"にわか"は言う「だから『推しの子』だって言ってんだろ!」 作:あるミカンの上にアルミ缶
映画の撮影は、今の所それなりに順調。
可能ならば七月には入らずにクランクアップを迎えたいというのが本望。
よって五月中にはある程度の所まで進めたい所存。
茜ちゃんも問題無く演じられてるし、他の役者も実力派を揃えてるから、想定通りには終わりそうな予感。
「はいっ、コーヒーお持ちしました」
その声と共に、テーブルに置かれたカップ。
コーヒーを用意してくれた人物へと顔を向ける。
「ありがとう、天使ちゃん」
お礼を伝えてれば、天使ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
再びキッチンに戻り、自分用の紅茶を持って俺の正面へと腰掛ける。
カップを手に取りコーヒーを飲む。
口の中に広がった微かな苦みが、俺に違和感を持たせた。
思わず顔を向ける。
「あれ、豆変えた?」
俺の問いに天使ちゃんがカップを置いて、笑みを浮かべる。
「はいっ。先月頃から徐々にブレンドの配分を変えてました」
その言葉に思わず首を傾げる。
天使ちゃんが続けた。
「カズヤさんが役者をされながら管理もする様なお仕事になられて、それに合わせて疲れ方も変わっていたので使用する豆を少しずつ変えていましたっ」
彼女の言葉に驚く。
何せ、今日まで一切気付かず変わらないと思ってコーヒーを飲んできたのだから。
天使ちゃんの笑みを見つめていれば、その口が開かれる。
「ですのでゆっくりと休息を取れた時は違和感を感じるかもしれませんが、今作られている映画の公開を迎えるまではこの豆でお出しするつもりですっ」
その笑みを、ただ見つめる。
出されたコーヒー。
若干の違和感はあれども、別に普通においしいから飲める。
……コーヒーって、そんな事も出来んだなあ。
只々そんな感想を抱いた。
まあ、これも全部天使ちゃんだからこその感想なんだろうが。
ならば俺はバイタルサポーターにその身を委ねるのみ。
「んじゃ、天使ちゃんのおすすめでこれからもよろしく」
それに何より……。
「そもそも天使ちゃんがやってくれないと俺、生活出来ないしさ」
どこか照れた様子で再び紅茶を飲む彼女の姿を見つめる。
コーヒーの淹れ方も飯の作り方も、全部天使ちゃん任せなのだ。
何か注文を付けられる程、俺もこだわりがある訳ではない。
というか普通に飯も飲み物も全部天使ちゃん仕様にされた俺が、それを拒む術はなかった。
彼女が望む形で、やりたい様にやってもらう。
うむ、我ながら実に家事力皆無である。
だが仕方なし。
天使ちゃんがそれを望み、俺もそれを望んでいる。
ウィンウィンってやつなんだから。
そう思い、珍しく照れている彼女の表情を肴に再び、コーヒーを飲むのだった。
現在は午前中。
昨日は珍しく深夜の撮影が無かったので、早寝早起き出来た。
午後から別の映画の撮影があり、昼過ぎに佐山さんが迎えに来たら出発する予定。
だから今は優雅なコーヒーブレイク。
気まずさの無い沈黙が突然破られる。
それは部屋の奥。
壁際のカウンターに置かれた、電話機から。
小さな着信音が室内に流れる。
内線の電話が、静かに鳴り響いた。
それはエントランスのコンシェルジュから、何か連絡がある際に使用されるもの。
またこちらから何かを頼む時にも、使用するもの。
ディナーの手配やら送迎の手配やら旅行の手配やら荷物の手配やら部屋の問題の解決やら何でもござれな対応をしてくれるコンシェルジュ。まあ、ほぼ使ってないけども。
「はーいっ」
その音に天使ちゃんが慣れた様子で向かう。
この役目はいつも天使ちゃんが担当だ。
俺が出ようとすれば涙目になるので、任せるしかなかった。
何でも天使ちゃん曰く「カズヤさんに直接お繋ぎしない為のものなんですから、まずは私がお話を聞きますっ」らしいので、そんな可愛らしく豪語されては、やはり任せるしかないのだ。
受話器を取った彼女が、コンシェルジュと話す。
「……はいっ……はいっ……あっ、お荷物ですねっ…………はいっ……はい、分かりましたっ……それじゃあ、これから向かいますねっ」
そう言って天使ちゃんが受話器を置いた。
「どんな用事だって?」
気になっていた事を訊ねれば、受話器を置いた天使ちゃんが振り返る。
「事務所から郵送物が届いたらしいので、それを部屋に届けるかの確認でしたっ」
「ほーん」思わずそんな声が出た。
郵送や宅配物の受け取りも対応してくれるので、それも事前に三人で話し合ってコンシェルジュに任せる事にしてたのだ。
本来は特に送り主の確認はしないらしいが、天使ちゃんと佐山さんからそれもやって貰おうと提案されて承諾。
よって内線で連絡をくれる時には毎回、送り主を言ってくれるらしい。
その上で取りに行くか、持ってきてもらうか。
はたまた処分してもらうかを選ぶ。
「ちょっと、エントランスに取りに行ってきますねっ」
そう告げた天使ちゃんの恰好は、すぐにでも人前に出られる姿。
こんな事もあろうかと、とでも言わんばかりに天使ちゃんはいつも、外向けの服を着ているのだ。
近くのコンビニくらいなら行けるであろう、俺の恰好。
そんな俺が、静かに腰を浮かすと。
「ダメですっ。私が荷物を確認してきますから、カズヤさんはこのまま寛いでお待ちくださいっ」
目ざとく反応した天使ちゃんから静止を受けた。
そんな彼女へと言葉を返す。
「いや、荷物くらい俺も取って来れるしさ? 俺に任せといてよ」
これが、家事力ゼロの男の言い分。
家の事を何も出来ないならば、荷物を取りに行く事くらいは、やってみせる。
そんな心持で立ち上がろうとすれば、天使ちゃんの表情が変わる。
「……私が行っては、ダメですかぁ……?」
その涙目に、あえなく撃沈。
最初から勝ち目なんて無かったよ……。
何年経っても彼女の涙目は、俺へのリーサルウェポンになり続けていた。
仕方なく椅子へと座り直す。
「んじゃ、申し訳ないけどよろしくね?」
そう告げれば、
「はいっ!」
天使ちゃんは明るい笑顔で頷くのだった。
全く、天使ちゃんには敵わねーぜ。
そんな感想を、思わず抱く。
まあ、今までも頻繁にこのやり取りをしてるが、一度も勝った試しはないのだ。
「ではっ、行ってきますっ!」
そう告げた彼女に口を開く。
「いってらー」
天使ちゃんが踵を返して部屋を出ていく。
扉が閉められ、やがて玄関の扉が開いて、閉まる音がした。
一人となった部屋で、何となく正面を見る。
テーブルの上にはカップが二つ。
それはまるで、俺以外の存在がここに居るかの様に思わせて。
何となくテーブルの奥に置いてあるカップを視界に入れながら、再びコーヒーを飲んだ。
そして一人となり、浮かぶ思考。
現在、目下の課題として取り組んでいる事柄。
俺が原案を出して撮影を行っている、映画の事。
その主役を務める、黒川あかねの事。
特に、茜ちゃんである。
とにかく、彼女の目を奪い続ける。
慣れないその行為がとても難しく、そして加減が分からない。
ちゃんと、思った様に出来ているのか、今一つ実感が持てない。
だが、お二方が書き上げてくれた脚本。
そのお陰で茜ちゃんは常にこの映画に集中している。
これは確実と言えた。
現場で俺と話をする事も多いが、それでも役作りと……進行に応じた役のアップデートを必死に行っている様に思えたのだ。
つまり茜ちゃんは、ポピュラーな方法での役作りを選んでいないという事。
普通、役作りをする上で重要になるのは、勿論脚本。
そこから如何に自分が演じるキャラクターの性格や人間性、そうなるに至った背景を深く知る事が出来るか。
だからこそ、脚本を最初から最後まで読んで、その中で一貫した芯の部分を探したり、はたまた逆算して脚本以前の境遇を考察する。
けれど、茜ちゃんはそうしなかった。
いや……茜ちゃんだから、そんな方法も出来たのかもしれない。
彼女が取った役作りの方法。
それは、次に撮影する内容までを分析し、考察し、自分に落とし込む。
普通では考えられない様な、あり得ないやり方。
だが本人に至れる程に、他人の分析や考察が行える彼女だからこそ、取れた方法。
主役の少女の人間性、価値観、境遇、背景、性格、考え方等、分析が完了しているから、少女というキャラクターの芯がブレずにこれまで撮影を進めて来られている。
つまり彼女は脚本の少女と同じく――そのシーン毎で分析や考察をアップデートしながら対応しているのだ。
リアルタイム役作りとでも言えば良いんだろうか。
作中の少女と共に成長している様な茜ちゃんの役作りは、決して他の誰にも真似出来ないであろう御業。
それ故に、役作りに没頭し続ける彼女が今の所、その他を考えられる余裕は無さそうだと、俺に判断させたのだった。
だからこそ驚かされた、二回目の撮影。
初回の撮影では監督の術中に嵌り、全てが上手く行かず酷く落ち込んでいた茜ちゃんだったが。
次の撮影で魅せた姿に、俺も目を奪われた。
部屋の中でただ椅子に座っている少女。
なのに伝わる絶望。
なのに伝わる、藻掻く気持ち。
なのに伝わる、心の支え。
けれど伝わる、絶望。
脚本内で初めて生まれた架空の少女。
その少女が、現実に現れたと錯覚させられた。
……いや。
その少女が、黒川あかねなのだと錯覚させられた。
この時に感じた衝撃は、今でも憶えている。
俺が何となくで案を出して、それを吉祥寺先生とアビ子が上手くストーリーにしてくれたキャラクター。
それが実は黒川あかねを題材にしていたんじゃないかと、俺に思わせたのだ。
役者のタイプは、大きく二つに分かれる。
一つは、憑依型。
自分ではない誰かになって、全くの別人だと思わせる演じ方。
もう一つは、自己投影型。
演じる役を自分に落とし込んで、その役が自分だと見る者に思わせる演じ方。
似ている様で全く違う。
前者は、役者自身の成分を限りなくそぎ落として、他者になる。
後者は、役者自身に役の成分を取り込んで、その他者を役者自身だと思わせる。
変幻自在とカリスマ。
その二極に分かれる事が多い。
だからこそ、その二極を完璧に使いこなせる人など滅多に居ない。
何せ根本的な性質が違うのだから、両立させる事なんかまず出来ない。
自分を削り落とす、自分へと吸収する。
だからこそ、この二派に分けられるのだ。
茜ちゃんはゴリゴリの憑依型。
憑依型の最先端とでも言って良いだろう。
限りなく他者を分析し尽くして、得られた情報からより正確に考察する。
その結果だけを自分の中に存在させて、黒川あかねという成分をゼロにまで近付ける。
茜ちゃんの演技スタイルは、間違いなくこれだった。
演じていなければ往来の生真面目さや遠慮、羞恥心が出てしまうので、そこまでしないと自信を持って人前に立てなかった。
そんな茜ちゃんが、変貌したのだ。
少女へと変わったんじゃない。
少女が――茜ちゃんになったのだ。
この影響は、今でも出てる。
脚本から少女のイメージを思い浮かべる時、今までは漠然とした人物象だったが、今では茜ちゃんの姿で浮かび上がってしまう。
はまり役、と言えるのかもしれない。
だがそれだけでは説明が付けられない程に、少女の姿は茜ちゃんへと変えられたのだった。
つまり少女というキャラクターが、黒川あかね本人だと思わせる。
それは自己投影型の演技でよく抱かれる印象。
無論、憑依型でも同じ様なはまり役になる事は往々にしてある。
けれども今回の場合は、茜ちゃんが完璧に主役の少女になったのではなく、主役の少女が完璧に黒川あかねになったのだ。
だからそこまでされては、監督も無限ループを使えない。
いや、クリエイターとして……使う事をしたくなかったんだろう。
それは俺も同じ。
"嘘"を"本当"にする。
これを体感したのは、人生で二度目だった。
"
黒川あかねは、天才だった。
その真髄を、まざまざと見せつけられた瞬間だった。
だからこそ考える。
この映画は、間違いなく茜ちゃんに食われた。
従って、タイトルを変えたいと。
現時点での映画のタイトル。
それは。
"一五年目の真実"。
これだった。
何となく頭に浮かんでいたこの言葉。
それは恐らく以前、アイに対して思っていた事が未だに残り続けていたからだろう。
アイの引退ライブ当日。
彼女の家の前で訣別する事となった時に、抱いた思い。
――俺が君に一五年間隠してきた嘘を。
それはアイから嫌われる為に、自分の心に言い聞かせた言葉。
アイが思っている様な俺ではないのだと、彼女に知ってもらう為に。
だがその嘘は、他ならぬアイによって破られた。
けれどその嘘は……本当だから。
俺の"
だからその思いがずっと、俺の中に残り続けていたんだろう。
あの日見たアイの表情。
あの日アイをそんな顔にさせてしまった自分を、絶対に忘れない為に。
戒めの様に、強く残っていた言葉だった。
だからそれを元に、タイトルを考えた。
これはフィクションだから、そのままで使いたくはなかった。
一五年の嘘。
それは本当なのだから、フィクションの映画には用いるつもりはなかった。
だから、入れ替えた。
嘘が本当なのだから、本当を嘘に。
故に、"真実"。
真実ではないこのフィクションを、真実と騙る事にした。
作中の少女が幼少期に得た未来予知。
それは少年が初めて新人俳優賞にノミネートされた、日本映画賞の授賞式。
何人かの俳優がノミネートされている中、少年が間違いなく受賞するだろうというのが、世間の常識となっていた。
その当日の朝、少年の住む家のインターホンが鳴らされる。
少年が玄関に向かい扉を開ければ、男が立っていた。
目深にフードを被った、ラフな格好。
少女が見たのは、男によって少年が腹を刺される光景。
口を開いてから走り去る男、そして崩れ落ちる少年の後ろ姿。
少年が初めてノミネートされた日本映画賞の受賞日。その朝。家。玄関。フードの男。刺される少年。
断片的な情報と、そんなえげつない光景を幼少の頃に未来予知した少女。
我ながらとんでもない原案を出したものだと、しみじみ思う。
まあフィクションだし別に良いか、と。
けれど実際に少女が茜ちゃんだと思えば、脚本はベストなんだから、もう少し見合ったタイトルが無いかと思ってしまう。
安直に付けたとも思えるタイトルに、自信が無くなったのだ。
皆、良いタイトルだと言ってくれるが、やはり自信が無い。
元々名付けるのは得意じゃないんだ。
だからこそ悩む。
嘘はとびきりの愛。
不意にそんな言葉が浮かんだけど、すぐに却下。
分かる人にはその意味が分かってしまうんだから、タイトルとして使えない。
タイトルの再考が専ら、ここ暫く俺の思考を埋めていたのだった。
コーヒーに再度口をつけて、リラックス。
考えても思い浮かばないから、再考するのは今後の俺に任せたと思考を放棄。
順調の撮影だが、俺達制作陣はともかく。
演者はずっと不安が残っているに違いない。
監督の無限ループも、その要因となっているかもしれない。
でも、一番の不安は違うと思えた。
「……来月、中旬くらいかなあ」
気付けば、そんな事を呟いていた。
何が、来月中旬頃なのか。
それは、予定している――クライマックスの撮影。
そのシーン及びそれに付随する過去のシーン等も全て、その辺りから撮り始める予定だった。
ならば何故、演者達が不安になるのか。
それは。
クライマックスに関わる脚本部分をまだ、渡してないから。
つまりは最後の展開が演者達には分からないのだ。
これは、俺が演者でも困る。
だが、俺の自己満足でそう決めた。
監督も吉祥寺先生もアビ子も賛同してくれてスタッフ達も皆、俺の考えを肯定してくれた。
それに基づいて今、現場は回っている。
何故、クライマックスに関わる脚本を渡さないのか。
理由は一つ。
"真実"を見せて欲しいから。
"嘘"の中にある"真実"を、見たいと思ったから。
だから演者達にはクライマックスに関連する撮影に突入する段階で最後の脚本を渡す。
事前にそう伝えており、全員からの許諾も得ている。
"嘘"の中でも、ありのままの姿を見せて欲しい。
……まあ、状況を見て演技指導はするかもしれないけど。
そんな事を思う。
同時に。
茜ちゃんが役作りを完結させない為の措置としても、機能させるつもりだった。
結末が分からなければ、合わせようが無い。
だからこそ核心となる部分をギリギリまで教えず、役作りにのめり込んでもらおうと考えていたのだ。
まあ、今の茜ちゃんを見れば、もう最後の脚本を渡しても問題無いとも思える。
けれど他の人達を巻き込んで事前に決めたんだ。
やはり予定通りのタイミングで渡そうと、決め直した。
それにきっと茜ちゃんは今、それどころじゃないと思うし。
浮かぶは前回の撮影。
回数をこなしてすっかりと現場に慣れた様子の茜ちゃん。
彼女の役作り上、その時に撮影するシーンまでだけを読む様にして、分析を続けてきている。
最初に脚本を一通り読んだ記憶は、必死に思い出さない様にしてるらしい。すげーな。
だから前回の撮影が終わった時、次回撮るシーンの脚本部分へと漸く目を通した茜ちゃんが固まっていた。
まあ、仕方ないと思う。
このシーンは俺が後から注文して、追加してもらった内容の一つ。
少女と少年が電話越しで喧嘩をするシーン。
実際には、少女が再び少年と連絡を取る様になったが、僅かに違和感を覚えた少年がそれを心配する内容を送る様になる。
だが少女の返信はいつもと変わらないもの。
けれどやはり心配になった少年はある日、少女へと電話をかけた。
文字ではない久々の、声での会話。
そこで明るく話す少女に安堵しつつも、少年はやはり何度も心配した言葉を少女に伝える。
やがて、少女の心が決壊した。
初めての喧嘩。
最後に少女がその想いを口にする。
その内容は。
少年を嫌いになる、という事。
でも、助けたいという思いだけは呪いの様に、心に残り続ける。
少年を嫌うという少女の心理。
けれど救いたいという葛藤。
そのシーンが、次回撮る部分だった。
脚本を見つめて固まる茜ちゃんに、俺は何もしなかった。
役作りに集中して欲しいから。
次回の撮影でまた駄目だったら、フォローはするつもり。
けれど最初からアドバイスをするつもりはなかった。
少年にどこか俺の存在を置いている茜ちゃんは果たして嫌えるのか。
その葛藤が彼女を役作りに没頭させると思い、敢えてこのシーンを追加してもらったのだ。
駄目だったらまた撮影を見送れば良いだけだし、スケジュールの心配は皆無。
存分に悩み、そして役者としても成長するだろうと期待していた。
……だから、他の事なんか何も考えず、役作りだけに集中してくれ。
心の中でそう呟く。
このシーンの撮影は、今までより一週空けてのスケジュールを押さえていた。
悩むべき部分は存分に悩んでもらいたい。
不意に、玄関の鍵が開いた音がした。
思考を中断し、そちらへと顔を向ける。
扉が開き、閉じる音。
静かな足音が徐々に近付いてくる。
やがて、眼前の扉が開かれたのだった。
「戻りましたっ。事務所から一通だけ郵便が届いたみたいですっ」
笑顔の天使ちゃんが、そう言って扉を閉めた。
「おー、おかえり」
思わずそう告げれば、振り返った彼女が微笑む。
「はいっ、こちらご確認ください」
そう言って渡された封筒。
表には俺ではない名前と、事務所の名前だけが記載されていた。
色々気を使ってもらった結果、俺宛の郵送物は全て、この偽名が使われる様になっていたのだ。
まあ微かに文字を変えてるだけなので、そこまでの違和感は無い。
というか、もう慣れた。
テーブル越しの椅子に座り直した彼女が、カップを手に取る。
まだ湯気が立ち昇るその光景から、然程の時間が経っていないのだと思えた。
紅茶を口にする天使ちゃんを見てから、手元の封筒を裏返すと。
既に開けられた痕跡が見受けられた。
だが構わずに、その中身を取り出す。
天使ちゃんが事前に検閲してくれた証だ。
事務所を騙って誰かが送って来れば、もしかしたら何か良からぬ物が入っているかもしれない。
だからこそ届いた物は全て、この家に来るまでに天使ちゃんがエントランスで検閲してくれていた。
よって、俺は絶対に荷物を取りに行く事は出来ないのだった。
プライバシーも個人情報も何も無いと思うかもしれないが、別に俺は何とも思ってない。
自分で何かを注文する事もなければ、欲しい物もない。
望めば天使ちゃんか佐山さん、もしくは事務所がくれるから、何年も自分の為に買い物すら行った記憶が無いのだ。
よって俺が思うのは、毎度の事ながら天使ちゃんに苦労をかけているという事のみ。
ファンレターは全て事務所に届き、多くの社員達が全て返事を書いてくれてる。
大分昔、俺が書こうかと言ってみたが、月に何千通や多い時には何万通も届くらしいから、素直に諦めるしかなかった。ほんと、いつもあざます。
だから基本的に、俺への郵便や宅配便は基本的に、事務所からのみ。
といっても、それらもあんま無いんだけどさ。
一番の基本的は、佐山さんが持ってきてくれるんだから。
従って、珍しい俺への郵送。
中身を見れば、事務所との契約内容に関する微かな修正点の同意書だった。
それと、返送用の封筒。
ふと視線を上げれば、俺の目の前に一本のボールペンが置かれている。
もう少し視線を上げれば、紅茶を飲んでいる天使ちゃんの姿。
それを一瞥し、ペンを掴んで署名欄に記入する。
色々と細かく書かれているが、中身はあんまり読んでない。
でも、気にしない。
天使ちゃんが何も言わずペンを差し出してくれたなら、この書類の内容は俺にとって何ら影響無いという事だから。
署名した書類をたたんで、テーブルに置く。
届いた封筒と返送用の封筒もテーブルに置けば、天使ちゃんがそれを持ってゴミ箱に移動。
反対の手には鋏が握られていた。
ゴミ箱の前に立ち、シュレッダー顔負けの裁断を手早く行った彼女が戻ってくる。
鋏とペンを、いつもの場所へと静かに戻したのだった。
視界に映るカップからはやはり、変わらずの湯気が立ち込めていた。
これも、たまにあるいつもの光景。
だから俺も構わずコーヒーを再び飲むのだった。
やがて思い出した様にスマホを取り出す。
チャットアプリを開き、目的の人物へとメッセージを送る。
宛先は、佐山さん。
契約の書類届いたけど事務員の人、詰めないでね?
それだけを送れば即既読。
少し待ってから了承の返事が来たのを見て、思わず苦笑してしまう。
どうやら今回は大丈夫らしい。
俺の表情を見たからだろう。
視界に映る天使ちゃんも、俺を見て笑みを浮かべていた。
うちの事務所は忙しいらしく、結構な頻度で人を採用しているとの事。
だから今回も多分、まだ慣れてない事務員の人が誤って郵送対応してしまったんだろう。
その人はきっと慣れない仕事の中忙しくて、他のタレントと同じ対応をしてしまっただけだから、これが原因で怒られるのは忍びない。
何故わざわざ佐山さんに、そんな連絡をしたのか。
それは以前、同じ様に書類が送られてくる事があった。
佐山さんが稀に出張で居ない場合等々いくつかのやむを得ない場合には、書類が郵送で送られてくる事はあったのだ。
仕方ない事。
だが、佐山さんが動ける時に、それを行ってしまった事務員が居た。
人員増加に伴い、新しく雇われた若い女性。
仕事熱心らしく、真面目に仕事をこなしていたある日。
俺への書類を佐山さんに渡さず、他のタレントと同じく郵送してしまった。
届いたのは勿論、俺の家。
だからその事務員には何の過失も無い。
郵送物を受け取った俺が普通に目を通して同意の署名を書いた。
その日に佐山さんと会うから直接渡せば良いと、そう思って車の中で渡した時。
いや、初めて見たね。
佐山さんの目が深く淀んだの。
けど仕事を終えて暇だったから事務所にいるいつものメンバーと駄弁ってた時、視界に奥で佐山さんが一人の事務員を連れて部屋に入って行くのが見えた。
そして続いて入って行く、色んな部の長達。
やっぱ人には第六感があるって、思ったね。
雑談もそこそこに立ち上がれば、何かに気付いた社員達が一気に俺へと集まって話しかけてくる。
でも歩く俺を物理的に引き留める事は出来ないから、そのまま歩き続ける。
目的の部屋の前に到着したら、着いてきた社員達が再び勢いを増した。
しかし。
各自、仕事に戻る様に。
そう笑顔で告げれば、颯爽と踵を返してくれた良い人達。
微かに扉を開ければ声が聴こえてくる。
色んな大人達の、完璧なまでの理詰めと激詰め。
怒声なんて一切無いのに、やべー雰囲気だとは一瞬で理解出来た。
扉の隙間から見える、若い女性。
長テーブルの前に座って、怯えた様に震えながら俯き泣いていた。
カズヤに関する対応は入社研修の二日間を通して何度も伝えた。
関する書類については必ず上長から対応の承認を得て、指示された方法で処理しなければならない。
万が一、上長が不在の際は必ず、同部署内の代理申請権限を持つ社員に指示を仰がなければいけない。
その者を伴って、承認権限を持つ他の管理者から代理承認を得る必要がある。
個人の勝手な判断で、カズヤに関する書類の対応を行う事は厳禁。
指示無く社外へと書類を持ち出した場合は職務規定違反になる。
郵送の場合も同様である。
入社研修だけでなく、毎月のコンプライアンス研修でもその旨は伝えてあり、研修の受講完了時に承諾のサインをしている。
そんな怖い話が淡々と告げられているのだった。
いや、そこまでする?
張本人はそう思った。
だから流石に止めようと思って、扉を思い切り開いた。
驚く面々。
溜息を吐いた佐山さん。
俺に気付き、怯えた表情を向ける事務員の女性。
まあそこで皆を何とか落ち着かせて、事なきを得た。
俺に関する書類とかが問題だったら何とかして一緒になんない様に分けて作業すればいいじゃん。
そんな感じで長達に無理難題を押し付けてみれば、何やら長考した後に採用された。
後からちらっと聞いた話だと、俺のせいで事務作業の効率は落ちたらしい。
でもそれでいいとの事。……ほんと、すまん。
その場で何とか事務員の女性を宥めれば、仕事を辞めるとかそんな話にはならずに済んだ。
生涯、カズヤさんの為に身を粉にして働きます!
笑顔だがどこか俺以外を見ていない様な目付きで言われた言葉を、安堵の息を吐きながら頑張ってと告げたのが懐かしい。
あれから何年も経った。
少し前からその人が、俺の書類を管理する課の長になったらしい。
久々に事務所に行った時に、嬉しそうに教えてくれた。
あれから必死に頑張った結果、色んな部の長達が彼女の働きを評価しての事だった。
佐山さんに聞けば、かなり優秀な社員になったらしい。
カズヤさんから賜った御恩に応えられる様、与えられた職務にこの身を捧げます!
そんな事を言われたのは果たして、何人目だろうか。
毅然とした姿に思わず程々にねと返していたが、今回の件。
もしかしたら配属された新しい人が、やっちゃったのかもしれない。
再びコーヒーを飲む。
正面を見た。
「天使ちゃん、午後からの仕事……ちょっと事務所に寄ってから行こっか」
そう告げれば、
「はいっ」
明るく綺麗な笑顔。
けれど何故か微かに身体が震えてしまう笑顔。
……事務所に行くの、怖いかも。
そんな事を考えながら、コーヒーを矢継ぎ早に飲む。
これもまた、ありふれた日常の一コマ。