「──アザレア様。本日も誠にありがとうございました。今年もまた豊作が期待できるでしょう、みな喜んでおりました」
背後からの声を聞き、アザレアはゆっくりとした所作で振り返る。
指先にまで意識が行き渡っているような滑らかな仕草だった。立てば芍薬とはまさしくこのためにあるような言葉。──と『エマ』が褒めてくれた所作を意識しながらの振る舞いはもう慣れたものだった。
振り返った先には歳を取った司祭の一人がニコニコと満面の笑みを浮かべている。
合わせて涼しさすら感じさせる微笑を、アザレアは表情に滲ませた。
「いいえ。私は、私がすべきことをさせて頂いているまで。皆さまの信仰があればこその賜物でしょう」
「そのような……。アザレア様は、昔から変わらず謙虚でいらっしゃる」
「これも神のお力があればこそ。しかし、くれぐれも──」
「はい、誰にも申しません。アザレア様を筆頭に『使徒』の皆様が『不老の加護』を受けていらっしゃることは、断じて口を割りません」
「よろしくお願いします。それが、『今は亡き』エマ様の願いですから」
「聖者様の願い、この老体に改めてしかと刻みつけました」
力強く頷いた司祭に、頷きを返してその場を去る。
向かうのは司祭でも立ち入りを禁じている、『使徒』だけが入る事が許された区画。
素足が石畳を踏む音がしばし鳴り響き、そして地下深くにまで根差すように掘られた一室を遮る、重厚に閉ざされた扉がアザレアの前に姿を現した。
扉の前には一人の『女』が立っていた。
歩き近づくアザレアの姿を認めて、微かに頬を皮肉げに歪める姿は隔意を感じさせる。それに構わずアザレアは声をかける。
「今日は、あなたが担当でしたか。──ヒステリア」
「えー、あなた様は、どなたでしょう?」
「……」
「くす、冗談ですよ、冗談。そう怖い顔をしないでください。主席使徒様のことを忘れる訳ないじゃないの。ねえ、アザレア様」
「様は不要です。同じ立場ですから」
「そうですね、表向きは同じ立場だもの。羨ましいです、もう内臓を食べる必要がない身体なんて」
内臓を食べる必要のない身体。
アザレアを含む上位の使徒だけが持ち得る特質だった。
だが、アザレアはその指摘に怪訝を覚えて問いかけた。
「……あなたは、どちらかといえば、より多く食べたいと望んでいたのではありませんでしたか?」
「そうですよ? だから、羨ましいのよ。だって、そんな『人間と同じ食事で生きられる状態』にまで至るなんて……。──今までにどれほど『彼の方』を食べてきたのですか?」
「……」
「ふふ。責める気持ちはないの、本当ですよ。でも、嫉妬はしちゃう。──私なんて『彼の方』と話したことすらないんだから」
「まるで、ロクサーヌのようなことを言うんですね」
「え? それは、さすがに酷いと思うけど。あんなに気持ち悪くないわよ。──あ、ロクサーヌといえば、またカサンドラと喧嘩していましたから、ルテーシアとシスティーナが仲裁に入ってたことだけ報告しておきますね」
「あの二人には、もう少し仲良くしてほしいですね……」
「無理無理。殺し合いになってないのが不思議なくらいですから。これも『彼の方』のご威光ですね」
「そう、ですね。──それより、良い加減そこを通して貰っても構いませんか」
「あら。──大変失礼しました。どうぞ、お通りください」
慇懃な態度で頭を下げるヒステリアの脇を抜けて、閉ざされた扉を押し開ける。
人間には到底動かす事が不可能な重さの扉も、覚醒者であるアザレアにとっては軽すぎるほどだった。
扉を通り過ぎて居並ぶのは、無数の生首の群れだった。その数は優に百を超えるだろう。
ひんやりとした空気が漂う中、整然と、しかし所狭しと通路に安置された台座に沿って並べられる女たちの生首が、瞼を閉じてアザレアを迎え入れる。
そして。
アザレアを最奥で迎えるのはあの日から変わらずに在る、アザレアの主人の『成れの果て』だった。
──その姿を、一言で言い表すなら『肉樹』だろう。
脈打つ血色の大木。枝から垂れ下がる、心臓が如き脈動する肉袋たち。中身に詰まっているのは覚醒者からすれば垂涎の内臓たちだった。
一目見るだけで、それが異形のものであるとすぐさま理解できる姿。
それでも、かつての面影は辛うじて残っていた。
幹の中央に、まるで磔にされた神の如く両手を左右の枝に取り込まれ、野太い幹から人間の胴体を生えるのは、かつてエマニュエルと呼ばれていたアザレアの主人に酷似した姿だった。
その胴体の先端にある頭部は首を逸らしており、頭頂部は幹に接続されているから、その表情は否が応でもよく見える。
天を仰ぎながら瞼を閉じて、艶やかな黒い長髪を垂らす姿はゾッとするほどに美しい。
あの日から何の変化を見せることもなく、自ら進んで捧げられた生贄の如き静謐さを宿していた。
その事実に、心臓に突き刺さる哀愁を覚えながらアザレアは膝を折って両手を祈るように重ねる。
神におもねるシスターの如く、アザレアは首を垂れて目を閉じた。
「……エマ様。今年も礼拝を終えました。今年で77回目になります。あなたが記したほぼ全ての知識を民たちに与えられたと、そう思います……。もちろん、私たちのことは、教えられていませんが」
自嘲気味にアザレアは笑う。
「エマ様。どうして、どうして」
その言葉は、この数十年幾度も繰り返してきた問い。
赤子が縋り付くように、アザレアは肉樹を見上げた。
「──あの時、覚醒してしまわれたんですか?」
物言わぬ肉樹と成れ果てたエマニュエルは、今回もその問いには答えず、沈黙だけが一室に広がった。
──懇願するように澄んだ端正な顔を、アザレアは当時を思い出すことで歪めた。
テレサと呼ばれる、当時は少女の、現在では組織のナンバー1である女を思い出す。
エマニュエルが、全てを背負い覚醒に至る覚悟を決めさせてしまった、憎むべき女のことを。
次回更新迷っています。