それは本当に、魔法のような出来事だった。
『いったん撮影止めます!』
『わた、そんなつもりじゃ……、ちが……』
恋愛リアリティーショーの番組公式SNSにアップされた動画、黒川あかねが炎上するきっかけとなったあの一件。誰もがその動画の冒頭を見て、炎上事件により各所で何度も蒸し返されていた為に見飽きたと思いつつも、それでも再生を停止しようとはしなかった。公式がわざわざ動画をアップしたのだから、何かしらの意図があるのだろうという一抹の期待と好奇心を抱いて。
『なんじゃあこりゃぁあ!!』
手のひらに付着した己の血を見て、金紗の少年は迫真の真顔で叫んだ。
視聴者のほぼ全てが予想だにしなかった台詞が飛び出してきて、元ネタである約半世紀前の伝説の刑事ドラマを知っている人たちと、ミームに詳しい連中は画面の前で笑いを堪え切れずに吹き出した。
『草生える』
『バロスww』
『古いなオイ』
『アクア何やってんの』
『イケメン王子が、一瞬にして物真似芸人になっていた件』
『アクアの中身、絶対におっさんだろ』
視聴者は元ネタを知っている層と知らない層に二分化され、前者が後者に訳知り顔で解説する、という流れが発生した。その部分が切り抜かれ、アクアと松○優作での比較動画が作られ、恋愛リアリティーショーの視聴者以外にも話題は一気に広がっていく。
動画の画面内でも、番組スタッフらは専門家だけあって知識はあったおかげで理解出来ていたが、それとは対照的に、MEMちょを除く若い今ガチ出演者は何が可笑しいのか判らずに戸惑う、という様子が見て取れた。当然、黒川あかねもそちらに含まれる。
ただ、誰にも共通して判ったことといえば、黒川あかねが悪者であり彼女を糾弾するかのような雰囲気が一気に霧散してしまったということ。本放送はアクアの台詞の前に止められ、彼女を悪者へと仕立て上げる恣意的な次回予告へと移っており、つまりは実際の出来事を番組側が都合の良いように切り取って意図的に編集したものだということ。
これにより、蒼玉の少女に一極集中していたヘイトが番組側にも分散されることになる。無論、ただそれだけならば番組側が良しとしないだろう。本題は、ここから――。
『あかね、貸し一つだぞ』
『え……?』
『だから、貸し一つだ。この場を丸く収めてやったんだから感謝しろよ』
『えっと、その……』
『なんだよ?』
『貸し借りとか、したことが無かったから……。その、よく判らなくて……』
『だったら、こう言いかえようか。――何か一つ、俺の言うことを聞いてもらおう』
『えっと……』
『いいだろ?』
『……うん、わかった。私に出来ることなら、何でもするから』
『それじゃ早速、言うことを聞いてもらおうか。――あかね、アンコールだ』
『……えっ?』
『もう一曲いかがですか、お嬢さん』
思考の沼に沈んでいた蒼玉の少女に、差し出される少年の掌。姿勢を正し、もう片方の手を背中側の腰に添えている彼の様子はさながら、王子や貴族の青年が舞踏会において、淑女を踊りへと誘っているかのようで。
これは、あの時。初めて参加した恋愛リアリティーショー、どうしたらいいのか判らず困っていた時。ハンカチに忍ばされた伝言メモによって屋上に連れ出され、青空の下で二人踊っていたあの時の、続きだ。
『はい……、喜んで』
抗えない魅力に、引き寄せられる。
逃れられない重力に、絡め取られる。
身構えた心と身体が、解きほぐされていく。
男ならかつては誰しもが強さに憧れ、ヒーロー願望を持っていたのと同じように。
女ならかつては誰しもが抱いていた、王子に手を差し伸べられる
その欲求を満たしうる金紗の少年は、女にとって劇薬も同然だ。それが、男性経験どころか恋愛経験も無い初心な少女なら尚更に。
つい先刻までアクアに対し冷たい視線を向け、接触を避けていた黒川あかね。だが今の彼女は吹っ切れたように、前と同じかそれ以上に恋する乙女の顔をしていた。
ここ最近、番組内に漂っていた淀んだ空気が綺麗さっぱり消え去っていて。初夏の陽光が差し込む教室で踊る少年と少女と、周りで囃し立てる友人たちと、彼らを取り囲み若い男女を応援する大人たちと。
このシーンは視聴者たちの間で多いに物議を醸しだした。踊る少年と少女を見守り囃し立てる者、それでも変わらずに黒川あかねを叩き続ける者、都合の良い編集をした番組側を非難する者、一体何が真実なんだと困惑する者、どうせこれもヤラセなんだろうと冷めた目を向ける者――。
そこに。議論に議論が重なり最高潮となった所で、更なる火種が投下された。
『あかね。正直な話、お前がどれだけ辛いのか俺には判らない。でも、いっそのこと死んでしまいたいってその気持ちは理解出来るよ。俺にも、そんな時期があったからな』
『え……?』
『今までやってきたことが無駄だと思い知らされて、それまで積み上げたものが崩れ去って、自分には何も無いと思った。何も残ってないと思った。生きる価値が無いと思った。虚しくて、何も考えたくなくて、何もかもがどうでもよくて、消えてしまいたいとさえ考えた。
その結果、周りに八つ当たりして、大切な人たちを傷付けて。……全く、思い出したくもない黒歴史だよ。
――でも。そのおかげで、今の自分がある。大切な人たちが居てくれるのは、決して当たり前ではないことに気付かされた。人は簡単に死ぬなんてこと、俺は身に染みて判っていた筈なのにな』
『何を……言ってるの?』
『
でもな、あかね。そういった人たちは皆、生きたかった。生きるのに必死だった。みんな、死にたくはなかったんだ。ただ、健康や運、愛情やお金に恵まれなくて、生きることが出来なかっただけなんだ。ほんの少し、何かが足りなかっただけで――。
でも、お前は全部持っているだろう? 他人が羨むものを、望んでも得られなかったものを沢山持っているだろう? 誰よりも恵まれているお前が、どうでもいい連中のどうでもいい言葉に負けてその人生を投げ出すなんて――俺はそいつが、どうしようもなく気に食わない……!』
『アクア、くん……』
『お前が以前プレゼントしてくれたクッキー、母親に手伝って貰いながら作ったって言ってたよな。料理教室に一緒に通うほど、母親とは仲が良いんだろう?
――あかね、俺はさ。家族を、母親を裏切るやつが大嫌いなんだよ。お前が命を投げ出すのは、産んでくれた母親に対する最大の裏切りなんだ。
俺はあの時、もう少しで裏切るところだった。母親の味わった痛みを、苦しみを台無しにするところだったんだ。でも、俺の大切な人が、大切な人たちがそれを止めてくれた。母親の命を無駄にするなって叱ってくれた。俺の為に命を懸けてくれた。俺の為に、涙を流してくれたんだ。
だから俺は、その人の為に生きると決めた。その人の為に、戦うと決めた。世の中の有象無象が何て言おうと関係無い。俺にとって本当に大切なのは、俺の身内だけだよ』
『……』
「あかね、お前さっき言ったよな。悪いことをしたら謝るのは、父親にそう教えられたからだって。たかだか数ヶ月しか付き合いのないMEMの忠告よりも、十数年も一緒に暮らしてる家族の教えを取ったってのは、俺にもよく判るよ。
でもな、顔も名前も判らない連中の書いた便所の落書きの方が、お前にとっては家族より重いのか? 家族を裏切って死を選ぶほど、その落書きに価値があるのか?』
『……違う、よ』
『だったら、話は簡単だ。
――立て。戦え。
お前は、女優だろう。なら、どうせ死ぬなら舞台の上だ。俺の知ってる女優は、周りから馬鹿にされても、家族から見捨てられても、独りぼっちになっても、決して諦めたりはしなかったぞ!』
『……!』
『さあ――さっさと立てよ! 黒川あかね!!』
雨の嵐の中、絶望に打ちひしがれ橋から身を投げる寸前まで追い詰められた少女。そこに突如として現れ、死んで逃げることを許さずに戦えと叱咤激励する金紗の少年。優しさと、厳しさと、不器用さと、力強さと。それらが混然一体となって、少年は地面に
「良かったわね、あかね」
「うん……」
黒川あかねは母親と椅子を並べ、新しいスマートフォンでその映像を共に見ていた。
その映像に非難の声が無かったわけではない。相変わらずヤラセだと一蹴する者も一定数は居たし、恋愛リアリティーショー(笑)や茶番だと冷笑する者も少なくなかった。加えて、ネットの向こう側の人間を批判するも同然であるアクアの態度は大いに反論を呼んだが、そこまで大きな問題にはならなかった。
黒川あかねに集まっていた怨嗟と罵倒を、アクアと番組に分散出来た時点で、少年の目論見はある程度達成されたと言ってもいい。少女が単なる悪役ではなく、彼女もまた被害者なのだという議論の余地が生まれれば、一様に叩く訳にはいかなくなるものだ。
何よりも。絶体絶命の状況に追い込まれたヒロインを間一髪でヒーローが助けるという構図は、老若男女を問わずに非常に判りやすく、理屈を超えたエンターテインメントとして見事に昇華されていた。これには凄まじい反響がありSNSのトレンドにもなって、二人は一躍、時の人へと踊り出ることになったのだ。誰の目にも明らかに悪者であれば叩かれて当然だが、悲劇のヒロインとして演出できれば評価がひっくり返るのも自然の理。彼らを批判する派閥は少数派となり、多数派に押し潰され勢いは尻すぼみになっていった。
たった2本の動画によって、黒川あかねのイメージは変革され、今ガチの人気を決定付けるものとなり。
それは本当に、魔法のような出来事だった。
☆
「すぅ……、はぁ……」
数日後。黒川あかねは、劇団ララライの稽古場の前に立っていた。
随分と稽古を休んでしまい、他の団員に迷惑を掛けてしまったこと、だけではなく。
その上、今ガチに出演していること、炎上騒動を起こしてしまったこと。それにより叩かれたのが黒川あかね本人だけではなく、彼女の所属するララライにも波及してしまったこと、彼女の参加した作品への不当な評価に繋がったこと。
これらの事情による気まずさから、今一歩扉を開ける踏ん切りがつかずに、さっきから深呼吸を何度も繰り返している。意を決して扉に手を掛けるも、以前よりずっと重さが増しているような錯覚を覚えて、ちっとも開けられずにいた――の、だが。
「何やってんだよ、黒川」
「ひ、姫川さん!?」
「久しぶりだな。少し痩せたか?」
「え、ええ。まあ……」
背後から突然声を掛けられ、その場で飛び上がりそうになる黒川あかね。姫川大輝とて別に驚かそうと思っていたわけではないし、いつもならあかねもある程度近付かれた所で気付いていただろう。つまりはそれだけ、少女は周りのことが見えていない精神状態だったのだ。
「部屋に入らないのか?」
「えと、その……」
「いいから入れよ。他の皆も、ずっとお前のことを待ってたんだぞ」
「え……、それって……?」
姫川大輝は横から手を伸ばし、黒川あかねが開けられずにいた扉を、何でもないような仕草で開け放つ。
「……っ!」
するとそこには――以前と変わらない面々が揃っていた。
「おう黒川、待ってたぞ」
劇団ララライ代表、金田一敏郎。
「久しぶりだな。もう大丈夫なのか?」
劇団ララライの影の実力者、みたのりお。
「あかね、ようやく来たわね」
「もう、待ちくたびれたよ」
女優、
女優、
「休み中、発声練習はちゃんとやってた?」
「それに、筋トレと柔軟体操もだな」
男優、林原キイロ。
男優、船戸竜馬。
「ほら黒川、何か気の利いたことでも言えよ。……と、その前に」
「……?」
「『
劇団ララライの看板役者、姫川大輝。
「……っ! はいっ!」
そして……劇団ララライの次期エース、黒川あかね。
「おはようございます!
皆さん、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした! 頑張りでお返ししたいと思っています。宜しくお願いします!」