全滅エンドを死に物狂いで回避した。パーティが病んだ。   作:雨糸雀

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08. 聖女

「――はぁっ!? 〈摘命者(グリムリーパー)〉が討伐されただあ!?」

 

 聖都〈グランフローゼ〉の中心部には、ウォルカが現在世話になっている〈聖導教会(クリスクレス)〉の、中枢機関ともいうべき大聖堂が建っている。王都栄光の証である()の王城に勝るとも劣らぬ、訪れる者を心底圧倒する森厳(しんげん)かつ壮麗な威容を誇っている。

 

 それはそうだろう。なぜならこの大聖堂は、聖都の頂点に君臨する四人の聖女――すなわち神の化身が暮らす聖域でもあるのだから。

 

 百を超える敬虔な礼拝者の目を欺き、鼠一匹見逃さない屈強な騎士隊の監視を潜り抜け、最後に聖都随一の武を誇る三人の聖騎士を打ち倒せば、神の化身たちが暮らす聖処に足を踏み入れることができる。

 

 その一室から今しがた、お世辞にも聖女らしからぬ大声が走り抜けていった。

 

「うおーマジか、こいつの討伐成功とか何年振りだよ。あー、そういや前回は王都の〈七花法典(セブンズ)〉のクソどもだったっけなあ。おまえら聖都じゃ真似できねえだろってしばらく煽り散らされたっけ全員死ねばいいのに」

 

 お世辞にも聖女らしからぬ言葉遣いで、一人の少女が半ば興奮しながらとある報告書に目を通している。華奢な体全体をゆったりと覆う荘厳華麗な祭服は、彼女が〈聖導教会(クリスクレス)〉において極めて高い地位にいることを示している。真白の髪を飾るティアラの中心には、『雪』の結晶をあしらったきめ細かな紋章がつけられている。

 

 そんな雪の少女は続けて、ニカリと歯を見せるお世辞にも聖女らしからぬ笑みで、

 

「しかも討伐したのがAランクパーティって……おいおいウチの冒険者もやるじゃねえか。よーしあとであのクソども煽り返してやろっと。……おい、聞いてたか〈天剣〉」

「はい。驚きました……〈七花法典〉さまの討伐から四年振りですね」

 

 雪の少女の傍らには、もう一人、〈天剣〉と呼ばれた別の少女の姿がある。彼女もまた一点の綻びもない壮麗な祭服をまとっており、ティアラの中心には『剣』を象った紋章。少なくとも雪の少女と比べれば、その佇まいからは聖女の名にふさわしい気品と清らかさが感じられる。

 

「あんなやつらに様付けなんていらねえよ、なんせウチのAランクでも倒せるような魔物を七人がかりでやっと倒して調子乗ってんだからな」

「〈白亜〉さま、〈摘命者〉は常人に討ち倒せる魔物では……」

「うるせーうるせー、おれは絶対に煽り散らかしてやるからな」

 

 雪の少女――すなわち〈白亜〉と呼ばれた彼女は報告書の続きに目を戻し、

 

「ふーん、パーティは〈銀灰の旅路(シルバリーグレイ)〉ねえ……あ? ってかこれ、」

「ウォルカさまのパーティではないですかっ」

 

 〈天剣〉がいきなり血圧を上げた。「うげ」と途端に面倒くさそうな顔をする〈白亜〉に構わずグイグイと、

 

「ああウォルカさま、ご無事だったのですね……! よかったです、これなら先日編成した捜索隊は解体してよさそうですね」

「解体もなにも編成してねえよ。おれが目の前で却下しただろうが記憶改ざんされてんのか」

 

 〈白亜〉は盛大にため息、

 

「ったく……だから言ったろ、おまえは心配しすぎなんだよ。男なんだから別に二週間帰ってこないくらい」

「〈白亜〉さま」

 

 少々うんざりとした〈白亜〉の言葉を、〈天剣〉が強く断ち切った。

 〈白亜〉は〈天剣〉を見る。底が見えない悲愴と後悔に濡れた、切り立った崖際のような瞳をしている。

 

「わたくしは、それで一度ウォルカさまを見殺しにしたのです。……心配するに、決まっているではありませんか」

「……」

 

 〈白亜〉は、今度は小さなため息。

 

「……おまえも大概こじらせてるよなあ」

「……わたくしはただ、ウォルカさまの旅路の平穏をお祈り申し上げているだけです」

「そのウォルカ様も、夢にも思ってねえだろうさ。まさか自分が、天下に名高き聖女様の御覚えがめでたいなんてよ」

「……」

 

 〈天剣〉が返した微笑は、今にも崩れてしまいそうなくらいに弱々しい。〈白亜〉はこれ以上話しても空気が悪くなるだけだと判断し、

 

「はいはい、んじゃ帰ってきたら思いっきり祝福してやんな。なんせ〈摘命者〉討伐の大偉業だ、聖都としても褒賞出してやんねえとな。信賞必罰がウチのやり方だし」

「はい! ぜひ聖都全体を挙げて凱旋パレードなど」

「やりすぎなんだよバカ。ほんとそういうとこだぞおまえ」

 

 一瞬で調子を取り戻した〈天剣〉に苦笑して、報告書の更なる続きに目を通していく。

 

「しかし〈摘命者〉ねえ、こいつらどんだけ危険なダンジョン潜って――」

 

 続くはずだった言葉が、唐突に引っ込んだ。

 沈黙、

 

「〈白亜〉さま?」

「……あーいや、このダンジョンの名前になーんか見覚えあってな。こないだ踏破されたやつじゃなかったっけ?」

「そのようなこと……」

「あ、なんか嫌な予感してきた」

 

 〈白亜〉がやにわに居住まいを正し、やや前のめりで報告書の内容を(あらた)めていく。一枚目をめくって二枚目の最後まで、まさしく眼光紙背に徹すがごとき剣幕で、

 

「…………、」

 

 一旦顔を離し、「ッスー……」と呻くように細く息を吸う。

 また報告書を見る。

 また息で呻く。

 〈天剣〉が首を傾げる。

 

「〈白亜〉さま、いかがなされましたか?」

「……なあ、〈天剣〉」

 

 〈白亜〉はとんでもない爆弾を抱え込んでしまったような、まさしく痛恨としか表現のしようがない顔をしていた。

 それは報告書の内容ではなく、それを踏まえた上での〈天剣〉に対する表情だった。

 

「あのな、前置きしとくぞ。この話は冷静に聞いてくれ。マジで冷静に聞いてくれ。いいかマジで言ってるからな」

「? わかりました」

「わかってねえだろおまえ」

「そう仰いましても、わたくしはいつも冷静ですので……」

「あーはいはいそうだよなおめーはそういうやつだよちくしょう」

 

 更に間。〈白亜〉は目元をくしゃくしゃにして「あ~~~~~~」と葛藤し、やがて腹を括ったように――あるいは匙を投げたように――口を開いた。

 

「そのウォルカ様な、あー…………大怪我して片目と片足なくなっ」

「――――――――は?」

「ヒエ」

 

 

 

「――なあ〈天剣〉、おまえの気持ちはわかるよ。こんなの居ても立ってもいられないよな、今すぐ飛んでいきたいくらいだよな。でもさ、だからってマジで秒で飛び出そうとするやつ普通いねえだろっておれは思うわけ。ほらおれらって好き勝手に聖都から出られる立場じゃないしさ、そこそこ遠いんだから行くならしっかり荷物も準備しなきゃだろ? メシとか着替えとかちゃんとしないと、せっかくウォルカ様と会えても恥かくだろ? だから一旦落ち着いてくれおいほんと頼むから行くならせめてお勤めのスケジュール調整だけでもさせてくれなあマジでいきなり抜けられんのは困るんだっておれらのスケジュールぜんぶぶっ壊れるんだってうおおおおおちくしょおおおおお誰かこいつを止めろおおおおおぉぉぉっ!!」

 

 その日、大聖堂の聖処は普段よりだいぶ騒がしかったという。

 

 二日前の出来事である。

 

 

 

 /

 

「どう? 違和感はないかしら」

「ある。気持ち悪い」

「ふふ、その義足をつけた人はみんなそう言うわ。我慢なさい、この小さな街で用意できる義足はそれくらいよ」

 

 リハビリを始めた。

 

 リハビリというからには歩く練習であり、歩く練習というからには、俺の左足にはめる義足ができあがったということだった。なので早速教会のリハビリ部屋を借り、老シスターの説明を受けながら装着してみたのだが――

 うん、ひどいなこれ。

 

 まず見てくれ。『断端』――切断して残った足の部分をそう呼ぶらしい――を突っ込む接合部(ソケット)にちょっと太めの棒を取りつけただけという、大変シンプルで洗練された面構えをしている。なにかの漫画だかアニメだかでこういう義足を見た記憶があるな。結局のところは地面に対して体の支えとなれればよいのだから、こういう杖のような形に行き着くのはどの世界でも同じなのかもしれない。

 

 まあ見てくれはいいのだ。問題は、断端への装着方法。

 

 スライムである。

 ……スライム、である。

 

 ソケットの中がスライムの素材でコーティングされていて、魔力を当てることで肌に吸着する仕組みらしいのだ。そんなので大丈夫なのかと最初は大いに疑ったが、実際やってみればなるほどその吸着力はすさまじく、少なくとも足を軽く持ち上げるだけならまったく外れる気配がなかった。

 

 とはいえ、スライムである。

 スライムなのである。

 なにが言いたいのかといえば――めちゃくちゃニュルニュルしているのである。

 

「うおぉ……」

「ウォ、ウォルカ? 大丈夫か?」

「あ、ああ。でもこれは……慣れるまで時間がかかりそうだ」

 

 よほど渋い顔をしていたらしく、師匠が早くも過保護モードになりかけている。ただ義足をつけるだけで心配させていたらこの先始まらないので、いかんいかんと表情を引き締める。

 

「ほらリゼルさん、邪魔になっちゃいますからこっちで座ってましょう?」

「ん。リゼルは心配性」

「うう。だってぇ……」

 

 リハビリ部屋にはユリティアとアトリも集まっている。みんなの前でお披露目するほど大したものでもないと思うのだが、師匠の子守りをしてくれるのはありがたかった。

 

 やっぱりこうして見るとウチのパーティ、優しくてしっかり者のユリティアが長女で、いつも落ち着いているアトリが次女、そして幼女感の拭えない師匠が末っ子という構図が一番ぴったりな気がする。師匠が聞いたら間違いなくぷんすか怒るだろうけど……。

 

「もちろん、ただ変な趣味でそんな素材を使ってるわけじゃないのよ」

 

 さておき、老シスターの説明に戻って曰く。

 

 義足において決して無視できない問題のひとつに、断端への負荷というのがあるらしい。要は、歩くたびに断端と義足がぶつかる、擦れる、圧迫されるなどすると、痛みやむくみの原因になってしまうとか。……自分の足に合っていない靴を履くと、靴擦れするようなイメージだろうか?

 

 スライム義足は、そういった断端への負荷をあらゆる面で軽減してくれる。肌にぴったり吸着するため足を動かしてもズレが起こらないし、ソケットとの間で緩衝材の役割を果たしてくれるから負荷も分散される。装着方法も、足を突っ込む、ベルトを締める、魔力を当てるというたった三ステップであり、日常生活で必要なときだけつけて、あとは外しておくという使い方もしやすい。

 

「でも、あくまで日常生活用よ。これでまた冒険ができるとは思わないでね」

 

 反面、スライムで吸着しているとはいえ結局のところはただ足を突っ込んでいるだけなので、走ったり跳んだりといった激しい運動は推奨されない。義足自体もスライムの吸着力を上回らないよう軽い素材で作られており、他のタイプと比べれば壊れやすいそうだ。

 

 あと、ニュルニュルが気持ち悪い。

 ……とても、気持ち悪い。

 

 まあ背に腹は代えられない。自分で歩けるようにならなければ社会復帰など夢のまた夢、いつまで経ってもみんなを幸せな未来に後押しできるはずもないのだから。このニュルニュルに慣れることが第一歩なら、喜んでやってやろうじゃないか。

 

「ウォルカ……」

「大丈夫だ。いつまでも寝てられないからな」

 

 心配で心配でたまらないらしい師匠の頭を、ぽんぽんと優しく叩いて。

 およそ二週間以上ぶりに、俺は誰の支えも借りず自分の力だけで立ち上がるのだった。

 

 

 

 /

 

 そのシスターは、いつも通り教会の前で日課の掃き掃除をしていた。

 ここで働き始めてまだ日が浅い、年若い新人シスターである。黒い修道服を貞淑に着込んだ少女は、ほうきの手を止めて太陽の下で思いっきり伸びをする。

 

「ん~~、……はあ、やっぱり平和が一番だよねえ」

 

 青空へ向けて飛ばしたため息には、新人とは思えぬ妙な実感と感慨が込められている。無理もないことだった。遡ること二週間ほど前、少女は大先輩の老シスターに襟首掴まれて、大怪我で運ばれてきたとある青年の治療に立ち会わされていたのだから。

 

 正直、あのときのことはあまり思い出したくない。

 

 思い出すと、今でも血の匂いまで色濃く甦ってきそうになる。奇跡的に生き延びてみせた青年に対して、本当に申し訳ないことだが――少女はあのとき、ひと目で「こんなの無理だ」という諦めが頭をよぎってしまったのだ。あの場にいたほとんどのシスターが、血の気をなくして蒼白になっていた。ただ一人老シスターだけが、

 

「この子はまだ生きてる。なにもしないで諦めたら、私たちが殺したのと同じよ」

 

 ……聖導教会で働くということの意味を、苦しいほどに思い知らされた一日だった。

 

 あれ以来、これといって大きな怪我人や病人は運ばれてきていない。それがどうしようもなく尊いことだと思える。

 ここは街を一歩外に出れば、恐ろしい魔物とどこで遭遇したっておかしくないような世界だけれど。

 こんな風に何事もなく穏やかな日々が、どうか一日でも長く続いてくれますように。

 

「……ん?」

 

 気がついたのは、少女が掃除を再開して少し経った頃だった。街の中心と教会をつなぐ坂道を、まっすぐこちらに登ってくる二人の人影が見えた。

 

 少女が着ているのと同じ黒い修道服と、さして珍しくもない使い込まれた銀色の軽鎧。

 

「あれ、誰だろ……」

 

 ようやく右と左がわかるようになってきた程度の新人とはいえ、少女も立派な聖導教会の所属である。あれが教会のシスターと、その配下である〈聖導騎士隊(クリスナイツ)〉の騎士なのはひと目でわかった。

 しかしあんな、遠目でもわかるほど美しい白金髪(プラチナブロンド)のシスターがこの街にいただろうか。同僚ならば記憶に残っているはずだし、同じ街の教会で働いているのに、今まで一度も顔すら合わせていないというのは考えづらい。

 

 しばらく目を凝らして、誰だろう誰だろうと首をひねっていたのだが。

 

「――え、」

 

 その顔立ちがわかる距離になって少女は言葉を失い、

 

「こんにちは」

「――……」

 

 目の前で挨拶をされる頃には、完全に氷結して身動きできなくなってしまっていた。

 

 いや、あの。

 待って待って待ってちょっと待って。

 なんで、なんで()()()がこんなところに。

 

 教会で働き始めて日が浅い新人であっても、新人だからこそ、少女は眼前のシスターがいったい何者なのか完膚なきまでに理解してしまった。

 正気に返る。脊髄反射で膝を折る、

 

「ああ、どうかそのままでいてください。わたくしはそのような大それた者ではございませんから」

「は、……でも、いえ、しかし」

 

 柔らかに制された少女はひどく狼狽する。あの、貴女様が『大それた者』じゃなかったら、この世の人々はみんな虫けら同然になってしまうのですが。

 

「はじめまして。わたくし、アンゼと申します」

「へ? あ、アンゼ……様?」

 

 それが偽名なのは一発でわかった。いや、偽名というよりは愛称……だろうか。彼女がわざわざそんな名乗りをする理由を少女は猛スピードで考えようとする。

 考えようとするのだが――なにもかも突然すぎてぜんぜん頭が追いつかない。アンゼと名乗ったシスターはくすくすと美しい声音で笑い、

 

「『様』だなんて、どうかアンゼとお呼びください。わたくしは一介のシスターに過ぎませんから」

「いやいやいやいやいや」

 

 できるわけないじゃないですかなに言ってるんですかどういうことなんですかこれぇ!?

 

 と、少女の頭はもはや天地がひっくり返ったような大混乱である。今すぐこの場から走り去ってしまいたい衝動を懸命に抑え、シスターの背後に立つ騎士へ必死の視線で救いを求める。――いったい全体これはなんの御冗談ですかお許しくださいわたしなんかとお戯れになってもなにもありませんからどうかお慈悲をぉぉ。

 祈りは天に通じた。

 

「アンゼ、世間話はそのくらいに。彼女を混乱させてしまっているようだ」

「あら……申し訳ございません。今回わたくしたちは、いわゆるお忍びで参ったのです」

「へぇあ――いや、でも、お二人は普通に街を……」

「ええ、街を歩く際は目立ってはいけないので、少し術を使うようにしています。街の方々には、わたくしたちが至って凡庸なシスターと騎士に見えていたことでしょう」

「な、なるほど……」

 

 考えてみればそりゃあそうだ。そうでなければ、今頃この教会は熱狂する人々で包囲されて混沌の坩堝(るつぼ)に陥っていただろう。

 

「そ、それで、本日はいかようなご用件で――」

「はい。ウォルカさまにお会いするため参りました」

 

 ――ウォルカ?

 教会の関係者から脳内検索をかけたので少し時間がかかったが、なんとか五秒以内で思い出した。

 あの青年の名だ。死にかけで運ばれてきて、奇跡的に助かって、驚異的な回復力で今日から義足のリハビリを始めたあの。

 

「そ、その方でしたら、たしか今は()()のリハビ」

 

 

 少女が答えられたのは、そこまでだった。

 突然ひゅっと息が詰まり、それ以上なにも言えなくなってしまったからだ。

 

 

 呼吸ができなくなった。恐怖、ではない。体の震えも一切起こっていない。そのとき少女が思い出したのは、幼い頃両親に連れて行ってもらった聖都の大聖堂で感じた、身が縮みあがるほど荘重としたあの神聖な空気だった。

 

 清浄な場所に足を踏み入れたとき、神々しい神像の前で祈りを捧げるとき、自分自身が白く澄み渡っていくようなあの感覚。人が神威(しんい)を感じたときに抱く、畏敬、畏怖と呼ばれる類の感情。

 

 少女は静かに理解する――ああ、人は本当に神聖な存在に触れると、呼吸すらできなくなるのだと。

 

「――あっ、これは失礼いたしました」

 

 霧散した。真白に染まろうとしていた世界が一瞬で消失し、元の青空、元の街並み、そして元の感覚がすべて少女の中に戻ってきた。

 まるで(かしこ)み深く祈りを終えたあとに、ふっと目を開けたかのような。

 

「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」

「い、いえ――」

 

 あまりに束の間の出来事だったせいで、少女は先ほどの感覚がなんだったのかよくわかっていない。

 

「それでは、少しお邪魔させていただきますね。……貴女のいと尊き献身に、主の祝福があらんことを」

 

 結局少女が正気を取り戻すより先に、シスターは騎士を引き連れて教会に入っていってしまった。

 

「――…………」

 

 少女はぼーっと青空を見上げる。自分がいま見て、聞いたものはいったいなんだったのだろうか。ひょっとして、この朗らかな青空と陽気が見せた白昼夢だったのではないか。そうだったとしてもなんらおかしくないだけの体験を自分はしてしまったのだと思う。

 

 まさかあの御方が目の前に現れて、話をして、ほんの一瞬とは思わずひれ伏してしまいたくなるような――。

 

 とりあえず。

 

「ようこそ〈聖導教会〉へ、本日はどのような――へ!? うえっへああああああああ!?」

 

 教会をどよもす同僚たちの絶叫を聞くに、やっぱり夢じゃなかったのかもしれないなあと、少女は思った。

 

 

 

 /

 

「……ねえ、あなた。一応訊くのだけど、義足で歩くのはこれがはじめてよね?」

「? それはもちろん……」

 

 リハビリを始めて一時間強。俺は手すりを使った練習、杖を使った練習と経て、かなりゆっくりながらもなんとか一人で歩けるようになっていた。

 

 いや、正直に言おう。――ゆっくりと歩けるようにしか、なっていなかった。一時間ひたすら練習しても、平坦な床をふらふらと子鹿みたいに歩くのが精一杯だった。

 

 やはり、自分自身の足を動かすのとはなにもかも違う。特に一番難しいと感じるのは、義足はあくまで義足であり、自分の感覚が一切通っていない点だろう。

 

 これが自分の足であれば、前に出した瞬間に踏みしめる感覚がはっきりとわかるし、地面が柔らかいのか固いのか、不安定な場所なのか否かも即座に直感できる。

 しかし義足はそうじゃない。足を前に出して床を踏んだとしても、その実感がなかなか正確には伝わってこない。本当にちゃんと踏めているのか、このまま体重を預けて大丈夫なのか、その瞬間バランスを崩すのではないか――そういった感覚的、ないし精神的な難しさがたしかに存在している。

 

 実のところ、もう少しくらい上手くやれると思ってたんだけどなぁ。やっぱり体が(なま)ってしまったのだろうか。……まったく、もしこの場に俺の祖父がいたら、弛んでるとか甘えてるとか大声でどやされてただろうな。

 けれど老シスターにとっては違うようで、

 

「飲み込みが早すぎる……いえ、早いなんてものではないわ。普通、支えなしで歩けるようになるだけでも何日とかかるものなのよ」

 

 え、そうなの? ……たしかに、冒険者じゃない普通の人だとそれくらいかかるのかな。ということは、ちゃんと歩けるようになるまでは……一ヶ月?

 

 いやいや、俺はそんな悠長に構えるつもりはない。『生まれたての子鹿』という比喩があるけれど、その子鹿だって生後数時間もすれば一人であちこち歩き回るようになるんだぞ。

 俺だって今日中に、せめて教会の中くらいは問題なく歩けるようになってやる。そうすれば、たった一杯の水を取ってくるだけで師匠たちに助けてもらう必要もなくなるからな。

 

 それにぶっちゃけ、万が一があったとしても転ぶだけである。

 

 転ぶのが怖かったら誰もはじめから剣なんて握っていないし、冒険者にもなっていない。昔やっていた修行と比べれば、転ばないよう気遣われながら進めるリハビリなんざ屁みたいなもんだ。

 

 俺としては気遣いなど一切無用、「今日中に走れるようになれ。やれ」と雑なノルマを課せられるくらいでもいいんだけどな。それだと師匠が涙目ですっ飛んできそうなので、さすがに自重しているけれど。

 

「お疲れ様です、先輩」

「ああ、ありがとう」

 

 小休止のため椅子に座ると、すぐにユリティアがコップで水を持ってきてくれた。続けて師匠が、

 

「ウォルカ、む、無理はしておらんか? そんなにがんばらなくてもいいんじゃぞ? 少しずつ、少しずつでいいんじゃからなっ……」

 

 ちなみに師匠、アトリの膝の上で幼女よろしくがっしりとホールドされている。俺が訓練している間ずっとはらはらおろおろしっぱなしで、あまりにも落ち着きがなかったせいだ。俺がちょっとふらつくたび大慌てで駆け寄ってこようとするため、見かねたアトリにずるずる引きずられていってしまった。

 アトリが師匠の頭を撫でながら、

 

「リゼルはほんとに心配性。もう少し落ち着く」

「だ、だってぇ……」

 

 だってじゃありません。

 

「正直、私としてももっとゆっくりでいいと思うのだけれど。そこまで早く歩けるようになりたい理由でもあるのかしら」

 

 むしろ早く歩けるようになりたい理由しかないんだよなあ……。師匠たちに余計な負担をかけないで済むし、それだけ早く聖都に戻れるし――あとは、体だって本格的に動かせるようになる。

 なまじっか素振りだけ再開してしまったせいか、一刻も早く鍛錬をしたくてなんだか強迫観念みたいになってきてるんだよな。少し大袈裟かもしれないけれど、剣を振らないと自分が自分でなくなってしまう気がする、というか。

 

 

 ……今の体になってから、深く考えるのはあえて避けていたけれど。

 やっぱり俺にとって、剣というものは。

 もしかすると、俺が思っている以上に――。

 

 

 なんの前触れもなかった。

 

「――へ!? うえっへああああああああ!?」

 

 リハビリ部屋の外から突然の絶叫。ただしそれは恐怖や痛みに濡れた悲鳴というより、思いもしない出来事に直面したときの素っ頓狂な叫び声だった。

 前世でたとえるなら、超有名な芸能人がいきなり目の前に現れたときのような。

 

 エントランスと思しき方向から、その叫びはシスターからシスターへ次々と伝播している。神聖な教会らしからぬ大騒ぎに、老シスターがやや厳しく眉をひそめる。

 

「……いったいなにかしら。騒がしいわね」

 

 喧騒が徐々に近づいてくる。かすかながら、「ああマドモアゼルたち、落ち着いてくれたまえ!」と妙にキザったらしい男の声が聞こえた。

 俺は思わず腕を支えにして真下へ俯く。……今の声、アイツか。アイツなのか。どうして大聖堂勤めのエリート騎士様がこんなところに、と頭痛を覚えながら眉間を揉みほぐし――

 

 

「――ウォルカさまっ!!」

 

 

 しかし俺の予想に反して、飛び込んできたのは一人の若いシスターだった。

 その端正で清らかな顔立ちと、光を吸い込むような白金色(プラチナブロンド)の髪に俺は見覚えがあった。というか、ただの冒険者でしかない俺をさま付けで呼ぶ人物などこの世で一人しかいない。

 

 〈聖導教会(クリスクレス)〉は、なにかと怪我が絶えない冒険者にとっては第二の家とも呼べる場所である。そして俺たち〈銀灰の旅路(シルバリーグレイ)〉は、とりわけ四人になってからは聖都を拠点として活動してきた。すなわち聖都が誇る教会の中枢機関――通称『大聖堂』には、普段世話になっている顔見知りが何人かいるわけで。

 

 その中でも俺たちの……というより、俺の治療を専属で担当してくれているシスターが、

 

「……アンゼ?」

「ああっ、ウォルカさま――!」

 

 俺の姿を見つけるなり悲愴とともに駆け寄ってきた彼女――アンゼであり、

 

「ウォルカさま、アンゼがここに参りました」

「あ、ああ……いや、なんで君がここに」

 

 アンゼは俺の目の前で慎み深く両膝を折り、義足と眼帯をそっと一瞥すると、

 

「ウォルカさまのお怪我を耳にして、居ても立ってもいられず。申し訳ありません、わたくし、ウォルカさまがお辛い思いをなさっていると露も知らずに……!」

「そ、そうか。心配かけたな」

 

 ――アンゼは純真と慈愛に満ちあふれた規範的なシスターであり、大変にいい子である。

 

 いい子なのは、間違いない。

 間違いないのだが、一方で胸に抱く感情の規模が大きいというか、いかんせん大袈裟すぎるところがあって――

 

「ですが、もう心配はございません」

 

 聖都を離れたこの小さな街でも、そんなアンゼのデカい心は変わらなかった。

 

 アンゼは自身の清らかな両手で俺の手を包み、後光が差すような慈愛をあふれさせながら、部屋の外まで響くくらいにはっきりとこう宣言するのだった。

 

 

「――今すぐ聖都に戻って、これからは大聖堂でわたくしと一緒に暮らしましょう!」

「「「――――は?」」」

 

 

 仲間たちのドスが利いた声というのを、パーティ結成以来はじめて聞いた気がした。

 

 




Tips『アンゼ』:
 聖都でウォルカの治療を専属で受け持っていたシスター。敬虔で慈悲深いクソデカ感情の持ち主。いったい何聖女様なんだ……。
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