「愛してる」
「ああ、やっと言えた」
「ごめんね。言うの、こんなに遅くなって」
「良かったぁ……」
「この言葉は絶対……嘘じゃない」
俺の心の一番奥深くに刻まれた、あの日のこと。
冷たくなっていく身体。
虚ろに霞んでいく瞳。
浅く、速くなっていた呼吸が途切れ途切れになって、やがて――完全に消える。
その瞬間、俺は実母を喪うと同時に、自分の中の何かが停止した。
――貴方の父親と名乗る男が、苺プロに現れたわ。
完全に動かなくなった女性に、変化が現れる。
髪は黒色から茶色に、ストレートはやや癖が出て。
華奢で少女らしさを残した肢体は、女性らしく豊かな曲線を帯びて。
目尻にはアイシャドウ、唇にはリップグロス、耳元にはイヤリング。
俺の生みの母親は、いつの間にか、育ての母親の姿に変わっていた。
「……ミヤ、コ?」
立ち上がり、懐から五千円札を取り出しテーブルに叩きつけると、俺は出口に目を向けた。立ち上がったままの天河メノウと視線が重なる。図らずも道を塞がれている状態だ。
「そこを――」
退け、と言おうとした所で彼女はあっさりと端に寄り、道を譲ってきた。のみならず、腰の前で両手を重ね、気品ある動作でお辞儀をする様はさながら、大企業のキャリアウーマンか、戦国大名の奥方か。
「どうか、お気をつけて」
非の打ち所がない見送りの礼。聞きたいことは多々あるが、それは次の機会まで預けることにし、俺は返事をすることなくその部屋を飛び出した。
☆
時間は少し溯り、苺プロにて。
「――初めまして。神木プロダクション代表取締役、神木ヒカルです。本日はお時間を割いていただき、ありがとうございます」
若い男。20代後半か、行っても30代前半だろう。
柔和な笑顔に穏やかな物腰、優し気な声色。少し着崩したスーツ姿に、金髪のオールバックが映えていた。
斉藤ミヤコには判る。この男からは、ホスト連中と同じ匂いがした。
大学生時代からアイが死ぬまでの数年間、ミヤコは幾度もホストクラブに足を運んだ。共感を求め、承認欲求を拗らせた女たちが通い詰めるその場所は――女の弱点を探り当て、女を転がす手管に長けた男たちが日夜、鎬を削っていた。
ミヤコ自身、真に満たされることは無かったけれど、それでも一時のストレス発散にある程度は役に立ち、美容と健康にかけた金額に次ぐお金を、その場所に落としていたものだ。
とはいえ、芸能プロダクションの経営者など、普通の人間に務まるはずもない。ホスト紛いの人物が社長業を担う程度、この業界からすればむしろ真っ当とも言える。
挨拶の次に名刺交換、その後は相手の容姿や衣装を褒め、共通する世間話を交わして、女性の緊張を解していく。神木ヒカルにホストの経験があるのかは判らないが、その道で大成するのも夢物語ではないように、斉藤ミヤコには感じられた。
そうして、世間話が一段落着いた頃。神木ヒカルはようやく本題を切り出してくる。
ここからは別の会談が始まる――そう覚悟はしていても、次に吐き出された言葉には意識を白く塗り潰されてしまった。
「星野アクアと星野ルビー。彼らは僕の子どもです。二人を僕の息子、娘として認知したいのですが」
「……子ども? アクアとルビーが、貴方の? それに……認知したい、と?」
「仰る通りです」
何を言っているんだ、この男は。頭の混乱を止められない斉藤ミヤコは、当然の疑念をぶつけることにした。
「あの子たちの母親をご存じで?」
「星野アイ、ですよね。苺プロがかつてプロデュースしていたB小町、その中でも筆頭だったアイドルの」
ノータイムで答えが返ってくる。ここまで正確に言われたならば疑念などというレベルではなく、あの子たちがアイの子どもだと確信を持っているのは、明白。
そして何より、
――この時点で。神木ヒカルは放置しておいていい存在ではないと、斉藤ミヤコの警戒心は最大級に引き上げられた。
「失礼ですが、貴方があの子たちの父親だと証明出来るものはありますか?」
「ふむ、そうですね……。これでどうですか」
神木ヒカルは頭に手をやると、ぶちりと髪の毛を何本か引き抜いた。指に挟まる、金色の髪。……あの子たちと同じ、金紗の色。
「これを調べてくださっても結構ですよ」
「……お預かりします」
アクアがあんなに探し求めていた、実の父親に繋がる手がかり。それがこんなにあっさりと掌中に収まってしまうのは、正直複雑な気分だった。
これで関係が否定されるのなら、それはそれで構わない。むしろ、その方がミヤコにとって気が楽だった。
だがもし、この男が双子の父だと証明されたなら。……どうする? あの子たちに何て説明する?
ルビーは「ママは処女懐胎だ」と当然のように言ってのける子だ。出来るなら、父親のことなんて知らせたくはない。
そしてアクアは、父親に対し、アイの仇だと殺意を抱いている子。知らせたくないどころか――知らせてはいけない。
十年以上、共に生活し、実の子のように思って過ごしてきた。絶望と仏頂面だった顔が、自分だけとはいえほのかな笑顔を見せるようになった。もう少し、もう少しで、普通に生きていけると希望を抱いていたのに……。
だがもう、手遅れだ。
限りなく黒に近い灰色をしたこの男に嗅ぎつけられた以上、賽は投げられてしまった。
――ならば。より良い道を、この手で切り開くのみ。少なくとも、あの子たちが未成年の間は。
「それで、認知したいとのことですが。あの子たちの里親として、私の正直な気持ちを言わせてもらうなら、『今更』だと思います。何故、今なんですか? この15年間、今まで何をしていたんですか?」
「彼らが生まれた当時、僕は未成年の子どもで、お金も権力も無かった。書類上であの子たちの父親になっていたとしても、彼らを育てられなかったでしょう。ですから親としての力をつけて、準備が整ったら迎えに行くつもりだったんです」
出た、と斉藤ミヤコは思った。
生みの親と育ての親で親権を争う際、生みの親側が言う常套句。「本当は育てたかった、でも環境が許さないから泣く泣く子どもを手放した。出来るだけ早く迎えに行くつもりだった」。子どもを養育する能力が無かった事実を、美談に仕立て上げようという思惑が透けて見える。自分は悪くない、環境が悪いと被害者ぶっているのが一番、気に入らない。
育ての親であるミヤコからすれば、ふざけるな、という感想であった。この手の話はドラマでもありふれた題材、ミヤコ自身視聴した覚えはあるが、いざ自分が当事者の立場になってみれば、虫唾の走るただの言い訳である。
そもそも、育てられないなら子どもを作るなと思わなくもなかったが、それはアイにも言えること。強姦されたなら話は別だが、アイのかつての様子からして、その可能性は低いと判断する。多少なりとも、相手の男に対し情はあったのだろう、と女の勘が告げていた。
「あの子たちも、いつまでも父なし子では可哀想です。認知させていただければ、僕の遺産の相続権が発生しますから、何か不慮の事態があったとしても心配事は減らせるかと。失礼ですが、苺プロはそこまで規模は大きくないようだ。僕の庇護下に入れば、あの子たちの生活を豊かにしてあげられることをお約束します」
斉藤ミヤコは、責任を放り出して逃げる男が大嫌いだった。この男は口先は体裁の良いことを並べているが、結局は女を孕ませただけで、あの子たちに対し何の責任も果たしていない。
アイは曲がりなりにも、子どもたちと同居し、ミヤコのサポートがあったとはいえ子育てを務め上げていた。それも、アイドルという芸能界で最も処女性を重要視される職業で頂点を極め、子どもの存在を世俗から隠し切った。アクアとルビーを愛そうと、精一杯努力していた。だからミヤコも、彼女の子育てに協力したのだ。16歳アイドルの子どもの世話なんて、と苛立っていたミヤコも、アイのそんな姿勢に絆されたのだから。
「まさかとは思いますが、親権が欲しいなどとは言いませんよね、神木さん」
「だったら、どうします?」
「どうもしませんよ。貴方が親権を得ることは、まず有り得ません」
父親と母親で親権を争うケースでは、基本的に後者が有利だとされている。例外は虐待や育児放棄が認められる場合、何らかの事情により育児が困難と判断された場合、子どもが母親より父親と同居したいと意志を示した場合などだ。
その点、斉藤ミヤコは誰よりも双子と長く同居し、家事も行い、経済的に困窮させてもいない。虐待や育児放棄なんて以ての外だ。
何よりも、彼女は双子から愛されている。その自信がある。
だからこそ、双子が斉藤ミヤコよりも神木ヒカルを選ぶなんて事態はまず有り得ないと断言してもいい。今日ほど、法律や育児の勉強をしておいて良かったと、ミヤコは内心で拳を握り締める。
一通り説明すると、青年は得心がいったように頷いた。
「――なるほど。貴女は確かに、母親の鑑のような人ですね」
「褒め言葉と受け取っておきましょう。だからこそ、言わせてもらいます」
斉藤ミヤコはテーブルの向こうの男を真っ直ぐに見据え、確固たる意志を持ってその言葉を突き付けた。
「あの子たちは私の子どもです。貴方に渡すつもりはありません」
――そう、誰にも渡さない。斉藤ミヤコは、星の子どもたちの母親なのだから。
次回、斉藤ミヤコ VS カミキヒカル 後編。
「親」としてなら勝負になっていませんが、そうは問屋がおろしません。