全滅エンドを死に物狂いで回避した。パーティが病んだ。   作:雨糸雀

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10. 〈シスター〉アンゼⅡ

「――あ、アンジェ……? ええと、そうだな……『アンゼ』でもいいか?」

「は、はい……」

 

 傷の手当てをしながら名乗ると、いきなり愛称らしき呼び名をつけられてしまった。たしかに、いちいち呼ぶには少々長い名だとは思うが……外の子どもはこれくらいの距離感が普通なのだろうか?

 でも、自分が少しだけ違う存在になれた気がして、不思議と嫌な気分ではなかった。

 

「……すごい。どんどん痛みが引いていく」

「いえ、こんなの、ぜんぜん大したことでは……」

 

 あの家から離れ、手頃な切り株に腰かけて休む少年――ウォルカの傷を、アンゼは覚えて間もない神聖魔法でひとつずつ癒やしていく。ただ、どの傷も完治はさせない。そういう風にしてほしいと頼まれていた。

 理由を問うと、

 

「治癒魔法の鍛錬になるから」

 

 治癒魔法は、その名のとおり己の傷を癒やす回復系魔法のひとつだ。神聖魔法と違い聖職者としての素養を必要とせず、魔法を知る者なら誰でも簡単に扱える一方で、体の自然回復力をわずかに高めるという気休め程度の効力しか持っていない。一生懸命練習したところで、精々三日で治る傷が二日か一日になるくらいだろう。

 

 それでもやらないよりはマシだから、とウォルカは答えた。

 

「……訊いても、よろしいでしょうか」

「ん」

「ウォルカさまは……いったい、なにをなさっていたのですか?」

「なにって……鍛錬」

「っ、そんなはずがっ……!」

 

 アンゼは思わず腰を浮かせた。そう、あんなものが、ただ一方的に殴られるだけのあれが鍛錬であるはずがない。アンゼは世間知らずの箱入り娘だけれど、それでも武術の鍛錬がどのようなものであるかは知っている。〈聖導騎士隊(クリスナイツ)〉の鍛錬を、何度か見学したことがあるから。

 

 その上で言うのだ。あんなものは、鍛錬でもなんでもないと。

 

 ウォルカはアンゼの表情から言葉を汲み、

 

「ああ……あのジジイ、すごく厳しくてな。やっぱおかしいよな、あれ」

「わかっていらっしゃるなら、どうして……!」

「強くなりたいから」

 

 アンゼは思わず息を呑んだ。

 アンゼの言葉を断ち切るような、躊躇いのない即答だった。淡い翡翠の瞳の奥に、(ほむら)のごとく揺らめく壮烈なまでの意志の輝きを見た。

 

「……頭の中に、剣があるんだ」

「え……?」

「あー、……()()()()()()っていう強烈なイメージ、というか。でも普通の剣じゃない。普通のやり方じゃ届かない。……だから、あれくらいの修行でちょうどいいんだ」

 

 アンゼは返す言葉を失った。ウォルカが本気で言っているのだとわかった。アンゼとほとんど変わらぬ歳ですでに、彼は己が生涯かけて殉ずる道を見定めているかのようだった。

 

 いや、おそらくそれは道ですらないのだろう。

 

 切り立った断崖絶壁を、その身ひとつで血をにじませながら登り詰めていくような。足を滑らせたら、なにかを間違ったら――命すら落としてしまいかねないような。

 

「ご両親は、」

「死んだ。……四年くらい前、らしい」

「っ……!」

 

 わからないことだらけで、もうアンゼは泣いてしまいそうだった。目の前のウォルカが、自分とほとんど歳の変わらない子どもが、いったいなにを考えているのかアンゼにはまるでわからなかった。

 

 ()()()、と伝聞でしか言えぬほど早く両親を亡くし、おそらくはまだ十にも満たぬ歳でありながら、体中が傷だらけになるほど常軌を逸した鍛錬に身を投じている。正気とは思えなかった。あの瞳の奥の焔を見ていなければ、両親の死で自暴自棄になっていると言われた方がまだ筋が通るくらいだっただろう。

 

 彼は本当に、自分と同じ子どもなのか。信じられない心地でそう思う。

 なのにウォルカは、困った様子で頬をかきながら平然と言う。

 

「えっと……あんまり、深刻に考えないでくれ。本気で鍛えてくれって、俺の方から頼んだんだ」

「そんなっ……!」

「いいんだ。自分が強くなってるって、実感できるし……それに、案外楽しい部分もあるから」

 

 あまり感情を出すのが得意ではないのだろう、それは見間違いかと思うほど拙い表情だったけれど。

 彼は今、アンゼに向けて笑みを作ったのだと思う。アンゼを、気遣おうとしたのだと思う。

 誰からも暖かく育てられたアンゼなどとは、比べ物にならないほど辛い思いをしているはずなのに。

 

「ですけどっ……! こんなの……!」

 

 遣る瀬のないあまり神聖魔法を上手く制御できず、痣をひとつきれいに消してしまった。

 

「ごめん、なんか……」

 

 そんな言葉を言わせたくて、彼に声をかけたのではないのに。

 

「わたくしに、お力になれることはありませんか……?」

「……」

 

 ウォルカは、特に表情を動かさなかった。

 無視されたのかと心細くなるほどの間を置いて、ようやく答えが返ってきた。

 

 

「うん……特には、大丈夫かな」

 

 

 アンゼの胸が、小さく刺されたような痛みとともに軋んだ。

 

 自分とウォルカの間に、あまりにも冷たい壁が横たわっているのだとわかった。彼は遠慮をしたわけでも、強がっているわけでもない。本当に、これ以上アンゼの存在を必要としていなかった。それどころかこの治療だって、アンゼがひどく必死だったから追い払うのも気が引けて、とりあえず好きにさせているだけに過ぎないのかもしれない。

 

「傷を治してもらえただけで充分だ。ありがとう」

 

 ウォルカが、立ち上がる。

 

「あっ、まだ手当てが……!」

「もうそろそろ十分経つ。戻らなきゃ」

 

 慌てるアンゼをやんわり手で制し、彼はどこまでも静かな表情で、

 

「巡礼の旅、だっけ。がんばって、アンゼ」

「っ……、……はい」

 

 結局アンゼにできたのは、家へ引き返す彼の背を見送ることだけ。

 

 今まで当たり前だと思っていた世界は、すでに跡形もなく崩れ去ってしまっていた。この世のすべての子どもがアンゼのように愛されながら育つわけではないと、頭ではわかっていたつもりだった。けれど命すら燃やそうとするような彼の覚悟を目の当たりにして、自分がどれほど恵まれた人生を歩んできたのか情けないほどに思い知ってしまった。

 

 これが、外の世界を知るということ。

 

 それは生まれてはじめて、アンゼが己の『無力』を突きつけられた瞬間でもあった。

 

 

 

 翌朝。村を発つ前にせめて挨拶だけでもしようと思って、アンゼは再びウォルカの家に向かった。

 

 アンゼが連れられている巡礼の旅は、その旅程が月の満ち欠けに従って厳密に定められている。アンゼのわがままでスケジュールが崩れれば、遅れを取り戻すためみんなに無理をさせることになる。

 

 アンゼに許された時間は、出立前のほんの二十分。

 不恰好な駆け足で土を蹴飛ばし、アンゼは昨日と同じ場所からウォルカの家を覗き込んだ。

 

「あ――」

 

 ウォルカがいた。アンゼの位置から少し遠い庭の一角。左手で直接握った鞘を腰に引き、柄に右手を添えた半身となって浅く重心を落としている。

 

 朝日が顔を出して間もない早朝である以上に、ここ一帯だけ空気がやけに静まり返っている。ひりつく感覚すら覚えるほどに。だからだろうか、剣を鞘から抜く素振りもなくただ突っ立っているだけにも見えるそれが、アンゼには彼の『構え』なのだと直感できた。

 

 対面にあの老人が立っている。昨日の木剣と違い、今日はなぜか両手に一本ずつ手頃な薪を掴んでいる。

 その薪を二本同時に、軽い下手投げでウォルカに向けて(ほう)った。

 緩い弧を描いて飛ぶ薪、その意図が読めずアンゼが疑問に思った直後。

 

 

 ――銀閃。

 

 

 たぶん――ウォルカは今、剣を抜いたのだと思う。確信が持てなかったのは、抜き放った太刀筋があまりにも速く、刹那の光となって見えたからだ。

 

 それほどまでの一閃――いや、違う。

 

 右へ振り抜かれたはずの剣がすでに左へ戻されている。あの瞬く間で、左から右へ薙ぎ払う一閃、そして右から左へ返すもう一閃があったということだ。しかしアンゼには、もはや一筋の光としか視認できなかった。

 

 薪が、地に落ちる。

 剣をゆったりと鞘に納める流麗な所作は、まるで神聖な祈りを捧げているかのようで。

 

 アンゼは深く深く理解する。ああ、あれが……あの人の目指しているものなんだ。

 

 剣のことがまるでわからぬアンゼでも、思わず見惚れてしまった。きれいだと思った。アンゼが覚えている限り、〈聖導騎士隊(クリスナイツ)〉の騎士はみな剣を完全に抜いた状態で構えていたはずだ。だがウォルカは剣を鞘に納めたまま、そこから抜き放つ所作すらをも己の刃に昇華している。

 

 彼の言っていた「普通の剣じゃない」という言葉が、一雫となって腑に落ちる。

 だからウォルカは、傷だらけになっても、血を吐くような思いをしても、ただ前だけを見据えて厳しい修練に身を投じるのだ。おそらくはこの世でまだ誰も見たことがない、新たな剣の地平を切り開くために。

 

 老人が大喝した。

 

「こンのバカ者がァ!! なにを一丁前に恰好つけておるか!! 掠ってすらおらんではないか!!」

 

 ……たしかに地面を転がった薪は二本とも、老人が放り投げたときのきれいな形のままだった。

 ウォルカが吠え返す、

 

「うるせえ! だいぶ様になってきただろうが!」

「抜かせぃ! 様にしかならぬ剣などなんの意味があるか!! 未だに薪割りすらできんとは――なっとらん。今日のノルマはすべて三割増しとする」

「クッソジジイがぁ……!!」

 

「…………」

 

 昨夜、アンゼの教育係である老執事にそれとなく意見を聞いてみたとき、「あまり心を砕いてはなりません」とたしなめられたのを思い出す。

 

 ――あの少年はすでに行くべき道を見定め、信念を持って歩んでいる様子。引き止めれば、それは信念を捨てろと告げるも同じ。彼の夢が叶うよう、お祈り申し上げるのがよろしいでしょう。

 

 ……そのとおりなのかもしれない。今の剣閃を目の当たりにして、ウォルカが殉じようとしている道を理解して、アンゼは完膚なきまでに叩きのめされたような思いだった。

 

 今まで歩んできた道も、見据えている先も、アンゼとウォルカではなにもかもが違う。違いすぎている。彼のように本気の思いを注げるようなものがアンゼにはない。誰からも愛され、慈しまれ、それを当たり前だと思ってぬくぬくと育ってきた自分が恥ずかしかった。

 

 その場から一歩後ろへ身を引き、アンゼは精一杯の微笑みで頭を下げる。

 

「がんばってください――ウォルカさま」

 

 およそ二週間後、アンゼは旅の復路で再びこの村に立ち寄る。だからアンゼも、そのあいだ彼を見習って研鑽を積んでみようと思った。己の恵まれた環境を一度忘れ去り、真白な心で自分自身に向き合ってみようと。

 そして次に会うときは、ほんの少しでもいい、彼に対して恥ずかしくない人間となれるように。

 

 そう……()()()()と、思っていたのだ。

 ()()彼が変わらずこの村で鍛錬に励んでいることを、このときのアンゼはかけらも疑っていなかったのだ。

 聖都の外を何日も旅し、何度もこの目で見て学んだはずだったのに。

 

 

 外の世界に蔓延(はびこ)る『危険』というものを、アンゼはまだ心のどこかで、壁の向こう側の存在のように思っていたのかもしれない。

 

 

 

 /

 

 それから十余度の夜を終え、アンゼは予定通り旅の復路で再びこの村に立ち寄った。

 

 当然アンゼは、休むのも忘れてウォルカの姿を捜した。

 あれから二週間、アンゼは生まれ変わった思いで巡礼に励み、自分なりにできる限りの研鑽を積んできたつもりだ。もちろん彼の血のにじむ覚悟と比べてしまえば、温室育ちの小娘がようやく人並みの努力を覚えた程度に過ぎないだろう。それでも彼ともう一度話をするなら、自分だって変わらなければいけないと思ったのだ。

 

 きっと彼も厳しい鍛錬を続けて、またあちこち傷ついてしまっているはず。もう一度傷を癒やすことを許してほしい。そして、今度はもっと違う話をしてみよう。ウォルカのこと、アンゼのこと、あるいは将来のこと。もしも彼が望んでくれるなら――いずれは大聖堂で騎士になって――なんて。

 

「……?」

 

 だが、ウォルカはどこにもいなかった。村中を捜しても、家の敷地をこっそり覗いても、傷だらけの少年の姿はどこにも見当たらなかった。

 たまらず村の人に尋ねると、壮年の男は途端に表情を沈痛に歪めた。

 

「お嬢ちゃん、あいつの友達なのかい? ああ、なんて気の毒な……」

「……なにか、あったのですか? ウォルカさまはどこに?」

 

 ――おかしい。

 嫌な予感がする。

 指先が震える。心臓が凍りついてしまいそうだ。

 

「あいつは……一週間くらい前に、一人で村の外へ出たらしくてなあ。それっきり……」

「――、」

「村の大人たちで捜したんだが……ここを随分と離れた崖際に、折れた剣と血の跡があったって話だ。魔物に、襲われたんだろうなあ……」

 

 村の外。魔物に襲われた。折れた剣と血の跡。崖際。もう一週間も帰ってきていない。

 

「……ぇ? ぇ…………? ……うそ、ですよね…………?」

 

 いやだ。

 そこから先を理解してはいけないと、アンゼの本能が必死に拒絶している。そうだ、嘘に決まっているじゃないか。だってアンゼがこの村を発つとき、彼は老人と威勢よく言い争いをしていた。己の中にある理想の剣を体現するため、彼はアンゼが見てきた他の誰よりも強い生気に満ちあふれていた。たとえ切り立った断崖絶壁を前にしても、あの人ならば必ず登り詰めてしまうように思えたのだ。

 

 そんな彼が、たった二週間離れ離れになっただけで、

 

「可哀想だが……子ども一人で外に出て、七日も消息すら掴めないんじゃあ……もう……」

「――――――ッ!!」

 

 ――アンゼの目の前から、消えてしまうなど。

 

 そう、アンゼはこの旅で学んだのだ。街の外には危険な魔物が生息していて、人間も武器を持って立ち向かわなければならないと。そのために騎士がおり、冒険者がおり、この世に剣と魔法が存在しているのだと。

 

 だから、男が言葉を濁してもわかってしまう。

 十にも届かぬ子どもが剣一本で生き延びられるわけがないと、完膚なきまでにわかってしまったのだ。

 

「ぅ ぁ……、ぁ、あぁぁっ……………………!!」

 

 体に一切力が入らなくなり、アンゼはその場で虚ろになって崩れ落ちた。

 

 ――アンゼは、いったいどうするべきだったのだろうか。

 

 濁流のような後悔に一瞬で呑み込まれた。やめさせるべきだったのだろうか。理想の剣を掴もうとする彼の覚悟を踏みにじって、教会の大人に助けを求めるべきだったのだろうか。たとえ疎まれることになろうとも、彼の行こうとする道を否定するべきだったのだろうか。

 

「だから言ったんだ、あんな無茶苦茶な修行なんて絶対に間違ってるって。なのにあのじいさんも、あの子も……っ」

 

 アンゼも、そう思っていたはずだった。だがアンゼはウォルカの尋常ならざる覚悟に負け、なんの努力もしてこなかった己を恥じ、自分では彼の背を引き止められないと諦めてしまった。

 止めようと本気で思えば、いくらでも方法はあったはずなのに。

 

 頭の中で、声が響いた。

 

 ――ならこれは、わたくしが見殺しにしたのと同じ?

 

 

 

 そこから先の記憶は曖昧だ。

 

 

 

 教育係の老執事に抱えられ、声を上げて泣いていたことだけはかすかに覚えている。

 

 アンゼにとってウォルカは、その生涯ではじめて目の前から消えてしまった人だった。当時の未熟なアンゼの心に、それは計り知れないほど深く残酷な爪痕を残した。悔恨し、絶望し、塞ぎ込んだアンゼはロクに食事を摂ることもできなくなり、巡礼の旅は一度諦めざるを得なくなってしまった。

 

 まともに立ち直るまでは、何ヶ月もかかった。

 

 辺境の村で偶然出会っただけの少年が、いつの間にか自分の中でそれほど大きな存在になっていたのだと気づかされた。

 アンゼの無知な価値観を叩き壊し、新たな自分と真摯に向き合うきっかけをくれた人。ほんの束の間だったけれど、文字通りアンゼの人生が変わる出会いとなった人。

 

 

 だから……ああ、だから。

 

 

「――わしは〈銀灰の旅路(シルバリーグレイ)〉のリーダー、リゼルアルテじゃ。若者ばかりのパーティじゃが、よそより何倍も腕が立つぞっ。……ほれバカ弟子、自己紹介」

 

 あれはたしか、アンゼが今の地位に就いて二年か三年くらいが経った頃。

 

 とある用件で王都まで出向くことになったアンゼは、身分を隠し、騎士の護衛と合わせて冒険者から何組かのパーティを募った。彼らは日々枚挙するさまざまな依頼を通して、そこに暮らす人々と密接に関わり合いながら活動している。ゆえに護衛として雇いつつ世間話に花を咲かせることは、聖都の人々の声をより鮮明に聞ける貴重な機会でもあった。

 

 その、依頼を引き受けてくれたパーティの中で。

 

 

 

「ウォルカだ。ええと……よろしく頼む」

「………………っ!!」

 

 

 

 その姿を見つけて、

 その名を聞いて、

 いったいどれほど、アンゼの心が救われたか。

 

 あのときから彼も大きく成長していたけれど、見間違いはしなかった。うなじで結んだ灰色の髪も、ぶっきらぼうな話し方も、愛想が希薄でちょっと近寄りがたい人相も、厳しい鍛錬ですっかり傷だらけになってしまった手のひらも。

 

 生きていた。

 生きていてくれた。

 生きて、またアンゼと出会ってくれた。

 

 なにかができたはずだった。だから、なにもしなかった自分が見殺しにしたのも同然なのだと――そう後悔し続けた今までの想いが一気にせりあがってきて、張り裂けるような胸の痛みを耐え忍ぶのが本当に大変だった。

 涙がにじんできたのを感じて、両手で口元を押さえ、俯いてしまった。

 

「ど、どうした……?」

 

 彼は、アンゼがあのときの小娘だと気づいていない。考えてみれば当たり前で、当時のアンゼはほとんど素顔を隠していた。今のアンゼは髪だってずっと伸ばして、地位にふさわしい立ち振る舞いも覚えた。あのときのへなちょこな子どもだと気づく方がおかしいだろう。

 

 本当は、今すぐにでも叫びたかった。――覚えていますか。わたくしを覚えていますか。わたくしです、あのときのわたくしです、無事でよかった、生きていてくれてよかった、なにもできなくてごめんなさい――そう(せき)を切ってしまいたかった。

 

 けれど、

 

「む? あー、さてはおぬしがあんまりにも無愛想だから怖がらせたんじゃろう。ほれ笑え。笑うんじゃーっ」

「っ、おい師匠、コラ」

「わわ、人前ですよリゼルさんっ」

「? なんか楽しそう。ボクも交ぜて」

「アトリさんまで! ごごごごめんなさいごめんなさいあのあのっこれでもみんな強い人たちばかりですので! ちゃんと護衛しますのでっ!」

 

 パーティの仲間たちに囲まれた彼の姿を見て、アンゼはあふれそうだった想いがゆっくりとほどけて鎮まっていくのを感じた。

 夢から覚めるような、理解だった。

 

 

 ああ――きっと、彼は出会えたのだろう。

 なにもできなかったアンゼとは違う。心から助け合い、信じ合って、お互いのためならどんなことでもできてしまうような……そんなかけがえのない『誰か』と。

 

 

 それが、どうしようもなく嬉しくて、

 ――――――――――――――――少しだけ、苦しかった。

 

 

「……申し訳ありません、なんでもないのです。少し、陽の光がまぶしかったものですから」

 

 目尻の涙をさっとぬぐい、顔をあげる。

 

 こみあげてきていた言葉をすべて呑み込む。本当は、アンゼのことを思い出してほしい。ここで涙を流すことを許してほしい。けれどかけがえのない仲間たちと出会えた今の彼に、なにもできなかった自分が今更思いを打ち明ける資格などないように思えた。

 

 ああ、そうか。

 この胸の片隅の小さな苦しさは、きっと嫉妬なのだ。かけがえのない仲間としてウォルカの隣に立てている彼女たちが、羨ましくて。もしもなにかが違っていれば、その場所にいたのは自分だったのだろうかと考えてしまって。

 

 これこそが、アンゼに与えられた罰なのだろう。

 ……それでも構わない。たとえ彼が覚えていないとしても、もう思い出してもらえないとしても。

 彼に対して恥ずかしくない一人の女として、今度こそ、自分だって、彼にとって必要な存在となるために。

 

「はじめまして、みなさま」

 

 名乗る名は決まっている。ただのシスターとして誰かと接するとき、アンゼは必ずこの名前を使うと心に決めていた。

 

 かけがえのない人から贈られた、大切な名前なのだから。

 

 

「わたくしは、『アンゼ』――どうか、アンゼとお呼びください」

 

 




Tips『ウォルカ』:
 幼少期、修行で一度ミスってしばらく消息不明になったことがある主人公。冗談抜きで死ぬような思いをしたらしく、帰還後は怒り狂いながら祖父に斬りかかって返り討ちにされた。
 彼がアンゼを思い出すのは、もう少し先の話。

Tips『アンゼ』:
 ウォルカのせいで幼い心をいろいろ狂わされた少女。結果、ウォルカの助けとなることに執着し、彼が望みさえするならどんなことでも躊躇わないようなクソデカ感情シスターになった。責任取れ
 彼女がウォルカに思い出してもらえるのは、もう少し先の話。
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