全滅エンドを死に物狂いで回避した。パーティが病んだ。 作:雨糸雀
人の命を糧にした転移魔法の発動は、遥か上空から眺めると赤い稲光で咲く花の形をしている。光源となる魔法陣より禍々しい赤が生まれ、周囲を侵食していく様は、あたかも都市そのものからじくじくと血がにじみ出していくかのようでもある。
人々の誰もが事態を理解できず立ち尽くす中、咲き誇る赤を上空から静かに見下ろす男がいた。
「――うむ。よい光である」
〈紅き戦乱のオスカーレイン〉。
広大な聖都を端々まで視界に捉える天空で、まるでそこに見えない地面があるかのように立ち、微笑している。周囲の空間が魔法で何重にも隠蔽されており、聖都の人々はおろか、いま近くを飛び去った鳥すらも彼の存在に気づいた様子はない。
聖都の西、南西、南、南東、東――計五ヶ所で
どうやって。
聖都は海と接した北側に大規模な商港を置き、陸とつながる三方を堅牢な砦で守る城壁都市である。
しかしオスカーレインは、その警戒網を易々と突破して街に転移魔法を仕込んでみせた。
いや、正確には突破などしていない。オスカーレインはこの国に来訪してから現在まで、未だ聖都には一歩も足を踏み入れていない。
聖都の外にいながら、聖都の内部へ遠隔で術式を仕込む――それを可能にした答えが、フリクセルたちによって止められた二人の女騎士だった。
「見事にございますな、閣下」
オスカーレインの背後左側から、わずかに老いを感じさせる慇懃な称賛があがった。オスカーレインは振り向かぬまま、
「いや、三ヶ所は仕損じた。まあ、こんなものであろう」
「無知蒙昧な人間を使ったのです、致し方ないかと。むしろ閣下の手腕あってこそ、五ヶ所が成功したと見るべきでしょう」
今度は背後右側から、先ほどよりもいささか若さのある声が答える。目の前の男に対する強い畏敬と、人間に対する軽侮の念が繕う素振りもなく込められている。
――魅了によって支配した人間を使い、代わりに術式を構築させる。
オスカーレインが用いたのは、そういうやり方だった。左の声がひれ伏すように、
「
避難民に混じって魅了された人間が送り込まれる可能性は、聖都も十二分に警戒していた。砦を越える人々に対して、身体検査という名目で精神浄化の魔導具を使用しているのもそれが理由だ。
だがその対策は、
オスカーレインにとっては、聖都へ向かう騎士や避難民の中から手頃なターゲットを見繕い、夜の闇に乗じて『仕込み』をするだけで充分だった。その瞬間に限ったごく数秒の記憶であれば、魔法で消すなり書き換えるなりするのもさほど難しい話ではない。たった数秒の時間とほんの少しの手間だけで、精神世界へ入り込むためのマーキングは完了する。
それさえできれば、あとは分厚い砦と結界で守られていようが関係ない。
「直に支配するのと比べれば、効力は著しく落ちるがな。さほど難しい仕事はできぬ。ゆえにその命を使わせたのだが……」
ただし転移魔法は、さしもの
なればこその、『生贄』。最低限の術式だけで、最大限の出力を爆発的に得る禁忌の手段。
ひとつの魔法陣に二人、ないしは三人。それが五ヶ所成功したということは、
「確実を期すのであれば、最低でも一陣に四人は必要だったか。どうやら吾輩は、人間の命をいささか高く見積もっていたようだ」
左の声が低く笑って、
「その塵芥に等しい命を閣下に捧げられたのですから、幸福なことでしょう」
「ままならぬのも、また戦乱の一興であるな」
それからオスカーレインは聖都のとある一角へ目を向け、わずかに落胆した。それは先刻フリクセルたちの活躍によって、転移魔法の発動が未然に阻止された地点であり、
「だが、あの場所が不発となったのはいささか惜しい……もっとも強大な個体を送り込めるはずだったのだが、何者かに寸前で止められたようだ」
「……差し出がましながら」
右の声音に、強い猜疑の色が浮かぶ。
「よもやお嬢様ということは。あの指輪を持つお嬢様であれば、聖都へ入り込んでいてもなんら不思議ではないはず」
右が言う『お嬢様』とは、ナスティーシャのことである。彼女が妨害したという推測は誤っているが、すでに聖都へ入り込んでいるという指摘は的を射ている。
オスカーレインは不快げに眉を歪め、
「ああ……忌々しい
魔族由来の気配や魔力を中和し、装備者をただの人間に偽装する指輪――
「だが、我が娘ではあるまい。釘は刺しているからな……吾輩の前で下らない真似をすれば、二度と自由は与えぬと」
「おお、こわやこわや……いったいどのような『躾』を考えておられるやら」
右がくつくつと不気味に笑い、それが治まったのを見計らって左が尋ねる。
「しかし、このタイミングでよろしかったので? 深夜であれば、人間どもの活動も……」
現在の時刻は、午後をやや過ぎた昼下がりのはじめに当たる。人間の活動が正午にかけて最大化し、そして夕暮れに向けて高い喧騒を維持し続ける時間帯だ。
聖都を攻めるのなら、セオリー通り夜を選ぶ方が好都合だったはず。あえて人間側の舞台に上がった理由を、オスカーレインはこのように淀みなく答える。
「吾輩の目的は、聖都を滅ぼすことではないからな。聖都に恨み募らす
元よりオスカーレインは、なにがなんでもこの地に大規模な戦乱を起こしたかったわけではない。たまたま
オスカーレインは、目的を進める上で決して自らの手を汚さない。
目に映る世界を一種の『盤』と捉え、そこに住まう生命をすべて盤上の駒と考える。必要ならば足繁く暗躍して手駒を増やし、ときには慈悲深く力を与えもするが、敵陣へ放ったあとは戦いの趨勢を天より眺め、束の間の座興とするのみ。
なぜわざわざ手間暇と時間を費やして、聖都に複数の転移魔法を仕込んだのか。それは聖都を滅ぼしたいからでも、手駒の勝利を願っているからでもない。
――その方が、見ていておもしろいから。
この感性を強いて人間の行動にたとえるなら――ある虫の巣に天敵となる別の虫を放り込み、繰り広げられる混乱を神の目線で観察するのに似ているのかもしれない。
〈ルーテル〉を滅ぼしたのが、そうだったように。
「ある者は為す術もなく逃げ惑い、ある者は死に物狂いで立ち向かい、そして哀れにも散っていく――その瞬間こそが人間の唯一美しい姿である。多くが寝静まる夜を選ぶのは勿体なかろう。吾輩がわざわざ添えた華、あの女には大輪を咲かせてもらわねば困るというもの」
「なるほど。閣下自らが各地のダンジョンへ足を運ばれたのも、そのためですか」
「無論よ」
発動した五つの魔法陣では、すでに続々と魔物の転移が始まっている。
転移の起点となっているのは、この国の各地に存在する未踏破ダンジョン。転移魔法で送り込める範囲内という制約こそあったものの、いずれも強大なボスが長きに亘って冒険者を退け続けている領域であり、
「些か数は減ったが、どれも佳き戦乱を彩ってくれるであろう」
西――堕落した悪しき
東――空間を操る
南西――模倣する不死身のスライム。
南東――悪魔に魂を売った鬼武者と、傍若無人の
そして南――人を捨てた復讐者・
通常の魔物から逸脱した力を振るうあまり、国が固有の識別名を与えて警戒するまでに至った特殊個体を、人々は『
たった一体でも街を壊滅させる恐れのある怪物が、アルファナ含め七体。右の声がオスカーレインの期待と呼応するように、
「では我々は戦いの混乱に乗じ、あの謎めいた塔へ探りを入れればよいわけですな」
「うむ」
オスカーレインは即答し、さらに左が、
「――聖女は、いかがすれば?」
これにも即答。
「任せる。殺すもよし、
左右から抑えきれない喜色が膨れあがる。オスカーレインはさほど興味もないが、
手駒の士気が高いのは結構なことだった。聖女の存在がただの虚仮脅しなのか、相応の実力は伴っているのか知見を得る機会にもなる。
とはいえ今はまだ、転移した魔物の先陣が人々の悲鳴を生み始めたばかり。
「まあ待て、そう急く必要はない。じき隅々まで魔物の気配が満ちれば、我々が入り込んだとて誰もわからぬようになろう」
そのとき、大聖堂で鐘が鳴った。
力の限りけたたましく響く鐘の音は、人々に時刻ではなく非常事態を告げるものであることがオスカーレインにもわかった。
「うむ、始まりの鐘にふさわしい」
戦乱の火蓋が切られる。あの小さな街がそうだったように、アルファナが燃える憎悪のまま復讐を遂げるのか。それとも聖女率いる人間たちの抵抗が、また一味違ったおもしろい景色を見せてくれるのか――どちらに転んだとて、オスカーレインにとっては等しく一興。
両腕を広げた。
「さあ、精々吾輩を愉しませてくれたまえ」
魔法によって誰からも隠された天の一角より、オスカーレインはあたかも神のごとき不遜を以て、
――〈
少女の声。
オスカーレインと二人の配下には、それがどこから響いた声なのか咄嗟に判別できなかった。都市中に木霊する鐘の音をはっきりと突き抜け、天より地上へ降り注ぐ祝福の言葉のようでもあった。
紡ぎ出す音のひとつひとつに祈りを宿すような、忌々しく透き通った神聖の響き。
塔の最上、真白の光。
「……!」
天空に立つオスカーレインは、その直後聖都に生まれた変化を余すことなく目撃した。
巨大な白い魔力が波動となって塔を滑り降り、大地へ拡散して聖都の端々まで浸透していく。そうして広がった光は瞬く間に輝きを増し、ほんのひと時、聖都のありとあらゆるものを真白の中に包み込んで――弾けた。
細やかな魔力の粒となった白光が、無数の煌めきとなって空と大地に満ちていく。
それはあたかも、天より舞い散る美しき白雪のごとし。
「ほう――早速動くか、聖女!」
なんらかの攻撃ではなかった。今のがどのような魔法だったのか、そもそも本当に魔法だったのかも現時点では判別がつかない。
しかしどうであろうとも、聖女が迎撃の一手を打ってきたのは間違いない。
喜ばしいことだ――民が戦火に巻き込まれても、塔の最上に引きこもって祈るだけのお飾り集団ではなかったのだから。
オスカーレインは笑みの牙を剥き、高らかに声をあげた。
「開幕である! 佳き戦乱を見せてくれたまえ、人間ども!」
「――クソ
聖処から屋外へと出たテラスの先で、彼女は真白の光とともに祈りを捧げる。
神聖という言葉からは遥かに遠い、聖女としてあるまじき悪態をつきながら。
「誰の舞台に上がってきたのか、教えてやる」
〈白亜の聖女〉の祝福が、聖都に満ちる。
/
大聖堂の鐘の音が聞こえる。普段聞き慣れた時報の鐘とは明らかに違う、割れるようにけたたましい異様な音色が鳴り響いている。聞いた瞬間「おかしい」とわかるこの響きがなにを意味しているのかは、聖都の全住民にあらかじめ騎士隊から通達がなされていた。
これは、時報ではなく警報だ。
聖都が魔物に襲撃された緊急事態を告げ、
動揺はなかった。
やっぱり――やっぱりこうなるのかと、心の奥底で黒い感情が絶え間ない渦を巻いていた。
「――じゃあウォルカ、行ってくるから」
リゼルは即座に行動する。ロゼの指揮で迅速な避難が進められていく〈ル・ブーケ〉を背に、小高い丘からまっすぐ
赤い光が立ち上がる地点は、〈グリフィス工房〉からさほど離れていないように見えた。
クラエスタが危ない。
ここ一週間、工房に引きこもるクラエスタを何度も間近で見たリゼルにはわかる。断言できる。一週間分のデザートを賭けたっていい。たとえけたたましい鐘の音が響く中であっても、クラエスタは義足が完成するまで絶対に工房から動かない。
絶対に、己の安全よりも義足を優先する。
気持ちはわかる。ラムゼイの死後、製作工程のほとんどを神懸かりの勢いで消化し、明日には仮合わせが可能な状態まで辿り着いていたのだ。魔物が襲撃してきたからといって――否、魔物が襲撃してきたからこそ、ここで完成させなければすべてを裏切ることになってしまう。ラムゼイから託された遺志も、ウォルカに誓った約束も。
絶対に、そう考えるはずだった。
だから、リゼルが行って助けなければならないのだ。
「……ああ。頼む」
絞り出すように答えたウォルカは、握り締めた拳がかすかに震えていた。悔しいのだろう、左足のせいでロクに動くことすらできない自分が。許し難いのだろう、〈ルーテル〉のみならず聖都の人々まで毒牙にかけようとするこの世界が。
ウォルカはなにも悪くないのに。
左足を失ってしまったのは、ぜんぶリゼルのせいなのに。
どうしてこの世界は、傷ついたウォルカにゆっくり休める時間を与えてくれないのか。
あと一歩で死んでしまうほどの大怪我をして、片目片足を失って、〈
吐き気を催すほどの禍々しい感情が、リゼルの全身を蛇のように這いずり回っている。この程度でわかったようなつもりになるのは、おこがましいのかもしれない――それでも神を憎み世界を疎むウォルカの気持ちが、今なら少しだけ理解できてしまう気がする。
リゼルが知らない昔から、ウォルカはずっとこんな感情と戦ってきたのだろうか。
ここにウォルカを残していく恐怖はある。もし自分のいない間になにかがあったら、と考えるとリゼルだって体が震えそうになる。実際、〈ルーテル〉にいた頃の自分だったら、ウォルカの傍を離れるなど考えることすら不可能だったろう。
けれど今は、そんな弱い自分のままではダメだと思うから。
たとえ隻眼隻脚になろうとも、決して諦めず、己の存在を叫ぶかのごとく歩み続けようとするウォルカを何度も見てきたから。
クラエスタが殺される。義足が完成目前で壊される。目の前でたくさんの人が犠牲になる。もしもそんなことが現実に起こってみろ。
リゼルはもう、この世界を絶対に許さない。
「心配するでない! クラエスタは絶対に間に合う。わしが助けに行って、必ず間に合わせるから」
不思議な感覚だった。心の奥では到底言葉に言い表せない感情が渦巻いているのに、頭の中は驚くほど冷静で、こうしてウォルカにそっと微笑みかける余裕すらある。
もしかすると、天より舞い落ちるこの白雪――聖女様の加護のお陰なのだろうか。
頼む、と言われたから。
今度こそ、愛する弟子の力になってあげられる師でありたいから。
お気に入りの魔女帽子は、持っていかない。
「今日はわしも、正真正銘の本気じゃっ」
全身に魔力をまとい、リゼルは丘の上から空へと跳んだ。
精神を集中させて術式を起動、自らに眠る
リゼルアルテは、
体の中に眠る
あれは、〈
「――ふぅ。ここ最近ずっとサボっちゃってたから、やっぱり感覚が鈍ってるかも……」
そんな独り言をこぼす。そのときリゼルがやっていたのは、自分の中に眠る
もっとも、精霊化といってもそう大それたものではない。普段のリゼルとどこがどう変わっているかといえば、耳が細長い三角形に尖っている程度。あとは体から魔力の燐光が散って、宙へ浮かぶように身のこなしが若干軽くなるくらいだろう。
魔法を発動してから精霊化が完了するまで、三分近くもかかってしまった。リゼルはため息、
「はあ……ちょっとサボっただけでこれなんだから、やっぱり私って……」
人間と魔族の間に生まれる『半人』は、多くの場合で外見的な特徴は人間に近く、寿命や精神性など目に見えない部分は魔族に近くなるとされる。そして魔族の血を色濃く継げば継ぐほど、魔力や身体能力といった生物としてのポテンシャルはより人間離れしていく。つまり逆をいえば、魔族の血が薄い半人は――。
「師匠? 師匠……だよな?」
「……あっ」
軽く自己嫌悪していると、いつの間にか背後にウォルカが立っていた。とっくに寝静まったと思っていたのに、どうやら目を覚ましてテントから出てきてしまったらしい。
うわわっ、とリゼルはちょっぴり慌てた。
「あ、あー、ウォルカっ……こ、この姿を見せるのは、はじめてじゃな」
ウォルカは目をしばたたかせながら、
「もしかして……それがあれか、師匠の覚醒モード的な」
「う、うむ……」
ウォルカがとても興味深そうに、リゼルの周囲を回って観察してくる。リゼルは無性にどきどきしてしまって、いっそどこかへ走り出してしまいたい気持ちを辛うじてこらえる。――落ち着いてリゼル、いつかウォルカにこの姿を見せるときのシミュレーションはしてたでしょ。大丈夫、ウォルカはこんなの気味悪がったりしないから。私の弟子を信じるの。
その祈りが天へ通じたか、ウォルカから嫌な感情が漂ってくることはなかった。彼はすっかり感服しきった様子で、
「びっくりした。すごく綺麗だな、師匠」
「ふえっ……も、もぉーウォルカったらぁ。やっとわしのオトナの魅力に気づ」
「あ、いやそっちじゃなくて。ほら、背中で光が羽みたいに」
「秒で否定するな!! 『そっちじゃなくて』とか言うなあ!! ちょっとは夢見させてくれてもいいじゃろこのバカ弟子ーっ!!」
キレたリゼルが平常心を失った瞬間、体に宿っていた燐光があっさりと散ってしまった。全身に元の重力が戻ってきて、凛々しく尖っていた耳も縮んでいく。
「あ、戻った……?」
「む……ん。まあこのとおり、結構集中力が必要でな。気が散るとすぐ戻ってしまうんじゃ。だから、こうしてたまに訓練しとるわけじゃな」
そこまで答えて、思わず二度目のため息が出た。
「わしは、あまり
「血が濃いと、またなにか違うのか?」
「そうじゃな。わしは魔法に頼らんとダメじゃが、本当に血を濃く継いでるやつは、こう……『むんっ』って感じだけで簡単に覚醒できるらしい」
リゼルが
なんにせよ、自分で言っていてだんだん落ち込んできた。
「し、失望したかっ……? わしって本当は、ぜんぜん大したこと……」
「そんなことないよ」
けれどそんなリゼルの不安を、ウォルカは当たり前のような即答で一蹴してくれた。
「師匠が師匠でよかったって、ますます思った。俺、すごい人に魔法を教えてもらってるんだな」
「…………そ、そっか。そっかそっかっ……! えへへ」
――懐かしい記憶だ。あのときリゼルの心を埋め尽くした暖かさは、いま思い出すと胸を冷たく引き裂く刃のようでもある。
リゼルは、半人としてお世辞にも恵まれた存在とはいえない。たとえばリゼルたちが先日手合わせした炎の聖騎士は、魔族の血を非常に色濃く継いだスーパーエリートで、接近戦においてはアトリをも軽くあしらってしまうほどの化け物だった。肉体的なポテンシャルが極めて魔族に近く、あれなら「むんっ」と気合を入れるだけで容易く覚醒状態にも入れるのだろう。
リゼルは、そうではなかった。
けれど、今日だけは。
これからのこの瞬間だけは、『偉大で尊大な大魔法使い』にふさわしい自分で在れる気がする。
空を飛んでいるわけではない。されど人間が大地を走るのとも違う。リゼルの足先がふわりと地に触れるたび、そこに幻想的な一瞬の波紋が生じる。重力を感じさせない柔らかな跳躍は、一度で十メートル以上の距離を風となって駆け抜ける。途切れることのない光の星屑を振りまき、建物の屋根から屋根へ軽々と飛び移り、リゼルは瞬く間に
そのとき、眼下の路地から声が聞こえた。
「――いやっ、来ないで!! 誰か、誰かあああぁぁっ!!」
避難する住人たちで混迷を極める大通り――ではない、建物と建物の間に隠れた狭い路地。複雑に入り組んだ先の行き止まりとなった場所で、若い親子が三体の
おそらく、慌てて逃げるあまり道を間違えてしまったのだろう。母親に抱かれた子はリゼルよりもずっと幼く、いま目の前でなにが起こっているのかも理解できていないであろう年齢だった。母親がどうして恐怖に震えているのかわからず、不思議そうな顔でしきりに目の前の
一部、小型で足の速い魔物がもうこんなところまで入り込んでいる。転移魔法による完全な不意打ちを喰らったせいで、騎士たちの迎撃が後手に回っている証拠だ。
リゼルは迷わず行動した。
その瞬間なにが起こったのかを、しかと目で見て記憶したのは子どもだけだ。
「――、……あ、あれ?」
覚悟していた苦痛がいつまで経ってもやってこないと気づき、母親がおそるおそるとまぶたを持ち上げる。
すると、そこにはもう誰もいない。ただ、討伐された魔物の残骸がボロボロと崩れて消滅していくのみ。
「……ママぁ!」
なにが起こったのかわからず呆然としていると、腕の中の子どもが興奮しながら歓声をあげた。両目をつぶらに輝かせて、
「すごぉーい! いま、よーせいさんがたすけてくれたよ! おそらからおりてきて、おーかみさんをばーんってたおして、またとんでっちゃった!」
「よ、妖精……?」
母親はわけがわからない。もちろん周囲を見回しても、それらしい姿はおろか自分たち以外の人影すら見つからない。聖都に妖精が住んでいるなんて一度も聞いたことがないから、普通に考えればこの子の見間違いに決まっている。しかし騎士か冒険者が助けてくれたのだとしても、助けた相手へ一言も声をかけずに立ち去ってしまうなんて――
「み、見間違いじゃないの?」
「んーん、ぜったいよーせいさん!」
それでも子どもは断固として首を振り、両腕を大きく宙に広げた。
「――だって、はねがきらきらーってひかってたもん!」
無論、子どもの主張はただの勘違いである。リゼルに羽はない。ただ羽があるかのように空から降り立ち、羽があるかのように空へ跳躍して去っただけ。
けれど、
「……きめた! わたし、おおきくなったらよーせいさんになるっ」
「え、ええ……?」
――小さな体から燐光が軌跡となって流れる様は、言われてみればなるほど、妖精の羽と誤解しても不思議ではないのかもしれない。