※グロ注意
「──リフルの情報を与えて、遠方から観察する。組織のやりそうな事だ」
アザレアの眼前。
絶望が、そこには立っていた。
ゆったりとした歩みで近づいてくる。
彼女──いや、彼が滲ませて背負う、可視出来るのではないかと思うほど莫大な妖力。
どうやってこれほどの妖力を隠していたのか。
あまりにも規格外な妖力だった。
戦意など抱きようもない。
震える両手で握りしめる大剣が、これほどまでに頼りなく思える日が来るとは思いもしなかった。
──エマニュエル。
リフルを下し、覚醒すらせずに深淵を超えた者。
そんな怪物が目の前に立っている。
組織の目である自分を排除するという、明確な目的を持って。
──こんなことなら、こんなことなら了承しなければ良かった。
アザレアが震えながら思い出すのは、半人半妖となって訓練生としての日々を過ごす中での事だった。
『色付き』とまでは行かないが、アザレアに戦士の素質はほとんどなかった。
妖力だけは並み以上であった。
リフルとまでは行かないまでも相当量を誇ったが、戦いのセンスが致命的に欠如していた。組織はとにかく幼い少女を拾っては半人半妖と化しているために、中にはそんな戦士も存在した。
そんな自分が生き残れる方法はないかと探して、辿り着いたのが妖力感知だった。
死ぬのが恐ろしかった。
だから、瞼を縫い精度を上昇させてみる、というキチガイ染みた組織の提案に了承してまで妖力感知で実績を出して、生き残る術を見つけたと思った。
──安堵した。
戦いに駆り出されることも少ない立場であるから、みんなよりも長生きできるかもしれない。
そう思う事に罪悪感を刺激されながらも、この立場を捨てることは出来なかった。
だが、そうまでして守った立場のせいで。
いま、自分は死にかけている。
あんまりではないか。
何をしたと言うのか。妖魔に襲われて、孤児になって、黒服に拾われて、生きるために仕方なく半人半妖の戦士となった。
その後も流されるままだ。流されて、流されて。
その結果が、こんな死に方。
あまりにも情けなくて涙すら溢れる。
忸怩たるこの気持ちを、誰かに知ってもらう事すらなく塵のように死に絶える。
流されて、流されて、最期は野晒に捨て置かれた己が微風にすら流されて風化していく。
そんな陳腐な死に様。
イヤだ。そんな死に方はイヤだ。
せめて死に方くらいは自分で選びたい、と。
今際の際だからかもしれない。
思考の煌めきだった。あるいは『自暴自棄』か。
「……イヤだ」
流されるから、他人に良いように使われる。選択肢を相手に委ねるから望んだ死に方すらできない。
生き残るために『何でもする』というなら手段を選んでいる場合ではない。
アザレアは、この土壇場でようやくその事に思い至って。
──自分が唯一無二の解決策を持っている事に気がついた。
悲痛な決意と覚悟を胸に秘めて、アザレアは全力で妖力を解放させた。
「あ、が。──がぁああああ!!」
「おいおい、随分と好戦的だな。会話でもしようかと思ったんだが、それもなしか?」
「ウルサイ、ダマレ……! ワタシは、モウ、ダレかに使われるノハ、イヤだ……!」
「……」
同意するかのような沈黙にも、アザレアはもう応じない。
骨と肉体が軋み、異音を奏でる身体が次々に覚醒への階段を駆け昇っていく。
10パーセントを容易に通り越し、30パーセントの顔つきの変化を迎え、そして50パーセントの身体つきの変化が訪れる。
数段飛ばしで突き進む姿を前にしても、エマニュエルはただ沈黙で待つだけだった。大剣を地面に突き刺して静かにこちらを見据えてくる。
──覚醒者など、物の数ではないと言いたげな佇まい。
そのまるで動揺した様子のない澄んだ黒眼に絶望的な戦力差を改めて実感して、もっと力が欲しいと脳裏で暴走した思考が訴えかける。
もっと。もっと。もっと。もっと! もっと!!
白熱するアザレアの脳裏では、力への渇望だけが蠢いていた。
だが、ほんのりと僅かな抵抗があった。
変質していくかのような恐怖に慄きながら、自分でも気が付かない内に一筋の涙を流していた。
──覚醒とは、精神的な作用が大きく影響する。
『深淵』と冠する者がその時代のナンバー1として、戦士たちを牽引した誇りと重積を一手に担った末に産まれ出る怪物であるのと同意義。
戦士時代の戦闘スタイルが覚醒後にも引き継がれるように、思想と精神的な作用は覚醒体に重大な影響を及ぼす。
であるならば。
圧倒的に格上であると認める絶望を前にしながら、尚且つ自らの人生で初めて選択し、禁じ手である覚醒をしてでも生き残りたいという強い情念を持ち得て至った覚醒者。
それも資質だけならばリフルに追従するほどの妖力を誇る者が、全てを投げ打って生存という目的のため覚醒したのならば。
それは果たしてどれほどの者に至るであろうか。
──その回答が顕現する。
湧き立つような妖力の中心で、蠢くような声が響いた。
「ああ。とっても良い気分……。全部、全部、喰らってしまえそうです」
その姿は、果たしてどのような精神的な作用が働いたのか。
自らの卑下する意識が導いたのであろうか。
彼女は、強いて一言で言い表すならば『蝿』の姿をしていた。
自らは格下であると認めながらの覚醒。
生存のために至った覚醒。
エマニュエルが、リフルに内臓を食わせてやっていたと観測していた事もその姿に至った一因かもしれない。
──あるいは、お前の死肉に集ってやるという強烈な意志か。
テラつくような複眼がエマニュエルを捉えた。
「──なるほど。『その目』はよく見えるのか?」
「ええ、とてもよく見えます……。いままで視界を塞いでたのがバカみたいに、綺麗な世界ですよ」
「おっと、その中心に立つのが私か? そんなにストレートに褒められると照れるな」
「本当に、減らず口がお上手ですね」
本気で照れた様子だった。
赤くなった頬を掻くエマニュエルに苛立ちが募るが、それも奴の術中であると先刻の観測から予想して務めて冷静さを維持する。
「あなたの戦い方は、観察していました。容易に勝てるとは思わない事ですね」
「……面白い。その覚悟に免じて真面目に相手してやる。──御託は良いから、掛かってこい」
大剣を持ち上げ、アザレアに鋒を差し向ける。
手招きするかのように微笑を浮かべるその姿に、ハエの顔をニィと歪めたアザレアが飛ぶ。
そして、無数に分裂した。
目を驚きに見開いたエマニュエルに向かって何千、あるいは何万の無数の蝿となってアザレアは飛翔する。その一つ一つに強烈な殺意が籠っている。
ブゥンと鳴る羽音が不気味に響き渡り、エマニュエルに殺到した。
大剣は、大型の敵に相対するものである。
故に小型の、それも数万という膨大な数の蟲を相手するには当然ながら向いていない。
『あなたは! 圧倒的に強い。それは認めましょう! ですが、戦いには向き不向きというものがあることを、私が教えてあげましょう!』
凄まじい勢いの大群が複眼に食欲を漲らせて飛ぶ。
濁流のような虫の群れは肌が泡立つほどに悍ましい光景だった。
「……蟲は得意じゃないんだが」
言いつつ、冷徹な眼差しのエマニュエルが大剣を振るう。
しかし、風圧で吹き飛ばすにしてもあまりの数に押されざるを得ない。その場から退きながら大剣を操る姿はさすがの技量ではあるが、徐々に徐々に虫の群れに押し込まれている。
『ははは!! どうですか! これが私の力です!』
肌に取り付けば、本来の蝿にはない鋭利な牙が皮膚を食いちぎるだろう。そして一度食い付けば千切れるまで離さない。
覚醒仕立てということもあって、強烈な飢餓感を抱く蟲たちの『口撃』は苛烈なまでに執拗だった。
幾匹かの蟲がエマニュエルの肌に取り憑く。
それをキッカケに凄まじい数の蟲が全身を覆い尽くしていく。
──出来上がったのは、悍ましい黒い塊。
グチュグチュと耳を覆いたくなるような音が、黒い塊の中から響いていた。
もはや脱出は不可能。このまま延々と血肉が尽きるまで食い続ければ良い。
──勝った。
自分は間違っていなかった。
そう思い、勝ち誇る満面の笑みを浮かべるアザレアの鼓膜に聞こえるはずのない声が聞こえた。
「──悪くない選択だとは思うよ」
『は?』
黒い塊が弾け飛んだ。
アザレアの異形の頬を、何かが切り裂いた。
触れた頬から流れ出る血を指で拭いとる。小さな固形物から生じた裂傷。
そして気づいた。──飛び散った蟲だ。
黒い塊であった場所にはエマニュエルが立っている。
全身を虫食いにされた痛々しい姿が、まるで逆再生を見ているかの如く凄まじい速度で再生──、いや、『創造』された。
『……は?』
「私の柔肌に触れたいのはわかるが、もう少し優しく触れてくれると有り難いね」
変わらず、エマニュエルは軽口を叩く。
呆然とするアザレアを置いて、食欲の権化となっている蟲たちが再び殺到する。
それを見て、微笑を浮かべたエマニュエルは一際鋭く身を回転させる。
──雨の如く放たれた砂粒たちが、蟲たちを撃ち殺した。
『──は?』
見れば、エマニュエルは回転しつつ砂を撒き散らし、それを大剣で弾いて飛ばしている。
それはさながら面の制圧。
小さい故に耐久面で劣る蟲の群れは瞬く間にその身体を散らしてしまった。
「お前にリスクは殆どない戦闘方法。──私にビビって覚醒した奴らしい戦い方だ」
『──』
息を呑み、湧き上がるのは動揺と恐怖。
それが表情に滲み出る中で、アザレアは急ぎ指示を出して蝿の群れをエマニュエルに殺到させ続ける。
さっきは取り付けた。ならもう一度──。
しかし、二度は同じ攻撃を喰らうつもりはないと言わんばかりに平気な顔で捌き続けるエマニュエル。
捌きながら、一歩一歩とこちらに近寄ってくる姿はさながら死神のように見えた。
『う、あ、うああああ!!!』
恐怖だった。
全身を蟲に変えて放ち続けて、ついには何も出せなくなる。
力を使い果たして人型に戻ったアザレアの眼前。聳えるようにエマニュエルが立っている。
知らず、見上げる形となったのはいつの間にか座り込んでいたからだった。
もうエマニュエルとの間を隔てる空間はない。
手で触れることが出来るほどの距離で、アザレアは地べたにお尻を着けながら俯く。
ポツリと溢すのは幼子のような言葉だった。
「……お腹が空いたんです」
「ああ」
「お腹いっぱい食べたいです」
「うん」
「内臓が、食べたくてたまらないんです」
見上げる視線は縋るようにエマニュエルを捉えていた。
「なんで、私はダメなんですか?」
その問いは、リフルと比べての言葉だった。
キョトンとした顔のエマニュエルが顎に手を当てて首を傾げた。
「……マズいぞ?」
「それでもいいです」
「ん?」
認識の違いだったのかもしれない。
美味くなければ食べてもらえない。そう思い味の向上に長年務めてきたのだ。
だから、マズいのに食べたがるとはエマニュエルの予想の外だったが、食べたいというなら拒否する理由もない。
「マズくて悪いが、腹一杯食わせてやる。──だから、安心しろ」
不安に染まるアザレアの表情を見たからだろう。
まるで聖母の如く、覚醒者という正真正銘の化け物となったアザレアの頭部を優しく撫ぜる。
その手に誘われるまま、アザレアは名状し難い安堵に身を浸しながら、瑞々しい血色に艶めく内臓を、存在の格が自分よりも圧倒的に上の存在から齎される精神的な極上の一皿を、心からの歓喜と共に貪り食った。
──いつまでも、いつまでも、いつまでも。
その無限にも思える食欲が、収まるまで。