学校が見える……高校だ
何時もと同じ風景
誰かが話しかけてくれる
声が聞こえない
世界が色を失う
時間が止まる
ミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタミツケタ
誰を?
オマエダヨ
嫌な夢を見た
起きてみるとまだ仄暗い。マルダさんも旦那さんも寝入っているようだ
妙な夢を見たせいで目が覚めてしまい寝られそうに無い
いい機会だ。何か思い出してみよう
自分の名前……思い出せない
自分の住んでいた国……日本
自分の歳……思い出せない
自分の住んでいた都道府県、市町村……思い出せない
以前の容姿……思い出せない
両親の姿、名前……思い出せない
友達の姿……思い出せない
「むう……」
自分に密接に関わる全てが思い出せないようだ。1+1=2等の常識の部分はスラスラ出てくる
いわゆるエピソード記憶の部分を失っている状態らしい
そういえば何故俺はマルダさんと言葉が通じたのか……まだまだ確かめてみることがありそうだ
マルダさんか旦那さんが起きてきた気配を感じ部屋を出る
「あら? 早いじゃないか。もっと寝ていてもいいんだよ?」
起きたのはマルダさんだった。ライ麦パンを切っている。朝食の準備のようだ
「目が覚めてしまったので……何かお手伝い出来る事はありますか?」
「うーん。そうだね。なら村の真ん中にある井戸から水を汲んできて貰おうかしらね」
木製のバケツを渡される
「分かりました。行ってきます」
玄関の戸を開けるとひんやりとした風が頬を撫でた、少し肌寒いかもしれない
井戸につくと数人の女性がおしゃべりをしている。一人が俺をみて眉間にシワをよせるのが見えた
「おはようございます」
先手を取って挨拶。人間関係の基本は挨拶からだ
「あ、お、おはよう? えーと……」
「昨日からマルダさんの家にお世話になっている旅の者です」
マルダさんの名前が出た途端に何処か緊張していた女性達の間に弛緩した空気が流れた。マルダさんは親しまれている人のようだ
「マルダは世話好きだからね。運が良かったねお嬢さん」
「そうですね。本当に助かりましたよ」
バケツに水を注ぎながらの会話。正に井戸端会議だ
「む……」
バケツを運ぼうと持ち上げると予想外に重く感じた。ついこの間まで男だった俺の感覚と今の体のスペックが上手く噛み合っていないのかもしれないな
「貴女、大丈夫?」
「これくらいなら大丈夫ですよ」
昨日手足を確認した限りではこの体は華奢で力仕事なんぞした事が無いように見えた。少しずつでもいいから体力作りをしておくべきか
マルダさん宅に帰ると旦那さんも起きていた
「よお、早起きだな嬢ちゃんは」
「あんたが寝坊助なんだよ。お嬢ちゃん、桶はその辺に置いとくれ」
言われた通りに適当な場所にバケツを置く、と同時腹が鳴った
「おやおや。さ、朝飯にしようかね」
「は、はいすいません……」
恥ずかしい。俺の腹の虫に空気を読めと小一時間説教してやりたい気分だ
ライ麦パンはそのままでは固く食べるのに一苦労である為シチューにつけて食べるのが一般的な食べ方のようだ
「ふう。旨かったぜマルダ! じゃ俺は仕事行ってくるぞ」
3分程でシチューとライ麦パンを平らげた旦那さんはいそいそと出掛けて行く
「旦那さんはどんなお仕事をしているんですか?」
「農家さ。この辺り作物はいい値段で売れるんだよ」
マルダさんに聞いた所によるとこの村は農作物が主な生産品のようだ
旦那さんの4倍以上の時間をかけて朝食を終える。マルダさんも俺と同じくらいの時間をかけて食べていたから旦那さんの早食いが異常なんだろう
「さて、朝飯を食べたら村長の所に行くよ」
口ぶりからすると俺に関係している事みたいだ
「分かりました」
村長の家は流石に立派だった。窓にはガラスが嵌められているし二階まである。庭も広く綺麗な花が植えられていた
マルダさんが玄関を叩くと60代後半と思わしき男性が顔を出した。この男性が村長のようだ
「うむ。入りなさい」
既に話は通してあるらしく俺とマルダさんはあっさり中に通される。家の造りはマルダさん宅とそんなに変わらないようで玄関から直ぐ居間になっている
左右に1つずつと奥に2つの戸があるのだが階段は見えない。4つの戸のどれかが階段に繋がっているのだろう
居間の中心にテーブルが置いてある。このテーブルも立派な物でいい艶が出ている、年代物だ
「さ、座りなさい」
俺、マルダさんは並んで、村長は向かい側にそれぞれ腰掛ける
「私はゾーリンという。この村の村長を勤めている者だ。昨夜マルダから君の事を聞いて少し話をしたいと思ったのだ」
事情聴取か。マルダさんにも詳しい話はしていないしいい機会だ
しかし……何処から話そうか
「信じては貰えないかも知れません。自分でも信じられない事ですから」
裸で森に居た理由なんて思い付くわけもなかった俺は全てを話す事にした。元々は違う世界もしくは惑星に居た事、前に居た場所では男であった事。名前を含めた一部の事柄が思い出せない事
話が進むにつれてゾーリンさんの表情が険しくなるのが分かった。おそらくはマルダさんも同じだろう
「…………嘘をついているようには見えないが……」
俺だって他人から同じ話をされたらまず信じない。話を遮らなかったゾーリンさんやマルダさんは懐が広い人達だと思う
「荒唐無稽な話だとは承知しています」
「確かに……君はこれからどうするつもりかな?」
どうすると言われても困る。俺はこの世界について何も知らないわけだし先立つ物もない。身動きを取れる状態でもないのだ
しかしこれ以上マルダさんの世話になるのも情けない
「……働きたいです……少なくとも自分の世話くらいは出来るように」
俺の答えにゾーリンさんは頷いてみせる
「この村は小さい。食い扶持を探すのだったらもっと大きな街の方が良いだろう」
言っている事は正しいのだろうが無一文ではどうしようも無い。マルダさんを見ると何かを察したようだ
「マルダさん?」
「アンタ。料理は出来るかい?」
ゾーリン曰わくもうすぐこの村の作物を買い付ける為にキャラバンがやってくるんだそうだ
そのキャラバンに手伝いとして潜り込んで近くの街まで一緒に行ったらどうかと言う事らしい
悪くない……全く悪くない。寧ろこれしかない
「お願いします」
ゾーリンさんに頭を下げる
「分かった……ただキャラバンに便乗するにはそれなりの能力、もしくは代金が必要だ。さっきマルダが料理は出来るかと聞いたのもそのためだ」
代価も無しに乗せて貰えるわけもないのは当然。金が無い俺は何か旅の役に立つという事を証明してみせなければならないのか
「そんなに難しい顔しなくてもいいよ。一通り家事が出来りゃ大抵は乗せてもらえるもんさ」
そうなのか。いや、一般人に過度の期待はしちゃいないって事なのだろう
「街には私の知り合いがいる。紹介状を書くから持って訪ねるといい。きっと力になってくれる筈だ」
「ありがとうございます……すいません甘えてばかりで……」
此処に来てから世話になってばかりだ。今は無理かも知れないが必ず恩を返さなければ
「私とマルダ以外には君の事情は口外しないほうがいいだろう」
ゾーリンさんやマルダさんはある程度の理解はしてくれたが万人がそうであるはずがない。頭のおかしな人として見られるのが関の山か
「わかりました」
「さて…話は大体終わりだな。何か質問はあるかな?」
この世界について聞きたいことはあるが……全部聞いてたら日が暮れるだろう
「俺は特にありません」
マルダさんが口を開いた
「ちょっといいかい。アンタの名前を考えなきゃ駄目じゃないかねえ?」
……忘れてた。今の俺は匿名希望状態だった
「では……俺の事はナナシ……ナナと呼んでください」
我ながら適当なネーミングだ。まあ本来の名前を思い出すまでの便宜上の名前だしこんなものでいいだろう
「分かったよ。さ、ナナ。帰って準備しようじゃないか」
「はい。ゾーリンさん。今日はありがとうございました。失礼します」
それから数日。俺はマルダさんからシチューの作り方やら洗濯の仕方などをみっちりと教わる事になった。控え目に言ってマルダさんは鬼軍曹の素質があるようだ