星の子どもたち   作:パーペチュアル

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Heart of Ocean 4

 

 

 

 人間の身体は、暑さに弱い。

 

 姫川愛梨が息子の大輝に、寝物語として読み聞かせていた教育の一つ――イソップ寓話。

 能力を過信して油断していると足を掬われる「うさぎとかめ」。

 勤勉な者と怠惰な者を対比した「アリとキリギリス」。

 欲張りすぎると思わぬしっぺ返しを食らう「金の斧と銀の斧」。

 嘘を重ね続けた結果、誰からも信じてもらえなくなった「オオカミ少年」。

 そして、「北風と太陽」。寒風では旅人は衣をまとうだけだが、暑さは音をあげさせるという話だ。どんなに風が強く吹き付けようとも、旅人はより服を強く掴むだけ。だが太陽の光が暖かく照らせば、旅人は自ら外套を脱ぎ始める。転じて、他人を動かすには無理矢理に強制させるよりも、相手に寄り添い優しく接する方がより良い結果に繋がるという教訓でもある。

 

 人間の身体は、長時間の暑さに耐えるようには出来ていない。

 

 例えば、脳。脳は熱がこもりやすく、体温より温度が高い傾向にあるが、それが42℃を超えるとタンパク質が変異し神経細胞に大きなダメージを受ける。

 例えば、睾丸。体温よりやや低い温度が最適とされており、睾丸が体外に露出しているのはこの為である。表面に皺が多いのも、表面積を大きくして熱を放出しやすくするという目的がある。逆に体温以上、37℃から38℃においては精子に染色体異常が発生して死滅することがあり、40℃にもなるとそもそも精子細胞が発生しなくなるのだ。

 

 星野アクアは、暑さにそれほど強くない。

 

 若手の芸能人の端くれとして運動は欠かしておらず、汗を流すこと自体には慣れている。だが、前世の雨宮吾郎だった時の平成時代と違い、令和の現代においては小学校の普通教室の空調設備普及率は99%を超えている。温暖化に伴い夏季の熱中症が社会問題となって久しく、星野アクアは生まれた時から冷暖房が完備された場所で人生の多くを過ごしていた。

 ゆえに。屋外で運動する時を除けば、うだるような暑さに耐える経験がほとんど無い。東京で芸能事務所社長の義息子として生活し経済的に困窮していない現世よりも、九州地方でそれほど裕福でない祖父母のもとで育った前世の時の方が、暑さへの耐性はむしろ上だった。現代っ子と言ってしまえばそれまでだが、人間は一度慣れてしまった生活レベルをおいそれと下げられず、文明の利器を手放すこともまた難しいものだ。

 

 

 

 

 

 

 額に浮き上がった汗が垂れて目に入り、少年は無意識のうちに顔をしかめて瞬きを繰り返す。ハンカチで汗を拭いたいが、この状況ではそうもいかない。何せ、今の彼の手元にハンカチはなく、それどころか動くことすら許されていないのだから。

 

「『今ガチ』、そろそろ収録大詰め?」

「……ああ」

 

 有馬家のリビングにて、金紗の少年は微動だにせずに立っていた。衣一つ身に纏わぬ裸の姿でポーズを取っているその様はあたかも、500年以上前に制作されたミケランジェロのダビデ像を思わせて。

 有馬かなが斉藤ミヤコに憧れたり嫉妬したりして、彼女と同じことをしてとアクアに要求するのは今に始まったことではない。寧ろ平常運転とさえ言っても差し支えないほどだ。だが深紅の少女は決して無理難題を吹っ掛けたりせず、少年がやろうと思えば出来る範囲にとどめており、それがお互いへの要求がエスカレートする一因ではあった。

 

「――アクア。実際の所、あんたは誰狙いなの?」

「アレはあくまで仕事だ。そういうのじゃない」

 

 スケッチブックに鉛筆を走らせる有馬かなもまた、裸身ではないが女子高生が身に付けるにはいささか煽情的な下着を身に纏っている。春先までの彼女なら「服に着られている」、「背伸びしている」と評されていただろうが、今の有馬かなであれば不思議と似合っており、控えめな肢体との対比が逆に、斉藤ミヤコにはない別種の魅力を醸し出していた。

 

「でも番組としては、カップルが成立しなきゃ面白くないんじゃない? あんたと黒川あかねの組み合わせは視聴者の注目の的になってるわよ。これでくっつかなかったら間違いなく荒れるわね」

「お前は、俺とあかねにくっついて欲しいのか?」

「そんなわけないでしょ。ただ、あんたの本音を聞いておきたかったのよ」

 

 現在。有馬家のリビングルームは窓こそ開いているものの、夏場の日差しを受けて室温は上昇を続けており、描き手の有馬かなと描写対象の星野アクアは双方ともに汗だくになっている。

 当然ながらまず最初に、冷房を入れてくれと少年は抗議したのだが、深紅の少女はにべもなく却下した。斉藤ミヤコと二股を掛けている引け目もあり、アクアは文句を言いつつも有馬かなの指示に従っている。あえて空調をオフにして自然な姿を描きたいと説明しており、それは事実ではあるものの、本当の狙いは別にあった。

 

 過度の暑さは認知機能を低下させ、集中力・判断力・思考力を奪う。

 何かを考えることも難しくなり、物事の筋道を立てられなくなって、正誤の判断もままならなくなり。

 ――「嘘」を吐くことも、難しくなる。

 

 星野アクアは、暑さにそれほど強くない。前世の雨宮吾郎だった頃も、医者という職業・病院という職場で過ごす関係上、日常の大半は人体にとって快適な環境下で過ごしていた。

 

 対して、有馬かなは。真冬の九十九里浜を水着で走ったり、炎天下の夏の昼間にコートとマフラーを身に纏って走ったこともある。「演者って所詮肉体労働者なのよね……」とボヤくほどに過酷な環境下での撮影経験が、子役の頃から幾度もある。寒いから、暑いからという理由でパフォーマンスを落とすことは許されない。彼女は年齢=芸歴という、根っからの芸能人であり役者なのだ。

 

 通常時なら、男であるアクアの方に体力面では軍配が上がる。

 だが。30℃を優に超えるこの環境下なら、話は別だ。

 幾度も肌を合わせていれば、言葉を交わさずとも相手の事が何となく判るようになる。無論、相手の体力面についても。春先から今に至るまでの期間で、深紅の少女は一つの事実を見抜き、勝機を見出した。

 この環境下であれば、私の方が上だ――と。

 

「あんたが見ているのは黒川あかねじゃなくて、あの女が演じているアイ。そうでしょう?」

「……お見通しか」

 

 少年の首筋を汗が流れていき、鎖骨の窪みで勢いを減じられる。それでも止まらなかった雫が重力に引かれ、うっすらと浮き出たシックスパック(腹筋)の合間を通り、他の汗と合流して更に落ちていく。やがて、足元に垂れた汗がフローリングの床に新しい珠を形作った。

 男であろうと女であろうと関係なく、他人に見られることを前提として作り上げた肉体は美しい。無駄を削ぎ落とし、人体の美しさを追求・表現したその身体はなるほど、これを鋳造した斉藤ミヤコに畏敬の念を禁じ得ない。ほんの数ヶ月前に中学校を卒業し、少年から大人の男へと移り変わりつつあるこの肉体は、斉藤ミヤコと有馬かなの両名が居なければ天河メノウ/姫川愛梨が放ってはおかなかっただろう。

 

 ――なればこそ。

 黒川あかねには、渡せない。渡すわけにはいかない。

 

「ねえ、前に『私を見て』って言った時のこと、覚えてる?」

「ああ。俺たちが付き合い始めた時のことだろ」

 

 

 

『……もしかして、アンタって私のファンなの?』

『そうだよ。やっと気付いたか』

『何よ、そんなのって今更……遅いよ』

『今更とか、遅いとか早いとかじゃない。過去や未来の話じゃなくて……今、お前はどうしたいんだ。俺にどうして欲しいんだ。ほら、言ってみろ』

『……私を、見て』

『ちゃんと、見てるよ』

 

 

 

「そりゃ覚えてるわよねぇ。あんたが、私とミヤコさんで二股を掛け始めた記念日のことだもんねー」

「記念日ってなんだよ……」

 

 斉藤ミヤコを見るのはいい。それは当然の権利だ。むしろ、彼女に目もくれない星野アクアなど解釈違いもいいところである。

 星野ルビーを見るのもいい。まあ、家族だし。

 星野アイを見るのも、まだいい。死者に引きずられすぎるのは良くないが、産みの母親なのだから時々はいいだろう。

 天河メノウ/姫川愛梨を見るのは……百歩譲って、ギリ許そう。

 

 でも、黒川あかねは。

 ましてや。あの女(黒川あかね)が演じる、十年以上前に死んだ人間の幻影(ゴースト)に魅入られるなんて、到底認められるものではない。

 

 だから、有馬かなは。

 泣いて縋って、笑って、怒って、言葉で、身体で、私を見てと振り向かせる。

 それが、深紅の少女の十八番(おはこ)なのだから。

 

「アクア」

 

 スケッチブックと鉛筆を置いて立ち上がり、つかつかと少年に歩み寄って。

 

「今、あんたは――」

 

 少年の顎を掴み、頬に手を添え、顔をこちらへと向けさせる。

 身動きが許されていない金紗の少年と、彼に向き合っている下着姿の女。それは奇しくも約20年前に、姫川愛梨が少年だった頃の神木ヒカルを犬にしていた時の光景に酷似していた。

 

「誰を見てるの?」

「有馬かな、だよ」

「本当に?」

「本当だ。信じてないのか?」

「信じてもいいけど、その代わりに約束してくれる?

 ――四六時中、私のことを見ろとか考えろとまでは言わないわ。でもね、私が目の前に居る時は……私のことを見て」

「かな……」

「み て」

 

 ――全く、これだから女ってやつは。金紗の少年の心中はそれに尽きた。

 

 

 

『……本当は、私だけを見て欲しい。でも、それが叶わないことは判ってるつもりよ。だから止めないけどその代わり、条件があるわ。

 私を、一番に愛して頂戴。それさえ約束してくれれば、愛人について煩いことは言わないから』

 

 

 

 以前、斉藤ミヤコがアクアに語った望み。少年はそれを忠実に守ってきた。

 放っておけば暴発の危険性があった有馬かなを巻き込み、彼女も共犯者とすることでミヤコとの禁断の関係を秘匿し続けてこれている。少なくないリスクを抱えるだけの価値ある選択だったと、少年は心からそう思っていた。

 後悔が全く無いと言えば嘘になる。これで良かったのだろうか、と考えたことは幾度もあった。

 それでも。自分を愛してくれる二人の女たちを、精一杯愛そうと決めたから。

 

「わかった。約束する」

「んっ!」

 

 満面の笑み。それは夏の日差しよりも明るく眩しいように、少年の目には映った。

 くるりと身を翻して、深紅の少女は元の位置に戻り、再び椅子に腰を下ろすと足を組んだ。

 

 

 

「ねえ、アクア」

「なんだ?」

「アクアはさ。私と、私との……

 

 子どもが欲しいって、思う?」

 

 

 

 星野アクアは。

 有馬かなを、女としては見ていた。愛人とかセフレとか恋人であるという認識はあった。

 だが。()()()()対象とは認識していなかった。この時までは。

 

 

 

「何を……」

「私は――いいわよ。アクアが、本気で望むのなら。アクアが、私の人生に責任を持ってくれるなら。……今すぐにでも」

「……」

「別に、今ここで答えを出せとは言わないわ。でも、よく考えておいて。あんたにとっても大事なことだから」

「……わかった。考えておく」

 

 同年代の高校生カップルなぞ、二人の将来について真剣に考えている方が希少だ。

 星野アクアは、斉藤ミヤコとの将来については考えてはいた。ミヤコとの子どもは欲しい。でも彼女の年齢からして、すぐにでも妊活を始めないと手遅れになりかねない。前世が産科医だった少年は、それをよく知っていた。高い金を不妊治療につぎ込んだ挙句、子どもに恵まれなかった患者からやぶ医者と罵声を浴びせられた経験もある。

 老いは覆せない。若さや時間は、どんな宝石よりも貴重なのだ。

 

 だのに。斉藤ミヤコからは、アクアが成人するまでは子どもは我慢しなさいと諭されていた。

 言っていることは理解出来る。子どもが子どもを産み育てるなんて現代では非常に困難なことであり、ましてや自分は芸能人なのだ。身近に神木ヒカルと星野アイという不幸になった男女の実例がある以上、無碍に切り捨てるわけにもいかない。

 星野アクアにとって斉藤ミヤコは、()()()()対象ではあっても、望み通りにはさせてくれなかった。

 

 そこへ来て。有馬かなも、()()()()対象となってしまった。刷り込まれてしまった。

 これまでは同年代の高校生カップルらしく、目先のことしか見ていなかった。将来とか家庭とか人生設計とか、漠然としか考えていなかったのだ。

 ――有馬かなはもう16、いや17歳か? そういえば、アイはその年頃にはもう妊娠・出産していて……。

 

 

 

 煩悶とする金紗の少年を見ながら、有馬かなは鷹揚とした笑みを崩さなかった。

 男という生き物は、女に種を付け、孕ませ、自らの血と遺伝子をこの世に遺すことこそが至上の命題であり存在理由である――と、姫川愛梨から教えられていた。だからこそ、それを裏切った私に対して清十郎ちゃんが怒り狂うのも仕方がない、とも。

 

 斉藤ミヤコは、アクアのあらゆる望みを叶えながらも、男として最大の望みを()()()にしていた。少年はそれに理解を示してはいるものの、抑えきれない不満は(おり)となって、彼の心の奥底に少しずつ積み重なっていく。

 

 だがここで、別の道が提示された。少年にとって最も愛する女ではないとはいえ、それに次ぐ十分以上に大切な少女が「私なら、いいよ」と逃げ道を作ってしまった。男にとって、女からの「貴方の子どもが欲しい」というのは最大級の愛情表現と言ってもいい。好きな女からこれをやられたならば、大抵の男はイチコロである。

 

 これだけではない。有馬かなはヌードデッサンという体で、少年の衣服を剥ぎ取ったこともだ。

 エデンの園で穏やかに暮らしていた始祖の男女は、神から禁じられていた知恵の実を食べてしまった。そこで初めて自分たちが裸であったことを恥ずかしく思い、イチジクの葉によって身体を隠した。これが、人類にとって最初の衣服であり鎧だ。

 神にそのことを追求された時、二人は見苦しく言い訳をして神の怒りを買い、楽園を追放された。自分を守ろうとする言い訳、誤魔化し、或いは――嘘。これが、人類にとって2つ目の鎧である。

 

 ヌードデッサンで衣服を奪い、動くことを禁じ、さらには暑さによって判断力・思考力を奪った。

 相手の苦手なフィールドに引きずり込み、防御手段を奪い、そこへ最大火力を叩き付ける。とても春先まで恋愛弱者だった少女とは思えない、空恐ろしいまでの成長速度である。

 

 星野アクアは幼い頃から復讐にかまけていて恋愛どころではなく。斉藤ミヤコとの関係も、家族から一足も二足も飛び越えて愛へと至ってしまった。少年は眉目秀麗な見た目に反して、恋愛経験がほとんど無かったのだ。

 対して、有馬かなは13年も初恋を拗らせていた少女であり、年季も面構えも違う。何か切っ掛けさえあれば一気に成長するだろうとは言われていたが、師の女二人にとっても予想以上の成長ぶりである。

 

「……ちょっと聞きたいんだが」

「なあに?」

「さっきの言葉だがな。もし俺が誘いに乗って、お前に襲い掛かってたら――どうするつもりだったんだよ」

 

 すると、深紅の少女は人差し指を頬に当て、小首を傾げて事もなげに言い放った。

 

「ごめん、今日はあの日だから――って、頭をかいてごまかすわ」

「お前な……。月のものは魔法の言葉じゃないんだぞ」

 

 無論、アクア以外の男にこんな真似をするつもりはないし、アクアがもしその気になったならば、それはそれで責任を取ってもらうだけだ。彼が責任から逃げるような男ではないと信用しているし、そのように育てた斉藤ミヤコに対しても感謝の念を禁じ得ない。

 

「全く……。お前も、随分と悪い女になったもんだ」

「そこは良い女、って言うべきじゃないの?」

「これでも褒めてるつもりなんだがな」

「どうかしらね……。でも、アクア」

「?」

「あんたこそ、いい顔になったわよ。今朝のあんたはまるで……家族会議の前に戻っちゃったように見えたわ」

「……そうか?」

「そうよ。――で、改めて聞くんだけど」

「何だ?」

「黒川あかねのことはどうするの?」

「告白してこなければそれで良し。もし告白してきたなら、丁重にお断りするさ」

「本当にいいの? あの子は顔も頭も性格も良いし、アイの演技も料理も出来るし、父親が警察のお偉いさんって話だけど。逆玉よ逆玉」

「やっぱりお前、俺とあかねにくっついて欲しいのか?」

「そんなわけないでしょ。ただ――」

「?」

 

 有馬かなは腰を上げて、真っ直ぐに立ち上がる。少年より頭一つ分ほど背丈が小さいのに、溢れるその自信や存在感はむしろ彼を凌駕していた。

 

「黒川あかねのそれら全てを足しても、私の方が上よ。――そうでしょう?」

「お前……、本当にあの女(姫川愛梨)に似てきたな」

 

 

 

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