星野アクアが怒りで我を忘れたのは、過去に2回。
一度目は、小学校に入学直後。星野
二度目は、授業参観の際に。無理を言って来てもらった斉藤ミヤコに対し、偽物の母親なんだろうとクラスメイトから馬鹿にされた時。
そして今、三度目が訪れた。
「――I am your father」
「貴様ぁあああああッ!!」
早まるなとミヤコに釘を刺され、努めて冷静さを保とうとしていたにも関わらず。その台詞だけで一瞬にして忍耐の上限を振り切った。
技術も何もない、感情に任せた右拳。だがそれでも、その破壊力は成人男性を打ち倒すに十分なものであった。――無論、当たっていればの話だが。
手首を掴まれ捻られ、突進の勢いに逆らわずにいなされ。気付けば、星野アクアは床に叩き付けられていた。
「ぐっ……!」
「おや、お気に召さなかったかな。まさに一世一代、渾身の演目だったんだけどね」
「神木……ヒカル……!」
上半身を起こし、せめて気合いでは負けじと下から青年を睨み付けた。身体を支える右手首に鈍い痛みが走る。さっき捻られた時に筋を痛めたか。
認めたくはないが、この一合だけで判ってしまった。近接戦ではこの男相手に勝ち目は無いと。芸能活動や学業だけでなく、もっと戦闘訓練にも力を入れるべきだったと今更ながらに後悔する。
「ちょっとアクア、何やってるの!?」
「ああもう、言った傍からこの子は……!」
両側から有馬かなと斉藤ミヤコに介抱されるが、その手を振り切って立ち上がる。
開戦の火蓋は既に、アクア自身の手で切られてしまった。今更退くことも、無かったことにする訳にもいかない。もう、進むしかないのだ。
「……神木ヒカル、お前には色々と聞きたいことがある。今日という今日は逃がさない。絶対に答えてもらうぞ」
「僕に答えられることなら、何なりと答えよう」
「元・苺プロダクション所属のアイドル、B小町のアイのことは知っているな?」
「ああ。僕にとって一番大切な人だよ」
「12年前、アイが殺害された事件については?」
「勿論、知っている」
もはや相手が年上だということも、はるか格上の芸能事務所の社長だということも意識の埒外であり。この男相手に取り繕う努力を完全に止めたアクアが、いの一番に問い質したい事案。それは当然、
「お前は、あの事件に関与していたか?」
「いいや、無関係だよ」
アイ殺害の教唆犯を疑う詰問であり、それに対し神木ヒカルが潔白を主張するのは十分に予想の範囲内だった。
ならば、次。星野家が新居に引っ越してから事件当日までの、神木ヒカルのアリバイを調べなければならない。初めて会ったこの男の人となりなど、天河メノウの言葉でしかろくに知り得なかったが、もし彼女の言う通りの人物像であったなら、最低でも事件の様子、殺害の瞬間をどこかで観察していた筈だ。仮にも大切にしていた女が、自分の目の届かない所でいつの間にか死んでいたなど、到底許せないことであろうから。
「だったらあの日、アイが殺されたあの時。お前はどこで何をしていた!?」
「あの日の昼間は飛行機に乗っていて、太平洋の上に居たよ。東京ドームのライブに行く為に、帰国の途中だった。アイの訃報は……夕方、成田空港で聞いた」
「何だと……?」
金紗の青年がポケットから紺色の手帳を取り出す。表紙には日本国旅券の文字に、菊花の紋様。
アクアにも見覚えがあるそれは、神木ヒカルの――。
「見ての通り、これは僕のパスポートだ。確認してくれるかい?」
「……見せてもらおう」
受け渡そうとする姿勢に、アクアも手を伸ばした。だがもう少しで手帳に触れる、という所で神木ヒカルは手を引っ込め、少年の神経をさらに逆撫でする。
「何の真似だ……!?」
「このパスポートは僕の名義になっているけれど、僕に所有権があるわけじゃない。日本国が発行している歴とした国の公文書で、国に所有権がある重要なものだ。あくまで日本国から僕に貸与されているに過ぎないってことだね。外務省のホームページにもそういった文面が書かれているよ。
島国の日本において、空港は国境であり防衛線でもある。そこでの入出国管理は国がやっていて、この手帳がなければ日本と海外を行き来することもままならないんだ。だからこそ、日本国が発行しているパスポートは世界でもトップクラスの信用度を誇っているんだけどね」
間違ってない。神木ヒカルが言っていることは、何一つとして間違っていない。
「……おっと、話が逸れたね。つまり、僕が何を言いたいかというと、このパスポートは紛れもなく本物だということだ。公文書を意図的に傷つけたり失くしたり、ましてや偽造・改竄・複製するのは立派な重罪だよ。いくら僕でも、国に喧嘩を売るほど愚かではないさ。
もし君が、この手帳を感情に任せて破ったりしたら、僕は君の保護者である斉藤ミヤコ女史を訴え、責任を取ってもらうことになる。その事実をゆめゆめ忘れないことだ」
だがそれでも、男のやり口――相手の弱点を的確に把握し、抜け目なくそこを狙い撃ちしてくる口舌は好きにはなれなかったが。
今度こそ神木ヒカルはしっかりと手帳を差し出し、アクアは僅かに震える手でそれを受け取った。逸る気持ちを抑えつつ、ページを次々にめくっていく。
……あった。事件当日の夕方、成田空港のスタンプが押されていた。さらに、その日から約半年前まで、神木ヒカルは海外に居たことが読み取れる。
――つまり。星野家の引っ越し先が決まる前からアイが死ぬ日まで、この男は日本には居なかった。そんな人間が、星野家の新居の居場所を知る方法なんて、内部の人間から直接教えてもらうしか……。
「実を言うとね、君たちの新居の場所はアイから教えてもらっていたんだ。何年も会っていなかったのに急に連絡が来て、子どもたちに会ってみないかって言うものだから僕も驚いたさ。『公衆電話から海外に電話を掛けるの高すぎ、ハーゲン●ッツ何個買えるんだろう』って愚痴ってたよ」
「……っ! やっぱり、貴様が情報を漏らしたんだろう! アイを殺したアイツに!!」
「それは違う。僕は君たちの新居のことを、誰にも喋ってない。神に――いや。アイに誓って、喋っていない」
「貴様の言うことなど信用出来るか!」
「君は僕を、アイを殺害した黒幕、教唆犯だと疑っているんだろう? なら、疑われている僕がわざわざ自分が不利になる情報を明かしたりはしないさ」
「どうだかな。あえて手札を見せて、相手を油断させるブラフかもしれないだろう」
「ならばもう一つ、僕にとって不利な情報を
アイを殺した男――貝原亮介だが、実は僕と面識がある。というか、向こうが一方的に僕に因縁をつけてきただけなんだけどね。
僕は一度だけB小町の握手会に参加したことがあって、その時に白い薔薇をアイにプレゼントしたんだよ。すると、それまで作り物の笑顔だったアイが本当に嬉しそうに笑ってね、思わず何秒も見つめ合ってしまったんだ。その時、どこかから強い敵意を感じて何事かと振り向くと、大学生くらいの男が凄い顔で僕を睨んでいたのさ。そいつが彼、貝原亮介だよ」
「……だったら何だって言うんだよ。そもそも、貴様の証言が事実かどうかすら判らないんだ」
「僕の言葉が信じられないのならば、物証を出すとしようか。メノウ、例の書類を彼に」
「かしこまりました。――星野様、こちらをどうぞ」
天河メノウが小脇に抱えていた書類ケースから、一枚の紙片をアクアに手渡してくる。
内容は、機器の調査報告書。アイを殺したあの男、貝原亮介がアイに送っていた複数の星の砂、その中に入っていた小型機器の一つ。あの日、天河メノウが持ち帰ったものだ。
調査結果はやはり……GPS発信機。残りのものを斉藤ミヤコが伝手を頼って調べさせた結果、盗聴器とGPS発信機が半々、といった塩梅だった。これらが封入された星の砂を数ヶ月おきに、貝原亮介はアイにプレゼントと称して贈っていたのだろう。だとすれば、貝原亮介は情報提供者が居なくとも、単独でアイの情報を得ることが出来たということになる。苺プロのトップシークレットであった「アイに双子の子どもたちが居る」という事実を奴が知っていたことも、これで説明がつく。
それに……アイは人の名前を覚えるのが苦手だ。斉藤壱護元社長はいざ知らず、実の子どもであるアクアとルビーですら度々言い間違えていた。何度も同じプレゼントを贈り続けていれば、あの日、アイの口から「リョースケ」という名が一発で出てきたことも、不思議ではない――。
「そろそろパスポートを返してくれるかな。それは僕にとって大事なものなんだ」
「ちっ……」
悔しまぎれに破り捨ててやりたかったが、先程の神木ヒカルの「斉藤ミヤコに責任を取ってもらう」の言は少年にとって途轍もなく重く、忌々しくも無傷で返さざるをえなかった。
「ああ、言い忘れてた。ここを見てくれるかな」
神木ヒカルはパスポートのとあるページを開くと、そこには「
「このパスポートはとっくに有効期限が切れていて使えない代わりに、記念で取っておくのも処分するのも自由なんだ。だから、さっき君が破っていても斉藤ミヤコ女史を訴えたりはしないよ。あしからず」
「貴様っ……!」
暴力も駄目、知略でも駄目、明らかに格上の喧嘩を売るべきではない相手だ。悔しいが、現時点で神木ヒカルは星野アクアの手に負える相手ではない。
「さらにもう一つ、物証を出そうか」
やめろ。もう、聞きたくない。
先刻から神木ヒカルは、星野アクアを怒らせるのと気落ちさせるのを両側面から繰り返していた。どんなに頑強な岩であっても、熱と冷気を交互に浴びると熱疲労で脆くなるように、アクアの精神状態は急速に疲弊している。会談が始まってそう長い時間が経っていないにも関わらずにだ。
この上、一体何を出そうというのか。
「これは知っているかい? 今時の若い子は見たことがないかもしれないな……」
知っている。
よく、知っている。
アイが亡くなったあの日から。B小町が解散し、斉藤ミヤコがその更衣室で打ちひしがれていたあの時まで。
およそ2年もの間、星野アクアがずっと向き合い続けてきたもの。
「これはね、アイとお揃いで買った携帯電話なんだ。――見てごらんよ」
知らない。
全然、知らない。
「僕とアイは、本当に……愛し合っていたんだよ。少なくとも、僕はそう信じている」
手渡された携帯電話。使い方もよく知悉しているそれを迷うことなく操作し、記録された写真を次々と確認していく。
喜んでいるアイ。怒っているアイ。哀しんでいるアイ。楽しんでいるアイ。
アイドルとしてのアイは、良く知っている。母親としてのアイは、それなりに知っている。
――でも。女としてのアイは。これまで一度たりとも見たことがなかったことに、星野アクアは今更ながら気付いた。
力なく、ルビーにその携帯電話を手渡す。画面を見ていくにつれ、彼女もアクアほどではないにしろ衝撃を受けているようだ。
完璧で究極、最強で無敵のアイドルであると信じていた反面、母親としては疑問符が残ると思っていたけれど……。
こんなにも、
こんなにも、
普通の女の子のように生き生きと笑っていたり、弱々しく悲しんでいる少女だったということに。
それを、他の誰にも見せず、よりにもよってこの男だけに向けていたという事実に。
その時、もはや何を言えばいいのか判らなくなったアクアの代わりに、ルビーが神木ヒカルの前に進み出た。
「君が、星野ルビーさんだね?」
「そうだよ、神木ヒカルさん」
「君は、何か僕に聞きたいことはあるかい?」
「特に無いかな。私の人生に貴方は必要無い。私は貴方を父親だなんて認めない。でも――」
星野ルビーの雰囲気が変わる。これは……戦闘態勢に入った時だ。
「腹いせに一発、殴らせて?」
「女性の平手は受けるのが暗黙のルールだからね。わかった――」
神木ヒカルが言い切る前にルビーは鋭くステップイン、彼我の距離が急速に縮んでいく。少女は拳を振りかぶるも、金紗の青年は特に構えることもなく、棒立ちのままだ。
そのまま、やや内角を狙ったショートストレートは彼の顔へと吸い込まれていき、無音の事務所内に頬肉を打ち抜く音が響き渡った。よろけ、たたらを踏み後退する神木ヒカル。
「……いい拳だ」
彼が振り向いた時、その頬には殴られた赤い痕と、唇の端から一筋の血が流れ落ちる所だった。
「顔を殴られたのは、随分と久しぶりだよ」
金紗の青年は懐に手を入れ、そこから取り出したのは。
「それは、まさか……」
――汚れなき、純白のハンカチ。何人にも侵されざる、清浄と無垢の色。
呻くように、星野アクアが言葉を絞り出したその視線の先で、神木ヒカルは口元の血を手巾で拭っていく。
「お前が、持っていたのか……!」
金糸で刻まれた刺繍は――Diamond。
Diamond/ダイヤモンド。
世に幾多の数ある宝石の中でも、特に希少性や価値の高さを持つ四大宝石。その一角にして宝石の王、宝石の中の宝石。
奇しくも今は4月、その誕生石であると同時に、宝石の中で最も硬く極めて高い安定性を持つ。
その宝石言葉は「純潔」、「清浄無垢」、「不変」、
そして……「永遠の愛」。
家族会議はまだ、始まったばかりだ。
Q:ルビーになぜ格闘技の設定を入れたか?
A:カミキを殴らせるため
辻褄合わせに気を遣ってはいますが、何か気付き次第、加筆修正するかもしれません。