"にわか"は言う「だから『推しの子』だって言ってんだろ!」 作:あるミカンの上にアルミ缶
車の中、最後列に座り同乗者を待っていた。
視線は手元へと向けており、スマホの画面を映している。
スマホの画面はチャットアプリが表示されており、先程からずっとその画面を凝視し続けていたのだった。
他に誰も居ない車内。
辺りは暗く夜の帳が降り切っており、煌々と照らすスマホの灯りだけが唯一の光源となっている。
暗い場所でスマホを使う。
目が悪くなるかもしれないという心配は全く浮かばず、只々画面を見つめる。
『おにいちゃん! カズヤ君ちに知らない女いたんだけど!?』
『カズヤ君の事なんでも知ってますみたいな顔して料理も上手くて胃袋掴んでますみたいな態度なんだけど!』
『上から目線でカズヤ君が好きな料理作る時に指示してくるしっ』
『見せつける様にカズヤ君の隣でご飯食べたのにずっと余裕っぽい笑顔浮かべててほんとムカつく!』
なんだ、これは。
デビューライブが終わってすぐに帰った妹から届いた怒涛のチャット。
妹が先に帰る理由は、前もって聞いていた。
だから俺は妹に対する疑念を全て払拭させる為に、こうして最後まで残っていたのだ。
ルビーが先に帰る理由は、事前に二人で擦り合わせておいた。
ライブ会場に到着した際に、俺も乗っている車内でルビーが家にスマホを忘れたと告げる。
スマホが無いと落ち着かないから、ライブが終わったらすぐに帰りたいと同行者達に申告。
まるでスマホ中毒者の様な理由だが、正直普段の姿から考えればあまり相違は無い。
他の面々としても、ルビーが普段からスマホを見まくっているのは周知の事実。
そして俺が、家でも妹がスマホ中毒だと後押しすれば、誰もがどうしようもない様な目で妹を見て溜息を吐いた。
この時点で妹がライブ終わりすぐに帰る事は決定的になったが、まだ俺の仕事は終わっていない。
妹からミッションコンプリートの連絡が来るまで、他のやつらが妹に連絡を送るのを阻止する必要があった。
だからこそこうして、最後まで残り全員で帰る為に車内に残っているのだった。
ルビーから俺にメッセージを送るのが、ミッションコンプリートの合図。
…………だったんだが。
『コーヒー淹れてカズヤ君に渡した時に天然装ってカズヤ君に倒れて抱きついてんだけど!?』
『私にはコーヒー飲めないだろうからってローズヒップとかって紅茶だしてくるし! 美味しかったけどさ!』
『すっご! ビックリするくらいお風呂広かった!』
『朝食は私が作るからゆっくり寝てていいとかバカにされたんだけど! 朝五時起きとか絶対ウソじゃん!』
……なんだ、これは。
目を瞑り、指で挟んで眉間を揉む。これで何度目か分からない。
状況が、まるで分からなかった。
ただ一つ分かる事。
それは、妹が今……カズヤ君の家に居るという事だけ。
まあもう一つ分かるとすれば、カズヤ君には女性の同居人がいた。
同居人なのか使用人なのかは、荒唐無稽な妹のメッセージからは判然としない。
だが、とりあえず修羅場の様な状態にはなっていないんだろうなとは思えた。
しかし、どうしたものか。
今日、妹がライブ終わりにすぐ帰る様に協力した理由。
それは常々妹が口にしていた事を実行する為。
アイドルとしてデビューしたその日に、カズヤ君に結婚を申し込む。
この一世一代の大勝負を応援する為だった。
けれども、一世一代の大勝負とは考えていなかった。
カズヤ君の事だ。
ルビーが告白すれば、受け入れてくれる可能性が高いと踏んでいた。
彼の性格を考えれば、自分から能動的に恋愛へと発展するとは考えられない。
見守る愛。
それを地で行く彼の事だ、触れられない限り自ら触れる事は無い。
そして触れようとしても、彼はまるで柳の様にふらりと躱してしまう。
カズヤ君には曖昧な態度、思わせぶりな態度は通用しない。
何故なら彼の本心は、幸せになって欲しい人が、幸せになるのが幸せなのだから。
だからこそ、難攻不落。
カズヤ君の外側にいる者は、決してカズヤ君に触れる事は出来ないのだ。
けれど、そんな彼にも弱点はある。
それは――"
カズヤ君にとって推しとは、既に彼の内側にいる存在。
ならば後は、掴むだけ。
掴みさえすれば、彼は逃げられなくなる。
何故なら、
故に掴みさえすれば、なし崩し的にも関係が始まり、益々彼がそこから逃げるのは不可能になる。
唯一の懸念としては、黒川あかね。
カズヤ君に"推しの子"と言わしめた彼女の存在だけが、唯一の不確定要素だった。
けれども、彼女と妹では彼との関係値が全く違う。
百パーセントだった確率が、コンマだけ減る程度の障害。
だから心配はしていなかった。
だから妹は、まず負ける事は無い戦に挑む様なものだった。
そう、思っていた。
しかし実際は、どうだ。
『そうだ! おにいちゃんこの女どうっ?』
『カズヤ君に媚びを売る以外は料理も上手いし性格も落ち着いてるし家事も色々出来るしおにいちゃん好みの顔も良い巨乳だよっ!』
何が俺好みだ、バカ妹。
思わず溜息を吐く。
元々アレだったが、アイドルデビューした日から妹の知能指数が更に下がった様な気がする。
再び、溜息を吐いてしまった俺は悪くない。
それにしても、肝心の結果が妹からまだ届いていない。
上手く行ったのか、そうではないのか。
今の段階で、明確な内容が一切無い。
……まさかな。
嫌な予感が頭を過るが、すぐに振り払う。
カズヤ君はその女と、交際または婚約しているのでは。
そんな考えはすぐに切り替えた。
もしそうであるのならば、カズヤ君と結婚すると意気込むルビーがその場に居る事の説明にならない。
年齢差を考えれば、もしかしたら妹を子供の様に扱っている可能性は無きにしも非ず。
だが、カズヤ君の事を考えれば、それは違うと思えた。
仮にその女と交際や婚約、結婚をしているならば、それはルビーに伝えられているに違いない。
彼がルビーとその女の気持ちを蔑ろにして、中途半端な対応を取る筈が無い。
そうしてしまえばどちらかが、もしくはどちらとも不幸が大きくなるのだから。
だからそんな選択肢を、カズヤ君が取る訳が無い。
故に再び袋小路。
返信して訊くか。
そう思い、こちらから文章を送ろうと画面に指を伸ばす。
だが、文字を打つ事は出来なかった。
脳裏にフラッシュバックするは、以前の記憶。
カズヤ君が"今ガチ"騒動の中で言い放った言葉。
推しの子。
その言葉を教えたのが俺だと、妹にバレてしまった時。
――せんせぇ? 私の応援してくれるんじゃなかったのかな? かな?
――い、いや……俺はちゃんとカズヤ君が君を意識してくれる様に。
――嘘だッ!
ざっくりと言えばそんな感じで、妹とカズヤ君の関係に一切の口出しを禁止されてしまった。
あの時の妹を思い出すと、身体が震え出す。
指が、これ以上先に進まなかった。
目を瞑り、やがて大きく息を吐く。
スマホ画面から指を離して、心中で呟いた。
……なるように、なるんだろうさ。
スリープモードにしたスマホを裏返し、背凭れに身体を預けて目を瞑るのだった。
どのくらい時間がかかっただろうか。
ドアが開けられる音が届き、目を開ける。
「つかれたー」
そんな事を言いつつ身を表したのは、メムだった。
「ありゃ、アクたんまだいたんだ」最後部に座る俺に気付き声をかけてきた。
「まあな」
そう返せば相槌の様な軽い声を漏らしながら、開いたドアから離れた奥へと座る。
続けて入ってきた有馬かなが、その横へと腰掛けた。
扉が閉まり、車が出発する。
次々と移り変わる夜景をただ、眺める。
窓の外に映る夜景は、いつか見た夜景と同じ様にも思えた。
「……どうだった、私達のステージ」
不意に聴こえた声に、窓に向けていた顔を正面に戻す。
声の主もまた、正面を向いていた。
誰に対して、その者は声を上げたのか。
考えるまでもなかった。
「……まあ、初めてにしてはよくやったんじゃないか?」
正直な感想を述べれば、正面を向いていた顔がこちらへと向けられる。
「何それ、もっと褒めなさいよ」
「それは出来ない」
かけられた声に被せる様に、こちらから声を出した。
確かに、デビューライブとしては申し分ない出来だった。
だからこそ、言う。
「有馬達はこれからもっと凄いライブをやるだろうし」
頭に浮かぶは、鮮明に思い出せるライブの記憶。
三人とも、レッスンは本気でやっていた。
今日を迎えるにあたって、全力で取り組んできたのは、間近で見てきたからこそ間違いじゃないと言える。
だからこそ、初舞台とは思えないパフォーマンスを見せた。
ユーチューブで事前にグループとして活動していた事も活き、ライブでのB小町の集客は上々。
集客のメインはメムが担い、彼女推しの色を示す黄色のサイリウムが、全体的に多かった。
次いで多かったのはルビーの赤。
そして有馬かなの白といった順。
メムとルビーのパフォーマンスは、最初から何ら問題無し。
問題は、センターを務める有馬かなだった。
動きが硬い訳では無い。
声が出てない訳では無い。
けれどもどこか、楽しめてはいない様な雰囲気を思わせる表情。
真剣、そうとも取れる。
だが果たしてそれで客と一体になれるのかと言われれば、首を傾げてしまう様な印象を持たせた。
だから、という訳では無い。
有馬かなの為でも、メムの為でも妹の為でも無い。
"B小町"というアイドルグループに対する
赤、白、黄色。三色のサイリウムを手にした俺に、不足は無い。
その途中、有馬かなの顔がこちらの方へと向く。
驚いた様な表情で僅かに固まる。
だが次第に、変化を迎えた。
徐々に表情から不要な成分が抜け出し、自然な表情へと。
そして、指をこちらの方へと指し――アイドルへと変貌したのだ。
"B小町の有馬かな"が、誕生したのを……この目で見た。
それに伴い、元からレベルの高かった歌と踊り。
ここからは更に愛嬌が加わった有馬かなに、徐々に観客の目が吸い込まれる。
"B小町"として、申し分ない出来だった。
だからこそ、これだけは伝えたい。
デビューライブでこれだけのパフォーマンスを見せられたのなら、より高みを目指せる。
「それを考えたら、ここで高得点を出すのはもったいない」
何より"B小町"が、これで終わっていい筈が無い。
俺の言葉を聞いた有馬が、静かに顔を正面に戻す。
「……あっそ」微かな声が、耳に届いた。
再び、声が届く。
「なら、今度こそ勝って――――――推しの子になってやる」
それは恐らく独り言。
だから俺が返す必要の無い内容。
けれど、反応するかしないかは、各個人が決める事。
「推しの子、って……あ、そうだ!」
有馬の隣に座るメムが声を上げて、俺へと振り返った。
「アクたんアクたん! 推しの子で思い出したけどっ、そういえばあかねが――」
「は? 黒川あかね?」
ドスの利いた低音が、メムの隣から発せられた。
「っていうのは勘違いでさぁっ! 癒し系おバカ枠のMEMちょ、まちがっちゃったっ」
にゃはははは……。
謎の乾いた笑い声を上げたメムが、勢い良く正面を向き直して沈黙したのだった。
黒川あかね。
彼女と有馬との確執、因縁は以前、有馬の口から聞かされていた。
それは、あの時。
――アクア、どうしたの?
たった一言で、俺の黒歴史を作った、"今ガチ"の終盤。
その少し前に、黒川あかねという人物について有馬から言われた。
あかねが炎上し、それについて事務所で有馬から話しかけられた際に告げられた二人の関係。
――同い年で同じ女優業をやってる人間としては……目の上のたんこぶって言うかさ、ちょっとは落ちて来いって気持ちを持つのも分かるでしょ?
炎上しているあかねを心配しながらも、語った本音。
――劇団ララライの黒川あかねって言えば、天才役者として界隈では有名でしょうが。
天才子役だった有馬かなは、天才役者の黒川あかねを猛烈にライバル視していた。
――一流の役者しか居ないと言われる劇団ララライ。黒川あかねはそこの若きエース。徹底した役作り、与えられた役への深い考察と洞察。それらを完璧に演じきる天性のセンス。
俺も、身を持って体験させられた、あかねに対する有馬の評価。
――役者としては、天才と呼ぶしかない。
天才は、天才に嫉妬していた。
同い年だから尚の事。
黒川あかねが炎上した時は心配を見せた。
けれど俺らによって、カズヤ君によって復活したあかねは一躍、時の人とも呼べる存在になった。
だがあくまでも一過性。そのブームは"今ガチ"が終わると同時に徐々に熱が冷めていった。
しかし、復活したならば、有馬に残るのは極度のライバル視だけだった。
――……確かに、私にとっての闇の時代は大分長かったわ。
"今日あま"の撮影時、俺へと告げた有馬の言葉。
天才子役と持て囃されていたが、その後は凋落。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人。
それに怯え苦しみ、ずっと出口の見えない闇の中を一人藻掻き続けていた有馬。
正直な話、嫉妬する程にその才能を認める同い年の天才役者が炎上し落ちぶれている様は、当事者の感情からすれば可哀想という思い以上に、"ざまあみろ"と思ってしまうのが人間だ。
これは有馬に限った話ではなく、殆どの人間に当て嵌まる気持ち。
でなければ、シャーデンフロイデーー"人の不幸は蜜の味"の様な言葉は、生まれないのだから。
しかし黒川あかねは、すぐに復活を果たせた。
一人藻掻き苦しむ有馬に対して、人の手で引っ張り上げられたのだ。
故に、嫉妬も一入。
だからこそ、事務所内であかねの話題を上げようものなら、どこからともなく鋭い眼光が飛んでくる。
俺の黒歴史があってからは、それを武器にガキみたいな弄りする様にもなったが、基本的にはというか有馬以外であかねの話題を出す事が出来ないのは、変わらずだった。
だが、俺が大人な対応をしていたせいか、すぐに飽きてほぼ言わなくなった。
有馬はアイドルをしながらも、役者としての夢も諦めてはいない。
けれどそれでどちらかに力が入らなくなるのでは意味が無い、と言いたいが……流石は元天才子役。
どちらも十全にこなしているのだった。
それを知っているからこそ、あかねという禁止ワードは事務所内で容認されていた。
「あ」
不意に、有馬が声を上げた。
「そういえばこの中に、黒川あかねに告ってフラれた人がいたわねっ」
何て理不尽なやつ。
思わず溜息を吐けば、有馬の顔がゆっくりとこちらを向いた。
「ねぇねぇ、時間経ったけど黒川あかねにフラれたのどんな気持ちっ? ねえどんな気持ちっ?」
心底にやにやとした、凡そ直近でアイドルをやっていた女とは到底思えない笑顔。
再び、溜息を吐いた。
「いつまでそのネタ引っ張ってんだ。いい加減飽きろよ」
こんな茶番に付き合うだけ無駄。
だからこそ、さっさと終わらせるに限る。
「あっ、出た出た! お得意の"俺大人ですから"ムーヴ! こんなにクールな俺カッケーって気取ってる癖に黒川あかねにキス迫って拒否られるってどんな気持ちっ? ねぇねぇ、どんな気持ちっ?」
ぷぷぷ、なんて下品な笑いを溢す有馬に何度目かの溜息。
「はいはいっ、そうやって溜息吐けば場がシラケて早々に話題を変えてくれるって思ってるのよねっ! こっちが合わせてあげないと何も出来ないやれやれ系しか手札持ってない人が使うジョートーシュダンだものねー!」
相手にするのも面倒になり、目を瞑って事務所に着くのを待つ事にする。
「その"何を言われても俺動じないんで"ポーズも何回目かしらっ? まっ、しょうがないわよねっ。自分の手札はこんなにあるんだぜーって見せつけて楽しい年頃だしね?」
……。
「やれやれ系ばっかで他の手段知らないなんてカワイソー。それともやれやれ系ばっか見せて私にカッコイイって思って貰いたいってことぉ?」
……はぁ。
「……生産性の無い会話に付き合う程、俺は暇じゃない」
「お? 逃げんの? 逃げんの?」
「…………意味分かんねぇ、何からも逃げてないだろ」
「私との話で真っ向から反論しないとかフツーに逃げで私の勝ちなんですけどっ?」
あ?
「――分かった。変に誤解してるみたいだから徹底的に討論してやる……言えよ、その勝ち負けの定義とやらを」
「望むところですけどー?」
「いや、アクたん……いっつも乗せられすぎだよ」
横から聴こえてきた声は、そのまま反対側へと流れ去って行ったのだった。
家に着き、玄関の鍵を開ける。
事務所に着くまで、下らない会話に付き合わされたもんだ。
全く……俺の精神が大人だったから良かったものの。
ドアを開ければ、室内は真っ暗だった。
母さんはまだ帰ってないのか?
そんな事を考えつつも、玄関の灯りを点けて靴を脱いで家に入る。
廊下を抜けて、リビングのドアを開ける。
何か微かに音の様なものが聴こえた気がし、耳を澄ますとやはり継続的な微かな音が耳に入って来た。
近くの壁にあるスイッチに手を触れ、部屋の電気を点ける。
心臓が、止まるかと思った。
リビングには既に、人が居た。
床に座り、俯きながら胸の前で両手を強く握っている女性。
それが誰なのか分かるまで、僅かばかりの時間を擁した。
いや、頭ではすぐに理解していた。
けれど心が、認識を拒んでいたのだ。
この人物が誰かを。
けれど、もう認識してしまった。
だから、開き始めた口を閉じる事は出来なかった。
「…………母、さん?」
音が止まった。
漏れ出た声に、女性が反応する。
ゆっくりと上げたその顔は、間違いなく――母さんだった。
しかし、どう見ても――アイには思えなかった。
「アク、ア……」
今までに聞いた事が無い、か細い声。
それが俺の耳に届いた瞬間、気付けば駆け寄っていた。
身を屈め、その肩に触れる。
「何が……何があったんだ、母さんッ!」
軽く肩を揺すり、俺を見る様に促す。
そして、真実を知りたかった。
見た事の無い、憔悴しきった
その姿を見ている程に、痛いくらいに鼓動が速まる。
状況が分からない、全てが理解出来ない状況に、恐怖が襲いかかる。
こちらに虚ろげな目を向けるだけの母さんに、声をかける。
「母さんッ! 教えてくれッ……何があったんだッ」
向けられる視線に、目線を合わせる。
心臓から発せられる痛みを我慢したまま、只々母さんを見つめた。
やがて、その唇が微かに動いた。
「……アクア」
その声に、すぐさま返す。
「ああ、母さん。俺は……アクアはここにいるよ」
俺の声が届いたのか、母さんは僅かに頬を緩ませた様に見えた。
そして再び、母さんの唇が動く。
「…………アクアは…………お父さんと一緒に、暮らしたい……?」
心臓から激痛が走り、思わず顔を顰める。
お父さん。
間違いなく、そう言った。
お父さんと一緒に暮らしたい?
母さんは――間違いなくそう言った。
酷く怯えた様な、それでいて俺に縋る様な表情で、そう言った。
この、母さんの状態。
母さんの、言葉。
まるで熱に魘される様に、頭が熱くなり始める。
ここで漸く、視界全体が認識出来た。
母さんの足元を中心に、小物が遠方にまで散らばっているのを理解する。
そして少し離れたその場所に、無造作に床へと落ちている……母さんの手提げバッグ。
まるで――誰かが暴れたみたいな。
そこから、然程も時間を掛けずに、割り出せた。
割り出せて、しまった。
俺達の父親が、ここに居たのだと。
視界が真っ赤に染まった様な感覚に陥る。
俺達の父親がここに来て、母さんを苦しめた。
何をされたのかは、聞けない。
こんな状態なんだ。
恐らく母さんだって、言いたくないに違いない。
また命に関わる事があったのか、それとも別の何かをされたのか。
何故。
その言葉が、頭から離れない。
何故、父親がこの家にいたのか。
何故、母さんがこんな事になっているのか。
……そして考えたくも無いが。
何故――母さんを殺さなかったのか。
俺達の父親は、母さんを殺そうとしていたんじゃないのか。
母さんを殺す為に、ここに来たんじゃないのか。
違うならば、何が狙いだ。
必死に思考を巡らせる。
何故、母さんは生きている。
何故、今日なのか。
何故、あれ以来こんな事態が起こらなかったのか。
今日という日が、偶然だったのか。
それとも。
今日と言う日が……必然だったのか。
一際大きな鼓動の衝撃に、気を失いそうになる。
……今日は、何があった。
俺はさっきまで……どこにいた。
そこで何を…………見ていた。
妹の、アイドルデビューライブ。
それが、今日だった。
父親は今まで、直接的な行動を取る事は無かった。
以前は、アイの初めてのドームライブだった。
そして今日は、妹の初めてのライブだった。
初めての華々しいライブの日に――父親が現れた。
推測ばかりで、確証は無い。
けれど同じドームで行った、アイの引退ライブの時は、現れなかった。
その事実が俺の中で、推察の確度を高める。
ならば父親の目的は、何だ。
何故、アイの引退ライブではなく……娘のデビューライブの日に現れたのか。
もしくは、俺が気付かないだけでその時も現れていたのか?
しかし、幾ら考えどもその疑問を肯定する思考は現れなかった。
アイの初めてのドームライブの時、
俺とルビーを抱きしめて"愛してる"と言ってくれたあの時。
だが、引退ライブの時は?
俺とルビーへの
何も、可笑しな所は無かったんだ。
しかし今はどうだ。
やはり
だから、父親が姿を現すと母さんの様子が可笑しくなると考えれば、引退ライブの時は現れなかったのだと思えた。
であれば、何故今日なのか。
やがて、辿り着いた。
…………娘のルビーもまた、ターゲットだとでも言いたいのかッ。
否定したい推察に、根拠が反論する。
今日のライブ会場は、巨大なアイドルフェス。
大舞台と呼ぶに相応しい、場所。
アイも、ルビーも。
どちらもが、大舞台と呼べる場所での初めてのライブだった日に、父親が現れた。
室内の散乱具合から察するに、家の中という密室で俺達の父親と会ったにも関わらず、命を奪われなかった
今し方、俺へと問い掛けた母さんの言葉。
父親一緒に、暮らしたいか。
そう、訊いてきた。
今まで一度も、父親の話を微塵も出さない
こんなにまで窶れて、初めて父親の事を口にした。
そこから考え得る、理由。
だからこそ、息子である俺に初めて父親の事を口にしたのだ。
ルビーはカズヤ君の家に居る。
だから恐らく、この事は知らないだろう。
何故なら妹からのチャットに、そんな話題は全く無かったのだから。
母さんを殺す事無く、俺達家族と一緒に暮らそうと脅してきた父親。
つまり、奴の本当の狙いはアイを殺す事では無いのかもしれない。
アイを苦しめる事こそが、真の狙いである可能性が高いのかもしれない。
もしそうであれば、奴のターゲットは必然的にアイだけではなく、娘であるルビーへも及ぶだろう。
それを知らしめる為に、今日という日を選んだと考えれば、色々と整合性が取れてしまう。
そう考えると、妹が今日カズヤ君にプロポーズする事になったのは、運命の女神が起こした奇跡なのかもしれない。
……いや、カズヤ君が起こした奇跡と考えた方が、俺の中では納得しやすい。
妹がカズヤ君の家にいるならば、恐らくはこの家で暮らすよりも安全だろう。
何せカズヤ君がいるんだ、これ以上の安心材料を俺は持たない。
同居人の女とやらで色々と大変そうな妹を思えば、こちらで起きている事なんか知らずに、カズヤ君を落とす事だけに集中して貰いたい。
だから母さんから直接ルビーへと伝えるという事以外では、こちらの状況がバレない様に伏せておくつもりだ。
妹も俺と同様に父親不要派なのだから、こんな事は知る意味の無い事柄。
なら、俺がすべき事は二つ。
母さんの身の安全を確保する様に動く事。
そして変わらず、けれど今まで以上になりふり構わず俺達の父親を捜し出す事。
父親に関して、やはり母さんには聞けない。
だってこんなにも怯えているんだ。
それはきっと自分の身が第一だから、という訳では無い。
父親から、俺とルビーが危害を加えられる事を、心から恐れている。
でなければ、アイがこんな姿を見せる訳が無い。
愛する我が子が傷付くのを酷く恐れる、それは親として至極真っ当な思い。
だからこそ、こうして普段の体裁を保てない姿を、俺の前に晒している。
あのアイが、こうなっているんだ。
こうなってしまう程に、追い込まれているんだ。
そんな母さんに、父親の名前を訊ねたら母さんはどう思う?
俺が、自分の子供が父親に興味を持っていると考えるだろう。
こんなにも憔悴しているならば、その人の思考がポジティブに働く事はまずない。
ネガティブに、自分にとって望まない方向へと深く考えを巡らせる。
そして行き着くのは、自分にとって起こって欲しくない未来の想像。
俺の言葉次第で、母さんを安心させるか、酷く絶望させるかの瀬戸際なのだ。
俺にとって一番の願いは、ずっと変わらない。
家族の幸せ。
父親を捜すのはその為の手段であって、俺にとってはゴールではない。
絶対に間違ってはいけない、目的と手段。
妹が昔アイドルデビューをすると決まった際にそれを取り消したのは、もしかしたら妹が殺される可能性があると思っていたから。
けれども今まで、一度も俺達双子に父親が接近した事は無い。
父親が姿を現したのは、必ず
そしてここにきて分かった内容を組み合わせると、一つの解を得る。
俺達の父親は、アイを不幸にする為に、俺達を利用するのだと。
子供達にいつ危害が及ぶか恐怖する母さんを、見ていたいんだ。
だからアイを殺す事は、しなかった。
ならば俺達を殺す可能性はあまり高くないと思えた。
俺達を殺すというのなら、正直今まで幾らでも機会はあった筈。
小学校、中学校、そして今の高校と。
必ず俺達が個別になる機会があった。
その中でそれぞれが、周りには誰も居ない一人の時間というのも、何度もあったに違いない。
だからこそ、今し方手にした情報を勘案すれば、俺とルビーを殺す事も出来たが殺せなかったではなく、俺とルビーを殺すつもりはない、と判断出来てしまう。
つまりは、アイが長く不幸である事を求めている。
無論、殺されないと思って完全に警戒を解く事はしない。
あくまでもこれは俺の推察でしかないのだから。
けれど、現時点での情報を鑑みて、自分の中で筋が通っていると思える根拠を加味すれば、今までよりも幾分か警戒の度合いを下げて父親捜しにその分のリソースを割いても問題無さそうだと思えた。
家族の幸せ。
それが、俺の生きる意味。
母さんが笑顔で、妹が笑顔で、いて欲しいだけ。
問い掛けた際に怯えているのは、今まで父親の話を一切出していないから、俺が父親についてどう思っているのか判断がつかないから。
もし、子供が父親とも一緒に暮らしたいと思っていたら。
それに対する怯え。
問い掛けた際に俺に縋る様だったのは、自分の願いに沿った答えを、俺の口から聞かせて欲しい。
それに対する縋り。
俺は――
「…………アクア」
耳に届いた声に、意識が現実に戻る。
目の前が真っ赤に染まった様な錯覚は消え去り、眼前にいる母さんが、俺を見つめていた。
そこで思い出す。
母さんの問い掛けに、まだ返していないと。
俺達の父親と一緒に暮らしたいか。
そんなもの、決まっている。
これは俺の絶対的な意見。
そして妹の絶対的な意見。
そして、酷い目に遭わされた母さんが秘めているであろう意見。
今後とも、母さんに要らぬ心配を掛けたくない。
もしも一番星を遮る雲があったのなら、全部俺が振り払ってやる。
母さんにはずっと、明るい場所で笑っていて欲しい。
暗い場所なんて、俺が全部消すから。
母さんの言葉から考えれば、俺に問い掛けて来たという事は、まだそれが確定じゃないという事。
表情で、態度で、雰囲気で、それははっきりと分かった。
少なくとも、確定しているのであれば、俺に縋る様な表情は見せないから。
だからまだ、猶予が残されていると判断出来た。
どの程度の時間が残されているのかは分からない。
俺とルビーの了承が条件なのか、父親が業を煮やすのがリミットなのか。
けれどまだ時間があるのなら、やれる事は幾らでもある。
それまでに必ず見つけ出してやる。
家族以外へは、何をしてでも。例え自分が犠牲になろうとも。
絶対に、絶対に、許しはしない。
……母さん、俺が何とかするから。
安心させる様に、笑みを浮かべる。
これが本心なのだと、知って欲しくて。
少しでも母さんに、安心して欲しくて。
俺だけじゃなく、ルビーも含めた子供達の総意なのだと、理解して欲しくて。
生きてる事を後悔させてやる、それを胸の奥に隠して。
「……いや、父親はいらないよ」
母さんの目が見開かれた。
そして、やがて。
「…………そっか」
そう言って母さんは、微笑みを返してくれた。
そのまま目を瞑った母さんは、暫く動く事は無かった。
やがて、その目を開ける。
「あっ、おかえりアクアっ」
その笑顔で、その仕草で。
誰も彼もを虜にしていく。
その姿に、どうしようもない程に目を奪われる。
初めて、彼女に魅せられた時の様な感覚が蘇る。
だが、我に返って慌てて目を逸らした。
……目の前にいるのは、母親だ。
母親だ、母さんなんだ。
そう何度も自分に言い聞かせた。
視界の端に映る小首を傾げた姿に引き寄せられそうになるのを、必死に堪える。
彼女は、母親だ。
母さんだ。
何度も言い聞かせ、やがて深く深呼吸する。
……大丈夫、母さんは母さんだ。
そう心の中で呟き、顔を正面に戻した。
「……あっ! これからご飯作るケド、アクアも食べる?」
「…………うん」
そっか! じゃっ、ちょっと待っててねっ。
そう言って立ち上がり、握ったままの拳を僅かに見つめてから歩き出す。
キッチンへと向かうその後ろ姿を、無意識のままに見つめる。
やがてその姿がキッチンに消えた事で我に返った。
慌ててまた自分に、あれは母親だと何度も何度も言い聞かせる。
自分の態度を思い出し、羞恥心が込み上げてくる。
この家に居るのは、俺と
たったそれだけ。
何も可笑しい事は無い。
しかし脳裏には、先程焼き付いてしまった光景が、声が、表情が、仕草が、その全てが鮮明に思い出される。
この家に居るのは、俺と
……。
……こんな黒歴史だけは、絶対に作らないっ……作っちゃいけないッ……!
キッチンから