――なんでおまえの母親、みょうじがおまえとちがうんだよ。
――じつは本当の母親じゃないんだろ?
――わざわざ偽物をつれてくるとか、はずかしくないのか。
あれは小学校1年生の時の、授業参観が終わった後のことだったか。
復讐を誓って以来。久方ぶりに、本当の怒りを覚えた。
ただ、目の前の不愉快な囀りを止めなければいけないと、心の底から強く、強く。
気付けば、俺は全力で拳を振り抜いていた。
担任の教師に止められるまで、ただひたすらに拳を振り上げ続けた。
☆
「ただいま」
「おかえり、アクア。……って、その傷はどうしたのよ」
「撮影で、相手が力んだから、顔に当たっちゃって」
「本当に?」
「本当だって。相手からもリキっちまって悪いって謝られたし、苺プロの評判を落とすようなことはしてない」
「絶対に?」
「絶対。嘘はついてないぞ」
嘘ではないのだろう。だが全部を話しているわけでもない。何かを隠している。
私は一つ溜息をつくと、スマホを手に取り、最近登録した電話番号をタップした。数回のコールののち、反応が返ってくる。
『どうも、有馬です。お久しぶりです、ミヤコさん』
「ええ、久しぶりね。急で悪いのだけれど、少し時間を貰えないかしら」
『はい、大丈夫ですよ。それで、どうしました? 撮影は滞りなく終わりましたけど』
「滞りなく、ね……。なら、アクアが怪我して帰ってきたのはどういうことかしら? 無事に返してと言った筈だけど、まさか忘れてたりはしないわよね?」
『頬の傷のことなら、アクアの自業自得です。
「……状況が分からないのだけど。何故、そんなことを?」
『アクアがそこに居るんですよね? でしたら、直接問いただしたらいかがですか? 私は嘘はついてませんよ』
「……そうね、そうするわ。御免なさいね、時間を取らせちゃって」
『いえ、お気になさらず。……あ、あと一つだけ』
「何かしら」
『――アクアのほっぺ、美味しかったですよ』
一体何のこと、と聞こうとした所で通話が切れる。もう一度かけ直そうか考えたが、それよりもこの子を問い詰める方が先だと思い、スマホをスリープさせる。
「それじゃ、俺は――」
「座りなさい」
「先に着替えたいんだが」
「座りなさい」
デスクの真正面を指差し、コツコツと叩いてみせる。渋々といった様子でアクアは椅子に腰を下ろした。
そのまま無言の時間が過ぎていき、時計の秒針が半周する。その間アクアを観察していたが、気まずそうな、何かを抱えていそうな雰囲気であり、私と目を合わせようとはしなかった。
「で、何をやらかしたの」
「やらかしてないって。本当に」
「やらかしたかどうかは聞いてから決めるわ。事実を言いなさい」
アクアは頭をガシガシとかき、ようやく語り始めた。
普通に演じただけでは状況を覆すことは出来ず、駄作扱いは免れなかったであろうこと。
台本やスタッフの指示を無視して、アクアが勝手に場を演出したこと。
大根役者の主演男優に本気の感情を出させるため、わざと挑発して怒りを買ったこと。
リアリティを出すために、あえて前に出て拳に当たりにいったこと……。
「やらかしてるじゃないのよ……」
「NGは出なかったぞ。良いものが撮れたって有馬も言ってたし」
「それはあくまで結果論。大して実績の無い貴方がこんなことしてたら、下手しなくても干されるわよ、アクア」
「まあ、その時はその時だ」
アクアにとって、役者や芸能は復讐の手段。干されたら干されたで仕方ないとでも考えてるのかもしれないが、悪評が広まってしまえば裏方の道すらも絶たれてしまう可能性は、ある。選択肢が減る、というのは将来的にマイナスでしかない。
「自分の尻は自分で拭くさ。ミヤコに迷惑はかけないよ」
「未成年が生意気言わないで。そういうのは責任が取れるようになってから言うものよ」
まあ、今更どうしようもないのは確かだ。NGは出ておらず、有馬さんも滞りなく終わったと言っている。主演男優からも謝罪を受けているとのことだし、大事にはならないだろう……と考え、改めてアクアの顔を見る。
「その傷、ちゃんと消毒した?」
「冷やしはしたぞ」
「消毒はしてないのね。ちょっと待ってなさい」
備品室に置いてある救急箱を取ってくると、消毒液とガーゼ、はさみとテープを準備する。……そういえばいつだったか、こうして顔に怪我したアクアの治療をしていたような……。
そう、あれはアクアが小学生の時、授業参観のあとの夜だった。
顔中痣だらけにしたアクアの手当てをしながら、事情を問いただそうとしたものの、この子はなかなか口を割らなかった。
後でルビーに聞いて裏取りしたところによると、原因はクラスの男子に馬鹿にされたからだそうだ。
――お前の母親は偽物だと。
胸が締め付けられるようだった。
私は、この子たちの母親をちゃんとやれているのか。今も自分に問い続けているが、答えは出ない。
そうやって不安になった時、私はあの子たちと共に寝ることにしていた。二人の体温を感じながら眠りにつけば、自然と不安が薄れていくから。
アクアとルビーが小学生になった時、私は二人にそれぞれの部屋を与えた。ルビーとは時々共に眠ることはあったが、アクアと布団を一緒にすることはほぼ無くなっていた。
――この夜。アクアが小学生になって初めて、私は彼のベッドに潜り込んだ。私は何も言わなかったし、彼も黙ってベッドの端に寄り、スペースを空けてくれるだけ。
昼間の事情を聞くこともない。慰めの言葉をかけることもない。ただ、彼の身体に腕を回して、頭をそっと撫でていく。
お互いの体温と、吐息と、心臓の鼓動と、それ以外の何かが混ざり合って、溶けていき――。
「――ミヤコ?」
意識が現実に引き戻される。
小学生だったアクアは、いつの間にか高校生になろうとしていた。
小さな子どもだった彼は大きくなり、大人の男へと変わりつつあった。
「なんでもないわ。……アクア」
「ん?」
「今晩、一緒に寝ない?」
「……いい加減に子離れしろよ。有馬もミヤコのこと愚痴ってたぞ」
「有馬さん、ねぇ……。そういえば、さっき彼女から耳寄りな話を聞いたのだけど。
――アクアのほっぺは美味しかったです、って」
彼の右耳を掴み、消毒液を染み込ませたガーゼで傷を拭う。アクアの頬が引き攣ったのは傷が沁みたからか、それとも隠していたことを暴かれたからか。
「説明、して貰えるわよね?」
アイのかわりにミヤコが授業参観へ。
自分の母親よりずっと綺麗なミヤコ、その事実に嫉妬したクソガキがアクアの地雷を踏んでいきました。
今日あまの打ち上げとか、もう何話か書いた後はようやく入学編へ。