全滅エンドを死に物狂いで回避した。パーティが病んだ。   作:雨糸雀

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50. 義足グレードアップ計画Ⅱ

「はあ~~~~、ほっとしましたわ~~~~~~っ!!」

 

 ウォルカの義足グレードアップ計画始動が決定してから一時間弱、聖廷街(せいていがい)一角のカフェでクラエスタがぐでーんとテーブルに突っ伏している。両腕を前に投げ出して体ごとテーブルと一体化するような、ドレス姿のお嬢様には少々似つかわしくないくつろぎぶりである。屋外カフェであるためそのだらしない姿が衆目から丸見えになっているのだが、クラエスタはどこ吹く風とまったく気にも留めていない。

 

「よかったですねえ、お嬢」

 

 パラソルが陽射しを和らげる運河沿いの二人席で、ドリンク両手に戻ってきたセボックが対面の椅子に座った。クラエスタはぐでーんとしすぎてもはや半分溶けたようになりながら、

 

「まったくですわぁ~……もし失敗していたら、おじいさまに会わせる顔がありませんでしたものぉ……」

「優しい子たちでしたねえ、お嬢が三回も暴走したってのに……」

「おだまりセボックっ」

 

 〈グリフィス工房〉にとって極めて重要な商談を無事に乗り切り、帰り道でほっと一服している最中(さなか)なのであった。クラエスタはのそりと上体を起こし、セボックにやたら自信ありげな笑みを見せ、

 

「終わりよければなんとやらですわ。きっと、わたくしたちの熱意が余さず伝わったに違いありませんっ」

「なんで自信満々かなこの人……」

 

 テーブルに飲み物を置くセボックは、呆れた目つきでなかなか歯に衣着せぬ物言いである。とはいえ若き棟梁を侮って小馬鹿にしているわけではなく、昔から成長を見守ってきたやんちゃ娘に対する親しみ故の反応だった。

 

 彼は〈グリフィス工房〉の古株であると同時に先代の古馴染であり、クラエスタにとってはほとんど叔父も同然の存在だ。まだ幼くして工房を継ぐと決心したクラエスタのため、相談役でありご意見番でありお目付け役でもあり――要するに『頼れる大ベテラン』として、工房を縁の下から支えてくれている。

 

 そんな大ベテランはクラエスタの足元に置かれたケースを一瞥して、歯の間になにか引っかかっているような曖昧な表情を作った。

 

「しかしお嬢、どうしてあんな嘘ついたんで?」

「嘘? ……なんの話ですの? あの場で嘘なんてついていませんわよ」

「いやぁほら、先代がその設計図を遺した理由は……」

 

 ああ、とクラエスタは短く納得の相槌。

 

「別に嘘ではないでしょう? おじいさまが自分の仕事を追究した結果なのは事実ですわ」

「まあ、それはそうかもしれやせんが」

「すべてを話したら、お涙頂戴なエピソードで断りづらくさせているみたいでしょうに。片目と片足をなくして大変なお方から、わたくしたちが同情を買ってどうするんですの? そのようなやり方は〈グリフィス工房〉の主義に反しますわ」

 

 そう、クラエスタはウォルカの前であえてひとつの事実を伏せた。それは、先代がこの設計図を書き遺すに至った本当のきっかけ。なぜ先代は晩年に自ら〈魔導律機構(マギステリカ)〉の門を叩いてまで、一般の水準からかけ離れたオーバースペックともいえるほどの義足を創ろうとしたのか。

 

「まあ……もう十年以上も昔の出来事ですからねえ」

 

 セボックの眼差しがふっと遠くなる。その頃はクラエスタもまだ物心がついて間もなく、祖父になにがあったのかをすべてはっきりと覚えているわけではない。何年もあとになってから当時の話を聞いて、なるほどそういうことだったのかと間接的に記憶を補強した程度。

 

 曰く――かつて聖都に、()()()()()()()()()()()()()()()がいたという。

 

 当時の聖都ではそれなりに名が知れた冒険者パーティの一員だったが、その戦いで片足のみならず仲間全員の命をも喪ったそうだ。まだまだこれからだと思っていた冒険者人生が一転、なにもかもを瞬く間に奪われてしまった残酷な運命――ゆえに彼は仇討ちという名の復讐に囚われ、片足のない体でも剣士として戦い続ける道を望んだ。そして教会経由で彼の存在を知り、義足の製作を引き受けたのが〈グリフィス工房〉だったのだと。

 

 さすがに聖晶星銀(スターレア)とはいかずも、できるかぎり上等な素材を使い当時最高クラスの強度で作り上げたそうだ。……だがそれでも、祖父の義足が一人の冒険者を絶望から救いあげることはついぞなかった。

 

 祖父の腕が劣っていたわけではない。ただやはり、戦闘目的の義足としてはいろいろな問題があったらしい。過酷な身動きに耐えうる強度を優先した結果重量が増し、断端との接合が安定しない。あるいは堅牢であるがゆえに戦闘時の衝撃を吸収しきれず、足へ負荷が直撃して激しい痛みを引き起こす。断端の腫れや炎症はもちろん、ひどい場合は肉が裂けて出血、歩くのはおろか立ち上がることすらできなくなるほどだったという。

 

 ほんの短時間の戦闘ならまだしも、仲間の仇討ち、ましてや魔族の討伐など到底不可能な有様だった。

 

 祖父も当時可能な限りの改良を施しはしたが、結局その冒険者は仲間の復讐どころか、仇の魔族を見つけることすらできずに亡くなったらしい。……本来ならなんてこともないはずだった中級の魔物に、足が思い通り動かぬせいで呆気なく殺されたのだと。

 

 だから祖父は、魔法という可能性に縋って〈魔導律機構(マギステリカ)〉の門を叩いたのだ――人を無為な死へ追いやってしまった者の贖罪として、せめて未来で同じ悲劇が繰り返されることのないように。

 

 やがて老齢ゆえの病に倒れ、クラエスタにこの設計図を遺して亡くなったのが二年前。大黒柱が崩れた工房を残された者たちで必死に立て直し、やっと経営が安定してきたのはほんの最近のことだった。

 

 すると突然、この義足を必要とする人間が現れた。

 それはきっと、単なる偶然ではないのだとクラエスタは思う。

 

「時が来たということですわ。……おじいさまが遺した想い、必ずわたくしが果たしてみせます」

 

 祖父は当時のことを本当に責めていたし、孫娘に工房も設計図もなにもかも託して死ぬ己を不甲斐ないと悔やんでもいた。だから自分が立派に跡を継いで、心配なんてちっともいらないのだと天に向かって証明してやるのだ。祖父のことは今でも尊敬しているし大好きだけれど、夜中に化けて出てこられてはさすがにぞっとしてしまうから。

 

 ――それにウォルカさんも、いい人でしたしね。

 

 若い女の職人がやってきたことに最初こそ驚いていたものの、あくまでそれだけ。クラエスタを若いからとも女だからとも侮ることなく、自分が客の立場だからと驕ることもなく、なんというか……ちゃんと一人の人間として見てもらえていた気がする。

 

 クラエスタの業界では、工房で火を扱い槌を振るうのは男の仕事だという風潮が少なからずある。クラエスタが工房を継いでからというもの、取引先や同業者から心無い言葉を浴びせられる経験がたびたびあった。

 

 若い女が代表の工房なんて、ちゃんと仕事してもらえるか不安だ――そう取引を断られたことがある。

 先代は男の跡取りに恵まれなかったんだな、可哀想に――そう鼻で笑われたこともある。

 

 そんな底意地悪い連中をクラエスタは、はぁ~~~~女が職人やってなにが悪いんですの頭カチ割りますわよ!! となにくそ根性で跳ね除けてきた。けれど、やはり心のどこかでダメージは蓄積していたのだろう。クラエスタは商談の最後でどうしても気になって、

 

「――本当に、わたくしどもの工房でよろしいのですか? わたくし……見ての通り女ですのよ?」

「……?」

 

 そうウォルカへ問うたのだ。すると彼は不思議そうに首を傾げて、

 

「そりゃあ、女だろうけど」

「えっと……女が代表なんて務める工房は信用できない、とか」

「はあ……? でもそれを言ったら、聖都の代表だって聖女じゃないか。それで聖都が信用できないなんて話になるか?」

 

 その答えを聞いたとき、クラエスタは思わず呆気にとられて吹き出してしまった。いったいこの世のどこをどう探せば、たかが職人と神の化身たる聖女を同列に並べて語る人間が見つかるというのだろう。

 

 でもたぶん、本当にそうだったのだと思う。

 ウォルカの頭の中では、クラエスタと聖女が本当に並んでいるのだ――同じ一人の人間として。

 

 まったく、なかなか困ったお客さんだ。そんなことを言われてしまったら、損得勘定抜きで精一杯応えてやろうという気分になってくるじゃないか。

 

「忙しくなりますわよ。ビシバシこき使ってあげますから、覚悟なさいな」

「へいへい」

 

 セボックと笑みを交わし、注文したジュースでさっぱり喉を潤して――それからふと、自分の左手側からこんな声が聞こえてきた。

 

「――ちょっとシャノンちゃん、まだ買うのかい? これ以上はおっさん持ち切れないって……」

「あとこれだけ、これだけっすから! ここのプリンがめっちゃ美味しくて、リゼルも大好物なんすよ!」

「そうそう、すごーく有名なんだから。こういう情報もちゃんと仕入れないとダメよ、フュジ」

「スイーツはおっさんの専門外だねえ」

 

 クラエスタは声の方を見遣る。青空の下に開かれたカフェのカウンターで、ギルドの職員らしき眼鏡の少女がプリンを注文している。その後ろに付き従っているのは二人の男性。片方は買い物袋を両手に引っ提げた冴えない感じのおっさんで、もう片方はオシャレなバーのマスターみたいに垢抜けた美丈夫だ。

 

 ――今あの女の人、リゼルって言ったかしら。

 

 クラエスタが先ほど会ってきたばかりの小さな魔法使い、リゼルアルテの姿を思い浮かべていると、

 

「――あのー、すいやせん。ちょーっとお伺いしてもよろしいっすかねえ……?」

「はい?」

 

 今度は反対側から声をかけられる。ベレー帽にジャケット姿の見知らぬ男が立っている。おおよそ四十になるかならないかくらいの、へたへらした笑みを張りつけた腰が低そうな男だった。

 クラエスタは眉をひそめ、

 

「なんですの?」

「へえ、突然すいやせん、道をお尋ねしたいもんで」

「はあ」

「地図は持ってるんですがね、どうにも聖都の道は入り組んでらっしゃって……」

 

 ああ、とクラエスタは納得。聖都は街中に運河が張り巡らされている都合、足で移動しようとするとあちこちの橋を行ったり来たりする場合も多く、しばしば観光客や土地勘のない冒険者が方向感覚を失っている。

 

 こうして街角で道を尋ねられるのは、聖都の住人にとってさほど珍しくないイベントだ。クラエスタは席を立ち、

 

「どれ、地図を見せてみなさいな――って、」

 

 男が持つ地図をひと目見るなり、思わず数秒絶句した。

 

「……あなた、どこでぼったくられた地図ですのこれ? ひどいってもんじゃないですわよ」

 

 男の地図がまるで子どもにペンを握らせたような、どっちが北でどっちが南かもよくわからないぐちゃぐちゃの落書きだったのだ。一応目的地と思しき場所にマルがついてはいるものの、聖都生まれ聖都育ちのクラエスタですら、それがどこを指しているのか皆目見当もつかなかった。

 

 男はへらへらしたまま、

 

「へへぇすいやせんねえ、何分手持ちがこれしか……お陰で、自分が今どこにいるのかもわからない有様で」

「でしょうね。……ちょっとセボック、あなたわかりまして? わたくしはお手上げですわ」

「はあ、どれどれ……うわ、こいつぁひでえや」

 

 セボックも立ち上がって地図を覗き込むが、反応はこちらとどっこいどっこいだった。クラエスタは頭が痛くなってきた、よくこんなので聖都を歩こうなんて思い立ったものである。この男が旅人なのか商人なのか観光客なのかはいまいち判然としないけれど、これでは地図を見ながらああだこうだ言うより、自分が直接目的地へ連れて行った方がよっぽど早いんじゃないかしらと――

 

 

「あっ――ケ、ケース!! ケース盗られてるっすよ!!」

 

 

 そのときクラエスタが振り返ったのは、ただ少女の叫び声に驚いただけだったというのが正しい。先ほどプリンを注文していた眼鏡の少女と目が合い、彼女はクラエスタの右手側を何事か必死に指差しており、そしてそちらへ向けば『ケース』を抱えて走り去る何者かの後ろ姿が見えた。

 

「……ん?」

 

 足元を見た。

 椅子の傍に置いていたはずのケースが――大切な大切な祖父の設計図が、なくなっていた。

 

「え」

 

 そこでようやく、今の状況に対してクラエスタの理解が追いついた。

 ついさっき持ち去られていった見覚えのあるケース。少女がぴょんぴょん飛び跳ねながら必死に訴える意味。

 

 設計図が、盗まれた。

 

「ざっ――」

 

 理解した瞬間、クラエスタの思考が一発で沸騰した。

 

「――っけんじゃねえですわよコソドロがァ!! 待ちやがれ――――――ッ!!」

 

 クラエスタ、お嬢様にあるまじき咆哮をあげ、冒険者顔負けの全力ダッシュである。

 

 セボックと地図男とジュースを置き去りにし、いつも肌身離さず持ち歩いている片手持ちハンマーの〈装具化(アクセサライズ)〉を解除。人々賑わう往来でさらに叫ぶ、

 

「泥棒ですわ!! 誰かそのケースを持ってる男を捕まえ、いや足止めなさいっ!! 手ずから頭カチ割ってやりますわああああああああッ!!」

 

 ハンマーを振り回しながら爆走する赤いドレスのお嬢様は、紛うことなく鮮血にまみれた修羅の類であったという。

 

 

 /

 

「あっ、お、追いかけてった! おっさん、おっさんも早く追うっす! 働け給料泥棒っ!」

「ああもうしょうがない――ロゼ、地図持ちは頼んだ!」

「はいはぁーい」

 

 ぴょんぴょん慌てるシャノンに両手の荷物を渡し、ついでにロゼへ指示してすぐさまフュジは駆け出した。「今日はウォルくんたちに差し入れするっすよ~!」と意気込むシャノンにあっちへこっちへ付き合わされてみれば、ずいぶん白昼堂々とした盗っ人が現れたものである。

 

 とはいえ、フュジにさほど驚く気持ちはない。聖都が神の御膝元と知ってなお、あの手この手で盗みを働く輩はいることにはいる。むしろ神の御膝元だからこそ、「俺は聖都で盗みを成功させてやったぜ」という自慢話が盗賊にとって一種のステータスとなる。高ランクダンジョンを見事踏破した冒険者が一目置かれるように、聖都で盗みを成功させた盗っ人は仲間から称賛と羨望の眼差しを手にする……らしい。

 

 そして神の御膝元だからこそ市民も油断し、まんまと罠にはまって貴重品から目を離してしまう。

 

「――手ずから頭カチ割ってやりますわああああああああッ!!」

 

 貴重品を盗まれたお嬢様の勇ましすぎる咆哮が、聖都の喧騒を震わせてこっちまで轟いてくる。なんだか、フュジがわざわざ助太刀しなくても自力でどうにかしてしまいそうな勢いだった。商興街(しょうこうがい)の職人にもあんなたくましいお嬢さんがいたんだねえ、とフュジはついつい感心する。

 

 もちろん、シャノンに尻を叩かれた以上ちゃんと仕事はする。盗っ人が走り去っていく方向から、この手の連中がよく使いがちな逃走ルートを算出。〈身体強化(ストレングス)〉で一気に加速して運河を跳び越え、そのまま建築物の壁を駆けあがって屋根伝いにショートカットしていく。

 

 本来なら聖都において、〈身体強化(ストレングス)〉で運河や建築物を跳び越える行為は罰則対象なのだが――まあ、窃盗犯捕縛のための違法性阻却(そきゃく)というやつだ。よい子も悪い子も真似しないように。

 

 フュジは屋根から飛び降り、目抜き通り手前の橋で盗っ人の行く手を遮った。

 

「チッ――!」

 

 盗っ人の反応は迅速だった。九十度向き変わって橋の欄干から飛び降り、その真下に伸びている運河沿いの遊歩道を逃走ルートに切り替える。無論フュジも即座に追いかける、欄干に駆け寄って一度下を覗き込み、

 

「――あぁ? なんだてめえ」

 

 盗っ人が着地し走り出そうとしたその目の前に、ちょうど釣り竿を担いでぶらぶら歩く男がいた。

 ラムゼイだった。

 

「……! クソッ、邪魔だどきやがれ!!」

 

 フュジに逃走ルートを遮られ、やむなく橋から飛び降りれば今度はただの釣り人に邪魔される――これにはさしもの盗っ人も苛立ったと見える。本来なら真上を跳び越えるなり横を通り抜けるなりで無視できたはずだが、思考が狭窄した盗っ人は力ずくでラムゼイを突き飛ばそうとした。

 

「ラムゼイ、止めろ!!」

 

 フュジはダメ元で声を張る。ラムゼイがこの一瞬ですべての事情を完璧に汲み取り、あふれる義侠の心で盗っ人を捕まえてくれるなんて欠片も期待していない。ただ、ほんの少し妨害でもしてもらえれば御の字という思いだった。

 

 突っ込んでくる盗っ人に対し、ラムゼイはただしかめ面で棒立ちしているだけだった。盗っ人からすれば、咄嗟の状況に頭が追いつかず固まっているとしか思えなかったことだろう。ゆえに地を蹴り加速する勢いのまま、腕と肩でラムゼイを力いっぱい跳ね飛ばそうとして、

 

 ラムゼイの回し蹴りが突き刺さった。

 

 盗っ人の体が間合いに入った瞬間だった。釣り竿を担いだ恰好のまま、動作の()()()を感じさせないなかなか見事な一撃。もちろん突進することしか頭になかった盗っ人が反応できるはずもなく、蹴り飛ばされた体が為す術もなく地面を転がって動かなくなる。

 

「……」

 

 フュジは欄干から飛び降りようとする体勢で固まる。橋を渡る人々がみな驚いている。待ちやがれですわあああああぁぁぁ、とお嬢様の咆哮がいずこから近づいてくる。

 

 

 

 

「――ぐっ……く、くそ……!」

 

 盗っ人の男は地面に這いつくばって呻く。なにをされたのかわからなかった。邪魔な釣り人を突き飛ばしてやろうとしたまさにその瞬間、横からいきなり衝撃が来てこっちが吹き飛ばされていた。ぐらぐら揺れる視界の中で、男はともかく必死にケースを探す。前方やや手前に転がっている。

 

 体を引きずり、なんとか手を伸ばそうとした。

 

「おいおい、危ねえだろうが……」

 

 その間を、なんの変哲もない冴えない男の両足が遮った。

 あの釣り人が、竿を悠々担いだままこちらを冷たく見下ろしている。

 

「いきなり飛び降りてくんじゃねえよ。びっくりしてつい体が動いちまっただろうが」

「こ、このッ……!」

 

 釣り人はいけしゃあしゃあとそんなことを言う。見る限りは騎士でも冒険者でもない、人相がやたら悪い以外は本当にただの中年男。武器ではなく釣り竿を振ってのうのう暮らしているような一般人にやられたのかと思うと、男の中で堪えがたい怒りと屈辱が湧きあがる。

 

 するとその激情と呼応するように、視界の揺れがみるみる治まって冷静になってきた。

 

 あるいはそんなのはただの錯覚で、無様に捕まる一歩手前の状況に焦りが限界を超えただけだったのかもしれない。どちらにせよ、そこから盗っ人の思考は一足飛びで加速した――そうだ、なにをもう諦めかけている。聖都で盗みを成功させるくらい朝飯前だと、仲間の前で偉そうに啖呵を切ったのはどこのどいつだ。俺はまだ終わっていない、まだ完全に捕まったわけじゃない、この一般人さえどうにかすれば逆転できる。だから男は低くつぶやく、

 

「……死にたくなかったら、邪魔すんじゃねえ」

「あぁ?」

 

 全身をバネにして起き上がる。もう後先など考えないし、この期に及んで考える必要もありはしない。外套の内側で〈装具化(アクセサライズ)〉を解除、一瞬で右手にナイフを握り締める。

 

 殺しはしない。だが一般人が巻き込まれて負傷したとなれば、追手もこちらを追跡している場合ではなくなるだろう。

 スマートなやり方ではないが仕方ない、自分の邪魔をしたこいつが悪いのだから。男は己の体に冷たい命令を下し、目障りな釣り人めがけて一直線に――

 

「――おっと」

 

 手首を取られ、ナイフがあらぬ方向へ空を切った。

 

「……は?」

「遅えよ。人の目の前でちんたら武器出すなんざ、ナメてんのか」

 

 釣り人がなにを言っているのか男には理解できない。男が〈装具化(アクセサライズ)〉解除にかける時間は一秒とほんの少しであり、一般的には二~三秒かかるとも言われる中では群を抜いて速い方だ。実際、仲間の中で自分より速く解除できるやつは一人もいやしなかった。なのにこいつは慌てるどころか、眉ひとつ動かさず当たり前のように――

 

 手首を急激に引っ張られ、前へ泳いだ男の鳩尾へ膝が叩き込まれる。肺の空気がすべて持って行かれる。体の指揮系統が完全にぷっつり途絶する。

 

 崩れ落ちる間際、釣り人のどこか不機嫌なつぶやきが聞こえた。

 

「……この間合いでやるんなら、()()()くらい速くなきゃ話になんねえよ」

 

 ――じゃあその『あいつ』ってのは、どんだけ速かったっていうんだよ。

 

 最後までなにひとつ理解できぬまま、男の意識は真っ暗闇に沈んだ。

 

 




Tips:『ラムゼイ』
 一応、実力だけならAでもおかしくない冒険者だった人。いつもの北の港から気分を変え、運河沿いで釣り場を見繕っていたらなんか巻き込まれた。

Tips:『魔族との戦いで片足を失った剣士』
 ラムゼイの古馴染のこと。
 クラエスタはラムゼイのことを知らず、ラムゼイもまた、友人の死が新たな義足の発明につながろうとしているとは露も知らない。



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