"にわか"は言う「だから『推しの子』だって言ってんだろ!」   作:あるミカンの上にアルミ缶

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第157話

 とんでもねー場面に立ち会ってから少し経ち、俺は家に到着した。

 とんでもねー場面って? そりゃあ、あれだよ。

 親子喧嘩と言えば良いのか、女同士の喧嘩と言えば良いのか、総称して修羅場と言えば良いのか。

 いやね? 流石の俺も予想外だった訳ですよ。

 予定外に家に呼ばれて、脳内が整理される前に急転直下ですもん。

 どうしようも無かった、いや、どうする事も出来なかったが正しい。

 経験の無い出来事が来ると全く役立たずなんだなって知った、そんな日でした。

 え? 何か軽くないかって?

 まあ確かに、軽いというか現実から目を逸らしている様に思えるかもしれない。

 何せ、あんな事があった直後だ。

 普通なら間違いなくシリアス一直線な考え方に向かうってもんよ。

 ……ああ、分かってる。

 これが、現実逃避だってのは。

 アイが、ルビーが、あんな事になったんだ。

 もっと真剣に考えなきゃない。

 早く解決策を練らなきゃない。

 そう思う心は、当然ながらにある。

 ……でもさ。

 でも、ほんのちょっとくらい、現実逃避の時間があっても、良いと思うんだ。

 

 もう一度言う。

 俺は、家に到着した。

 だが決して、俺だけが到着した訳じゃない。

 見事に家出を果たしたルビーが、同行していた。

 俺の家に住むとやらで。

 だからタクシーに乗って家まで帰って来た。

 引っ越してから初めて訪れる我が家のマンションに入ってから、ルビーはどこか圧倒された様な雰囲気で辺りを見渡しながら、共にエレベーターに乗る。

 そして目的の階に着き、玄関を開けたんだよ。

 

 

「あっ、カズヤさんっ! おかえりなさいっ!」

 

「…………誰? この女」

 

 

 ほんのちょっとくらい、現実逃避の時間があっても、良いと思うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ルビーに引っ張られる形で星野家を後にした俺。

 残されたアイの事は、当然ながらに心配。

 大丈夫だろうか、そんな思いが胸の中から消えない。

 ……でも、俺はルビーの側についた。

 あの時は、二者択一しかなかった。

 どちらかを選び、どちらかと離れなければいけなかった。

 そして、考える猶予はほぼ無かった。

 だから検討する余裕は無く、殆ど直感に近い状態で、選ぶしかなかった。

 ルビーを、選んだ。

 けれども、それは決してアイを見捨てた訳ではない。

 当然ながらこれは言い訳であり、俺があの場でルビーを選んだ事実は変わらない。

 ルビーに言われ、タクシーを呼ぶ。

 変装用に色の濃いサングラスをしたルビーはずっと、俺の腕に抱きついたまま離れる事は無い。

 タクシーが到着し、二人で乗り込む。

 車が動き始めれば、腕に抱きついたままに、ルビーが顔を上げる。

 

「……これでやっと、一緒に暮らせるねっ?」

 

 その言葉に、曖昧ながらも笑みを返せばルビーが頬を赤く染めて俺の腕へと顔を埋めてしまった。

 そんな彼女の姿を見ながら何か忘れている様な、どこかもやもやとした感覚が思考の片隅に残りながらも、車は目的地へと向けて進み続ける。

 不意に、ルビーが再び顔を上げた。

 

「そういえば、カズヤ君結構後ろにいたけどさ……デビューライブ」

 

 楽しめた?

 そう告げたルビーに、まるで遠い過去の様に思えてしまう、今日の記憶を呼び起こした。

 俺が、そしてアイが居た場所。

 

「まあ、前にも人とかいて全部は見えなかったけど、でも楽しめたよ」

 

 ありのままに回答を述べれば、それを聞いたルビーが僅かに頬を膨らませる。

 逆に言えば、あれだけ人に隠れていた俺を、よくルビーは見つけたもんだ。

 こっちから見ても前が結構人で埋まってたのに、そっちの方に驚くわ。

 目立てないからサイリウムだって、ごく一部の時しか頭上に出せなかった訳だし。

 アイも本当はもっと、ちゃんと見たかった筈だろうに。

 そんな事を考えていると、膨れっ面のアイドルが、小さく呟いた。

 

「……もっと前にいてくれたらよかったのに」

 

 最前列にいて欲しかったっ。

 そう不満気に述べる彼女に対して、こちらの返答は一つ。

 

「い、いや……流石に俺も有名人だしさ……その、変にバレて会場の様子がおかしくなるのも嫌だったっていうか……」

 

 たどたどしい言い訳と、乾いた笑いのみ。

 俺だけじゃなくアイも居たからこそ、観客からの視線が限りなく及ばない場所を陣取るしかなかった。

 俺だけなら正直、存在感を消せば何とでもなる。

 しかしアイが観客としている事がバレたら間違いなく、アイドルフェスであるあの会場がエライ事になる。

 そんな俺をジトっとした目で暫く見つめていたルビーだったが、やがて笑みを浮かべた。

 

「……ううん、分かってる。だって私のわがままだもん。カズヤ君が私の、アイドルとしての姿を全部見れなかったのは残念だけどさ」

 

 でも、と綺麗な笑顔のまま、ルビーが続ける。

 

「カズヤ君がいる、カズヤ君が見ててくれる……そして私をアイドル(嘘吐き)だなぁって思ってくれるのが本当だから――カズヤ君に、私の全力のアイドル(嘘吐き)を見せられたから、満足だよっ!」

 

 その表情に、瞳に、口調に、仕草に、全てに。

 

「……確かに、ルビーは完全にアイドルだったなぁ」

 

 そう、本心を漏らすしかなかった。

 俺の言葉にルビーは目を見開き、そしてまた勢い良く俺の腕へと顔を埋め、抱きしめる力を強めたのだった。

 そんな彼女の後頭部を眺めながら、思う。

 俺が先程、星野家でルビーを選んだ理由。

 所詮は言い訳。

 だが俺の中では、根拠を持った直感で選んだつもりだった。

 その根拠とは何か。

 

 アイを、信頼した。

 

 それに尽きる。

 アイ、ルビー。

 あの時の二人はどちらも、間違いなく精神的に不安定な状態だった。

 だからどちらを選んでも、どちらかの精神は落ち込んだままの不安定が継続される。

 けれども、どちらかを選ばなくてはいけない状況だった。

 あの状況下、更には時間の猶予がほぼ無い状態で、俺はルビーを取る事にした。

 アイへの信頼から。

 そしてその信頼には、三つの根拠があったから。

 一つは、アイが最後まで持っていた、ルビーへの気持ち。

 それは母親としての愛情。

 あの状況で母親としての気持ちを残せるのは、間違いなくアイが成長した証。

 アイがルビーの事を愛している証である。

 だからアイがルビーへと何かをするとは考えられなかった。

 一方のルビーは、時折アイの事を母親という目線では見なくなっていた様に感じられた。

 故にアイを選んだ場合、ルビーがアイへと何かをする可能性も僅かに懸念されたから。

 

 そして二つ目。

 嫉妬に狂う。

 その際の行動について。

 アイは今までに何度か、嫉妬した時の姿を俺に見せた。

 小さい嫉妬から大きい嫉妬、限界を迎えた嫉妬まで様々。

 ……まあ、俺が悪いんですがね。

 ともかく、アイが嫉妬をした時、その矛先は必ず俺に向いていた。

 他の人へと直接的な嫉妬を向けた事は、一度も無かったのだ。

 嫉妬を爆発させる相手は、必ず俺。

 だからアイの嫉妬は、俺に向けられるという経験則からの根拠だった。

 そしてルビー。

 彼女は正直、未知数。分からない。

 何せ今の今まで、ルビーが向ける異性としての愛のベクトルは、兄であるアクアだと思い込んでいたから。

 ルビーからそんな風に思われているとは全く以て認識していなかったが為、その様な言動を観察したり把握したりする事なんて、やってない。

 だからこそ、全く以て分からなかった。

 けれど、一つ分かった。

 それは先程の星野家での出来事。

 俺の腕にしがみつくアイを、ルビーが押し退けて俺から離した。

 ルビーは、"アイを押し退ける"事で、俺から離したのだ。

 昔の記憶。

 それは、激動の一日となった、仕事が休みの日の出来事。

 いつも通りアイからいきなり連絡が来て急遽遊ぶ事となった日の出来事。

 急ぎに急いで何とか時間通り目的地に着いた俺に届いた、少し遅れるというアイからの連絡。

 彼女の到着を駅で待っている時、俺は声をかけられた。

 ギャルっぽい少女と清楚っぽい少女から。

 人生初の、逆ナンである。

 それに浮かれながらもアイが来るので断ろうとしたその時、俺達の前に変装を外したアイが現れた。

 そして俺は、逆ナンをしてきた少女達と、距離が離れた。

 何故離れたか。

 アイが、俺の腕を引っ張った。

 アイが、"俺を引っ張る"事で、少女達から離したのだ。

 その違いが、両者にはある様に思えた。

 一概にどちらが良くてどちらが悪いとは思わない。

 恐らくはどちらも良くて、どちらも悪い部分があるのかもしれない。

 けれど先程の状況下では、少なくとも何かあった場合、アイが物理的に何かをするのは"俺にだけ"という、経験則からの根拠だった。

 

 そして三つ目。正直、この根拠が行動の決定における一番の要因だったのかもしれない。

 それは、とても単純な理由。

 他の二つの根拠と比べれば、然程語る事も無い、シンプル過ぎるもの。

 

 俺は――俺に恋をしたアイを知っている。

 俺は――俺に恋をしたルビーを知らない。

 

 そんな理由だった。

 だから、アイを信頼出来た。

 だから、ルビーを選択した。

 不安はある、心配もある、懸念もある、確証は無い。

 けれど俺は、アイを信じる事でルビーを選んだ事に後悔は無い。

 ルビーに聴こえたらどうなるか分からなかった為、部屋を出る間際、青白い顔でこちらに腕を伸ばす信じた女性に、伝わったかは分からないが口パクで伝えた。

 ――何とかしてみる。

 だから俺は、この複雑に絡んだ状況を何とかする義務がある。

 何とかしなければ、俺が幸せになって欲しいと思う人達が不幸になるかもしれないから。

 だからこそ、ルビーを選んだ。

 どう着地させるのが正しいかは、全く分からない。

 けれど、誰もが不幸じゃない選択肢を何とか見つけ出したい。

 腕に抱きついたまま後頭部たけをこちらに見せている少女を見つめる。

 何故こうなったかは分からないが、ルビーは俺に恋をした。

 せんせではなく、俺を結婚相手として見る様になった。

 だからこそ、不安が大きい。

 アイの時同様、この子の好きな相手が俺なんかで良いのかという自己否定がどうしても頭を過る。

 雨宮先生という素晴らしい人から、俺なんかに鞍替えして、この子は幸せなのかと思ってしまう。

 

 もしかしたら、俺の"声"が原因でこうなってしまったんじゃないかと、心が苦しくなる。

 

 けれど悩んで、悔やんでばかりいても何も解決しなのだと、新たに思う。

 そしてルビーに関しては、もう一つ懸念点があった。

 それは彼女(さりな)がルビーとして俺の前に初めて現れたあの時。

 あの時に感じた、彼女から何かが消えてしまうかもしれないという感覚。

 その時の焦りと恐怖がずっと、俺の中に残り続けていた。

 もし何かボタンの掛け違いがあったならば、今度こそ取り返しの付かない事が起こってしまう可能性がある。

 だからこそ、ルビーを選んだという理由も僅かながらにあった。

 今の彼女にとって何か意に沿わない事が発生した場合、あの時の再来が訪れるかもしれない。

 そう思うと、逆らう事が出来なかった。

 アイが伝えようとした、父親の情報。

 恐らくはアイから初めて父親に関して言及したのがさっきなんだろう。

 いや、星野家という枠組みで初めて父親という存在が話題に上がったのが、あの時が初めてだったのかもしれない。

 だが、結局は言えなかった。

 けれど、アイが伝えようとしたのならば、俺の口からも言える。

 だから言おうとした。

 でも、結局は言えなかった。

 あの時に見せた、ルビーの表情、そして剣幕。

 

 ――……カズヤ君、ママから離れて。

 

 あんなに温度を持たないルビーの声は、初めて聴いた。

 

 ――いいから早く。

 

 あんなに有無を言わせないルビーの声は、初めて聴いた。

 

 ――早くしてよッ!

 

 あんなにアイへと憎しみを向けるルビーの声は、初めて聴いた。

 

 ――私よりアイの方が大事なのッ!? ねぇッ!?

 

 あんなに俺に向けて縋り、悲痛な叫びを上げるルビーの声は、初めて聴いた。

 だから……言えなかった。

 俺が父親だと告げたら――何が起こるのか全く分からなかった。

 けれど、絶対に良い方向には向かわないだろうという事だけは理解出来た。

 だからルビーを落ち着かせる為にも、彼女の意に沿わない事はやめて、従う事にするのだった。

 落ち着いてからじゃないと何も出来ない。

 そう思ったから。

 故にこうして、特段の反対をする事無く、荷物を抱えた彼女を連れて俺の家へと向かっている。

 どちらにせよ今のままではアイとルビーが同じ部屋に居るのは難しいだろうなという思いもあり。

 だから暫くは、なるべくルビーに合わせた様な立ち回りをした方が良いだろうと考えながら、後頭部から視線を離し、移ろう車窓を眺めるのだった。

 

「……毎日、一緒に寝ようねっ?」

 

「……それは、仕事の状況次第かなぁ」

 

 時たまそんな会話を挟みながら。

 

 

 マンションの前にタクシー到着し、ルビーと共に降りる。

 外観を見て、エントランスを見て、エレベーターホールを見て、ルビーはどこか呆けた様に「おっきー」「きれー」「すごっ」といった様な感想を述べつつも、俺の家がある階に到着。

 エレベーターを出て、そのフロアにある一つだけの住居の玄関前に立つ。

 

「ここが……私とカズヤ君の愛の住処なんだぁっ……!」

 

 当社比五割増程度に瞳のハイライトを輝かせる彼女を横目に、カードキーで鍵を開けてドアを開いた。

 そこで漸く俺は、ずっと頭の片隅にあったもやもやが解消されたのだった。

 

 

「あっ、カズヤさんっ! おかえりなさいっ!」

 

「…………誰? この女」

 

 

 以上、現実逃避するまでの軌跡をカズヤがお送りしました。

 

「…………誰? この女」

 

 家に入って二言目を、ルビーが告げた。

 他でもない、俺に向けて。

 何と、答えれば。

 視界の奥にいる天使ちゃんはただ、この状況が理解出来ずに小首を傾げたまま。

 どうやら援護射撃は何も期待出来ないらしい。

 ……何も、思い浮かばん。

 滝の様に汗が流れ落ちるのを感じながら考え続け、やがて一つの結論を出した。

 

「……えっと……その、天使ちゃん……です」

 

 とりあえず、横にいるルビーに顔を向ける事も出来ないままに、紹介した。

 俺の声が聴こえた天使ちゃんが驚いた表情を浮かべる。

 そして慌てた様に口を開いた。

 

「だ、だから、他の人には天使ちゃんって言わないでくださいっ!」

 

 どこか恥ずかし気に頬を染めながら、俺へと抗議を述べた。

 うむ、実に天使ちゃんらしい。

 そんな事を考えていると、俺の耳にルビーの呟きが聴こえた。

 

 

「……天使、ちゃん……他の人には、呼ばせない……カズヤ君だけが、呼んでいい、名前……」

 

 

 小さな呟きに、何故か背筋が震えた。

 続いて聴こえる、小さな笑い声。

 そして、言葉が聴こえた。

 

「……あなた、天使ちゃんって言うのね」

 

 それは、俺に向けてではない声。

 視界に映る天使ちゃんが、ルビーへと顔を向けて。

 

「だ、だから私は天使ちゃんじゃ――ぴぃっ!」

 

 その名を否定する様な声を上げかけて、小鳥の様な悲鳴に変わった。

 それを見て思う。

 天使ちゃんと同じ方向を向きたくないと。

 

「……天使ちゃん……へぇ、天使ちゃんって言うんだぁ」

 

「はわっ、はわわっ」

 

 静かだが確実に届くルビーの声。

 顔を真っ青に染めながら、悲鳴にもならないテンパり声を上げる天使ちゃん。

 ……矛先がこちらに向かない様黙っている俺は、果たしてどうなのだろうか。

 

「天使ちゃん……天使ちゃん、ね」

 

「あわっ、あわわわわっ」

 

 テンパり過ぎて目がぐるぐると回っている様な錯覚を抱かせる天使ちゃん。

 だが不意に、その目が正気を取り戻した様に見えた。

 

「……何?」

 

 天使ちゃんの様子が変わったのを察したのか、ルビーの声色もまた、変化した。

 視界に映る天使ちゃんは、ただ黙ってルビーを見つめている。

 無言の空間が、僅かに続く。

 やがて、天使ちゃんの柔和な目が、僅かに細められた。

 だが、すぐに戻る。

 

「…………何、人の事じろじろ見て」

 

 ルビーが、口を開いた。

 だがその声色はどこか、警戒を含んでいる様にも思えた。

 天使ちゃんが、笑顔を浮かべる。

 そして口を開いた。

 

「いえいえっ、何でもありませんっ」

 

 その口調は何故か、どこか楽し気な印象を、俺に持たせた。

 先程までのおどおどと怯えていた態度から一転、いつもの天使ちゃんがそこにいる事に違和感を持つ。

 

「…………何か言いたい事あるなら、言えばいいじゃん」

 

 それはルビーも同じなのか、刺々しい口調で言葉を漏らした。

 だが、天使ちゃんの様子は変わらない。

 

「いえいえー、特に無いですよっ」

 

 その言葉に、俺の横から歯ぎしりをする音が聴こえた。

 

「……その態度、ムカつくんだけど」

 

 心底冷え切った様な印象を与えてくる声が、天使ちゃんへと向けられる。

 その時、天使ちゃんの表情が僅かに変化した。

 

「……あっ、そういえば一つだけありましたぁ」

 

 何かを思い出した様な表情。

 けれどもどこか、意図的な気もして――。

 

 

 

 

「アイさんの様に、カズヤさんには迷惑かけないでくださいねっ」

 

 

 

 

 視界の端で何かが動いた瞬間に反応出来た俺を、俺は褒めたい。

 

「ル、ルビー! 落ち着いて!」

 

 前方に進もうとするルビーの身体を、横から必死に抱き留める。

 

「カズヤ君放してッ! そいつヤれないッ!」

 

 ヤるって何を!?

 その意味を考えている暇等無く、必死にルビーを押し留める。

 

「マ……アイは関係ないッ! カズヤ君は私を選んだんだッ! 私がカズヤ君と結婚するんだからッ!」

 

 必死の形相で俺から逃れようと足掻くルビーを、ただただ抑え込むしか出来ない俺。

 視界の端に映る天使ちゃんは、変わらずに微笑んでいた。

 その口が動くのが、見える。

 

「あなたの事は、何て呼んだら良いですかぁ? 名乗られてないので、そうですねぇ…………アイさんと、呼んでもいいですかぁ?」

 

「放してッカズヤ君ッ! 許さないッ! この女だけは絶対に許せないッ!」

 

 動きが激しくなったルビーを、とにかく必死に抱き留める。

 視界の端に映る人は、変わらずに微笑んでいた。

 だが今は、どうしてもその名前の通りには、思えなかった。

 ルビーを必死に押し留める。

 けれども、頭では一つの事だけが巡り続けていた。

 天使ちゃん、君は何を考えて……。

 それだけが、思考を埋めていたのだった。

 再び、視界の端の口が動く。

 

「アイさんっ」

 

 変わらぬ、楽し気な声。

 眼前のルビーの目が大きく見開かれ、その中の色が一気に深く染まった様に思えた。

 

「その名前で呼ぶなッ! 私はルビーッ! アイじゃないッ! 私はアイなんかじゃないッ……私は嘘なんかじゃないッーー本当なのッ!」

 

 その言葉に全身の力が抜けそうになったが、何とか力を振り絞ってルビーを制止する。

 前世から、あんなにもアイを見てアイに憧れて、アイの様になりたがっていたルビー(さりな)の口から、そんな言葉が出るとは、思わなかった。

 すっかりと以前の印象から変わってしまった様に思えるルビー(さりな)に、心が痛む。

 何が原因だったんだろう。

 何が要因だったのだろう。

 …………俺だ。

 俺という存在が両者の間に入ってしまった事で、こんな事になってしまった。

 俺の、せいで……。

 何が、このままだと取り返しのつかない事になるかもしれないだ。

 もう、取り返しのつかない事になってるじゃないか。

 全て、俺という存在のせいで。

 ルビーを必死に抑えながら、強くなる胸の痛みを堪える。

 何が、俺がどうにかするだ。

 何が、どうにかするのが俺の義務だ。

 全部俺が起因して、俺が起爆しただけじゃないか。

 何て醜いマッチポンプなのだろうか。

 俺が……俺がいなければ……。

 声が聴こえた。

 

「ルビーさんって言うんですねっ! ルビーさんは、カズヤさんと結婚したいんですか?」

 

「結婚するよッ! 絶対にッ! 誰にも渡さないッ! 私の本当をくれるのはカズヤ君だけだからッ!」

 

「なるほどぉ。じゃあ、ルビーさんはカズヤさんの事、もちろん全部知ってるんですよねぇ?」

 

「当たり前だッ! 私が一番カズヤ君の事見てるし知ってるし分かってるんだからッ!」

 

「そうなんですねぇ」

 

「そのムカつく話し方やめろッ! そんな風にカズヤ君に媚びてもカズヤ君が本当に愛してるのは私だけなんだからッ!」

 

 

「――じゃあ、カズヤさんが一番好きな食べ物は何ですか?」

 

 

「……………………え?」

 

「――カズヤさんがよく、朝に食べたいと思うものは何ですか? カズヤさんが遅くまで仕事だった時に食べたいと思うものは何ですか? カズヤさんが寝不足の時に食べたいと思うものは何ですか? カズヤさんが休みの時に朝食べたいものは何ですか? お昼に食べたいものは何ですか? 夜に食べたいものは何ですか? カズヤさんが疲れた時に食べたいものは何ですか?」

 

 ルビーの声が、動きが止まった。

 

「カズヤさんが朝起きた時に飲みたいコーヒーの豆の分量はどのくらいですか? お仕事終わりに飲みたいコーヒーの豆の分量はどのくらいですか? お疲れの時に飲みたいコーヒーの豆の分量はどのくらいですか? お仕事に向かう途中の車内で飲みたいコーヒーの豆の分量はどのくらいですか? 午前中からドラマの撮影だった時に飲みたいコーヒーの豆の分量はどのくらいですか? 午後から映画の撮影の時に飲みたいコーヒーの豆の分量はどのくらいですか? 深夜のお仕事の合間に飲みたいコーヒーの豆の分量はどのくらいですか? それぞれで、カズヤさんが最も満足して頂けるお湯の量はどのくらいですか?」

 

 ルビーの目が、小刻みに揺れ始める。

 

「四日連続でお仕事が続いた次の日、お昼からCM撮影が二本、そのままドラマの撮影があり、それが終わったらバラエティー番組の撮影、然程時間が空かずに深夜ラジオに出演された後にカズヤさんが飲みたいと思うのはコーヒーですか? それとも紅茶ですか? ローズヒップですか? アールグレイですか? ルイボスティーですか? 緑茶ですか? 麦茶ですか? 烏龍茶ですか? 炭酸飲料ですか? ミネラルウォーターですか? 軟水ですか? 硬水ですか? スポーツドリンクですか?」

 

 その揺れが、大きくなった様に思えた。

 

「お仕事から帰って来たカズヤさんが椅子に座られていつもより僅かに目尻が下がっている時に食べたいものは何ですか? 飲みたいものは何ですか? ご飯よりも先に飲み物をお出しした方が良いですか? それとも少しそのままお待ちしてから食事の用意をした方が良いですか? それは一分後ですか? 二分後ですか? 五分後ですか? 十分後ですか? 一時間後ですか?」

 

 その揺れの中に、何かの感情が現れてくるのが分かった。

 

「カズヤさんがお疲れかどうか、どうやって判断していますか? 顔ですか? 仕草ですか? 態度ですか? 表情ですか? 目ですか? 鼻ですか? 口ですか? 腕の動きですか? 指の動きですか? 足の動きですか? 瞳ですか? 瞳孔ですか? 日常的な四肢の動きの幅の違いですか? 横になられている時の重心ですか? 座っている時の重心ですか? 椅子に座っている時の位置ですか? 車に座っている時の位置ですか? 立っている時の重心ですか? 歩いている時の重心ですか? 一歩目を踏み出した時の重心ですか? 二歩目を踏み出した時の重心ですか? 九歩目から十歩目にかけての挙動ですか? お話をされている時の笑顔ですか? 頬の動きですか? その時に連動する首の動きですか? 発声された一音目ですか? 二音目ですか? お話の間にされる呼吸ですか? 呼吸ならば吸う時ですか? 吐く時ですか? それは吸ったり吐いたりしたすぐですか? 一秒後の状態ですか? 二秒後の状態ですか? 髪に触れる際に何本目を触ったかですか? 勿論――全部ですよね?」

 

 ルビーの瞳に現れた感情。

 

「カズヤさんを全部知ってるんであれば……当然、これらも全部把握してるんですよねっ?」

 

 眼前に映る唇が、戦慄きながらも開かれた。

 

「…………何なの、ッ……アンタ……」

 

 怯え。

 その感情が、彼女の瞳から容易に見て取れた。

 綺麗な桃色の瞳は、その先に見える人物への畏怖が表れていた。

 ……まあ、かく言う俺も同じではあるが。

 何それ、そんな事初めて聞いたんだけど。

 まあ、天使ちゃんなりの冗談だろうが。

 けれど一切の考える素振りを見せず、よくそんなにもすらすらと言葉が浮かんでくるもんだ。

 

「当然っ、カズヤさんと結婚されるルビーさんなら……出来て当然ですよねっ?」

 

 天使ちゃんの声で、ルビーの瞳にまた別の感情が宿った事を悟る。

 

「……ッ……出来るっ。私だって、そんな事くらい出来るからっ!」

 

 それは、怒り。

 怯えと怒りが、ルビーの瞳に含まれた。

 

「あっ、そろそろご飯を作らないといけませんねっ」

 

 視界の端で、天使ちゃんの視線が、俺に向けられたのが分かった。

 

「カズヤさんっ、今日はお疲れだと思うので――"いつものアレ"、お作りしますねっ!」

 

 その言葉に、内心で首を傾げる。

 いくら考えども、"いつものアレ"とは何を指し示しているのか皆目見当もつかず。

 だがそれは、眼前の人物が動き出した事によって中断された。

 

「いいっ! カズヤ君のご飯は私が作るからアンタは作んないでッ!」

 

 語気を強めたルビーの言葉。

 だがその身体は前に進む事無く、声だけが前方へと強く押しだされた。

 

「あっ、ルビーさんも"いつものアレ"を知ってるんですねぇ。"いつものアレ"って、何でしたっけ?」

 

「……ッ! い、いつものアレはいつものアレだもん! 私は分かってるから言う必要ないしッ!」

 

「そうですかぁ。では、一人では大変だと思うのでお手伝いしますねっ」

 

「いらないっ! カズヤ君の料理は私だけで作るから自分の分だけ作ってて!」

 

「ではこうしましょうかっ、先にキッチンに着いた方が今日のカズヤさんのご飯を作れるという事でっ」

 

 そう言って天使ちゃんが踵を返せば、

 

「あっ、ズルい! 私が作るんだからッ!」

 

 力を入れてなかった俺の腕をすり抜けて、慌てた様に靴を脱いだルビーが駆け出す。

 そのまま天使ちゃんの横を通り抜けて部屋の中へ消えていったのだった。

 それをただ、呆然と見送る俺。

 ルビーが去った方向を見ていた天使ちゃんが、俺へと振り返った。

 柔らかな笑みを浮かべて、口を開く。

 

 

「カズヤさんにご迷惑をかけるなら、カズヤさんが幸せになれないでしょうから――ご迷惑をかけないなら、カズヤさんは幸せになれますよね?」

 

 

 その言葉に、思わず気の抜けた笑い声が漏れた。

 天使ちゃんは、やっぱ天使ちゃんだった。

 幾分と気疲れした身体はやたらと重く、時間をかけて上体を起こす。

 体勢を戻し、天使ちゃんを見る。

 

「ありがとう、助かったよ」

 

 そう述べれば、彼女の笑みは変わらない。

 

「いえいえ、カズヤさんが幸せなら私も幸せですのでっ」

 

 天使ちゃんは、天使ちゃんなのだ。

 

「カズヤ君っ! 荷物どこに置いたらいいのーっ?」

 

 部屋の中からそんな声が響いてくる。

 それを耳にし、互いに見つめ合う。

 そしてどちらともなく、苦笑を溢したのだった。

 アイとルビー。

 二人についてどうなるかは分からない。

 俺だけじゃ、もしかしたら解決出来ないかもしれない。

 でも俺には、頼れる人達がいるんだ。

 俺だけじゃ力不足だったとしても……その人達の力や知恵を借りれば、最善に繋がる道だって見つかるかもしれない。

 誰かを頼る。

 それもまたやり方の一つなのだと、教えてくれたから。

 天使ちゃんと共に部屋へと入る。

 そう言えば、さっきの話で聞きたかった。

 

「そういやさっきルビーを焚きつけるのに言ってたのって、どこまでが本当?」

 

 そう訊ねれば、天使ちゃんの顔がこちらを向いた。

 嬉し気な笑みを浮かべながら、口を開く。

 

 

「――カズヤさんの幸せが、私の幸せですからっ」

 

 

 足を止めた俺に構わず、天使ちゃんがルビーの下へと歩いていく。

 その背中を見る俺が再び動き出したのは、暫く経っての事だった。

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