"にわか"は言う「だから『推しの子』だって言ってんだろ!」 作:あるミカンの上にアルミ缶
朝早くにチャイムが鳴った。
トイレに入っていたので、一度目は出られず、二度目のチャイムでモニターを確認出来た。
朝食を持ってきた天使ちゃんかなと思っていたが、そこにいたのは……あい。
いつもの変装セットで、彼女が映っていた。
何でここに?
どうやら、朝食は食べられなさそうだとも確信。
腹減ってるけど、致し方ないか……。
その考えが内心を駆け巡りながらも、とりあえず応答せねばと、応答ボタンを押して外部に音声を繋げる。
「…………あい?」
普通に、内心の思いがそのまま声に乗ってしまった。
そして手に持っていたスマホを点けて、天使ちゃんにメッセージを送る。
『ごめん、今日は朝飯食べれなさそうだから、夜用にとっといてくれるとありがたい』
送信してすぐに既読がついた。
まあ、これで天使ちゃんとあいが鉢合わせする事はないだろう。
その瞬間。
こんっ。
玄関のドアが軽く叩かれた音が聴こえる。
はいはい、今開けますよー。なんて考えながら玄関へと向かった。
その時に、再び玄関のドアを叩く音。
こんこんっ。
その音を皮切りに、ドアを叩く音が断続的に続く様になる。
そしてその音は次第に大きくなり始め、鈍い音へと変わっていく。
気付けば、俺の足は止まっていた。
玄関の目の前、後はそこで鍵を開けるだけ。
目の前のドアを叩く音が止まらない。
それは相手を呼びつけるというよりも、まるで障害となっているこのドアを壊そうとしているかの様にも思えてしまう程だった。
鳴り続ける、ドアを叩く音。
それを俺はただ、聴いている事しか出来ない。
……開けんの、めっちゃ怖えんだけど。
そんな感想だけが、胸中を支配する。
けれど、開けなければいけない。
天使ちゃんのみならず他の住人が音に気付いて外に出て、あいが気付かれてしまっては大変だ。
故に、勇気を振り絞る。
かちゃり、そんな音と共にドアの鍵を開けた。
同時に鳴りやむ打撃音。
ドアノブを回して、前に力を入れてドアを開けた。
その瞬間、引っ張られる様にドアが開けられ、俺は前へとたたらを踏んでしまう。
同時に中に入り込んでくる人影。
玄関通路の真ん中に立っていた俺を、その腕で壁に押し付けた。
「どいて」
その声と共に、開けた通路を中へと歩き去っていく。
靴を脱ぎ、足早にダイニングへと。
呆気に取られていた俺は、数秒遅れて追いかける。
玄関の鍵を閉め直して、ダイニングに向かった。
その時、ダイニングには彼女の姿が無く、開け放たれた居間の扉が目に入る。
それを追いかけると、ベッドやクローゼットを何やら念入りに調べ、荒らすあいの姿。
一頻り終えたのか、俺の方へと歩いてきて、
「邪魔」
そう言って居間の入り口にいた俺を押しのけて、今度は風呂の方へと向かった。
そして入念な確認を行い、今度はトイレ。
再び居間に戻ってカーテンを開け放ち、窓の奥にあるベランダへと出た。
何やらベランダを右往左往しながら覗き込んでいるのが見える。
よく分からんが、怖い。
なので彼女が落ち着くまで、ダイニングテーブルに置いてあったコーヒーを飲みながら待つ事にする。
椅子に座ってコーヒーを一口飲めば、居間の方から窓とカーテンが閉まる音。
そして床を踏み鳴らす様に、強い足音がダイニングへと近づいてきた。
やがて、ダイニングにあいが姿を現す。
テーブルの前まで近付き、椅子に座る俺を小柄な体躯で僅かに見下ろしてきた。
その表情は、無。
能面の如き表情が、そこにはあった。
「どこ」
不意に呟かれた。
全く、意味が分からない。
「女」
続けられた言葉。
どこ、女。
この単語二つで、俺の中には彼女の真意を掴む考えが浮かばなかった。
コーヒーを置いて、ただ彼女を見やる。
あいもまた、何の感情も見せない表情で俺を見ていた。
しばらく、沈黙が支配する。
「……女、どこに隠してるの」
あいの言葉。
そこで俺もやっと言葉を返す。
「どこにも隠してないけど……」
この部屋のどこにも、あい以外の女性はいないのだ。
素直にそう答えるしかない。
「ふーん」
無機質な相槌の声。
その声にはいつまで経っても慣れず、身体が震えそうになったが何とか我慢出来た。
「……もしかして、あの天使とかいう女?」
無表情のままに、質問が飛んでくる。
「天使ちゃん?」
「二度とその名前言わないで」
んな、理不尽な……。
一応確認として訊いただけなのに。
けどまあ、天使ちゃんの事で間違いはないんだろう。
「あの子はここにいないよ」
とりあえず天使ちゃんというワードを使わず、答える。
「へー、今度は"あの子"なんて優しい言い方するんだぁ」
どないせえっちゅうねん。
急募、あいから怒られない天使ちゃんの呼び方。
「じゃあなんであの時、困った様な声だったの」
彼女の言葉に考える。
あの時。それが思い当たるのは先ほどインターホンで答えた言葉のみ。
その事を言っているんだろうか。
まあ、あの時は確かにちょっと困ったと思った部分はあったが……。
「朝飯が食えないなあって、ちょっと考えただけだよ」
それが悩んだ原因。
もしかしたらこのまま出かけるのかもと思い、せめて朝食食ってから来てくれればなあ、なんて考えはした。
というか、よくそんな微かなニュアンスを掴んでくるもんだ……。
「そう」
俺の言葉に、その一言だけ告げた。
「……まあ、嘘は言ってないから信じるよっ」
僅かに微笑んで明るく放たれたその言葉に、ほっとする。
よく分からんが、難局は無事に乗り越えられたらしい。
そしてあいは、その表情を変えて俺を見てきた。
「そういえばあの女、カズヤのマネージャーなんだよね? 昔、病院で看病したきりで終わりだと思ってたのに、まだカズヤに引っ付いて迷惑かけてるんだもんね」
笑顔、それがあいの浮かべる表情。
「カズヤは優しいから、我慢して一緒にいてあげてるだけだもんね? けど迷惑だってちゃんと言った方が良いよっ? ああいう女って自意識過剰だからカズヤに好かれてるってすぐ勘違いしちゃうんだからっ」
笑顔で、明るい声色のまま、俺を見つめている。
「しっかりと拒絶の意思を見せないとつけ上がってカズヤの彼女面してくるかもだしっ。私以外の女は愛してないってハッキリと言ってあげないと頭の悪い勘違い女って未練がましく付きまとってくるから優しいカズヤは美徳だし私も大好きだけどこうして私が勘違いしちゃってカズヤも私も悲しい思いすることもあるからきっぱりと言ってやって遠ざけた方が絶対いいと思うんだよねっ」
一呼吸で話を続ける彼女を、ただ見やるしかない。
あいの目は俺を見ている。
けれど、俺を超えた何かを見ている様にも感じた。
「私はカズヤの彼女だから優しいカズヤを見習ってこうして何も言わないできたけどさっ、やっぱりこうなっちゃうならこれからもあの女のせいでお互いにすれ違う可能性も無くはないかもしれないからマネージャー解雇して二度と会わないようにしてよ」
あいの言葉を聞きながら、思う。
いつか、昔聞いた言葉。
果たして前世の頃だろうか。
――男の嫉妬は女に、女の嫉妬は女に向かう。
彼女の言動を見ながら、そんな言葉が思い浮かんだ。
ただ、あいを見やる。
「……それでね? カズヤ」
不意に、あいの声色が変わった。
俺を、笑顔で見ている。
「私、決めたんだ」
彼女の言葉は、まっすぐと俺に届く。
「私、二年後にアイドル引退する」
その言葉に、驚愕した。
あいがアイドルを辞める。
その姿がまるでイメージが湧かなかったから。
けれど、内心では違う考えも浮かんでいた。
彼女がアイドルを引退する理由。
もちろん年齢とかそういった要因もあるのかもしれない。
未だに二十歳の頃とほぼ変わらない容姿をしている彼女だが、世間的にはもしかしたら色々アイドルに対して思われる部分もあるのかもしれない。
でも、俺が思うあいがアイドルを引退する理由。
それは……、
「そしたら、私と結婚して」
これが、あいがアイドルを引退する理由として思い浮かんだもの。
真剣な表情で、こちらを見つめるあい。
数年前から、彼女の言葉の端々にこの言葉がいつか来るんじゃないか、そう思っていた。
ならば、こちらも真剣に答える。
俺だって、ずっとこれからの事については真剣に考えてきたんだ。
「ああ、その時はちゃんと答えるよ」
俺もそろそろ、身を固めないといけないみたいだ。