歌を歌い始めた。

 

「こいし、私の酒を勝手に飲まないでくれるかしら?」

「いいじゃん、久しぶりに帰ってきたんだからさ? 外はとっても寒かったんだよ? 月がすぐそこに見える程たか~い山の上に行ったり、スキマの妖怪の後ろをついて行ったり……」

「……あなた、やっぱり『月面戦争』を見に行ってたのね」

 

 さとりは呆れたように小さく息を吐き出す。

 しかし、こいしを振り払おうとはせず、その体勢のまま言葉を重ねる。

 

「それで? どうでしたか?」

「つまんなーい! 月も結局地上とほとんど変わってなかったよ? みんな怒ったり泣いたりで忙しそう。ただ月のかがくへーき?ってのは見てて楽しかったなぁ、あとね~」

 

 こいしの淡い髪を指先で撫で、さとりは言う。

 

「どこへ行っても……『人間』の心は移ろい、そして妖怪の執着は醜く渦巻いている……『穢れ』から逃れる為の月の大地も、結局安寧の場には至らない……そうでしょう?」

「うーん、分かんない!」

 

 こいしは首を傾げ、それからコロコロと笑った。

 

「あぁでも、私はここが一番落ち着くかな? お姉ちゃんの匂いがするし、新しい家も広くていいしね」

「全く……」

 

 それからさとりは、すぐ隣にある空いた席を指さし。

 

「座りなさい、髪を梳いてあげるから」

「はーい!」

 

 呆気にとられる勇儀の前で、姉妹ふたりは自分たちだけの世界に入る。

 地底に吹く冷たい風がステンドグラスを小さく叩き、その向こうでは、哀愁を帯びた街の赤提灯の灯火が静かに揺らめいていた。




 うちのさとり様は普通に性格が悪い。

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