羨ましかった。
ルビーが、有馬かなさんが、名も知らぬ女の子たちが、アクアに涙を拭ってもらっていることが。
私だって、彼にハンカチを差し出してもらいたかった。頬に手を添えてもらいたかった。涙を、拭いてもらいたかった。
でも私は、アクアの前で泣くわけにはいかない。涙を、流してはいけない。
いつか来る、彼が困難や絶望と直面する時。打ちのめされて膝を屈する、その時までは。
強く、気高く、彼を支え続ける母親でなくてはいけないと、己を律してきたのだ。
女であれば誰もが持つ、涙の魔法を瞳の奥に隠し秘めて。
――そう。男がどんな理屈を並べても、女の涙一滴にはかなわないのだから。
☆
「……初めて見た気がする。ミヤコが、泣いている所を」
「そうよ。ずっと、我慢してたんだから」
「何で我慢してたんだよ。泣きたいなら、泣けばよかったのに。そうしたら、俺がいつでも拭いてあげたのにさ」
「……馬鹿ね。女の涙は、そんなに安いものじゃないのよ」
――やられた。
寄り添う二人を見ながら、有馬かなは己の浅慮を悔いた。
星野アクアと再会して約2ヶ月の間、深紅の少女は彼の前で幾度となく涙を零し、その度に涙を拭いてもらっていた。その行為が心地良くて、気持ち良くて、泣き虫と彼に言われようとも涙をこらえようとはしなかったのだ。
だが、
『結局、泣き演技は泣き演技でしかないの。雨は程よく降れば恵みとなるけど、振り続ければ鬱陶しくなり、やがては水害となって作物を腐らせる。客はそんなものを見たくはないわ。
いい? どんなに優れた武器でも、乱発すれば慣れる。飽きる。対策される。女の涙はそんなに安いものじゃないわ。ここぞという時に使うべきだったのよ』
こういうことだったのかと、天河メノウ/姫川愛梨が前に言っていた台詞を思い出した。
話を聞く限り、斉藤ミヤコは十数年の間、アクアの前で泣いたことはない。だから、耐性が無い。彼女の涙に金紗の少年は呆然とし、絶望の淵から立ち上がる切っ掛けとなった。
有馬かなが差し出した手は、払いのけられたにも関わらず。
ぎり、と歯を食いしばってしまう。斉藤ミヤコを見ていると、自分の未熟さをいつもいつも思い知らされるのだ。
目線だけ動かして横を見れば、星野ルビーは安心したように笑っており、胸を撫で下ろしていた。
ぴえヨンは腕を組んで、うんうんと大きく頷いている。
神木ヒカルはどことなく羨ましそうに、眩しいものを見たかのように目を細めていた。
天河メノウは口元を書類ケースで隠しており、その様はやんごとなき身分の女性が扇子で口元を見せずにいるようで――。
「ミヤコ……?」
その時、斉藤ミヤコの様子が変わった。
俯き、表情が曇り、唇を噛みしめ、両手を胸元で重ね合わせる。
有馬かなはその雰囲気に見覚えがあった。彼女と姫川愛梨が共演したドラマで、
「……アクア、貴方に言っておくことがあるの」
主演の女が、不倫相手の子を身篭った時の雰囲気だ。
☆
「……アクア、貴方に言っておくことがあるの」
「どうしたんだよ、一体」
「アクア……」
先程の見つめあっていた時とは一転して、斉藤ミヤコは目を伏せ、視線を合わせようとはしない。
一体、何を怖がっているのか。何に、怯えているのか。皆目見当がつかなかったが、アクアはその原因を取り除いてやりたかった。彼女を、助けてあげたかった。ついさっき、絶望に沈んでいた自分を引き上げてくれたように。
「ミヤコ、何であろうと聞くよ。俺はもう、大丈夫だから。ミヤコの話を、ちゃんと受け止めるから」
「……いつかは、言わなければいけないことだと思ってた。でも怖くて、押し潰されそうで……言えなかった。墓場まで持っていこうかって、何度も考えた。
――でも、ここまでね。これ以上、貴方を裏切るわけにはいかないわ。
アイは、私のせいで死んだの」
「……、は?」
「もう一度、言うわね。――アイは、私のせいで死んだの」
何を言われたのか、判らなかった。脳が彼女の言葉を、拒絶していた。
「……な、何を言ってるんだよ。意味が判らないぞ」
「アイが殺された場所、貴方たちが一週間だけ暮らした新居のこと、覚えてる?」
忘れる筈もない、この世で最も忌まわしい、あの場所のことを。だが、それがどうしたというのか――。
「私は、芸能人になりたかった。スポットライトの光に憧れて、上京して。夜景の綺麗な家に住むのが、昔からの夢だったの。
「まさか……」
「アイは当時、ドームライブを控えて多忙を極めていて、新居探しは私に一任されたの。張り切って不動産を何件も回って、あの物件を見つけて、ここしかないと即決した。運命だとすら思ったわ。
でも、あの物件はセキュリティが甘くて、壱護からは反対されたの。トップアイドルの家なんだから2段階オートロックは必須だって言われたけど、アイは一緒に子育てをしているミヤコさんに決めてほしいと私に任せてくれたわ。最終的には、あの部屋で夜景を見ながら飲むお酒は美味しいでしょうねって説得して、壱護もようやく納得してくれたのよ。
……だからね、アクア。アイの死に場所を選んだのは、私なの。私があの家を選んだせいで……アイは殺されたの」
これが、斉藤ミヤコの罪。彼女が12年間抱え続けた、誰にも言えなかった闇。
「今にして思えば、壱護が私から離れていったのはもしかしたら、私に怒りをぶつけない為だったのかもしれないわね。
貴方たちは私に感謝してくれてるのかもしれないけど、私にはそんな資格なんて無いの。だって、アイが殺されたのも、B小町が解散したのも、苺プロが廃業寸前までいったのも、みんな……私のせいなんだから。
貴方たちを引き取ったのも、一番の理由は罪悪感から……貴方たちを育てることで、罪の意識から逃れたかったのよ」
斉藤ミヤコの瞳から、止まっていた涙が再び流れ出す。でも今度は、あまりもの衝撃の大きさから、涙を拭うことも出来ずにアクアはただ立ち尽くすだけだった。
「……アクア。貴方が復讐すべきなのは神木さんじゃなくて、私なの。貴方には、私を裁く権利があるわ」
「何だよ、それ……」
「貴方が望むなら、この命を貴方にあげる。顔も見たくないと言うのなら、二度と貴方の前に現れない。
だから、アクアは私のことをどうしようと、好きにすればいいから――」
「ふざけるなッ!」
女の声を遮って、金紗の少年は心からの叫びを上げた。
「責任を放り出して逃げる奴が大嫌いだって言ったのは、ミヤコの方だろう!
あんたは逃げるな! 俺から逃げるな!!」
「アクア……!?」
涙を流し続ける女を、少年は乱暴に、無理矢理に、暴力的に引き寄せて。
初めて、全力でもって。斉藤ミヤコを、抱き締めた。
「許さない……」
「アクア……」
何度も抱き締めたことのある身体。けれど、こんなにも力の限り、強く強く抱き締めたことは無かった。
いつも、彼女の身体を痛くさせないように加減をしていた遠慮の全てを、はるか遠くにかなぐり捨てて。
どれだけ、彼女は後悔したのだろうか。
呆然自失の斉藤壱護とともに、マスコミの集中砲火の中、警察署に駆け付けて。
物言わぬ星野アイの遺体と対面した時の絶望、己の誤った選択の結末を突き付けられて。
それでも、星野アクアは。
彼女を、好きになってしまったのだから。
「絶対に許さない……!」
「アクア……!」
幾度も抱き締め、抱き締められた身体。けれど、こんなにも彼女は華奢で、か弱い女性だったのかと初めて気付く。
アクアに全力で抱き締められている斉藤ミヤコの身体が軋み、悲鳴を上げる。それでも、彼女にとってはその痛みすら心地良くて、溢れる涙がさらに勢いを増した。
どれだけ、勇気が必要だっただろうか。
つい先日まで、煌々と明るい部屋で、アイの出演しているドラマを眺めながら。悪酔いしてアクアに絡む斉藤壱護と、彼を窘める斉藤ミヤコと、アイに甘えるルビーとで、笑い声と温もりが溢れていた筈のあの部屋が。
いつの間にか明かりは暗く、音も途絶え、
近付くのも躊躇われただろう。
話しかけるのも怖かっただろう。
「本当にうちの子になりませんか?」と切り出すのに、一生分の勇気を振り絞っただろう。
喉元からこみ上げる罪悪感に、全力で必死に抗いながら。
それでも、星野アクアは。
この女性の、
「一生、許さないっ……!」
「アクアっ……!」
どれだけ、無念だっただろうか。
苺プロのエース、B小町の絶対的センターのアイ。芸能界のみならず、世俗をあまねく照らす一番星。
東京ドームという、一世一代の晴れ姿を目前にして、闇夜へと消え去ったその光を。
彼女の遺影を背にして、喪服を身に纏い、葬儀の参列者を迎える斉藤ミヤコの心境たるや、如何に。
人気低迷するB小町、傾いていく苺プロ。それでも双子の手前、逃げるわけにもいかなかった。
だがその努力も空しく、B小町は解散。最後のライブを終えて、誰も居なくなった更衣室でただ一人、ぼんやりと立ち尽くしていた斉藤ミヤコ。
思えば、あれが彼女の本質、彼女の秘められた闇の姿だったのかとアクアは回想する。
本当に罪の意識から逃げたかったのなら、双子を児童養護施設に預けて、自分は全てを忘れ、遠くで生きていけばよかったではないか。でも、彼女はそうしなかった。
逃げなかった。
双子を引き取った。
母親になってくれた。
苺プロを存続させた。
小学校の入学式に、授業参観に来てくれた。数々の行事に参加してくれた。
卒業を祝ってくれた。
中学校に入っても、同じように見守ってくれた。
共に、幾つもの季節を越えた。
共に、年齢を重ねた。
気付けば、アイよりも遥かに多くの時間を、共に過ごしていた。
アイが出来なかったことの尽くを、彼女は自分たちの為にしてくれていた。
それでも、星野アクアは、
だからこそ、星野アクアは。
「さっき、私のことを好きにすればいいって、言ったよな。
……だったら、一度しか言わないからよく聞け、ミヤコ」
斉藤ミヤコを――心の底から、愛してしまったのだから。
「ずっと、ずっと……俺の傍に居ろ。死ぬまで、俺とルビーに尽くせ。
それが……
その言葉は、この上ない愛と呪いの言葉であり、相手を縛り付ける契約の言葉でもあり。
「うん……うんっ……!」
まるで少女のように、この上なく嬉しそうに、頷いた。
☆
――やってくれたわね、斉藤ミヤコさん……!
書類ケースの裏で、凶悪な笑みを浮かべた天河メノウ/姫川愛梨は、こみ上げる愉快な気持ちを抑えるのに苦心していた。
彼女がやってのけたことを理解出来ている人間が、果たしてこの場にどれだけ居るのだろうか?
斉藤ミヤコは、星野アクアからの。
星野アイへの愛を、
神木ヒカルへの憎しみを、
両方とも、自分に集めた。上書きした。奪い取った。
男は、過去の女に縛られている限り、他の女を本気で愛することはない。
人は、誰かへの憎しみに囚われている限り、他の誰かを本気で愛することはない。
愛と憎しみ。人が持つ最も強い感情の双璧。――その両方を、強奪した。
片方でさえ、非常に強く厄介な感情である愛を、憎しみを、それらを全て、余すところなく、彼女は自分へと向けさせた。
恐らく、斉藤ミヤコは星野アクアから恨まれ、殺される可能性もゼロではないと想定していただろう。同時に、自分が彼から愛されているのを十分に自覚していて、彼の中の天秤が最終的にどちらへ傾くか、それも理解していたと思われる。
その結果。斉藤ミヤコは星野アクアにとって、星野アイをも超える、唯一無二の絶対的な存在へと昇華されたのだ。
何て強欲で、浅ましく、素敵で、最高の女性なのだろうか――彼女は。
これぞ、女。それでこそ、女。
全く、これほどの女性が未だに子無しだなんて、世の男どもはどれだけ不甲斐ないのだろうか?
――いや、それとも。
斉藤ミヤコにとって、星野アクア以外の男は眼中に無いだけなのかもしれない。
女は、男の愛によって磨かれる原石のようなもの。
星野アクアの存在が、斉藤ミヤコを眩い光を放つ宝石へと変化させたのだろう。
気になるのは、これらの行動を彼女が意図してやっていたのかどうか。
もし、狙って星野アクアの心を手中に収めたのであれば、斉藤ミヤコは大した魔女であると言えるだろう。
女の心は
だが、もしもの話だが。
これらを、彼女が意図せずにやってのけたならば。
斉藤ミヤコは控えめに言って……とんでもない傾国だ。
――まあ、どちらでも構わないわ。
知らない方がいいことだってある。芸能界では、特に。
ミロのヴィーナスとて、失われた幻想の両腕があったからこそ、芸術史に永遠に語り継がれる存在になったのだ。
それに……抱き合い睦み合う二人の男女に、細かい理屈や無粋な理由など、必要無い。
ただ、お互いへの強く純粋な想いがあればいい。
――これで。
星野アクアは、斉藤ミヤコから離れられなくなった。
そう締めくくった漆黒の少女が見つめる中で。二人の抱擁は、新たな局面を迎えようとしていた。
☆
「アクア、貴方……泣いてるの?」
「え……?」
斉藤ミヤコの見つめる先に。
星野アクアの双眸から、静かに、しかし確かに流れる、生命の雫。
「あれ……何で……」
「アクア……」
「もう、悲しくないのに……変だな……」
「いいのよ、アクア」
「え……?」
「それで、いいのよ。今度は……私が、貴方の涙を拭いてあげるから」
彼女の懐から取り出されたのは、翠玉のハンカチ。
そこに刻まれたるは――、
「ミヤコが、持ってたのか……」
Emerald/エメラルド。
四大宝石の名を冠するハンカチの、最後の一枚。
神の栄光や恵みを表すと伝えられ、木々の緑のように生命力を象徴するエメラルドは、心身のバランスや感情を安定させる、癒しの効果を持つ宝石。
その宝石言葉は「幸福」、「希望」、「未来」、
そして……「愛」。
――余談だが。
エメラルドとアクアマリンは、鉱物学上は同じベリルと呼ばれる物質であり、その効能も似通っており、相性は非常に良いとされる。
「……初めてよね。アクアが、泣いている所を見せてくれたのは」
「……俺だって、ミヤコが泣いているのを見たのは、これが初めてだ」
お互いに、同じ女性から贈られたハンカチを持ち、お互いの涙を拭い合って。
同じ人を守れなかったという、同じ罪と後悔を共に抱えて。
初めて、お互いの弱い所も醜い所も曝け出した二人は。
一人では決して放つことの出来ない、強く美しく輝く宝石たちのようだった。
▼復讐劇が終わりました。
▼ミヤコルートに入りました。
▼有馬かな恋人ルートが消滅しました。
▼有馬かな愛人ルートが解放されました。