魔法少女シトラス the series   作:御鈴

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番外編 序曲:運命の協奏曲(アンサンブル)
波の狭間の舟歌-バルカローラ-


 

太陽が地平線に沈むと、海の色は深い藍色へと変わる。

静かな日暮れを迎える海上を、外航クルーズ船「ハーモニーオーシャン号」は悠々と航海していた。日没に伴って灯された無数のライトが、まるで夜空に輝く星のように、水面に反射してきらめいく。

 

ハーモニー・オーシャン号のオーナーはラコルト市内に数多くの教育施設を展開し、その運営を主軸としながら数多くの事業にも参入しているミネルヴァ財団の代表ニコラス・P・アルページュだ。船内は美術館の一部を持ってきたのではないかと思えるほど、あちらこちらに洗練された彫刻や絵画が飾られている。広いダイニングルームには、こだわり抜かれた食材による美食が並び、メインホールには上品なクラシック音楽が乗客たちの歓談を邪魔しない適切な音量で流れていた。

 

多くの乗客が談笑する船内の中で、ひと際目立つ存在がいた。紫色のウェーブがかかった髪をハーフアップにし、宝石のような碧い瞳をした美少女。

 

彼女こそが、このハーモニー・オーシャン号のオーナーであるニコラスの一人娘、ロゼ・アルページュである。

 

夜の海のような紺碧のパーティードレスは彼女の髪色と相まって、上品で華やかな印象を醸し出している。彼女を中心にして人々が談笑している様子は、まるで一枚の絵画のように美しく調和していた。

 

 

「ロゼ様、先日のコンサートは本当に素晴らしかったです!私、感動しましたわ!」

 

ロゼのファンらしき婦人が、半ば興奮気味にロゼに話しかける。この航海の数日前に行われ、大成功に終わった彼女のコンサートのことを話しているのだろう。ロゼは鈴を転がすような声で、婦人に感謝の言葉を返す。

 

「ありがとうございます。楽しんでいただけて嬉しいですわ」

 

「ロゼお嬢様!先日のコンサートで使われたバイオリン、実は私も持っているんです!」

 

今度は別の婦人が手を挙げ、やはり興奮した様子で話しかけてくる。どうも彼女は、同じ型の楽器を使っていたことでロゼに親近感を抱いているらしい。

 

「そうでしたのね、あのメーカーの職人さんは素晴らしい仕事をすると評判ですし、使い込めば使い込むほど音色に深みが出るのでわたしもとても気に入っていますの」

 

「そう!そうなんです!それで、私あのバイオリンを演奏するのが楽しくて……ああ、いつかロゼお嬢様の演奏と合わせてみたいわ!」

 

婦人はきらきらと目を輝かせてそう言った。周囲にいた他の婦人たちも、興奮気味に同意の声を上げる。それは傍目から見れば、まるでアイドルに熱を上げるファンのようだった。

 

一通りロゼとの歓談を楽しんだ淑女たちは「やっぱり笑顔が素敵ですわね」だとか「あのロゼ様モデルのバイオリン、再販しないのかしら?」などと口々に感想を述べながら、パーティーの喧騒の中へと還っていく。

 

「お嬢様、そろそろ休憩されてはいかがですか?」

 

取り巻いていた人々が去っていったタイミングでロゼにそう声をかけたのは、彼女の執事であるレオンハルトだ。

 

黒いモーニングスーツに、色素の薄さを感じさせる白銀色の髪。淡いブルーの瞳。すらりとした体躯も相まって、その外見はどこか絵画に登場する貴族のような気品を感じさせる。─ここだけの話ではあるが、ロゼに親しく話しかける女性陣の中には、レオンの隠れファンもいるのだ。

 

「あら、そんなに話し込んでいたかしら?」

 

「パーティーが始まってから、1時間ほど経ちました。来賓の方やファンとの交流に熱心なのは良いことですが、そろそろお食事を楽しまれてはいかがでしょう?」

 

「それもそうね。あちらのテーブルでいただきましょうか」

 

ロゼは笑顔で頷くと、レオンのエスコートを受けてテーブルの方へと移動し始める。

 

「パパもこの船に一緒に乗れたらよかったのに……」

 

ロゼのエメラルド色の瞳が、ほんの僅かに寂しそうに曇る。

 

「お嬢様、ご主人は本日どうしても外せない会議があり─」

 

「……いいのよ、レオン。パパはたくさんの人に関わる大事な仕事をしているもの。それに、レオンが一緒にいるから寂しくないわ」

 

ロゼはそう言って微笑む。その表情には父親、そしてレオンに対する深い信頼と愛情が感じ取れた。

 

「光栄なお言葉です、お嬢様」

 

「……明日の朝にはもうラコルトに着くのよね」

 

窓の外を眺めながらロゼが呟く。日没を迎えた外はすっかりと暗くなり、空は瑠璃色と橙色のグラデーションを見せていた。

 

「お嬢様にとっては3年ぶりでしょうか」

 

「ええ、あっという間だったけれど─でも、とても楽しい留学だったわ」

 

本当に、と口にするロゼの横顔からふと笑顔が消える。

 

 

 

「……ねぇレオン、わたし……成長したわよね?」

 

幼い子供が親に問いかけるような、不安と期待が入り混じった声。レオンは小さく溜め息を吐く。

 

「お嬢様。その質問は、この船に乗ってからだけでも24回目です」

 

「だって、自分ではわからないんだもの!

 

留学している間、わたしには勿体ないくらい素晴らしいステージに何度も立たせていただけたし、最初は言葉も通じなかったけれど……学校の友達だってたくさん出来た。色んな国のファンの方とも出会えたし、世界中にはまだわたしの知らないことがたくさんあって、色んな人がいるんだって学んだ。12歳の頃にはできなかったことが、今はできるようになっているのはわかってる。

 

だけど、ラコルトに戻るとまた……あの頃のわたしに戻ってしまうんじゃないかしら?」

 

ロゼは思い返していた。

 

留学前の初等部六年生の頃。父が代表を務めるミネルヴァ財団が経営する児童養護施設で、引き取り予定の児童を乗せた公用車が交通事故に遭い、その児童が行方不明になった。

 

この事故によってミネルヴァ財団は世間から大きなバッシングを受け、その余波は代表の娘であるロゼ自身にも及んだ。

 

教室内で好奇の目に晒され、廊下を歩けば学年もクラスも関係無しに誰もがヒソヒソと噂話をする。

 

友人だと信じていたクラスメイトも、いつの間にかロゼから離れていった。

 

学校へ行くことが苦しくて堪らなくなり、送迎の車の中で不調を訴えて家に引き返すことが増えた。

 

父から留学の提案をされたのは、本格的に学校を休み始めて10日が経過した時のことだった。

 

(私が留学した後、事故が施設側の責任ではないと証明されたのは知ってる。財団は世間の信頼を取り戻せているし、パパの活動を支援してくれる人が増えたことも。でも……)

 

それでも、ロゼの中のラコルトは3年前の記憶のままだ。

 

「お嬢様」

 

レオンの声に、ロゼは顔を上げる。

 

「……大抵のゲームでは、敵から攻撃されればHPが減り、攻撃をするとMPが減りますよね」

 

「……ええ、そうだけど……?」

 

レオンは何かを伝える時、ロールプレイングゲームに物事を例えて話すことがある。今も何か自分に言いたいことがあるのだろうと思ったロゼは、レオンの方に身体を向けた。

 

そんな反応を確認してから、レオンは淡々と説明する口調のまま続ける。

 

「これらはアイテムを使ったり、何らかの手段で回復しない限りは減り続けるものです。……ですが、ほとんどのゲームで、増え続けるけれど減ることは決してない数値があるのです。何だかわかりますか?」

 

「減ることは決してない……」

 

ロゼはレオンの言葉の意味を考えてみる。

 

(減ることはないけれど、増え続けるもの………)

 

「……ね、年齢?……って、多分違うわよね」

 

ロゼは少し考え込んだ後、自信無さげに答えた。

 

「いいえ、ほとんど正解と言っていいでしょう。正解は経験値とレベルです」

 

レオンは無表情のままだが、心なしかいつもより柔らかい声で続ける。

 

「もしお嬢様がこの先再び世界を恐ろしいと感じられたとしても、12歳の頃のお嬢様に戻ることはありません。

 

お嬢様はこの3年間、見知らぬ土地で多くの経験を積まれました。言葉の壁を越えて得られたご友人、バイオリンの師との出会い、ステージで受けた拍手。

 

それらは全て、過去のあなたではなく、今とこれからのあなただけが持つ誰にも奪われないものです」

 

嵐の直前のように騒めきだっていた心が、すっと凪いでいく。ロゼはレオンの目を見つめながら、彼の言葉に耳を傾けていた。

 

「あの日─お嬢様が『学校に行きたくない』と仰られてから、私とご主人は何よりもあなたの心の安らぎを第一に考えておりました。

 

留学という新たな環境への移行が、逆にプレッシャーとなるのではないかとも懸念しました。

 

ですが─今のあなたを見て、私たちの決断は正しかったのだと確信しています。お嬢様は今回の冒険で間違いなくレベルアップされました。近くで見ていた私が保証致します」

 

「レオン……」

 

その言葉一つ一つが、乾いた地面に降る慈雨のようにロゼの心を満たしていく。救われたような気持ちで胸がいっぱいになり、自然に笑みが浮かんでくる。

 

「ありがとう……レオン」

 

彼女は静かに礼を言うと、再び視線を上げて微笑んだ。その目には僅かに涙が滲んでいたが、レオンにはそれが彼女の心の澱を洗い流した証なのだと感じ取れた。

 

「ラコルトでの進学先に聖フローラ学園の高等部を選ばれたとお聞きした時は正直驚きましたが……今のお嬢様であればどんなステージであってもあなたらしく在れるはずです。私に出来ることがあればいつでもお申し付けください」

レオンの言葉に、ロゼは笑顔で頷いた。そして、彼女は何か思い出したように「あっ」と声を上げる。

 

 

「あら、いい香り。あっちでステーキを焼いているのかしら?レオンも何か食べる?」

 

「いえ。私は後程軽いものを頂きますので、お嬢様はどうぞお召し上がりください」

 

「あら、家じゃないんだからいいじゃない。だってレオン、お肉好きなんでしょう?」

 

「それは……確かにそうですが」

 

歯切れ悪そうに答えるレオンを見て、ロゼは悪戯っぽく微笑む。

 

「じゃあ決まり!行きましょう!」

 

ほらこっちよ、とレオンの手を引くロゼは、先ほどまでファンの前で優雅に振る舞っていた令嬢と同一人物とは思えないほど、無邪気な少女のようだった。

 

それでもレオンは内心、ロゼの楽しそうな様子に少しばかりの満足感を抱きながら、彼女に導かれるままにディナー会場へと向かっていく。

 

 

 

しかし、その時。

静寂を切り裂くように、船上全体に警報が鳴り響いた。

 

「……あら?」

 

突然のことに驚き、ロゼは周囲を見渡す。

 

「─っ、お嬢様!」

 

レオンが突然、ロゼの手を強く引いて抱き寄せた。次の瞬間、突如として轟音が響き渡り、船が大きく揺れ動いた。ガラスが割れる音が聞こえ、あちこちから乗客たちの悲鳴が聞こえ始める。

 

「きゃあっ!?」

 

体勢を崩しかけたロゼだったが、レオンの腕によってしっかりと支えられていたおかげで転倒は免れる。

 

「な、何?何が起こったの?」

 

「分かりません、ですが私から離れないで」

 

レオンが真剣な表情でそう告げ、ロゼは頷く。周囲では乗客たちがざわめいており、不安気な表情を浮かべていた。

 

「ロゼお嬢様!レオンハルトさん!」

乗組員の制服を着た男が二人のもとに駆け寄ってきた。

「何があったの?」

 

ロゼが尋ねると、男は緊張した様子で、しかし周りの乗客に聞こえないように小声で答えた。

 

「何かがこの船に接近した可能性があります。只今の揺れは衝突によるもので、海洋生物によるものなのか、何者かが意図的に起こしたものなのかはわからない状況です」

 

「何者かが……?」

 

レオンの青い瞳が、僅かに鋭くなる。

 

「意図的に攻撃された可能性があるってことなの……?一体何のために……」

 

声を潜めながら、ロゼは聞き返す。

 

「まだそうと決まったわけではありませんが……悪天候で視界が悪く対象の特定は難航しています。まずは乗客の安全確保が最優先ですので、早急に避難誘導を行う次第です」

 

「分かりました。引き続き業務にあたってください」

 

レオンがそう言うと、男は一礼して去っていった。

見れば他の乗組員たちも乗客を避難誘導し始めているようだが、普段の避難訓練で想定されていない状況下のためか動きが鈍い。乗客たちもパニックに陥っており、なかなか避難誘導は上手くいかない様子だった。

 

「お嬢様、私たちも……」

 

避難しましょう、とレオンが言い終える前に。ロゼは声を張り上げてざわめく乗客たちに向かって叫んだ。

 

「皆さま、この船では緊急時に各マスターステーションへ集まっていただくことになっております!今からスタッフがご案内致しますので、どうか慌てずにお集まりください!状況に関しましては改めて船長からございますので今しばらくお待ちを!!」

 

※マスターステーション…クルーズ船等で緊急の集合場所として定められているパブリックエリアのこと。一般的には階やエリアによって数か所に分かれる。

 

 

船内に凛とした声が響く。ロゼの声を聞いた乗客たちは誘導された場所に向かってぞろぞろと移動を始める。乗組員たちも、それぞれ自身の役割に集中し直すことが出来たようだ。

 

落ち着きを取り戻し始めた船内を見て、ロゼはふぅと息を吐く。

 

「お嬢様、我々も向かいましょう」

 

「いいえ」

 

ロゼはレオンの言葉を遮って、首を横に振った。

 

「この船のオーナーはパパよ。その娘が乗客の皆さんの安全が確認出来ていないのにのうのうと避難するなんて……逃げ遅れた人がいないことを確認するまで、ここを動くわけにはいかないわ」

 

ロゼは毅然とした態度で答える。それを聞いたレオンは一瞬逡巡する様子を見せたが、すぐに頷いた。今までの経験上、こうなったロゼはなかなか譲らないことを知っているからだ。

 

「……承知しました。ですが、決して私から必要以上に離れないようにしてくださいね」

 

「ありがとう。レオンも気を付けて」

 

レオンは小さく頷き、乗組員の誘導作業を手伝い始める。ロゼもまた、乗客たちの誘導と人数確認に加わろうと動き出そうとしたのだが─

 

ードォオオオン!!

 

再び、耳をつんざくような衝撃音が響いた。船体が激しく揺れ動き、テーブルは薙ぎ倒され、食器が割れる。

一度はロゼの鶴の一声で冷静さを取り戻していた乗客たちは再びパニックに陥り、悲鳴や叫び声があちこちから聞こえてくる。

 

慌てて逃げ惑い転倒する者。

泣き叫ぶ小さな子ども。

困惑する老人。

混沌とした状況下で感情を押し殺しながら、冷静に職務を全うしようとする乗組員たちの顔。

 

その光景を見たロゼは、静かに目を閉じ、深呼吸を繰り返す。そして再び目を開くと、彼女は人々に向かって大声で呼びかけた。

 

「皆さま!どうか落ち着いてください!!」

 

それでも乗客たちのパニック状態は収まらない。ロゼは一瞬躊躇するものの、怯まずに続けた。

 

「皆さま、慌てないで!!乗組員の指示に従ってください!マスターステーションにはここにいる皆さま全員を収容できる広さがあります!まずは落ち着いて、冷静に行動してください!」

 

ロゼのよく通る声も、喧噪と悲鳴で掻き消されてしまう。彼女の声が届く範囲の人々は耳を傾け指示に従って乗組員のいる方へ向かっている者もあるが、全員に行き渡ることは期待できない状況だ。

 

(どうしたら……!)

 

乗客たちのパニック状態を見て、ロゼの心に焦りが生まれる。このままでは、船に何かが起きる前に乗客たちの中から怪我人が出るかもしれない。

 

その時だった。

 

 

 

『─乗客の皆様、先ほどの大きな揺れは海洋生物との接触によるもので、現在状況を確認しております。安全のため、速やかにマスターステーションへ避難していただくようお願いします。乗組員が皆様を避難誘導いたしますので、冷静な行動をお願いいたします。繰り返します─』

 

船内のスピーカーから壮年の男性による音声が響き渡る。恐らく、状況を鑑みた船長からの指示だろう。それを聞いた乗客たちはようやく、少しずつ冷静さを取り戻し始めたようだ。

 

落ち着きを取り戻した人々は、各々のマスターステーションへ向かう列を形成し始める。乗組員たちはそれを見て安心したような表情を浮かべ、誘導作業を再開し始めた。

 

「お嬢様……」

 

レオンが心配そうに声をかける。

 

「大丈夫よ。皆さまの安全を第一に考えて行動しましょう」

 

ロゼがそう答え、再び避難誘導を再開する。レオンも頷いてから、同じように行動を再開しようとした時だった。

 

「ママーっ!!」

 

 

雑踏の中で小さな子供が泣き叫んでいる。ロゼが振り返ると幼い少女が一人で泣いていた。赤いワンピースに、肩までの長さの茶色い髪。先ほどのパニックの中で母親と逸れてしまったのか、ほとんどの人がマスターステーションへの移動を始めている中でその少女は立ち尽くし、泣きながら母親を呼び続けている。

 

「大丈夫?ママと逸れたのかしら?」

 

ロゼは少女のそばまで駆け寄り、優しく声をかける。少女は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに涙で濡れた顔を上げて答えた。

 

「ママ……っ、ままぁ……!」

 

少女は泣きじゃくりながらロゼに抱きつく。不安と恐怖に包まれた彼女を安心させるように、ロゼは少女を優しく抱きしめ返し、背中を何度かトントンと叩く。しばらくそうしている内に、彼女は少し落ち着いたようだった。

 

「急にひとりになってびっくりしたわね……でも大丈夫よ。心配しないで?」

 

「うん……」

 

少女は小さくうなずいた。避難の列が形成され始めたばかりの今ならば探し出せるかもしれない。そう判断したロゼは少女に言う。

 

「あなたのお名前は?」

 

「ローズ……」

 

「素敵なお名前。さあ、一緒にママのところへ行きましょうね。ローズ」

 

ロゼは微笑みながら少女に語りかける。ローズと名乗った少女は、涙目になりながらコクリと頷いた。

 

「お嬢様、この混乱で人を探すのは……」

 

「逃げ遅れた方がいない限り、ここにいる皆さまはマスターステーションへ向かっているはずよ。この子のママもきっとそこに……!」

 

レオンが心配そうに声をかけるも、ロゼは真剣な表情でそう告げる。

 

「しかし……」

 

「ロゼお嬢様、今よろしいでしょうか?」

 

避難誘導をしていた乗組員のひとりが、ローズを抱きかかえているロゼに声をかける。

 

「どうしたの?」

 

「たった今、マスターステーションAからお子様と逸れた女性のお客様がいると報告がありまして。5歳で赤いワンピースを着た茶髪の女の子だと……」

 

乗組員の話を聞いた瞬間、ロゼとレオンは顔を見合わせた。完全に、ローズの特徴と一致していたからだ。

 

「ありがとう!今すぐステーションAに向かうわ!あなたは他の皆さまの避難誘導に戻って!」

 

ロゼは乗組員にお礼を言うと、ローズを抱えてステーションAに向かって走り出した。

 

「ロゼお嬢様、お待ちください!」

 

レオンは慌てて後を追う。乗組員は呆気にとられたもののすぐにハッと我に返り、無線で他の乗組員たちに少女がステーションAに向かっていることを伝えた。

 

「どなたか!どなたか女の子と逸れたお母さまはいらっしゃいませんか!?」

 

マスターステーションA前通路。

 

ロゼが声を張り上げて呼びかけると、ステーションへ向かう人込みの中から一人の若い女性が逆走してきた。

 

「ローズ!!」

 

女性は大声で叫びながら、髪を振り乱して辺りを見回す。どうやら彼女が少女の母親のようだ。

 

「ママっ!」

 

ロゼに抱き上げられていたローズが声を弾ませて叫ぶ。女性は娘の姿を見つけると、一目散に駆け寄った。

ローズも床に下ろされると同時に女性の元へと走り、その腕の中に飛び込む。

 

「ああ!無事で良かった……!!本当に……、本当にありがとうございます!!何とお礼を言ったらいいか……」

 

母親は娘を抱きしめて涙を流しながら、ロゼに何度も頭を下げて感謝の言葉を述べた。

 

「いえ、わたしは何も……お礼は乗組員に伝えてください。さあ、皆さんもう避難されていますから急いで」

 

ロゼは二人をステーションへ続く通路へと誘導する。道の途中に立っていた乗組員はロゼと親子に気付き、ロゼに軽い会釈をするとそのまま引き継ぐように親子を送り届けた。

 

「一瞬、肝が冷えましたよ」

 

レオンが少し呆れた様子で言った。

 

「ごめんなさい、でもあの子が泣いているのを見ていたら放っておけなくて……」

 

ロゼは困った表情で答える。

 

「お優しいところはお嬢様の長所ではありますが……ただでさえ緊急事態なのですから、あまり無茶な行動はしないようにお願いします」

 

「わかったわ。……もう、逃げ遅れた方はいないかしら?」

 

「はい、恐らくは。見たところ、あの親子が最後だったようです」

 

レオンの言葉を聞いて、ロゼが安堵の表情を浮かべる。

 

「それにしても、一体何がこの船を……」

 

その時、船が大きく揺れ動いた。船体全体が激しく振動し、窓から外の海が急激に傾くのが見える。ロゼとレオンは体勢を崩しかけ、床に転げそうになったがすんでのところで壁や手すりに捕まって耐えた。

 

ードォオオン!!

 

「お嬢様、気をつけて!」

 

レオンが即座にロゼの体を支える。しかし、その直後、再び大きな爆発音が響いて船が揺れた。今度の揺れは先ほどよりも大きく、壁にひびが入り、天井から埃が落ち始めた。

 

「何が起きているのかわからないけれど、急いでここから……」

 

ロゼの言葉は途中で途切れた。彼女の目が広がり、恐怖で声が詰まった。

 

ードォオオン!!

 

二度目の、今度は先ほどよりも大きな揺れが二人を襲う。船体は大きく傾き、廊下に飾られていた絵画が落下する。

 

「こちらへ!」

 

レオンがロゼの手を取って走り出す。しかし、その瞬間、乗客たちが集められたマスターステーションへの入り口と、ロゼとレオンのいた廊下を隔てていた壁が轟音と共に崩れ落ちた。

 

「なっ……!」

 

壁の崩壊と共に廊下は瓦礫で埋まり、水道管に亀裂が生じたのだろうか。水柱が吹き上がり、瓦礫で道が塞がれていく。

 

避難場所への道が目の前で閉ざされ、二人は孤立してしまった。レオンはロゼを庇うようにして抱きしめながら、辺りを見回す。前方と後方、どちらも危険であることに変わりはない。

 

そんな中でふと、扉が少し開いている部屋が目に入った。

 

「お嬢様、こちらの部屋へ!」

 

レオンがロゼを引っ張るようにして部屋に駆け込み、即座に扉を閉める。入り込んだ部屋はどうやら一般客の寝室だったらしい。部屋の中にはクローゼットや棚から落下した物が散乱しており、まるで強盗が入ったかのような状態だった。

 

「お怪我はございませんか?」

 

レオンも不安そうな表情で尋ねる。

 

「ええ、大丈夫よ」

 

ロゼはそう言って笑みを見せる。しかしその表情はすぐに曇り、視線は下を向く。

 

「……ごめんなさい、レオン。わたしが皆さまを避難させるまで動かないだなんて無茶なことを言ったから、あなたまで逃げそびれてしまって……」

 

申し訳なさそうに言うロゼに、レオンは首を横に振る。

 

「お嬢様のせいではありません。あなたが先陣を切って指揮をとらなければ、恐らく乗客全員をマスターステーションへ誘導することはできなかったでしょう。人々がパニックに飲まれて、もっと甚大な被害が及んでいた可能性もあった」

 

「レオン……」

 

「お嬢様、落ち着いてよく聞いてください」

 

レオンは真剣な眼差しでロゼを見つめる。

 

「私はロゼお嬢様の執事です。これから何が起きたとしても、私があなたを守ります」

 

「……ありがとう」

 

(でも……)

 

それでは、レオンのことは誰が守ってくれるのだろう。

 

ふとそんな疑問が、ロゼの脳裏をよぎる。

 

時間が止まったかのような静寂の中で、耳鳴りのような細かい音が響く。ふと、その音が大きくなってきたことに気付いたレオンは、天井を見上げた。

 

 

 

 

次の瞬間─

 

 

 

─ガシャン!!

 

 

 

 

 

天井から突如、黒い何かが崩れ落ちてきた。軟体生物のように蠢くそれは、明らかに意思を持った生き物のように動いている。

 

 

「な、何なのこれ!?」

 

「お嬢様、下がって!!」

 

レオンはロゼを庇うように後ろに下がらせる。黒い物体は床を這いずり回り、ロゼとレオンの足元へと向かってきた。

 

「部屋の奥へ!」

 

近場にあった椅子を掴み、黒い物体に向けて投げつける。物体は一瞬後退し、その間にレオンとロゼは部屋の奥へと駆け出した。

 

「ここは危険です!移動しましょう!」

 

レオンがロゼの腕を掴み、部屋の奥にある扉に向かって走る。しかし黒い物体は二人を逃がすまいと、触手を伸ばしながら追いかけてくる。

 

(何なのこれ、タコ?イカ?)

 

しかし、こんな大きさのものは見たことがない。幼い頃に見た古いホラー映画の世界から飛び出してきたようなものだ。

 

「私の後ろから離れないでください!」

 

レオンが走りながらロゼに向かって叫ぶ。そうこうしている間にも、部屋のあちらこちらから黒い触手は無数に湧き始めていた。

 

「レオン、どうしよう!!」

 

ロゼはレオンの背後で、不安そうな声で叫ぶ。この部屋が触手で埋め尽くされるのも時間の問題だ。

部屋の窓に目を向ける。しかし窓のすぐ外には足場がなく、そこから船外に出ることはできない。

 

(そんな……!)

 

その時、ぬめりとした冷たい感触がロゼの脚に触れた。

 

「えっ?!」

 

驚いて下を見ると、ロゼの足首に触手が絡み付いていた。触手は粘液を滴らせながら、さらに彼女の脚に伸びてくる。

 

「きゃあああっ!!」

 

「お嬢様!!」

 

ロゼの脚に絡みついた触手はあっという間に身体を引き寄せ、捕えてしまった。

 

「いやっ、離して……!」

 

ロゼは触手から脱出しようと身体を捩るが、びくともしない。それどころか、他の触手たちも次々と集まり始め、ロゼの身体に纏わりついていく。

 

(何これ、気持ち悪い……!)

 

ぬるぬるとした感触に包まれ、ロゼは不快感を覚える。ドレスの生地越しにも伝わる触手の感触に、思わず表情を歪めた。

 

「ひっ……」

 

ヌルリとした感触が首筋を撫で、ロゼは思わず悲鳴を上げる。初めは足首に巻き付いていただけだった触手が太腿の辺りまで這い上がっている気配を感じ、ロゼは本能的に恐怖を覚えた。

 

「や、やぁっ……やめてっ!」

 

ドレスの裾は太もも辺りまで捲れ上がり、もみくちゃにされている内に胸元まで露わになりかけている。あられもない姿になりかけていても、ロゼはこの得体の知れない生き物から逃れることを諦めなかった。

 

「離して、ねぇ、お願いだから……っ!?」

 

拘束から抜け出そうと足掻いていたその時。

 

ロゼの全身に、未知の衝撃が走った。

 

今まで経験もしたことが無いような悍ましいものが、全身を支配していく。

自分の中の温かいものがどんどん外へ流れ出ていくような。

 

命を直接削り取られるような、恐ろしい感覚。

 

(身体に、力が入らない……何なの、これ……?)

 

それまで抵抗し続けていたロゼの身体が、急にだらりと脱力した。顔色も青ざめ、表情から生気が失われていく。

 

身体の中がどんどん冷たく、空虚に、空っぽになっていく。

 

「っ!まさか、」

 

レオンは、ロゼを捕える黒い触手からぼんやりと光が放たれていることに気付く。それは、ロゼが今まさにこの悍しい生き物の餌食になろうとしていることを何よりも物語っていた。

 

「たす……、けて……レオン……、」

 

ロゼは苦しそうに喘ぎながら、消え入りそうな声で助けを求める。虚ろになりかけた瞳は、闇に引きずり込まれそうな意識を保とうと必死に抗っていた。

 

そこには先ほどまでの動揺する乗客を誘導し、迷子の少女のために奔走した勇敢な令嬢の顔はない。

 

あまりにも不条理で圧倒的な存在の前に、少女はただただ無力だった。

 

「ロゼ、」

 

そんな主の姿を目の当たりにしたレオンは、己の内側が冷たく熱い何かで満たされていくのを感じた。

 

静謐な青を湛えていた瞳の奥にぐらりと陽炎が揺らめき、深紅の炎が燃え始める。

 

 

 

 

 

 

 

「─お嬢様を離せ、この外道が」

 

低く唸るようなレオンの声に呼応するように、彼の周りの空気が瞬時に凍り付いた。先ほどまで聞こえていたはずの風や波の音は消え去り、静寂と冷たさだけが部屋を支配する。

 

その一瞬の沈黙ののちに響いたのは─ザンッ!!と肉が裂けるような音。

続いて、何かが崩れ落ちるような音が部屋に響いた。

 

同時に、ロゼはそれまで自分を支配していた恐ろしい感覚と無数の触手から解き放たれる。

 

縛りつけていたものが解けて重力に引かれた身体は、床に叩きつけられる寸前に優しく抱き留められた。

 

 

 

 

「お嬢様、お嬢様しっかりなさってください!」

 

「……、れお……!?」

 

レオンの呼びかけで意識を取り戻したロゼは、己の視界に映り込んだ光景に目を疑った。

それまで自分を捕えていた黒い触手が、八つ裂きになって部屋の床上に散らばっている。それらはしばらくびちびちと藻掻くように動き回っていたが、やがて蒸発するように消えていった。

 

しかし、それよりも何よりも。

 

ロゼを抱きかかえるレオンの右腕は─彼女の見知ったそれとは全くの別物だった。

全体を白銀の毛に覆われて、爪は人間のそれよりも遥かに鋭く、大きい。

 

 

 

まるで獣の前脚だ。

 

 

「レオン、あなたの腕……」

 

ロゼが言いかけたその時、切り裂かれなかった触手の一本が、レオンを目掛けて振り下ろされる。

 

「お嬢様、下がって!」

 

レオンはロゼを床に下ろし、咄嗟に左腕でそれを受け止める。そしてすかさず鋭い爪を触手の表面に食い込ませると、そのまま引き裂くようにして触手を引きちぎった。

 

立て続けに他の触手も二人の方へ襲いかかるが、レオンは次々にそれを打ち払い、切り裂いていく。

 

時折腕から仄かな光が放たれているが、ロゼにはそれが一体何なのか見当もつかない。しかし、確かにレオンは触手をなぎ払いながらロゼを守っていた。

 

やがて、部屋中を埋め尽くしていた黒い物体は徐々に減り始め、とうとう部屋の中を取り囲んでいたものは全てレオンの手によって全て八つ裂きにされて消えていった。

 

再び、嵐が去ったかのような静けさが室内に戻る。

 

「レオン……?」

 

戸惑いと、ほんの少し畏怖を含んだ声でロゼが呟く。

 

「ロゼお嬢様……今まで真実を隠していたことをどうかお許しください」

 

ロゼの方を振り向かないまま、レオンが謝罪の言葉を述べる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は─この世界の人間ではありません」

 

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