「振られちまいやしたね、おにぃさんや」
突然、背後からクスクスと上品に笑う、甘ったるくも男を誘うような京都弁を振う声が聞こえてギョッとして振り返る。後ろの背面席に座っていた女性の姿があり、身体を反るようにしてこちらへと見上げてきて、クスクスと愉しそうに笑っていた。
「すいやせん。聞く気はなかったんどすが、聞こえて来やして」
体を反った際に……その、女性の女性たる所以が、立って見降ろす態勢の俺視点だと大変豊かな二つの山が揺れ動くもの。
豊かな恵みに視線が行ったが、すぐに邪な感情は消え失せた。山の下に存在したもう一つの大きいお山。……いや、そういうとデブで萎えたみたいな言い回しになってしまうが、そうではなく、妊婦。
その女性は妊婦だったのだ。
顔と腹以外の肉の付き方が、全体的に脂肪が広がって増えたデブではなく、我が子を育んでいる最中の妊婦として腹の付き方。服も入院着からして出産を控えたこの病院の入院している人なんだろうすぐにわかった。
さっきまでのやり取りを聞かれていたことに少し羞恥を覚え、曖昧な笑みを浮かべつつ「すいません、お騒がせしました」とこの場を去ろうとする。
よっと、と反っていた身体を起こして元の態勢へと戻した彼女。
「追うことをせんことお勧めしやす。あの手のおなごは一度意地を張ると冷静さを取り戻すまで放っておくに限りやす。どうしても手籠めにしたかったんなら無理矢理押し倒して、男らしさで『ワカらせ』たるのも一つ手でんが、あまりお勧めせんどすえ。特にアンタさんみたいな、
遊女を思わせる言葉遣いは上品且つ人をからかい、惑わせる蠱惑的なもの。だけど内容はからかい調子に告げてくるが、今は追うな、という忠告してくれる。
まあ、今の先輩に何を言っても、逆効果であることは間違いだろう。今はそっと一人にさせて、冷静さを取り戻すための時間が必要か。
「はい、ご忠告どうも。……俺も帰るんで」
一先ずアドバイスは素直に受け取って礼だけ言い、その場を去ろうとするが、呼び止められる。
「まあ、待ちなんす。少し話をさせてけり。ウチはずっと、このきゅーくつな箱庭でいるもんで、この身体ではキセルも口付けることもできない寂しい身。たまに若い男と語り合いたいと思いんしてね。少しお相手をしてくれやんし。まあ、もっともあんさんが、先ほどの娘さんに今すぐ抱き留めたいっていう、らぶろまんすっつーのをやりたいって言うなら無理に止めやしませんが」
愉快そうにからかうような口ぶりだが、後半はともかく、前半自体要約すると『退屈』というのは本音だったんだろう。暇つぶしのための話し相手になって欲しいとのこと。
……まあ、別にいっかな。
「……俺で良ければ」
「どうも、堪忍な、おにぃさん」
ここに座りやんし、と隣の席へと座るように言われて、大人しくそこへと座る。
長い黒髪は濡れたように波をしくように垂れており、肌艶は白く美しく、唇は血のように真っ赤で男を誑かすために、弄ぶために付いているのだと思わせるもの。百人中百人が美しいと褒め称えるだろう美貌の持ち主。
榎先輩もクール系の日本の、大和撫子系の美人だが、こちらは大人の色気を纏ったタイプの遊郭に序列が高い別嬪さんというものか。
これまで会ってきた人とは異なるタイプの相手に少し苦手意識を持ってしまう。からかい上手で誑かしてくる、小悪魔な大人のお姉さん。だけどどこか品格のようなものがあって上品な美しさは近寄りがたい。けれどあちらから誘われれば素直に全ての言うことを聞いてしまいそうな気分になってしまう。
素直に話くらいしても、と思えたのはそのせい。まるで、魔性でも受けたかのような気分。
さ~て、何を話しましょうか、とのんびりと『今日のお昼は何を食べようか』といった調子で口を開く。
「少し前ならば、振られたばかりの寂しいおにぃさん相手にもさーびすたるものしてあげてやりんすたが、残念ながら今は足を洗った貞淑な一人の乙女をさせて戴いておる身。堪忍な」
「ああ、いえ。京都とかそういう所の人とかですか?」
できるだけお茶を濁した言い方。流石にお座敷仕事とかそういう台詞は言えない。お腹の子も、色々と思うことがあるが、……まあ聞けない。
だけど、俺の内心を読み取ったかのように、クスクスと愉しそうに笑いながら一言放つ。
「地獄、と言いましたら信じますか? 地獄大夫、鬼の姫。と」
「……それはまた、凄い異名をお持ちで」
……絶対、アッチ系の人だな、と確信と共に、緊張感でいっぱいいっぱいになってしまった。心臓が強く高鳴り、喉とか鼻とかが何かが競り上がってくる。
「まあ、若い男の肉なんて滅多に喰えへんどしたけど、今日はたまたまおにぃさんのような方が目の前に現れはりました。―――この縁、良縁として結びたくありませんか?」
……喰われるかもしれない。そして、喰われていいのかもしれない、と思ってしまっている思春期男子として性に負けそうになる。
…………………………でも、妊婦なんだよな!
ドキマギと大人の色香に惑わせられながら、妊婦というラインがギリギリ理性を抑えつける。と、そんな俺の内心を読み取ったのか、突然、ハハハ、と愉しそうに笑う彼女。
「冗談どすえ。そう、あっちもこっちも硬くせんと。安心してくれはれ。おにぃさんの仰々しい頭の中の妄想のようなことはありませんどすえ。若い人は元気過ぎて
「……心臓に悪い事を言うのやめてください」
冗談、と言われて、務めて冷静さを保とうと言葉を選び、苦笑して、おそらく赤くなっているであろう顔を誤魔化そうとする。
その様子が童貞丸出しで面白かったのか、クスクスと愉しそうに上品な笑みを零す。
駄目だ、この手の相手は初めて過ぎてどう対応していいのか分からない。クソ、俺がもう少し恋愛上手なプレイボーイだったら、妊婦相手でも……いや、やっぱ妊婦の人だとマジで駄目だよな。旦那さんと、生まれてくるお子さんに相手に悪すぎる。
妊婦という特性がギリギリ理性を保てていられる。
「貞淑な身となったウチでありんす、恋多き若人を引き裂くような無粋なことは致しません。が、それで何も見なかったことにするのも忍びない。ですので、ウチで良かったらさっきの娘はんとの可愛らしゅう恋愛相談なら受けますえ。ここまでただ年を重ねてきた身じゃありませんどすえ」
………まあ、色んな意味で経験豊富そうだよな。
大人の色香と上品な仕草、その手お店で働いていただろう言葉使いに、田舎育ちの学生の身で、初恋もしたことない童貞の俺とは経験はそりゃあ違うだろう。
だが。
「いえ、先輩とはそういうのではないんで」
キッパリと断っておく。俺は別に榎先輩に対して恋心といったものは居合わせていない。確かに好意的なものはあるが、それはあくまでも『先輩』として、あるいは『尊敬できる人間性』、といった具合だ。
「そう、恥ずかしいがらんと。旅の恥は搔き捨て、と言いなさります。男が別の女に愛しき女の愚痴の捌け口にするのも結構。そういうのはよぅ慣れとります」
「あ、いえ、本当にそういうのじゃないんで」
もう一度否定すると、こちらへと視線を合わせて目をパチクリとさせて、俺が言っていることは嘘ではないと伝わった様子。
「じゃあ、他に好きなおなごがいてはまりどすか?」
「いえ、そういうのも……」
これと言って好きな女の子とか気になっている娘といった類はない。
「なんや、玉無しでっか」
「そういうわけじゃないんですけど!?」
「失礼。なんや、甲斐性なしでっか」
「あまりフォローになってませんが!?」
「してはりませんがな」
呆れたように突っ込んでは、最近若い人は、えらい男らしゅうありまへんな、と恋したことないだけで散々な言われよう。きっと肉食系ばっかで草食系男子にこれまで会ったことがなかったんだろう。
そんなこと言われてもな、と参っていると仕方ないと言わんとばかしに例えを言ってくる。
「例えば、子供の頃に好いたおなごの一人くらいおりましょう」
「…………それは、確かにいましたかもですけど、……でもそれって、恋心に恋していただけとか、好きが親愛と恋愛の違いが分かってないだけで」
「アホなこと言わんとってくださいまし。幼子の恋心に一々、大人の解釈で首突っ込むんはおもろくありまへん。もっと柔らかく、簡単に、昔を想うだけの情感を持ちなされ」
親が子に叱りつけるようにして窘めてくる。ようはクソつまんない御託はいいから素直に言えってことなんだろう。
仕方なく、少しだけ考えてみることにする。初恋ね、………初恋。
…………初恋っていえばそういえば、ちょっと前に恥ずかしい思い出を思い出したな。
「……子供の頃に、ある女の子と約束したんです」
「ほう……。それは一体どんな約束どすか?」
ようやく楽しい話が聞けると思ったのか、目を細くして興味深そうな趣でこちらへと意識を向けてくる。
そうあれは……。
「―――おい、こんなところにいたのか。探したぞ」
「おや? ……これはこれは。わざわざウチなんぞを探してはりましたか」
語ろうとした瞬間、精悍な老人が現れた。彼女の知り合いか、彼女を探してここまでやってきたようだ。そして彼女は老人に対して一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに変わらない愉しそうな笑みでからかうようにして言う。
あれ? この人。
「いいから部屋に戻るぞ。すまないな、少年」
「あ、いえ、どうも。この間はわざわざウチのじいちゃんに会いに来てくれたのに、大したお構いもしなくて」
「? この間?」
「? えーと、すいません、以前、ウチのじいちゃんに会いに来てくれましたよね?」
どこかで見覚えがある人かと思ったら、少し前にじいちゃんを訪ねてウチにやってきた精悍な老人だ。
老人の方は俺のことを忘れたのか、俺に対してどうでもよさげな態度だったが、俺が話しかけると不思議そうにし、出会った経緯について話すと「ああ、そうだったな」と言葉では応対するが、憶えていないようだ。……ボケたのかな?
その様子に妊婦のお姉さんはクスクスと愉し気に笑っている。
「あ~ら、しっかりおしん。そんなボケる年齢でもないでありんしょ。堪忍なおにぃさん」
「う、うるさいぞ、すまいが……千寿君これで」
「……あ、はい」
二人のやり取りをみて、親子かな? と思っていると、話はここまで、と話を打ち切って彼女の病室だろうと移動させようとする。
エスコートする老人、確か木戸さんだったか。から逃れて、俺の方へと相変わらず楽しそうなニヤニヤとした表情で告げてくる。
「どういう関係に見えはります?」
「え? えーと……親子ですか」
「若いでやんすね。残念ながら違いやす。さしずめ……共犯者って言う所でしょうか」
……………大人の世界かな……。
もう言葉からして、俺が生きてきた世界とは無縁の大人の世界の住人なんだろう。コレが俺と同い年や中学生くらいの娘だったら、色々と問題があるけど、もういい歳したお姉さんと精悍な老人という親子くらいの人なら……良い方向で涸れ専、悪い方向で財産目当ての歳の差婚なんだろう。
妊婦である以上は前者であって欲しい。お子さんの為にも!
と、そんなやり取りをしているといい加減堪忍袋の緒が切れたのか、無理矢理にも引き連れていこうとする老人。
「いい加減にしろ、ほらいくぞ! 失礼」
「あらあらコワいコワい。では、おにぃさん。楽しいひと時をどうも。またご縁がありましたら御贔屓にお願いいたしやす」
最後まで花魁を思わせるような仕草と言葉使いの妊婦のお姉さんは老人の後を追うようにして去っていく。
おかしな人だったな。花魁っぽい色っぽい人のあまり、危うく……あれ? なんで俺あんな人に誘惑されたんだろう?
ふと、何というか我に返ったというか、冷静になったというべきか。さっきの女の人が全然俺の好みではなかったという事実が今更ながら思い出した。
好きなアニメキャラの傾向で夜名津や阿尾松からも『ロリコン』と揶揄される俺。だけど、二次元限定ではあるが、それでも俺の好みのタイプは美人系よりも可愛い系。年上よりも年下の方が好きって感じはある。
その証拠が、榎先輩だ。
方向性は違えど、大きく括れば彼女も大人のお姉さん枠だ。
榎先輩は確かに美人であり、クールで綺麗な人。学校でも相当モテる人であるけど、俺にとっては好みではない。頼りになる人だし、好意はあるがあくまでもそれは先輩後輩としての親愛だ。
いや、色気のあるお姉さんに誘惑されたら落ちるだろ、って色香に惑わされたから思春期男子には刺激が強かったっていうのは勿論だが、相手は妊婦だぞ。
そんな相手にあそこまでドキマギとするって……ハッ!?
もしかして。
「………アブノーマルな性癖に目覚めてしまった?」
自分に『妊婦』という新たな性癖が生まれたのではないのか、と少し怖くなった。
× × ×
「『なんで』、あんなことしたんですか?」
人の目に付かない場所にまで移動した瞬間、なんで、との言葉と同時に老人だった姿は少女の姿のものへと変わる。その正体は木戸諦政に化けた、言乍りりだったのだ。
責める口調の言乍りりに、色気のある妊婦はとぼけたように肩を竦めて告げる。
「おや? あきまへんどしたか? ウチとしては親切心としてあーたの恋心を叶えて―――」
「余計なことをしないでください!!」
「病院で騒ぐのはやめろ」
怒鳴つける言乍りりの背後から注意の言葉が返ってくる。
振り返るとそこには三十代くらいのメガネをかけた白衣の男性とそれに並ぶ二十代くらいの長い黒髪。清楚というよりも清潔感のある、おそらくいい所の育ちだろうと分かる若い看護士の二人。たまたま通りかかったと言うよりも二人がここを通るのを分かっており、やってきたようなタイミングだった。
それもそのはず、ここ一帯は彼らしか通れないように人払いの結界が張られているからだ。
法知から連絡を貰い、彼らは言乍りり達が来るのを狙っていた。
「あら、お医者様に病理はん、ご機嫌麗しゅう。
そうからかうと病理と呼ばれた看護士はそんな、と頬を紅くして両手にその頬を抑えて素直に照れ、チラチラと医者の男こと近代市修士へと熱い視線を無視する。
近代市修士はそれらを無視して告げる。
「美鬼、お前は勝手なことをするな」
「おやおや、お医者様あろうお方がお預かりしている患者さんの名前を間違えるのはあきまへんで。ウチの
「……魅姫さん、いくら病院に仕掛けがあるとはいえ、好き勝手なことをされては困る。言乍、君もだ。勝手に諦政さんの顔を使うのやめろ」
「…………」
「あらあら、怖いでやんすね」
注意されて何か言いたげな言乍りりと、二人の視線に楽しそうに言う魅鬼。
そんな二人の態度に溜め息を吐きそうになりながらも彼は話を切り替えて、重要事項を口にする。
「死鬼が今三体目を仕留めて、四体目へと動いている」
「それは随分とまあ、お勤めがお早くご苦労さんなことで」
「準備しておけ。早ければ明日か、明後日にも鬼の王を喚び出し、全て終わらすぞ」
「ウチのお役目ももうすぐでっか。わかりやした。いつ来てもええよぉ、よぅ身支度はしときます」
愉しそうにそういって魅鬼は『ほな、また』とこの場を去っていく。その様子に嘆息を吐く近代市修士と「魅姫さんに困ったものですね」とフォローするように苦笑する看護師の病理。
肩を竦めつつ、言乍りりの方へと視線を移す。
「言乍、おそらく次当たりに雨崎千寿達に当たるだろう。奴の事だから受肉されない限りは仕鬼祇しか狙わないだろうし、雨崎千寿は呪力型ではないから問題ないと思うが、何が起こるか分からん。……いい加減動いたらどうだ?」
そう忠告を残して近代市修士達は魅姫とは別の方へと去っていく。
一人の残された言乍りりはギュゥっと強く握り拳を作り、覚悟したように告げる。
「……やっぱり、七夕の短冊って充てにならない。私が、……の織姫と彦星の白鳥にならないと」
あなたのために、人の為にお助けする、どんなことがあってもお助けして架け橋となる白鳥のような存在。
それが彼女の生き方だった。
× × ×
「…………」
「ホレどうした、来なさい」
今朝から、正確にはおそらくは昨日の夜から、……叶切利によって受けた時の傷なんだろう、その時の痛みのような違和感を覚えながら夜名津我一は榎師範代から来るように誘われる。
その一言に夜名津我一は集中しては全身に霊力を回してはそこから榎師範代へと殴りかかるが、榎師範代はまるで風に吹かれる柳のような動きであっさりと躱される。
「どうした、若いの、これで終いか(随分とまあ、頭で考えておるのう、霊力については知らんが武は身体を動かすのが基本、思考も大事だが……雑念が多いのう、こやつ)」
「(あ~、一人でやりたいな)」
榎設楽達が出ていき、とりあえず組み手を取ることにした二人。
榎師範代へと霊力を込めた状態で軽く打ち込んでいいと言われたのでやってみるもののこれが夜名津我一にとってこれはなかなか難しかった。
霊力の操作による身体能力の向上、《力道》を使おうと試みるが、実際に身体を動かそうとする霊力の維持、流れといったものが付いて行けない。
霊力の方に集中すると今度は肉体の動きが覚束ない。
慣れないことをいっぺんにすると途端にどちらもできない、下手くそになってしまう不器用なタイプなのだ。
しばらく組み手をして動きのぎこちなさにうんざりしたのか、榎師範代は告げる。
「よいよい、お主の実力をみたい。霊力なんぞ気にせず、一度本気でかかってこい」
「(……僕の本気って結構卑怯な手とか使うんだけど、それも範疇に入っているのかな? 入ってないんだろうな。仕方ない、言う通り霊力は抜きにして普通に殴る蹴るでやってみるか)……はい」
「返事はオッスじゃ」
「オッス!」
霊力の意識を捨てて、言われた通りに動きやすいように動くことにした。
まず、今日会ったばかりの老人相手に単純に攻撃はできないと思い、夜名津我一は脳裏に嫌いなヤツや過去のトラウマといったものを思い出して殺意を募らせる。
感情のままに一気に距離を詰めては拳を放つ。あっさりと捌かれる。勢いで転ばされそうになるが、何とか立ち止まり、無理矢理足の軸を方向転換させて回し蹴りの要領で放つ! 簡単に受け止められて弾かれる。
構わずラッシュをかけてみる。だが、まるで柳がゆらゆらと風に吹かれて踊るような動きで攻撃は当たらない。
「(遊ばれてるな。左足を軸に一歩も動いてないし……ネテロ会長かよ。よし、実力差あるし、目つぶしと股間蹴り辺りを狙ってみるか)」
「(こやつ、見た目に反して意外にも喧嘩殺法じゃのう。そして狙うところが急所狙い。見所はそこそこ、ま、動きはてんで素人じゃがのう。武道の武の字も知らんのう)」
互いにそれぞれの実力について測りあう。片や自身の実力では手段を選んでいる余裕はないことを。片や、高みから動きの特性と欠点について分析する。
ほれ、と榎師範は片手を前に出してはここを狙ってこい、と言わんばかりに構える。秒でそこを狙うべきか、それとも作戦通りに隙になったことを良いことに股間を狙うべきか。迷った故に聞いてみた。
「……そこを狙えてことですか?」
「それ以外何に見える。威力偵察じゃ。動き自体大体わかったからな」
確認を取れたことで素直にそこ目掛けて、渾身の右ストレートを放つ。パチーンと小気味のいい音が道場に響き渡り、空気に余韻を残す。受け止めた一撃に眉一つ動かさないでその拳の感覚を確かめる榎師範。
「(ま、こんなもんじゃろ)」
威力自体は大したことはなかった。普通の高校生男子が殴る程度でしかない、と。
流れるように受け止めた拳を降ろさせては直立不動の無防備になった所で、ほい、と胴体へと片手で強く押す。
「!?」
見た目に反したあまりの威力に後方へと転がるようにぶっ飛んだ夜名津。受けた衝撃に耐えながらも苦しそうに起き上がり、榎師範代へと睨む。
「はっけい?」
「掌底。ただのツッパリじゃあ、素人相手にんなもん打てるわけなかろう」
てっきり威力の強さからはっけい系列の技と思ったが、別にそんなことなく強く押すだけの張り手だった。その事実にはしゃいでしまったことを黙ってしまう夜名津。
反対に榎師範は内心では少し関心していた。
「(しかしこやつ。躱しきれんかったが、今咄嗟に後ろに引いて避けようとしたな。直感だけは悪くない。やはり見た目に反して獣のよぅ)」
榎師範としては夜名津我一に対しての印象は陰キャな見た目とは反して、戦法や直感力が喧嘩慣れした不良のそれに近い、が彼の感想だ。素材としては悪くなく、鍛えがい自体はあるかもしれない。
だが、と同時に首を傾げてしまう。どうしても納得できないものが一つだけあった。
「おかしいのう、お主、吉成を追い詰めたと聞いておったが、とてもそうとは思えんぞ」
自身の愛弟子がこの程度の者に負けるとは到底思えなかった。身体能力において万全ならば少し遅れを取った所で十分対処できるし、小細工を生じた所で負けるような鍛え方はしてこなかった。何かあるのか? と目の前の陰キャを単純な力量以外の部分へと注目するように睨む。
対して、質問を受けた夜名津は不思議そうにして答える。
「? 多分、雨崎君の方じゃないですか? お孫さんと出て行った方。僕、そのよしなりって人知らないですし」
「古郡吉成じゃが、知らんか? 去年までお主らの学校で、空手で活躍しよった」
「? いや、全然知らないですね。僕、クラスメートのこともよく知らないし。上の学年のことは全く知らないです。精々、生徒に手を出して妊娠させた先生とか煙草とか酒飲んで退学になった先輩くらいしか」
「……活躍よりも悪名が記憶に残りやすいってやつか」
夜名津我一の返しに呆れた様子の榎師範代。
空手で活躍って言葉を聞き、どこかで聞いたような気がすると記憶に引っ掛かったが、漫画のキャラ紹介で次の登場で倒されて雑魚キャラ扱いされそうだな、と結論が出てきてそれで納得する。
夜名津我一に古郡吉成のことを思い出させるなら、名前ではなく、『香久山教諭を殺しかけた存在』か『血鬼の仕鬼祇使い』と話した方が伝わりやすい。名前という固有名称の記録よりも、なにがあったかのエピソード記憶の方が彼の頭には残るのだ。
「じゃが、樹海の孫の方か。なるほどのう、確かにアヤツの孫ならばそれくらいできて当然か」
「?」
雨崎千寿、より正確には雨崎樹海の方に榎師範代は忌々しそうにして頷く。納得はできるが気に入らないとばかりの表情。それを見て夜名津我一は『知り合いで仲が悪かったのかな?』と内心で呟く。
一度目を閉じて、思考を回してはやがて、何かを決めたように目を上げてそれを口にする。
「よい、出血大さーびすというやつじゃあ。主に喧嘩ではなく、武術を仕込んでやる。樹海の孫よりか強くなるぞ」
「いや、別にいいですけど」
ぶん殴られた。