全滅エンドを死に物狂いで回避した。パーティが病んだ。   作:雨糸雀

10 / 62
09. 〈シスター〉アンゼⅠ

「――今すぐ聖都に戻って、これからは大聖堂でわたくしと一緒に暮らしましょう!」

「「「――――は?」」」

 

 空気にヒビが入ったのがわかった。

 

 師匠とユリティアとアトリの、ドスが利いた声というか。俺へ向けられたものではないはずなのに、なにか根源的な寒気を感じて背筋が縮みあがる。

 

 だというのに、アンゼはその慈しみに満ちた微笑みをかけらも動かさない。地響きすら聞こえてきそうなこの凄まじい重圧が、まるでただのそよ風でしかないかのように、

 

「大聖堂はこの世界でもっとも安全な場所です。そこでゆっくりと傷を癒しましょう」

「あー……アンゼ、それは」

「ご安心ください、何人(なんぴと)たりともウォルカさまを傷つけさせはしません。〈聖導教会(クリスクレス)〉のすべてをもって、ウォルカさまをご支援いたします。どうか、わたくしにすべてをお任せください……」

 

 うーんクソデカ感情。

 

 

 天よりデカく海よりデカい心を持つシスター、『アンゼ』について。

 

 

 俺の頼りない原作知識に誤りがなければ、彼女は原作キャラではない。さすがにこんな印象的な子が登場していたなら、モブであっても記憶の片隅に残っていると思う。まったくピンと来ないということは、原作では一切登場していなかったと考えるのが妥当だろう。

 

 そも俺が読んでいた限り、原作で『聖都』という都市は完全にほのめかす程度の扱いだった。

 

 理由は二つ。

 まず原作主人公が、聖都および王都の二大都市をわざと避けて活動していたこと。主人公が近寄らないから、物語でも描かれない。まことに道理である。

 

 魔物絶対根絶やし狂戦士の主人公にとって、王都や聖都は、強大な兵力を有しておきながら自分たちを救ってくれなかった憎悪の対象だった。俺が覚えている範囲だと、単行本の巻数も結構進んだあたりで、ようやく王都のキャラクターと渋々関わり始めてたかな。そこから少しずつ聖都にも焦点が当たっていくはずだったのだと思うが、後年は更新が遅れがちだったし、なにより俺自身がご臨終したせいでわからず仕舞いとなってしまった。

 

 そして、二つ目は俺の想像だが――作者が聖都を物語後半の舞台として設定しており、意図的に情報が伏せられていたこと。

 

 たしか聖都には四人の聖女がいて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()――だったか。どう考えても後半に満を持して登場するタイプの勢力であり、それならばほのめかす程度の扱いだったのにも筋が通る。

 

 なお、肝心のほのめかし内容についてはもうさっぱり覚えていない模様……。

 そんなわけで聖都関連では、俺のなけなしの原作知識もほとんど役に立たない状態だった。

 

 

 話をアンゼに戻そう。

 

 

 〈聖導教会〉の中枢機関である大聖堂所属のシスターで、一般的なシスターと同じ、貞淑な黒の修道服で慎み深く身を包んでいる。背中を覆う長い白金色(プラチナブロンド)の髪、そして翡翠色(コバルトグリーン)の瞳は光を呑んで輝くかのようで、肌に至ってはもはや俺と同じ人間とは思えないほど清らかだ。軽々しく素手で触れたら神罰が下るのではないか――そんな神々しさすら感じられる。

 

 その端然とした容姿に寸分違わず、性格も聖なる泉のごとく清純に澄み渡っている。常に慈悲ある微笑みを絶やすことなく、いついかなるときも清らかな心で他者と向き合い、純真たる善意をもって行動する。怒りや嫉妬といったマイナス感情を一切感じさせないその振る舞いは、まさしく神の奉仕者と呼ぶにふさわしいものだろう。

 

 そして穢れのない心の弊害というべきか、アンゼは言うことやることのスケールがとにかく派手だ。心が広い、懐が深い、度量が大きい、天空海闊、気宇壮大――様々な言葉を当てはめられそうではあるが、俺としては『善意がクソデカい』という表現を推したいと思う。

 

 いやもうほんとに、世界のすべてが神の祝福で光り輝いているかのような勢いなのである。

 

 たとえば先ほど、「大聖堂で一緒に暮らそう」と誤解されそうなことを――実際誤解されている――堂々と言っていたけれど、あれは俺たちの水準に翻訳すれば「大聖堂で療養してください」くらいのニュアンスだろう。

 

 正直、俺はそんなアンゼがちょっとばかし苦手だった。

 

 前世は八百万(やおよろず)信仰で育った生粋の日本人だったから、こう、「神を信じよ()すれば救われん」な感じはつい身構えちゃうんだよな。どうしてもアヤしい宗教のイメージになってしまうというか。アンゼが悪いわけではないから、できるだけ慣れようとはしているのだが……。

 

 とはいえ、ちょっと善意がクソデカい以外は普通の女の子だ。歳はたしか、アトリと同じだっただろうか。背丈はアトリより低く、荒事とは無縁なためか、体の線が柔らかく包容力にあふれている。

 

 なにより、大きな心に負けず劣らず胸が――いや、これ以上はやめておこう。そういう目で見るのは普通に失礼だからな。

 

 ただ、それで()()()()の師匠が以前、「なに食ったらあんなになっちまうんじゃあ……」と格差社会に打ちのめされていたことがあって。

 

 そのせいか、師匠は今でもアンゼを妙にライバル視しているところが――

 

 

「――おい、小娘」

 

 

 リハビリ部屋の空間に入ったヒビが、ビシビシと修復不能なまでに広がっていく感覚。

 師匠がアトリの膝からひょいと飛び降り、俺を挟んでアンゼの真横に立つ。

 

「貴様、よもやウォルカを連れていくつもりか? ウォルカはわしの――んんっ、わしらの大切な仲間じゃ。あまりふざけたことをぬかすなよ?」

 

 ただでさえ喧嘩っ早い師匠が、やはりアンゼ相手だといつもより三割増しくらいで物騒だ。無意識に体から魔力が漏れ出て、銀色の髪を不気味な生き物のようにざわざわと揺らしている。

 

 もしかするとアンゼの発言を、俺をパーティから引っこ抜くような意味合いで捉えてしまったのかもしれない。安心してくれ師匠、〈聖導騎士隊(クリスナイツ)〉にはぜんぜん興味ないから。とりあえず魔力を収めてくれ、俺の胃もざわざわしてるから。

 

 ユリティアたちが宥めてくれることを期待したが――ユリティアはダークマターみたいに真っ暗な瞳で、「先輩が連れてかれちゃう……わたしが守らなきゃ…………」とぶつぶつ言っている。うーん、ちょっと見なかったことにしようかな。普通に怖くて直視できない。

 

 一方、アトリはいつも通り落ち着いて……いやダメだわ、いつでも〈装具化(アクセサライズ)〉――装備を小さなアクセサリーに変えて携帯する魔法――を解除してハルバード出せるようにスタンバイしてるわ。君たち揃いも揃ってなにしようとしてんの? 老シスターさんが目玉むき出しにしてわなわな震えてるでしょうが。

 

 仕方ない、ここは俺が止めるしかないか。

 

「師」

「ウォルカはだまってて」

「は、はい……」

 

 師匠こっわ……。なにも言わせてもらえなかったんだが。この剣幕を真正面から向けられて余裕ひとつ崩さないアンゼ、メンタル異次元すぎるだろ。

 あら……とアンゼは少し思案する仕草で、

 

「いけませんか? ウォルカさまのお体を考えれば、大聖堂にお任せいただくのが一番かと思うのですが……」

「それは……」

 

 師匠は苦虫を噛み潰し、

 

「……それは否定できん。ああ、悔しいが否定できんさ。貴様からすれば……ウォルカを守れなかったわしらなぞ、断じて許せんのじゃろうな」

「いいえ、リゼルアルテさま。それは違います」

 

 アンゼが即座に首を振った。哀憐とともに今度は師匠の小さな手を取り、後ろのユリティアとアトリまで目を配って、

 

「みなさまがウォルカさまを大切に想っていらっしゃること、よく存じております。みなさまのご心痛がいかばかりか……察するに余りあることでしょう」

「お、おう……?」

「なにも知らず、その場にいることすらできなかったわたくしに、いったいどうしてみなさまを責めることができるというのでしょうか……」

 

 これだ。俺がアンゼをちょっぴり苦手とする理由――彼女には、決して悪意がない。なさすぎるのだ。

 

 たとえ人と意見が対立したとしても、それは彼女なりに相手を思った百パーセント善意の考えであり、どこまでも純真で裏表がない。まあ要するに、話しているうちにどうしても調子を崩されてしまうのである。

 師匠もすっかり出鼻をくじかれてしまい、

 

「そ、そうか……い、いや! じゃがなぁ!」

 

 久し振りに最年長のオーラ全開な師匠だったのだが、アンゼの善意に絆されてしまって、それ以上は威厳を維持できなかったようだ。

 頬をぷんすか膨らませて、げしげしと地団駄を踏み始めた。

 

「だったら今の……! いーまーのーっ! 一緒に暮らすってなに!? どーいう意味なの! ふしだら! ふしだらですっ! そんなの絶対許さないもんっ!!」

 

 もんじゃないよ師匠、せっかく挽回しかけた年長者のカリスマが大暴落だよ。

 いやまあ、ギスギスした空気が続くよりはいいんだけどさ。破裂寸前だった風船が、あっけなくしぼんでいくようなこの感覚よ。

 

「ウォルカは私のっ、……えっと、そのぉ……弟子だから! 大切な弟子だからっ! おっぱいでっかいおまえなんかに渡さないからね!?」

「師匠、落ち着け」

 

 格差社会の恨みが混じってるから。男の俺がいるところでそんな直接的に言うんじゃありません。アンゼに失礼でしょうが。

 しかしこれすらも、アンゼは柔らかな微笑みで悠然と受け止めてしまう。

 

「ふふ。やはりリゼルアルテさまは、ウォルカさまをとても大切に想っていらっしゃるのですね」

「当然でしょ!」

「それでは、少し言い方を変えましょう。みなさまも――」

「お、お待ちくださいっ」

 

 と、ここで再起動した老シスターが割って入った。達観した晩年の佇まいはどこへやら、血の気が失せた、信じられないものを見る顔で師匠に詰め寄り、

 

「あ、あなた、この御方をどなたとっ……」

 

 アンゼがくすくすと笑う。

 

「構いませんよ。どうかお気になさらず」

「しかし――」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 老シスターが喉元まで出かかっていた言葉を呑み込み、沈黙した。……え、アンゼって目上のシスターも一発で黙らせられるくらい偉いの? さすが大聖堂所属のエリートシスター……。

 

「話を戻しましょう。ええ、ウォルカさまがみなさまの大切な仲間であること、充分に理解しているつもりです。ですから――」

 

 アンゼは胸の前で両手を合わせ、天から光が降り注ぐようにこう(のたま)うのだった。

 

 

「みなさまも大聖堂で一緒に暮らしませんか? そうすれば、わたくしたち全員でウォルカさまを看護して差し上げることができます!」

 

 

 こやつは敵……! 俺の社会復帰を百パーセント善意で妨害する教会の刺客ッ……!

 

「先ほども申し上げたとおり、大聖堂はこの世でもっとも安全な場所です。外敵の心配はございませんし、万が一の際もすぐにわたくしが癒やして差し上げられます。日々のお食事、身の回り品、より優れた義足の手配、その他あらゆるご支援を大聖堂がお約束いたします!」

「「「……なるほど……」」」

 

 なるほどじゃないが。

 

「それに、常に騎士隊の警邏(けいら)の目がありますから……ふふっ、ふとしたときウォルカさまを見失ってしまう心配もありません」

 

 おかしいな、俺を大聖堂に軟禁するって言ってるように聞こえるぞ。

 

「ウォルカさまはゆっくり傷を癒やすことができ、みなさまもウォルカさまの看護に集中できる……いかがでしょう。わたくし、この上ない妙案と思うのですが……」

「「「……」」」

 

 おい悩むな。「その手があったか……」みたいな目でこっち見るな。俺の胃とプライドが持たんわそんな生活。

 

「アンゼ」

「はい、なんでしょうっ」

 

 アンゼが目を輝かせながら振り向く。その純粋無垢なまばゆさに俺は少し怯みつつも、

 

「話はありがたいが、君がそこまでするほどのことじゃ」

「ウォルカさま、どうかお気になさらないでください。むしろ、これくらいのことしかできないわたくしの無力が心苦しいのです。ウォルカさまがお辛い思いをなさっているときも、わたくしは聖都でなにも知らず――ああ、叶うのならば、わたくしのすべてでウォルカさまを癒やして差し上げたいっ……」

 

 クソデカ善意おっもぉ……。

 

 だがここで押し切られるわけにはいかない。俺は社会復帰したいのだ。俺を思ってくれている師匠たちの気持ちにあぐらをかいて、自分で立ち上がる努力すらせずのうのうとした生活を送るのは――それは違うだろう、仲間として。

 

「こんな体にはなったが……それだけで音を上げるほど、俺はヤワじゃない」

「ですが……」

「義足もじき慣れて、歩けるようになる。大聖堂の手を借りるまでもないだろう」

 

 前提として、聖都には戻る。これは確定だ。借りたままになってる部屋とかあるし、無事を報告しないといけない知り合いだっているしな。

 そしてこの義足で聖都まで戻れるのなら、それはすでに社会復帰の第一歩を踏み出せたということであり、大聖堂で厄介にならずとも日常生活を送るくらいは可能だと俺は思っている。

 

 幸いアンゼの善意は生まれ持った彼女自身の性質で、師匠たちのように後ろめたい感情をこじらせているわけではない。だから、普通に断れば普通に納得してくれると思ったのだが――。

 

 

「そう――ですか。やはりわたくしでは、ウォルカさまのお力に…………なれませんか」

 

 

 ……ん? あれ? なんか、思ったよりガチめにショック受けてる感じが。師匠たちに睨まれてもどこ吹く風だったアンゼの微笑みが、突然一気に曇ったような……。

 

「申し訳ありません、ご迷惑……でしたよね。……わたくしは、本当に無力なのですね……

「うぐ……」

 

 待った、今までなに言われても微動だにしなかったのがここでガチ凹みだと……!? その笑顔はさすがに、心の中で真剣に傷ついてるやつだって俺でもわかるぞ……!

 

 師匠たちが「そこまで言わなくても……」みたいな目で俺を見ている。いや君たちさっきまでアンゼに殴りかかろうとしてたでしょうが。一瞬で寝返るな。

 どう思いますか老シスターさ――あ、秒で目を逸らされた。完全に匙投げられてますねこれは。

 

 そ、そうか。考えてみればアンゼは、俺を心配する一心で聖都からこの街まで駆けつけてくれたわけで……それってすごくありがたいことだよな。そんな彼女の申し出を一蹴するのは、さすがにどうかって話か……。

 

「す、すまないアンゼ。迷惑じゃないんだ」

 

 だがそれでも、ここで情に流されきってしまうわけにはいかんのだ。理由はすでに述べた。

 俺は、そんなことをしてもらうために命を懸けたわけじゃないのだから。

 

「君のことは信頼してる。だからこそ、甘えてはいけないと思うんだ。……聖都に戻ったら、いろいろ困ることもあると思う。そのときは相談するから、もう少し、がんばらせてくれないか」

「……」

 

 アンゼが薄く唇を引き結ぶ。慚愧(ざんき)のような、後悔のような、……自分自身に対する、失望のような。

 

「……わたくしでお力になれるのであれば、どのようなことでも仰ってくださいね。わたくしの心は、いついかなるときでもウォルカさまとともにありますから」

「あ、ああ……」

 

 ……俺は、アンゼという少女をよくわかっていないのだろう。

 

 師匠たちのように仲間として積み上げてきた時間が彼女にはない。最初に出会ったのは、〈銀灰の旅路(シルバリーグレイ)〉が聖都を拠点としてから間もなく受けた護衛の依頼。ただあれは他にも何組かパーティがいたし、特別、世間話以上に親しく話をした記憶もない。

 

 それなのに目に映るものすべてを祝福せんとばかりの献身は、紛れもなく彼女の本心から来るものなのか、それともただシスターの職務に従っているだけなのか。

 

 

 ――そう。俺が『アンゼ』という少女を()()()()には、もう少しばかり時間がかかることだったのだ。

 

 

 

 /

 

 ――これは彼の覚えていないことだが、実のところアンゼは、幼少期にウォルカと一度出会って面識を持っている。

 

 ごく短い間ではあったが話をしたし、名前も名乗った。なんなら、『アンゼ』という愛称だってそのときウォルカから贈られたものなのだ。

 

 愛称まで贈っておいて忘れるとは薄情なやつだ、と思われるかもしれない。

 けれど仕方のないことだ。当時のアンゼは素顔を隠していたし、まだ髪も伸ばしていなかった上、性格だってどちらかといえば気弱だった。大きくなった今のアンゼを見て、あのときの子どもだと思い出せる方がおかしいのだろう。

 

 それにこの愛称は、単にアンゼの本名が長ったらしかったから呼びやすいようにと贈られただけで、それ以上の特別な意味などないもの。

 

 そして当時のウォルカは――きっと、血を吐くような思いで懸命に日々を生き抜いていた。

 

 なにもできなかった小娘など、忘れられて当然なのだ。

 

 

 

 八年ほど前の話だ。当時アンゼは将来にふさわしい見識と経験を積むべく、聖都の外に広がるありのままの世界を学ぶ巡礼の旅に連れ出されていた。その道中、聖都からどれだけ離れたかもわからない小さな村で、アンゼはある少年と出会ったのだ。

 

 少年は、男から暴行を受けていた。

 

 少なくとも、アンゼの目にはそう見えた。そこは聖都の生活水準とは大きくかけ離れた、あばら家同然に小さく粗末な家だった。庭と呼ぶのも憚られるような荒れ果てた敷地で、少年は老人から一方的に木剣を振るわれていた。

 

「どうしたウォルカよ!! なにをしておる!! なにもせず殴られるだけか!! ただの一撃すら返せぬのか!! 貴様の意志はその程度かァッ!!」

 

 遠い物陰から耳にするだけでも全身が竦む、烈火のごとき老人の怒声。

 

「――ぇ? な、なに、あれ」

 

 この巡礼の旅を始めるまで、大聖堂では箱入りとして誰からも手厚く育てられたアンゼだった。大人は自分たち子どもを慈しんでくれる存在だという認識が当然のようにあった。

 大人が子どもに『暴力』を振るう――そんな恐ろしい光景を目にしたのは生まれてはじめてで、アンゼは物陰に隠れたままただ震えることしかできなかった。

 

 老人の剣が少年の脇腹にめり込み、激しく打ち飛ばした。

 少年の体が嘘のように地面を転がり、アンゼからほど近い樹に背を打ってようやく止まった。

 

 少年の苦悶の声を、聞いた気がした。

 

「ひっ――」

 

 アンゼは思わず目を逸らす。人の体が蹴られた小石同然に()ね飛ばされる瞬間など、幼いアンゼには到底直視できるものではなかった。

 

 まさかあの少年は、殺されそうになっているのではないか――そう恐怖してしまうほどの。

 

 老人の落胆した声が聞こえる。

 

「……話にならんな。貴様、本当に強くなる気があるのか? それでは、貴様の目指す剣になど未来永劫届くまい」

 

 老人がなにを言っているのかアンゼには理解できない。聞いたこともない異国の言葉のように聞こえる。

 

「十五分、小休止とする。限界まで傷を癒やせ。癒やせずとも次の鍛錬を始めるぞ」

 

 アンゼはおそるおそる顔を上げた。そして信じられない光景を目の当たりにする。

 

 

 倒れた少年を置き去りにして、老人が一人で家に戻っていく光景を。

 

 

「――……」

 

 大人は子どもを愛し、慈しんでくれる存在だと――そんな自分の中に築かれていた世界が、根本から突き崩されていくのを感じた。

 

 老人の姿がドアの向こうに消え、あとにはぐったりと倒れ伏し、指先ひとつ動かす気配のない傷だらけの少年だけが残される。今すぐ彼のもとへ駆け寄りたかったが、あの老人に見つかるかもしれないと思うと怖くて体が動かなかった。

 

「――カハッ」

 

 意識を取り戻した少年が咳き込まなければ、アンゼはずっとその場で震えたままだっただろう。

 駆け寄った。あの老人に見つからないよう声を抑え、少年の肩に触れて懸命に呼びかけた。

 

「大丈夫ですか……!? しっかりしてくださいっ……!」

 

 少年は、誰がどう見たって無事ではなかった。

 

 左目が腫れ、唇を切っており、額や腕などあちこちから血がにじんで、衣服は破けて痛々しい青痣があらわになっている。今日一日でできるような傷ではない。少なくともアンゼがこの村にやってくるより前から、ああやって何度も暴力を振るわれているのだとわかった。

 

 少年はアンゼの呼びかけが聞こえていないのか、掠れた瞳でうわ言のように、

 

「ぁ゛ー……クソ、完全に意識飛んでたぞ……。いっででででで……あンのクソジジイ、いつかぜってーぶっ殺してやる……」

 

 もうなにもわからない。子どもに暴力を振るい、挙句の果て置き去りにする大人。そして大人に「殺す」と吐き捨てる子ども。

 

 知らない。こんな世界をアンゼは知らない。

 

 だって、アンゼが知る『大人』は。大聖堂でアンゼが見てきたたくさんの『大人』は。たとえ家族でなくとも子に対して深い慈しみを持っていて、怒るときもそこには確かな愛があったはずで――

 

「なん、で……どうして…………」

「……あ? だれ、だ……?」

 

 そこでようやく、少年の掠れた瞳にアンゼの姿が映った。

 当時のアンゼはまだまだ気弱な子どもで、同年代の男の子と話した経験などまるでなかった。自分から駆け寄っておいて思わず頭が真っ白になる。それでも教会で教わったことから目を背け、傷ついた彼を見て見ぬふりするなどできなかった。

 

「あ、あのっ……わたくし、巡礼の旅をしている……その、見習いの、シスターです」

 

 懸命に、

 

「き、傷の手当てをさせてくれませんかっ……まだ未熟ですが、神聖魔法が使えます……!」

 

 怪しく見えたかもしれない。旅の道中であるアンゼは動きやすいローブ姿をしており、またフードを深く被った上で、薄いベールを目元に被せて極力素顔を隠していた。巡礼の旅に赴く名もなきシスターは、そういう恰好をするものだと大人たちから教えられていた。

 少年は少し虚をつかれた様子で、考えて。

 

「えっと……少し、離れよう」

 

 全身の痛みに耐えながら立ち上がり、足を引きずって歩き出す。

 

「見つかると、面倒だから」

 

 

 

 この傷だらけの少年――ウォルカとの出会いが。

 

 愛に満ちた世界しか知らず、それが当然だと思っていた幼いアンゼに、運命すら変わるほど計り知れない影響を与えることになったのだ。

 

 




Tips『ウォルカ(幼少期)』:
 リゼルと出会うより前の主人公。祖父に剣の鍛錬を頼んだら、熱血スポ根も真っ青なスパルタでえらいことになってしまった。でも抜刀術を会得するにはむしろ好都合と考え、ヤケクソで食らいついている。

Tips『アンゼ(幼少期)』:
 教会の大人たちと巡礼の旅をしている少女。箱入りで手厚く育てられた弊害か、偶然見かけたウォルカの修行現場がただの暴行/虐待にしか思えず、とてもシリアスになってしまっている模様。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。