リズミカルにミットを打つ音が、早朝の肌寒い大気に響き渡る。グローブを握るは金紗の少女、星野ルビー。一方、ミットを構えているのは筋骨隆々の体躯に不釣り合いなヒヨコの被り物をしている大男、ぴえヨンである。
一心不乱に打ち続けていたルビーだったが、ぴえヨンはいつもの彼女とは様子が異なるように思い、ミット打ちを中断する。
「どうしたの、ルビーちゃん。何か悩みゴトかい?」
「そんな、ことは……」
「心ここに在らず、といった感じだネ。拳に迷いや不安の気持ちが乗ってるヨ。自分自身を騙せても、拳は嘘をつかないんだ」
「……師匠に隠し事はできないね」
「ボクで良ければ聞くよ?」
苦笑いをして、ルビーは一度大きく息を吐いた。
つい先日、ミヤコから聞かされた話。ルビーの双子の兄、アクアが胸に秘めていた復讐。彼らの母親、星野アイを殺害した男の裏に、親子の新居の場所をリークし殺人教唆した黒幕が居たのではないかという推測。それが出来るのは彼らの父親くらいのものだということ。その闇を抱えて復讐の刃を研ぎ続けたアクアと、傍で彼を支え続けたミヤコ。
復讐が正しいかどうかは置いておくとして。ルビーがその話を聞いてまず感じたのは、彼と血の繋がった自分が何も知らなかった不甲斐なさと、アクアとミヤコだけの秘密だったことに対する疎外感。その不満を二人にぶつけた時の反応はこうだった。
『妹を復讐に巻き込む兄が居るか』
『娘を復讐に関わらせる母親なんて居ないわよ。もし居たとすれば、その女は母親失格ね』
全くこの夫婦(予定)は……と呆れ、怒る気力も失せてしまったものだ。
とはいえ、ルビーがこんなに重い話を聞かされたにも関わらず、それほど取り乱していないのは逆に異常事態と言っていい。星野ルビーにとって最高のアイドルであり最愛の母親でもあったアイ、彼女を殺害した真の黒幕が居たかもしれない、と聞かされて平静でいられる筈がないのだ。――本来ならば。
そうならなかったのはやはり、イレギュラーたる天河メノウの言によるものが大きい。
星野アクアと星野ルビー。よく似た顔のつくりに、同じ金紗の髪。双子と呼んで誰も疑わない程に、外見は血の繋がりを感じさせる。だがこの二人、内面においてはまるで性向が異なっていた。
星野アクアは家族のこと以外については、基本的に理詰めと損得、常識で物事を考える。前世の経験もあり、高い知能と豊富な知識が判断の基準なのだ。
一方、星野ルビーは物事を感覚で捉え、善悪よりも自身の好悪で判断する。ミヤコとアクアの教育の賜物か、これまでは大きな問題は起こしていなかったが、育て方によっては容易く道を踏み外しかねない危うさも持っていた。
そんなルビーにとって、天河メノウという漆黒の少女は劇薬だと言ってもいい。彼女の、他の何よりも自身の愛に重きを置く在り方、想い人との年齢差や倫理など意に介さない孤高の強さは、非常に危険でありながらも魅力的な甘露としてルビーの目に焼き付いた。心根では、15年間共に過ごした兄が抱く復讐よりも、想い人の愛を語る彼女に同調してしまう程に。
ミヤコとアクアの話を一通り聞いた天河メノウは、端的に当然のように言い放った。
――否、と。
『社長が星野アイ殺害の教唆犯? 有り得ませんね』
『どうしてそう言い切れる?』
『あの子は、わたしを差し置いて星野アイにお熱なのよ? 大切な人の命を他人の手に譲り渡すなんて、そんな勿体ない真似は絶対にしない。それはわたしと彼の美学にも反することよ。彼が直接、星野アイを手にかけたというなら、まだしも可能性としてはあるでしょうけど』
『それはお前の想像に過ぎないだろう!?』
『貴方の意見だって、推測に推測を重ねているに過ぎないわ。信憑性はわたしと大差ないと思うけどね。
まあ、ここでわたしたちが言い争っても平行線です。社長にはわたしから話を通しておきますので、近いうちに白黒はっきりするでしょう。
――では、ごきげんよう』
十個近い星の砂の小瓶。その中身を検めた結果、小瓶の一つは何もないただの星の砂だったが、他の全ての小瓶に同じ機器が封入されていた。機器の一つをハンカチで包んで懐に入れると、天河メノウは両手でスカートの裾を掴み、誰もが見惚れるカーテシーでお暇の挨拶をして闇夜に消えていった。
その後、ミヤコはミヤコで伝手を頼って別口でこの機器を調べてもらうことにし、これで両者が同じ結果になればその機能は間違いないと言っていいだろう。
この機器が盗聴器、もしくはGPS発信機なのか。
アイを刺し殺した犯人、貝原亮介が単独犯なのか。
神木ヒカルが、星野アクアと星野ルビーの父親なのか。そして……星野アイ殺害の黒幕なのか。
12年間の停滞を破り、真実が白日の下に晒される時は、近い。
「……師匠」
「何かな?」
改めてぴえヨンに向き直り、何をどこまで話せばいいのかルビーは暫し考える。星野アイとその子どもという苺プロのトップシークレットが絡んでくるため、同じ事務所の師弟関係といえどぴえヨン相手でも軽々しく話せる内容ではない。だからルビーは核心には触れず、さわりの部分だけ話すことにした。
「師匠は、私とお兄ちゃんが小さい頃にママを亡くして、ミヤコさんに引き取られたって話は知ってるよね?」
丸いヒヨコがこくりと可愛らしく頷き、その下の分厚い筋肉とのアンバランスさが可笑しくて、ついついくすりと笑ってしまう。
「ママはシングルマザーだったんだけど……。最近、私とお兄ちゃんの父親が見つかったらしくて。今度、会いに来るみたいなの。家族会議をするって話になってて、正直……戸惑ってる」
「ああ、それは気まずいというか、腹立たしいよネ。何を今さらって感じでさ」
「そうそう! ほんとに、もう……。それで私、いざ父親に会った時にどういう顔をすればいいのか、どういう態度をとればいいのか、悩んでて……」
「う~ん、そうだね……」
いかにも脳筋な見た目をしておきながら、腕を組んで顎に手を当てて考え込む姿が妙に様になっていた。それが何とも微笑ましく、悩み曇っていた心が僅かに軽くなる。
「前にも聞いたことだけどサ。ルビーちゃんにとって、社長とアクア君はどういう存在なんだい?」
昔、ぴえヨンの助手になる時に聞かれた質問。今も、答えはその時と変わっていない。だからルビーは、躊躇いなく返答する。
「私にとって、ミヤコさんはもう一人のお母さん。お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、今の私にとってはお父さんも同然だよ」
「なら、ソレでいいんだよ。私のお父さんとお母さんはこの人たちです、貴方の出る幕じゃないのでお引き取り下さい、って言えばいいんじゃないかな」
「……いいのかなぁ?」
「子どもに降りかかる面倒事は、親が片付けるべきだよ。社長とアクア君に任せておけばいいのサ。それでも足りないなら――」
「足りないなら?」
「その不良中年に、15年分の養育費と小遣いをせびってやるべきだネ」
「お金で解決するのは何か嫌だな……。それに、私がお金に困ってないのは師匠が一番良く判ってるでしょ?」
何せ、年収1億の男の助手である。ルビーも女子高生としては相当に稼いでいるので、逆にお金に対する執着は薄かった。
それを知っていながらなお、ぴえヨンが金での解決を促したのは事態を単純化する為である。産まれてから一度も会ったことのない親との顔合わせなど、絶対に揉めるに決まっている。理屈を度外視した感情論のぶつかりあい、泥沼化すればお互いにとって良い結果にはならないだろう。時間と労力を無為に消費するくらいなら、金でも何でもいいから早々に手打ちにするべきだと彼は判断した。
「お金で解決出来るなら、これほど簡単な話はないサ。貰えるものは貰っておくといいヨ――病気以外はね」
最後の方で若干テンションが下がった師の様子を見咎めたルビーは、抜け目なくそこを突いた。
「師匠、何か嫌な思い出でもあったの?」
「……ノーコメント。サア続きと行こうか。残りはあと3ラウンドだよ」
「誤魔化された~」
そう言いながらも、再びファイティングポーズを取るルビー。ひとたび構えてしまえば、思考も身体も自然に戦闘状態へと移行し、必要のない雑念は霧散する。そこには先程までの迷いは見られず、いつものひたむきな彼女の姿があった。
(やはりこの子は、余計なことを考えるよりも目標に向かって真っ直ぐに突き進んでいる時が一番、輝いている)
ならば自分のすべきことは、その目標が誤った方向に向かないよう導いてやること。そして、無粋な横槍を入れられぬよう露払いをしてやること。それが大人として、人生の先達として、彼女の師として果たすべき義務だ。
そう改めて決意したぴえヨンの構えるミットに、ルビーの繰り出す拳が次々と吸い込まれていく。さっきまでよりも断然に重い感触。これなら、急所にもらえば大の男でも倒れるだろう。――或いは、彼女が産まれて以来会ったことすら無い父親でさえも。
彼女は元より、人気ユーチューバーのアシスタントに収まるような器ではない。ルビーはもともとアイドル志望であること、その夢は今だ彼女の中で燻っていることも、ぴえヨンには判っていた。
いずれ、師のもとを巣立って自分の道を歩いていくのだろう。こうやってミット打ちをするのも、あとどれだけ続けられるかどうか。
ぴえヨンはこの時間が好きだった。回を重ねるごとに構えが堂に入っていき、動作が無駄なく的確になり、拳の感触が重くなっていく彼女の成長を見ているのが気に入っていたのだ。
そうやって満たされた時間を過ごしながらも、ぴえヨンは少しだけ残念な気持ちを拭えなかった。
自分があと10歳若ければ、恐らくは彼女に告白していただろうな、と。
ようやく劇中の日付が進みました。
3ヶ月以上の間、同じ日付の話を書いていたとか、本当に遅筆ですみません。
次回、重曹ちゃん回を予定。