"にわか"は言う「だから『推しの子』だって言ってんだろ!」 作:あるミカンの上にアルミ缶
朝、一人の男が自宅であるマンションのドアを閉めて、地上に続く階段を足早に降りていく。
降りた先から見える道路には、一台の黒いセダンが停まっていた。
男は車へと歩み寄り、後部座席へと乗り込む。
中には、運転席に人が居た。
「おはよう、カズヤ君」
運転席からかけられた声に、後部座席のドアを閉めてから男が返した。
「おはよう、佐山さん」
運転席に座るスーツ姿の男に挨拶を返した頃合いで、車が静かに動き出す。
運転する、佐山と呼ばれた男性は、後部座席に座りスマホを見ている男のマネージャー。
スマホを見ている、佐山からカズヤ君と呼ばれた男は俳優で、今日はCMの撮影にドラマの撮影、バラエティー番組の収録と過密なスケジュールになっていた。
それまではCMにてある程度の地位はあった彼だが、少し前に放送された恋愛リアリティショーによって大ブレイクし、今や時の人となり人気俳優の仲間入りを果たした彼は、芸名をカズヤ。
本名、木村カズヤは今日も今日とていつもと変わらず、マネージャーである佐山と共に仕事へと向かうのだった。
午前中にCM撮影が一本あり、午後からはドラマの撮影。夜からバラエティー番組の収録を順番にこなす。
収録の合間、カズヤはスタジオから離れ、電話相手と話していた。
「ああ、はい。それで大丈夫です。金額については別途、お会いした時に相談出来れば」
通話をしている姿を、少し離れた場所からマネージャーの佐山が気付くが、彼は別段気にしない。
カズヤは今まで、プライベートにおいてスキャンダルを起こす様な素振りは一切見せず、不祥事を起こす様な素行の悪さも皆無。
子役時代から、誰に言われる訳でも無く謙虚さを持ち、他人を思いやり天狗になる事もなかった。
故に、マネージャーであれど彼のプライベートに一切口を挟んだ事はない。
佐山はカズヤを一瞥した後、番組のプロデューサーと今後の話をする為にスタジオへと戻った。
それから少しして、カズヤの電話が終わる。
「……よし、まずはオッケーと」
そう呟きながらスタジオに戻ればディレクターから「カズヤ君っ、もうすぐ収録再開するから」との言葉があり、それに笑顔で頷いていた。
バラエティー番組の収録が再開し、カズヤは特段問題なくMCからの質問に受け答えし、最後に彼が出演しているドラマの番組宣伝を行う。
その姿は正に、巷でSNS世代である若者がカズヤに対して呼ぶ"カズヤお兄様"にそぐわぬことのない、安心感があった。
そんな一日を繰り返し、カズヤは今日も忙しく仕事に勤しむ。
基本的に、深夜に帰宅する事が多いカズヤはすぐに寝る事はせず、電話やメールといった、誰かと連絡を取る事が多かった。
「……ああ、場所が分かりましたか」
無理させてしまって申し訳ないです、そう朗らかに述べる彼に対して、電話口からは溜息が聴こえてきた。
それに対して彼は軽い笑い声で返す。
「ま、その分お金は払うんで許してくださいよ」
その声に、電話口の相手は特段反論する事はなく、軽口のみで許した。
互いに緊張感も特段なく、落ち着いた雰囲気で話が進んでいく。
「……ええ、交渉の手段は都度お任せします。その際に金の話が出たら一旦、当初決めた金額を伝えてもらって、それで渋る様だったら希望金額を聞いて、それを教えてもらってもいいですか?」
カズヤの言葉に、電話口の相手は了承の旨を返した。
「はい、じゃあそんな感じで、これからよろしくお願いします……あ、それとエスカレーションが必要じゃないって判断したら、こっちには細かい報告はいらないんで、そこら辺も裁量はそちらで自由にしてください」
では何かあったらまた連絡ください、そう言って彼は電話を切る。
スマホをテーブルに置き、ダイニングの椅子に座ったままで天井を見上げため息を一つ。
「……さて、まずはこれで一つクリアと」
そう呟き、椅子から立ち上がって寝る準備を始める。
居間へと移動し、部屋の一か所を見やってから、ベッドに横になるのだった。
カズヤがそんな生活を始めて、三年が経過した。
相変わらず過密なスケジュールをこなしつつ、合間を見て彼はよく、自身が所属する事務所へと足を運んでいた。
彼の所属する事務所はあれから勢いを増して、当初の小さな事務所から中規模程度の事務所へと、業界内での評判が変わっていた。
そこの看板タレントであるカズヤが事務所に良く立ち寄るのは、一つ理由があったから。
それは、仲の良い事務所の社員たちと駄弁る為。
それが彼にとってここ数年で唯一の息抜きとなっていた。
彼が事務所に入れば、すぐに社員に気付かれる。
「あ、カズヤ君。お疲れ様」
そんな社員に挨拶を返し、彼は事務所内にあるソファーに腰掛けた。
次の現場に移動するにしても、まだ少し余裕があったから。
カズヤに挨拶をした社員もまた、彼と共にソファーに座る。
その社員がカズヤの目的であり、彼が子役時代からずっと仲の良い社員の一人だった。
ソファーに腰掛け一息ついたカズヤに、社員の男性が話しかける。
「そうだ、カズヤ君はもう聞いた?」
不意の質問に、カズヤは社員を見やった。
「え、何が?」
そんな彼の返しに、男性は待っていましたと言わんばかりに笑顔を浮かべた。
「アイの……B小町のドームライブがとうとう決まったんだよ!」
待ち望んでいた、そうとしか思えない笑顔の男性。
「え、マジで?」
驚いた表情で言葉を返したカズヤに、男性は勢い良く頷く。
そんな男性をしばらく見つめ、やがて顔を逸らした。
「ほーん」
呑気なカズヤの言葉だが、男性は気にしない。
二人の間柄は、ずっとこうだったから。
気の抜けた様な表情をするカズヤに、男性は口を開く。
「いやー、やっとB小町が世間に認められたって感じがして嬉しいよ!」
ドームライブ楽しみだなあ、未来を夢見る表情で男性がしみじみと頷く。
そんな男性を、カズヤは横目で見やった。
「ドームライブって、やっぱそんなにスゴイの?」
彼の何気無い質問に、男性はカッと目を見開いた。
「スゴイってもんじゃないよ! 全国的に知名度があって、集客力も確実で話題性も間違いないっていう、限られた人たちしか許されないんだよッ?」
熱弁を振るう男性の勢いに押され、カズヤは「お、おう」としか返せない。
気おされているカズヤを尻目に、男性を正面を向いて立ち上がった。
「俺たちが応援して、B小町がここまで来たんだから喜ばずにはいられないでしょッ!」
男性の言葉はフロア内に響き渡り、それに呼応する様に遠くから「おう、そうだ!」「その通りッ!」というレスポンスが返ってくる。
仕事に追われこちらに来れない、カズヤと昔から仲が良い社員たちからだった。
彼らは夕方からある、B小町のライブに間に合わせる為に、必死で今日のタスクをこなしていた。
そんな声も耳にしつつ、カズヤは男性に訊ねる。
「そんで、ドームライブっていつやんの?」
彼の言葉で、男性は再びソファーに座り直す。
「まだ三か月後なんだけどね」
日程はこれ、そう言ってスマホを操作し、カズヤに画面を見せる。
そこには、B小町のドームライブに関する情報が載っており、開催日についても掲載されていた。
それを見て、カズヤは笑みを浮かべる。
「じゃあ、せっかくのドームライブだし、俺も参加しよっかな」
『え!?』
そう告げたカズヤに対して、驚いた声が返ってくる。
目の前の男性だけでなく、遠くで仕事をしているはずの二つの声も一緒に。
「か、カズヤ君が、B小町のライブに……?」
動揺し震えた声で男性が、カズヤに聞き直す。
カズヤは頷いた。
「ま、皆と席は離れるだろうけどね」
俺、有名人だし。ニヒルに笑いながら告げれば、次いで男性たちの歓喜の叫びがフロアに響き渡った。
ファン代表がいよいよ出陣だ! なんて狂喜乱舞している男性に、カズヤは苦笑しながら立ち上がる。
時間を見れば、そろそろ次の現場への移動時間だった。
笑顔で見送りをしてくる彼らに手を上げて応え、カズヤは事務所を出る。
外にはカズヤが見慣れた黒いセダンが停まっており、そのまま後部座席に乗り込んだ。
運転席にはマネージャーの佐山。
車が動き出してから少し経ち、カズヤは声をかける。
「B小町のドームライブの日、調整して休みにしてもらってもいいかな?」
カズヤの言葉に、佐山は困惑気な声を上げたが、そのまま了承した。
それと……。そうカズヤは続ける。
「申し訳ないんだけど、その日から一週間くらい休みにしといてもらえると助かる」
その言葉に佐山は再び困惑気な表情を浮かべながら、現場へと車を走らせた。