君は完璧で究極、最強で無敵の――母親。
――天童寺さりなの命日。
――宮崎総合病院。
「何でさりなが亡くなるかもしれないって時に、あいつの両親は顔を出さないんだ!」
「お二人とも都心部で働いている方なので、すぐには……」
「それでも本当に親なのか!? 母親ってのは――」
看護師に当たっても仕方がないことぐらい、黒髪の青年研修医、雨宮吾郎には判っていた。
それでも、叫ばずにはいられない。親は子を守るもの、という綺麗事を信じたかった。例えそれが、儚い幻想であったとしても。
雨宮吾郎には両親が居ない。父親は誰かも判らず、母親も彼を産んだ時に出血多量で亡くなっている。
生まれ変わって星野アクアとしての生を受けた後も、15歳になるまで父親は不明であり。産みの母は母親と言うよりも、前世からの推しのアイドルという認識であった為、親という実感があまり持てなかった。親と言うものが、転生してなお、よく判らなかったのだ。
そんな状況の中に現れたのが、斉藤ミヤコという女性。
茫洋と霞んでいた母親像が、急速に輪郭を帯びていく。前世から抱いていた幻想に、彼女は驚くほどしっくりと馴染んでいった。
星野アクアにとって、斉藤ミヤコが母親だった。彼女こそが、少年にとって本当の母親だった。
☆
星野ルビーは確信していた。双子の兄が困っている時、苦しんでいる時には必ず、彼女が助けてくれると。その逆もまた然りだと、この二人を無条件で信じていた。であるからこそ、彼らはルビーにとって父親と母親も同然なのだと。
ぴえヨンもさして心配していなかった。荒事なら自分の出番だが、それ以外なら自分の出る幕ではないと控えていた。彼ら親子がお互いを想い合い、支え合ってきたことはぴえヨンも良く知っていたし、これからもそうすると思っていたから。
天河メノウ/姫川愛梨は冷静にそのやりとりを観察し、愉しんでいた。家族会議が始まる直前の、ただの立会人という言葉通り、粛々と事の成り行きを見守るだけだったが、推しの二人ならばこの苦境も乗り越えていくだろうという不思議な信頼があった。
一方、有馬かなは気が気でなかった。先日、星野家乃墓で垣間見えた、星野アクアの闇。それを何とかしたくて、家族でもないのに無理を言って家族会議に潜り込んでみたのはいいものの、予想を超える骨肉の争いに10代半ばの少女はすっかり気後れしてしまった。根が善性の彼女にとって、復讐の怨念という人間の最も醜い部分は正視に堪えないものだったから。
――なればこそ。
「そこまでよ、アクア」
金紗の少年の命運は、彼女の手に委ねられた。
「ミヤコ!?」
「その辺にしておきなさい。貴方の復讐は、もう……ここで終わりよ」
終わり。その忌み言葉に、少年の神経がささくれ立ってしまうのは止められない。
「何でだよ! もう少し、もう少しで、アイの無念を晴らすことが出来るってのに!」
「彼がアイの死に関わっているという確かな証拠があったなら、きっと止めなかったわ。それどころか、貴方と一緒に地獄へ堕ちてもいいとすら思ってる」
「なら止めるなよ! 子どもを助けるのが母親の役目だろう!?」
「そうね。でも、それは一から十まで何でも言うことを聞くという意味ではないわ。子どもが間違ったなら、それを叱って過ちを正すのが母親の役目よ」
12年前のあの時。斉藤ミヤコが復讐を止めたのは最初の時のみ。それ以上はアクアが家出するかもしれないと危惧して、強くは止めなかった。叱り、窘め、諭すことはあっても、本気で止めろとは言わなかったのだ。
今となっては、斉藤ミヤコには後悔の念が胸をよぎる。もっと強く言っておけばよかったと。何度も繰り返し言い聞かせるべきだったと。関係の悪化、彼の暴走を恐れて先延ばししていたが為に、復讐の怨嗟は長い時間をかけて醸成されていた。
「世界中の人間が敵に回っても、ミヤコは……ミヤコだけは、最後まで味方でいてくれると思ってたのに……! 何で、何でだよ!」
「私は貴方の味方よ。今までも、今も、これからもね。だからこそ、貴方を止めるの」
「ミヤコ……!」
「アクア、私はね――貴方を、愛しているわ」
少年の呼気が止まり、心臓すら動きを止めたかのような錯覚。アイが、少年の実母が最期に子どもたちへ伝えた、愛と呪いの遺言をまた、今この時でも繰り返されて。
「貴方は、どこへ出しても恥ずかしくない自慢の息子だって、本当に思ってる。
――ただ一つ、その復讐の気持ち以外はね」
「……っ!」
「だから今日、ここで断ち切らせてもらうわ。絶対に、この身に代えてでも。それが母親として、私がやらなければならない一番の大仕事だから」
雨宮吾郎には両親がおらず、育ててくれた祖母の望む良い子であり続けた。
星野愛久愛海に転生しても父親は不在であり、産みの母親は前世からの推しのアイドルだった為、必要以上に困らせることはしなかった。育ての母、斉藤ミヤコに対しても、彼女に負担を掛けないよう家事やルビーの面倒見を率先して行い、ミヤコが疲れた時は彼女をケアして支え続けた。
雨宮吾郎/星野愛久愛海は、手が掛からない良い子だった。
彼は、親と喧嘩したことが無かった。親に逆らったことが無かった。反抗期を、経験したことが無かった。
天才であるほど、逆境に弱い。エリートであるほど、予想外の事態に弱い。人間は、経験したことのない事例には対処出来ないのだ。高い能力と知性が完全に裏目に出た格好である。
――故に。最も信頼する母親、斉藤ミヤコに真正面から生き方を、目的を否定されるというのは、星野アクアにとって前世も含め最も衝撃的な事態であり。彼の心を折るには、この上なく効果的な一撃であった。
だらり、と。少年の両手が神木ヒカルの首から滑り落ち、腕が肩からぶら下がっているだけの状態に成り下がる。同時に膝から力が抜け、糸が切れた人形のように生気が消え失せ、床に大きな音を立ててへたり込んだ。
先程の喧騒が嘘のように、静寂が事務所内を支配した。誰かが唾を飲み込む音すら、聞こえそうな程に。
……終わった。12年の長きに渡る復讐劇は、金紗の少年の人生、その大半を費やした復讐劇は、ここに決着が着いた。
だのに、誰も喜んでいない。声も上がらない。アイを殺した犯人はとうの昔に死んでおり、恨むべき相手はもう何処にも居ないというのに。
残されたのは、生きる目的と気力を失くした、一人
星野アクアは今、12年前に母親を殺された直後に逆戻りしていた。寧ろ、前より酷いのかもしれない。あの時から今日に至るまで、ずっと自分を支えてくれた女性が、突如として反対の立場に回ったのだから。
――いや、そもそも立場や意見で言うのなら、彼女は最初から少年とは相反する場所に居た。ただ、表立って反対はせず、対立しないままここまで共に暮らしてきただけで。
「アクア……」
「触るな!」
肩に乗せられた有馬かなの手を振り払う。
もう、星野アクアは誰も信じられなかった。彼と同じ苦しみを共有した星野ルビーなら或いは、といった所だが、彼女はただ静かに少年を見つめるだけだ。そもそもルビーは復讐とは無縁であり、その点では斉藤ミヤコには遠く及ばない。その彼女に、復讐という彼の生き方そのものを否定されて、星野アクアの精神状態は限界だった。
「何で……何でだよ……。何でアイは、俺なんかを産んだんだよ……。俺なんか、生まれなければ……」
――ここからだ。
斉藤ミヤコは息を吐くと、密やかに気合いを入れ直す。いかに復讐を止めることが出来ようと、立ち直らなければ意味がない。ここで遇し方を間違えてアクアが事務所を飛び出してしまえば、最悪彼は自殺しかねない状態だ。それはさせない、絶対に。
だから、
「立ちなさい、アクア」
数秒して、少年はゆっくりと頭上を見上げる。
そこにあったのは、今まで見たことのない斉藤ミヤコの表情だった。
母親のものとも、上司のものとも違う。ただ静かに、彼を真っ直ぐに見ていた。
「私は言った筈よ。『復讐が終わった後のことを考えておきなさい。復讐は決してゴールじゃない。貴方の人生の障害物でしかない』とね。
教えて、アクア。貴方はこれから、どうしたいの?」
「……何も、したくない。何も……考えたくない」
「それでは駄目。考える時間は充分にあった筈よ。この12年間、貴方は何をやっていたの?」
「俺にあるのは……復讐だけだった。それが、叶えられなかった以上、生きる意味も無い……。
もう、放っておいてくれ……。一人に、なりたい……もう、誰とも話したくない……」
「駄目よ。私はあの時、こうも言ったわね。『貴方は独りじゃない。私が独りになんて、させない』って。貴方が成人するまで、私は貴方の保護責任があるわ。私は貴方の、母親なんだから」
「うるさいな……」
「さあ立って、アクア。こんな所で座ったままだと風邪を引くわよ。今夜は貴方の食べたいものを作ってあげるわね」
「うるさいんだよ!」
星野アクアは二度の生を経て初めて、反抗期を迎えた。子どもが親の庇護を離れて独り立ちする為のプロセスであり、かなり歪な形ではあったが、そこは避けては通れない道であった。
「何度言えば判るんだ! 放っておいてくれって言ってるだろう!」
「でも、天国に居るアイだって、貴方が体調を崩してたら心配でゆっくり休めないわ。私だって母親として、貴方の身体を心配しているのよ?」
「さっきから聞いていれば、母親、母親って馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返して……!」
愛と憎悪は表裏一体。人生が一変する状況では、その二つが反転することも、ある。
最愛の対象だった「母親」が、憎む対象になることだって、有り得なくはない。今の、自暴自棄な精神状態ならば。
「あんたは、あんたは……」
駄目だ。それだけは、言ってはいけない。言ったが最後、全てを壊してしまう。
僅かに残った理性が警告を訴えるも、暴走した感情に、反抗心に押し流されていく。
衝動の赴くまま、星野アクアの口腔は、この12年間の絆を砕きかねない言葉を吐き出した。
「もう俺に関わるな! 本当の母親じゃないくせに! 子どもを産んだことのない女が、偉そうに母親面するな!!」
その言葉は、どんな暴言よりも。斉藤ミヤコの心に、深く深く突き刺さった。
「ぁ……俺、は……」
言った。言ってしまった。
口は災いの元。吐いた唾はもう飲めない。諫言通り、全てが遅きに失していた。
「ごめ……そんな、つもりじゃ……」
もう……終わりだ。少年に残された、安息の場所を、最愛の母親を。
彼は、自ら壊してしまった。
「ちょっとアクア、何てことを――」
有馬かなが咎めようとして、止められた。
止めたのは他ならぬ彼女、斉藤ミヤコ。片手を横に伸ばし、有馬かなを遮るようにして。
「え……?」
その時、金紗の少年は目にした。
斉藤ミヤコの瞳から、涙が零れていることを。
「ミヤ、コ……?」
あれほど酷い言葉をぶつけたのだ。泣いてしまったとしても、別段不思議なことではない。
だがそれでも、星野アクアにとって彼女のその姿は、何よりも衝撃的だった。
何故なら、少年は初めて、彼女の涙を目にしたから。
もしアクアが彼女の涙を見ていたならば、彼は他の全てを差し置いて、ミヤコの涙をハンカチで拭っていただろうから。
彼女はずっと、涙をこらえていたのだ。決して、少年の前では泣くまいと。彼の前では、強い母親で居なければならないと。
「……アクア。壱護が言ってたことだけどね。アイの体格では子どもを産むのは無理があって、帝王切開になる可能性が高いと聞いたわ。大量に出血して死ぬかもしれないし、手術が上手くいっても合併症を引き起こすリスクもある。それらを乗り越えても、お腹には消えない手術痕が残るわ。そうなれば、アイドルとしては致命的よ」
知っている。
誰よりもよく、知っている。
だって、
前世での大きな後悔は、二つ。
一つは、天童寺さりなを救えなかったこと。だがこれは不治の病によるものであり、どんな名医でも彼女を治すことは不可能だ。彼女を救えず最期を看取るしかなかったのは、納得は出来なくとも理解は出来る話だった。
もう一つは、星野アイの子どもを取り上げてあげられなかったこと。怪しい男を見かけて不用心に後をつけたばかりに、崖から突き落とされ命を落としてしまった。それも、よりにもよって彼女が産気づく直前に。
その悔恨が、今も星野アクアの心に影を落としている。
「それでも、アイは貴方たち双子を産んだわ。それも、帝王切開ではなく自然分娩でね。アイの身長は151cmと大きくないし、身体もアイドルに相応しい細身のスタイルだったわ。でも、言うまでもなく出産には不向きな身体で……私には判らないけど、さぞかし苦しかったでしょうね。
……アクア。さっき貴方は言っていたわね。『何でアイは俺なんかを産んだのか』って。アクアは、何でだと思う?」
星野アクアは、基本的に理詰めで物事を考える。赤子が出来るのは男女が愛し合った結果で、アイが自分を産んだのは神木ヒカルに情があったから、という考えが真っ先に浮かんだが、ミヤコが求めているのはそういった答えではないように思えた。
「教えてあげるわ、アクア。アイが貴方を産んだのはね――貴方の声を聞くためよ」
「え……」
「母親が子どもを産んで一番最初にしなければならないことはね、赤ちゃんの産声を聞いてあげることよ。その為に母親は痛みや苦しみに耐えて、必死に子どもを産むの。自分の命を懸けてね。
他にもあるわ。貴方を抱き上げるため。貴方の体温や鼓動を感じ取るため。貴方に名前を付けてあげるため。貴方の隣で眠ってあげるため。貴方にお休みと言ってあげるため。貴方におはようと言ってあげるため。貴方に愛してると言ってあげるため――」
星野アクアの中で、12年前に止まっていた何かが。
僅かに、しかし確かに軋みを立て始めた。
「まだまだあるわよ。貴方に太陽を見せるため。貴方に月を見せるため。貴方に星を見せるため。貴方と季節を一緒に巡るため。貴方の誕生日を祝ってあげるため。貴方を幼稚園に入れるため。貴方と記念写真を撮るため。貴方のお遊戯会を見るため――」
やがて蠕動は大きくなり、ゆっくりと少しずつ歯車が動き出し。
纏わりついた錆が剥がれ、重力に引かれ落ちていく。
「貴方を学校に入れるため。貴方の授業参観に出てあげるため。貴方の運動会を見守るため。貴方の文化祭を楽しむため。貴方の進路で悩んであげるため。貴方の受験を応援してあげるため。貴方の卒業式で涙を流すため――」
一つの歯車が、別の歯車を動かしていく。
まだまだぎこちないが、歯車はもはや、単体ではなく他の歯車と確かに繋がっている。
「貴方の就職祝いをするため。貴方の初任給でご飯を食べにいくため。貴方の仕事の悩みを聞いてあげるため。貴方の昇格を喜んであげるため――」
もうそこは、朽ち果てた廃墟ではなく、確かに駆動する生命という歯車の群れだった。
「貴方の婚約を祝うため。貴方の婚約者を家に招待するため。貴方の結婚式で、貴方の手を取って歩くため。貴方の奥さんの懐妊に胸を躍らせるため。貴方の子ども、初孫を抱き上げるため――。
そして――最後はね、アクア。貴方に最期を看取ってもらうために、母親は、アイは……貴方を産んだのよ。母親が子どもを産む理由なんて、それこそ無限にあるわ」
「アイ……、ミヤコ……」
「でもね、アクア。貴方はアイに、そのほとんどをさせてあげられなかったでしょう? 貴方はアイにほとんど甘えていなかったでしょう? 母親はね、子どもに甘えられることで、自分が子どもから愛されているって実感するの。アイはそのことで、ずっと悩んでいたのよ。一緒に子育てをしていた私にだけ、打ち明けてくれたの」
「俺は……、俺は……」
「アクア、私はね――アイがやり残したことを全部、貴方にしてあげるつもりで母親をやってるの! アイの無念を晴らすことが、私の生きる目標なのよ!」
アイの無念を晴らす。少年の抱いてきた復讐とは全く違う方向性だが、その根幹は全く同じものだった。
「ここで貴方が人生を投げ出してしまったら、それこそアイは何のために貴方を産んだのか判らなくなっちゃうじゃない……。アクア、お願いだからアイの人生を無駄にしないで……。アイのためにも、貴方は生き続けなきゃいけないのよ……」
誰もが、何も言えなかった。
例え血が繋がっていなくとも、例えお腹を痛めたことがなくとも――。
斉藤ミヤコは、紛れもなく星野アクアの母親だった。
「だからアクア、立って。立ち上がって、私の涙を拭いて頂戴。
――それとも、他の女の子の涙は拭いてあげても、私の涙じゃ物足りないの?」
そんな筈が、あるものか。
目の前に、泣いている女の子が居るのなら。迷わず涙を拭いてあげるのが、彼女の教えなのだから。
このハンカチは、その為にあるのだから――。
「さあ……立ちなさい! 星野アクアマリン!!」
言われずとも。
この世で最も大切な人が、涙を流しているのなら。
何処に居たって、駆け付けてみせる。
そうだろう……アイ。
気付けば、星野アクアは立ち上がり、斉藤ミヤコの前に立っていて。
彼女の目尻に、そっと
Iolite/アイオライト。
神木ヒカルから星野アイへ、さらに星野アクアへと受け継がれたもの。
アイオライトは、「海賊が航海する時に羅針盤代わりにしていた」という迷信があったとされ、そこから転じて、夢や目標に向かって進む時に迷わないよう進むべき道を指し示す、という意味を持つ。
その宝石言葉は「誠実」、「貞操」、「道を示す」、
そして……「一途な愛」。