夢幻のような時間だった。
「……は? なんつったオメェ!!」
「聞こえなかったか? そんな女に守る価値なんて無いって言ったんだ!」
アクアは先ほど、鳴嶋メルトの耳元に口を寄せた時に何かを吹き込んだのだろう。恐らくは挑発か、侮辱。ついさっきまでは棒読みの見本市だった彼の演技に、感情の芯が乗って「見れる」ようになる。私も、スタッフも、当のメルト本人ですら、その事実に誰しも動揺の気配を隠せない。ただ一人、ニヤリとほくそ笑む黒衣のストーカーを除いて。
「諦めて流されろよ!」
台詞も立ち位置もリハーサルとは違う。台本や指示を無視した、役者失格の所業ではあるが、スタッフも止める様子はない。
――だって、リハの時より感じが出てる。怖くて、緊迫感があって、すごく原作っぽい雰囲気なのが伝わってくる。
今までの酷すぎる内容を、それでもドラマとして成立させていた優秀なスタッフたちだ。本当は内心、忸怩たるものを感じていたのだろう。
「お前なんて誰にも必要とされてない」
『俺には、お前が必要なんだ』
「身の程わきまえて生きろよ。夢見てんじゃねえよ」
『他人の都合なんて気にするな。本気でやってみろよ、有馬かな』
アクアの台詞が、勝手に脳内で変換されていく。つくづくおめでたい、私のお花畑な感情。アクアが演出してみせたこの場に、原作の名シーンを再現してくれたこのひとときに、ヒロインが応えなくてどうするというのか。
「どうせろくな事はない! お前の人生お先真っ暗だ!!」
「……それでも」
進むほどに暗くなっていく、芸能界の黄昏。右も左も判らず迷子になっていた私に差し込んだ、一筋のスポットライト。
ここまで私とともに歩んでくれた「Aquamarine」のハンカチは、仄かな光となって足元を照らしてくれていた。
ああ、やっぱり――。
「それでも、光はあるから」
やっぱり、私はアクアのことが、好きなんだ。
アイツはいつもいつも、昔も今も……私の中を搔き乱していく。
アクアとメルトがクランクアップを迎え、二人が向かい合っていた。近づいて様子をうかがってみると、メルトは撮影前とは打って変わって殊勝な態度を見せており、先程のシーンで拳が当たってしまったことを謝罪しているようだ。
それに対し、アクアはわざと当たりにいっただけだから気にするな、と何でもないように返し、その後に続く台詞が耳に残って離れなくなった。
――おかげで、有馬も本気が出せたんじゃないか?
何で、貴方はそこまでするの? 私のため?
そんな思わせぶりなことを言われたら、勘違いしちゃうじゃないの。
勘違いしても……いいの?
「かなちゃん、最後のシーンもういける? ……かなちゃん?」
「あっ、……えっと、すみません。5分待ってもらえますか」
監督は特に気にした様子もなく、頷いて戻っていった。
私はポーチからハンカチを取り出すと、水道で濡らして、小走りでアクアのもとに駆け寄る。撮影所の隅っこで、周りには誰も居ない。……好都合だ。
「ほら、これで冷やしときなさい。アンタも役者の端くれなら、顔のキズはNG。商売道具なんだから」
「助かる。つーか、これ――」
「アンタのハンカチよ。……でも今は私のなんだから、ちゃんと返しなさいよ」
「言ってろ」
アクアは苦笑して、渡したハンカチを左頬の殴られた痕にあてがおうとした。だが、出来なかった。
私が彼の左腕を掴んで、止めていたから。
「……有馬?」
これは仕返しだ。
先日、苺プロにお邪魔した時に、彼女は頬に彼の唇を、全身に彼の抱擁を受け入れていたこと。それを私に見せつけてきたこと。あの時の屈辱と敗北感は、たっぷりと利子をつけて返さなくてはいけないから。
まずはその第一歩として、爪先立ちになって背を伸ばす。私の目線が、ようやくアクアと同じ高さになる。
赤く滲んだ頬の痕。今この時だけは、世界の全てがそこに在る。
「んっ……」
アクアのことをよろしく頼むって言ったんだもの。これくらいはいいでしょう?
彼を殴ったメルトにほんの少しだけ感謝しながら、私は束の間の感触を味わっていた。
「お前……」
「まだ最後のシーンが残ってるから、行ってくるね」
「……行ってこい」
――女は生まれながらにして女優である。フランスのとある作家の言葉だ。
だが私は哺乳瓶を咥えてた時分からこの業界に居て、挫折も栄光も味わって、それでも前に進んでいる。
私は、ただの女優じゃない。もう天才子役ではないけれど、それでも女優・有馬かなはここに居る。
主人公に恋に落ちた乙女の顔。そんなものは私にとって朝飯前。今このカメラに映っている顔が、演技なのか本物なのか、それは誰にも判らない。
さあ、斉藤ミヤコさん。
貴女はどっちだと思いますか?
今週は原作が休載……。
ミヤコ分が切れる……。