星の子どもたち   作:パーペチュアル

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Onyx 10

 

 

 

 ――星野家の最奥部。

 ――仏間。

 

 神木ヒカルは仏壇の前で焼香し、目を閉じ手を合わせている。

 星野アイと別れてからおよそ16年。本気で彼女に会おうとすれば、会うことは出来たのだ。けれど、自分が成人するまでは、彼女がアイドルを引退するまでは――と意地を張って。その結果が、これだ。

 

 一体いつから、どこから自分はしくじったのか。

 アイが死んで間もない頃はずっとそればかりを考えていて。立ち上がって前に進む為に、答えの出ない問いに見切りをつけて。何年も目を逸らし続けてきた己の罪を、久方ぶりに直視した。

 

「神木さん」

「……何かな、ルビーさん」

「貴方はママのこと――本当に好きだったの?」

「僕は今でも、彼女のことを愛しているよ」

 

 躊躇いなく即答して、後ろを振り向く。星の視線が重なり、暫しの間沈黙が流れた。

 この男の言葉は信用出来ないが、その目の輝きは信用してもいいと、星野ルビーは直感する。彼女の産みの母親と同じ光を(たた)えた瞳。自分が、双子の兄が、無数の聴衆が焦がれ惹かれた眩い光。それはきっと、真実だと思うから。

 

「……とりあえずは信じてあげる。でもね、」

 

 背筋が粟立つ。空気が張り詰める。気温が下がったような錯覚を味わう。

 

「お兄ちゃんとミヤコさんを引き裂くような真似をしたら――」

 

 星野ルビーは怒りでも悲しみでもなく、あくまで無表情。だがその(かんばせ)は、神木ヒカルと交際する前の彼女、空虚の裏に破滅願望を隠した星野アイに瓜二つであり。

 

「絶対に、貴方を殺すから。どんな手を使っても、必ず」

 

 天童寺さりな/星野ルビーは、親の愛に恵まれなかった。

 前世の両親は、彼女を遠く離れた病院に押し込んで、ろくに見舞いにも来ず、死ぬ時も姿を見せなかった。

 今世の産みの母親は、幼い頃に殺害され。

 書類上の父親(斉藤壱護)は、夢破れた途端に雲隠れ。

 血の繋がった父親は言わずもがな。

 これで斉藤ミヤコに引き取られていなければ、親という存在そのものに忌避感を抱いていても仕方がなかっただろう。

 この点ではアクアと同じく、金紗の少女にとって斉藤ミヤコとは、母親というカテゴリーを超越した理解者なのだ。だから彼女の為なら、どんな努力も手段も講じる覚悟があった。

 

「……肝に銘じておくよ」

 

 神木ヒカルの見立てでは、星野アクアは理性的な少年である。怒りに我を忘れることはあっても、星野ルビーと斉藤ミヤコを犠牲にするような真似は絶対にしない。彼女たちとそれ以外で天秤にかけたなら、間違いなく前者に傾くだろう。

 星野ルビーも基本的には同じだろうが、彼女の場合は少し違うような気がした。いざとなったら天秤に物事を乗せる前に行動を起こしそうな、後先考えずに動いてしまいそうな危うさを感じた。その結果がどうなるかを、微塵も考えることもせずに。

 そうやって星野アイは、双子の兄妹を胎内に宿したのだから。

 

「もう一つ、言いたいことがあるんだけど」

「言ってごらん、ルビーさん」

「何で――何で、あと一日、早く来なかったの?」

 

 東京ドームのライブに参加する為に帰国したものの、聞こえてきたのは彼女の歌ではなく。

 

「貴方があと一日早く来ていたら、ママは……」

 

 彼女の訃報を告げるニュースキャスターの声と、凶報に嘆き悲しむファンの声と。

 お前のせいだと責め立てる、鳴り止まぬ声なき声。

 

「そしたら、ママと貴方は……私と、お兄ちゃんも……何で……、今更……」

 

 次第に涙声になっていき、内容も要領を得なくなっていく。だが、言いたいことは痛いほどよく判った。

 あと一日、いや半日でも早く帰国していれば。

 アイを、守れていたのかもしれない。アイは、死んでいなかったかもしれない。

 星野アクアが復讐を胸に宿すこともなく。斉藤ミヤコが罪悪感で推し潰れそうになることもなく。

 斉藤壱護は失踪しておらず、B小町は円満に解散していて、苺プロは今とは違う業務形態になっていて。

「彼」と「彼女」は寄りを戻していて、結婚していたのかもしれない。

 青年は双子の、父親になっていたのかもしれない。

 

 ――でも、そうはならなかった。ならなかったのだ。

 

「……すまない」

 

 星野アクアに罵られようと憎しみを向けられようと、神木ヒカルは真っ向から受け止めるつもりで臨んでいた。

 だが彼女から、星野アイの面影を色濃く残した少女から恨み言をぶつけられ、涙を流させてしまうのは。――どうにも、耐え難かった。

 

 静かに泣き続ける星野ルビーと。

 彼女に「Onyx(オニキス)」のハンカチを差し出す天河メノウと。

 愛する女を守れず、娘を泣かせてしまった神木ヒカルと。

 

 三人を優しく見つめるように、遺影の中の星野アイはただ、真っ直ぐに前を向いていた。

 

 

 

 

 

 

「♫~、♩~」

 

 天河メノウはいつになく上機嫌だった。自然と心は浮き立ち、身体が勝手に踊り出しそうな程に――。

 いや事実として、彼女は夜の路上で踊っていた。生まれ変わって本格的に習い始めたバレエの所作。くるくると、ひらひらと回り廻る漆黒の少女は、夜空の星々にも地上の光(ネオンサイン)にも引けを取らない輝きを放っていた。

 世界最古の国立バレエ団であるパリ・オペラ座バレエ。世界最高峰の四大バレエ団の一角として名高いその場所で、最高位のバレリーナのことをこう呼称する。

 

「星」(エトワール)――と。

 

 日本人がエトワールに任命されたのは、西暦2023年時点において歴史上ただ一人のみである。

 天河メノウが本気でその道を志すのであれば、二人目のエトワールになれるのではないかと神木ヒカルは思っている。無論、身内贔屓も多分に含まれているが、誰よりも彼女の魅力と危険性を知っている青年からすれば、それも致し方ないと言えるだろう。

 

「社長」

「……」

「社長、聞いてますか?」

「……」

 

 さっきまで踊っていた少女の先を歩き、呼びかけに反応のない青年に対し。

 天河メノウは一つ溜息をつくと、己の中のギアを入れ替えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒカル君」

「……っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 懐かしい声色。かつて、最も恋焦がれた声色であると同時に、神木ヒカルを捨てた女の最も忌まわしい声色。

 時代が変わっても、彼女の肉体が替わっても、20年前と同じように奏でられるその呼びかけに。

 肉体が、脳髄が、勝手に応えてしまう。奥の奥まで刷り込まれたパブロフ犬の反応を返してしまう。

 

他所(よそ)ではその呼び方を控えて下さいって、何度言えば判るんですか。愛梨さん」

「ヒカル君が無視するのがいけないのよ。それに、誰も聞いてないから大丈夫よ」

 

 今度は金紗の青年が溜息をつく。彼女は、あらゆるものを貪欲に飲み込む柔軟さを持ち合わせるかと思えば、時には絶対に己を曲げない頑固さを見せることもある。またある時には、気分次第で行動や選択を変えることもあるという、どうにも掴み所のない人であり、その度に神木ヒカルは苦労させられたものだ。

 

「わたしからも、聞きたいことがあるのだけれど」

「……何です?」

 

 彼女が生きている時も、死んだ後も、生まれ変わってからも。ずっと昔から、神木ヒカルは女に振り回されてばかりいる。

 姫川愛梨に。星野アイに。そして、天河メノウに。

 

「これは、どこまでヒカル君の仕込み? ――いえ、どこからがヒカル君の仕込みなのかしら?」

「仕込みとは心外ですね。僕の過去も、アクア君の感情も、斉藤ミヤコさんの独白も、決してやらせや嘘ではありませんよ」

「そうでしょうね。でも、貴方が初めて苺プロに行った時、わざと斉藤ミヤコさんを怒らせるような発言を繰り返したでしょう。相手を苛立たせ、ペースを握って本音を引き出すやり口。わたしが仕込んだ交渉術の一つ。

 そして今回も同様に、アクア君に対しても同じような行動を取っている。聡いミヤコさんならそれに気付いて、アクア君に対して冷静になるように口を挟んだでしょうね。

 でも、ミヤコさんは途中までは沈黙を保っていた。アクア君が最後の一線を越える直前までは、彼を止めなかった。不自然な程にね。つまり――」

 

 天河メノウ/姫川愛梨は人差し指をぴんと立て、手首を返して神木ヒカルに突き付ける。その大仰な動作とオフィスレディの衣装に眼鏡、理知的な語り口も相まって、ある意味では古式ゆかしい名探偵のように見えた。

 

 

 

「今日の家族会議だけれど――ヒカル君と斉藤ミヤコさんは共犯(グル)だったんじゃないかしら。違う?」

 

 

 

 一陣の風が吹き抜ける。まだ肌寒い春の夜風が、冷めやらぬ全身の火照った熱を攫っていく。

 数秒ののち、神木ヒカルはふっ、と笑って語り出した。

 

「共犯、などと大袈裟なものではありませんよ。ただ僕は以前、斉藤ミヤコさんに忠告と提案をしたまでです」

 

 ――斉藤ミヤコ単独では、どれだけ星野アクアに尽くそうとも、彼の復讐心は止められないと。

 ――神木ヒカルがどれだけ彼に憎まれようと、彼の手に掛かって死のうとも、星野アクアは真の意味では救われないと。

 

 まるで性向の異なる斉藤ミヤコと神木ヒカルであるが、星野アクアの復讐を終わらせたいという点では同じだった。

 前者は、星野アクアの未来を案じる気持ちから。

 後者は、星野アクアを映画「星の愛(星野アイ)」に出演させる為に。

 目的は違えど、乗り越えるべき障害が同じならばと、斉藤ミヤコは彼の話に耳を傾けた。

 

 泣いた赤鬼、という児童文学がある。

 心優しい赤鬼は人間と仲良くしたかったものの、人々は彼を恐れ近付こうとせず、赤鬼は悲しみに暮れてしまう。

 そこへ友人の青鬼が提案した。自分がわざと人間の村を襲うから、赤鬼はそこへ割って入って青鬼を蹴散らし、彼らを助けてやればいい、そうすれば人間たちは赤鬼に感謝し、仲良く出来るのではないかと。

 そして、青鬼の提案は上手くいった。人々は赤鬼に感謝し、遊びに来るようになった。赤鬼は人間と、友達になれたのだ。

 暫くして、赤鬼は青鬼に感謝の気持ちを伝えようと彼の家を訪れるが、そこに彼の姿はなく、一枚の置手紙があるだけだった。

 

『僕と仲良くしていると、君まで悪い鬼だと人間たちに思われるかもしれません。だから、僕は長い旅に出ることにしました。でも、君のことはずっと忘れません。人間たちと仲良くして下さい。身体を大事にして下さい。僕はずっと君の友達です。青鬼』

 

 赤鬼はもう会えないであろう友を想い、彼に感謝し、彼に謝罪し、涙を流すのだった。

 

 斉藤ミヤコは赤鬼に、神木ヒカルは青鬼になった。

 星野アクアに積もり積もった復讐の念。彼はもともと自分の感情を押し込めるきらいがあり、それらを全て引き出すのは困難を極めるだろうと予想された。

 出来うるとすれば、ただ一人だけ。復讐を果たすべき相手――神木ヒカルのみ。

 彼が少年の怒りを、膿を全て浮き上がらせ、切除し。

 彼女が手術部位(創部)を縫合する。

 

 その為に青年は、己の過ちも、罪も、醜さも利用した。少年にぶつけた。

 そしてそれは演技であると同時に、真なる感情の発露でもある。紛れもなく青年が抱き続けた、12年間に及ぶ恨み辛みの八つ当たり。

 同じ苦しみを抱えながら、少年には理解者が居て、青年には居なかった。その嫉妬も憧憬も、あらゆる感情を顔と言葉の裏に凝縮して。

 

 人は嘘をつく。星野アイなど、その最たる例。嘘の殆どは、自分をより良く見せる為の脚色であり、悪い所を隠す為の秘匿である。わざわざ醜い負の感情を他人に曝け出そうという奇特な人間は()()居ない。

 だから己の醜さを見せた神木ヒカルの闇を、星野アクアは疑わない。遠慮なく憎み、彼に殺意を抱く。星野アクアもまた、体裁を脱ぎ捨てて己の偽りなき醜さを神木ヒカルに叩き付ける。

 ――こうして、星野アクアは手術台に乗せられ開胸され、原発巣に手が届くようになった。

 

 だからこその、家族会議。

 原発巣を摘出しなければ、復讐という癌は寛解・完治しない。時間が経てば経つほどに転移を続け、やがては他の臓器に、脳に、全身に広がって患者を死に至らしめてしまう。

 

 ここで必ず、食い止めてみせる。何もかもが異なる二人の親が、ただ一つ共有する思惑。その為に、斉藤ミヤコは神木ヒカルへの悪感情やプライドを一先ず置いておくことにした。

 星野アクアの為に。

 最愛の義息子の為に。

 この世で最も愛しい男の為に。

 彼を、救う為に。

 

「――という次第です」

「ふぅん、及第点って所かしら」

「及第点、ですか」

 

 いつしか二人は、社長と部下でもなく、男と女でもなく、ずっとずっと昔の……家庭教師と教え子の関係になっていた。

 

「まずもって、貴方たち二人の労力が片方に偏り過ぎてるわ。アクア君を挑発して怒らせ心を折るヒカル君と、彼を叱咤激励して慰めて立ち直らせるミヤコさんでは、どっちが大変かは言うまでもないでしょう? これじゃ、作戦というより他力本願ね」

「……まあ、それは否定出来ませんね」

 

 この世では、壊すよりも治す方が遥かに時間と労力がかかる。

 壊れた対象が物であれば如何様にもなるし、廃棄して新品を調達した方がずっと低コストで手っ取り早いというケースも少なくない。

 しかし。対象が人間、それも心であるならば、絶対に元通りには治らない。心の傷は呪いのようにいつまでも残るし、そもそも治せるかどうかも判らないのだ。

 神木ヒカル自身もそれはよく判っているからこそ、曖昧に言葉を濁した。

 

「そこは否定しなさいよ。――次。ミヤコさんが彼の説得に失敗したら、どうするつもりだったの?」

「彼女なら何とかしてくれると思っていましたから。事実、上手くいったでしょう?」

「またミヤコさん任せ? 呆れた子ね……」

「男は、育ての母親には敵わない生き物ですから。僕と貴女がそうだったようにね」

「……そうだったわね。なら次、アクア君が本気で貴方を殺しに来てたら、例えば刃物を持ちだしたとしたら?」

「だからこその家族会議ですよ。家族の目がある場所では、彼も刃傷沙汰には及ばないと判断しましたので」

「寧ろアクア君が丸腰だったことに驚きなのだけれど……。ミヤコさんの教育に感謝しなさいよ、ヒカル君」

「ええ、全くです」

「でもね。復讐に臨むんだったら、凶器の一つや二つは用意しておく方が人間としては自然よ。それくらいは想定していたのでしょう?」

「その時は大人しく、アイのもとへ召されますよ。アクア君の協力が得られなければ、僕の計画も頓挫します。そうなった僕に、生きている価値などありません。アイの無念を晴らす事だけが、僕の生きる意味ですから」

「また、この子はそんなことを言って……」

 

 師が師なら、弟子も弟子か。この男は星野アイが絡むと、急に聞き分けがなくなり頑なになってしまう。

 彼女の為だからこそ、強くなり――同時に、弱く脆くもなる。隙の無い男に、弱点が生まれる。

 

「それにしても驚きました。斉藤ミヤコさんは僕の想像を超えてきましたよ。

 まさか……アクア君の僕に対する憎しみごと、彼女が独り占めしてしまうとはね」

「全くよね。ミヤコさんには驚かされてばかりだわ……。本当に、あの二人と付き合っていると飽きないわね」

 

『あの子たちは私の子どもです。貴方に渡すつもりはありません』

 

 初めて会談した時、彼女の言っていた言葉。あれが威勢や虚勢ではなく、本当に実行してのけるとは。

 それどころか。神木ヒカルの提案に乗った振りをして、土壇場で美味しい所を総取りして、星野アクアの全てを攫っていった。愛も憎しみも、心ごと全てを。

 彼女の意志に、行動に感嘆し、畏敬の念すら抱いた。まさか、このような人物が目の前に現れるだなんて、予想だにしなかったのだ。

 

 ――それにしても、星野アクアは何という果報者なのか。あれほどの女性から母としての愛を、それとは異なる女の情を、双方同時に注がれているのだ。男として、これに勝る喜びはない。

 

 以前、彼女に会った時に浮かんだ感想。あの時の直感は正しかったのだと、金紗の青年は事が無事に終わったことに安堵する。

 

「アクア君が羨ましいの?」

「まあ……そうですね。あれほどの女性など、世を見渡してもそうそう見つかるものではないですから」

「灯台下暗しって言葉を知ってる? そんな女はここに居ると思うのだけれど。――ねぇ、ヒカル君」

「貴女は寧ろ、男を駄目にしてしまうタイプの女性でしょうに」

「もう……。ヒカル君は、わたしを何だと思ってるのかしら」

「少なくとも、貴女はもう……僕のご主人様ではありません」

「ふぅん……そんなことを言うんだ」

 

 人を試す小悪魔的な表情から一転、急に空気が湿度を増した。

 寂しげな、今にも泣きだしそうな、秋空の雨月のような雰囲気。それが本気の感情なのか演技なのか、付き合いの長い神木ヒカルと言えど、確実に見分けることは叶わない。

 

 斉藤ミヤコを「魔性の女」、「傾国の女」とするならば。

 姫川愛梨は、「原初の女(リリス)」、「運命の女」(ファム・ファタール)と言えるだろうか。

 

 男を惑わし、(かどわ)かし、堕落させる女。

 20年前の神木ヒカルを、年端も行かぬ少年を人間から犬に堕とした女性。星野アイと出会う前は、彼女こそが世界の全てだと本気で思わせた、ただ一人の人間。

 

 天は二物を与えずと言うが、彼女は四つも五つも持ち合わせていた稀有な女性だ。だが最期はこれまでの因果応報と言うべきか、不貞を責められ心中の憂き目に遭い、その生涯に幕を閉じた――筈だった。

 しかし彼女はその経験すらも糧にして、こうして再び……神木ヒカルの傍に舞い戻った。前世に勝るとも劣らない才覚を持ち、この上に時間(若さ)という絶対にして最高のアドバンテージまで手に入れてしまった。

 この世に神と呼べる存在が居るのなら。一体彼女に、何をさせたいのだろう。生まれ変わらせてまで、彼女に何をさせるつもりなのだろうか。

 

「――ヒカル君」

 

 漆黒の少女が手を伸ばす。長い指がするするとネクタイに絡みつく。原初の男(アダム)を罪に巻き込んだ始祖の女(イヴ)と、彼女を罪へと誘った悪魔の蛇(サタン)を混ぜ合わせたような、げに妖しき女の愛撫にも似た仕草。

 

「生命は海という母から生まれて、やがていつかは再び海へと還るの」

 

 そのままネクタイを引っ張られ、30センチ近い身長差が狭まる。

 20年前は首輪で行われたその行為が、形を変えて現代で再現される。

 

「貴方だってそう。色々と寄り道はしても、最後にはわたしの所に帰ってくるのよ。

 男は育ての母親には敵わない生き物だって、さっき貴方が言ったことでしょう?」

 

 金紗の青年の額、その下の方を、人差し指でツンと軽く突かれた。これだけならば男女や母子の親愛・求愛の行動とも取れるのだが、無論それだけに終始する筈もなく。

 

「斉藤ミヤコさんに出来て、わたしに出来ないなんてことはないわ。

 わたしが貴方を、星野アイから解放してみせる。アクア君と同じように、星野アイへの妄執を断ち切ってあげる」

 

 少女の指先が下へ下へと、時折優しく突き立てながら降りていく。その部位は眉間、人中、喉頭、心臓、水月と、いずれも人体の急所ばかり。

 最後に、正中線上の弱点の最下部、金的に彼女の手が及ぼうとした所で、神木ヒカルは少女の手を振り払った。

 

 もう、金紗の青年は昔とは違う。全身全霊で彼女に尽くし、彼女の全てを受け入れていたあの時とは。

 そうした行為の果てに、彼女が子を身篭った20年前とはもう、何もかもが変わってしまったのだから。

 

「ならば、こう言わせてもらいましょうか――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やれるものならやってみろ。姫川愛梨」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふふ……」

 

 しかし、漆黒の少女は20年前と同じように、たおやかに艶然と微笑んで。

 何もかもが変わりゆく世界で、変わらないものを見つけた喜びを胸に抱いて。

 自分と彼が、こうして同じ時を過ごせることに、ただただ偶然と必然に感謝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ところで。社長、話を戻していいですか」

「何だい?」

「パンプスのヒールが折れました。これでは歩けません。抱っこして下さい」

「……すぐに迎えを寄越すから、少し待ってなさい」

 

 ビジネス用の女性靴でバレエを踊っていれば、それは折れて当然だろう。

 神木ヒカルは、いつまで経っても手の掛かる旧知の女(元・ご主人様)に、改めて溜息を吐いた。

 

 

 




本SSも、次回で一区切りとなります。
いよいよアクアも、覚悟を見せる時がやって参りました。
ミヤコ推しの方々にご満足いただけるよう気合いを入れて執筆中ですので、数日の間お待ちください。


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