アイツはいつもいつも、私の中を搔き乱す。
星野アクアという、瞳に輝きを宿した少年は。
「この村に民宿は一つしかありません」
撮影前に会話したときは、良く言えば王子、悪く言えば世間知らずのボンボン、というような第一印象だった。傍に居た妹らしき女の子が場違いにも騒いでいて、その印象に拍車をかけた。
「一度チェックインしてから村を散策するといいでしょう」
演技には見えない自然体。だのに、違和感の塊が本能に警鐘を鳴らしてくる。
目の前にいる主演の女性も、目を見開き、呼吸を忘れたかの如く硬直し、指先が震えていた。
「では、ご案内します」
例えるならば。
人間と同じ見た目でありながら、人を喰らって彷徨うゾンビのような。
宿主を内側から食い破り、中枢を乗っ取って操る寄生虫のような――
「カット! OKだ!」
監督の声が響き渡り、そこでようやく時が動き出した。
これはあくまで映画の撮影なんだと、自分に言い聞かせていないと、崩れ落ちてしまいそうだ。
私が……負けた?
「監督、撮り直して」
「ん? いや、問題なかったぞ」
「問題大ありよ!」
監督の服の裾を握りしめる。撮影でもないのに、溢れ出る涙が止まらない。
「今のかな、あの子より全然だめだった……!」
この時、私は気付いていなかった。周りの大人たちが、ひどく冷めた視線で私を見つめていることに。
「やだ! もっかい! お願いだから!!」
ただでさえ調子に乗って扱いにくい子役が、癇癪を起こして手が付けられなくなっている。
大人であれば、怒鳴って黙らせればいい。あるいは理を説き、諭すことも出来るだろう。
「次はもっと上手にやるから……!」
しかし、感情的になった子どもには話も通じず、下手に実績があって無碍にも出来ないとなると、どうしたものかと大人たちはほとほと困り果てた。
人間は仕事に対し、つつがなく問題なく進むことを望む。トラブルの発生を喜ぶ者など、そうそう居るものではない。
「もいっかい! ねえ!」
「ほら、これ使って」
滲む視界の端に映り込む人形。それが、今しがた私を負かした少年だと気づくのに、数秒の時間がかかった。
動きを止めた私に向けて、差し出される小さな手のハンカチ。そのまま目尻を柔らかな感触に拭われていく。
「泣くのは演技だけで十分だよ。可愛い顔が台無しだぞ」
「泣いてない!」
「鼻声で言っても説得力ないな」
「……っ」
怒りが悔しさを上回り、ハンカチを奪い取って背を向ける。これ以上顔を見られたくなくて、目を抑えながらマネージャーのもとへ踵を返した。
負けるだけならまだしも、これ以上恥を晒すのは耐えられなかったから。
☆
「さっきは助かったよ、早熟」
「何が?」
「有馬かなだよ。お前があいつを抑えてくれて、スタッフも感謝してるぜ」
「いや、別に大したことはしてないし……」
「大したことなんだよ。揉め事を解決するのは、それだけでじゅうぶん手柄だ。
有馬かなは実力も実績もある。子役では随一と言ってもいい。だが、現場からは好かれてない。あのままじゃ、あいつを使いたいって人間は減る一方だろうな」
「ああ、わかる。最初に挨拶した時も喧嘩売られたし、ADさんを顎で使ってたし」
少し離れた所に居る話題の人物を見やると、彼女もこちらを見ていたのか視線が重なる。気まずくなったのか、有馬かなは夕焼けよりも顔を赤くして、ぷいっと顔を横に逸らした。その様子を監督も見ていたのか、ふっと笑ってこっちに向き直る。
「あいつ、早熟に気があるんじゃないか?」
「中学生みたいなことを言うんだね、監督」
「男はいつまで経ってもガキなのさ。でもな、女は小さいときからずっと女なんだよ」
「そういうもの?」
「そういうものだ。女も口説けないやつに役者は務まらない。役者は見ず知らずの観客を口説き落とすのが仕事だからな。その点、お前は合格だ」
ポンと頭の上に手が置かれる。だが不思議と悪い気はしなかった。
俺には父親が居ない。前世も、今世でも。だから父親がどういうものなのかは判らないが、もし居たのならば監督のような存在なのだろうかと、漠然と考えた。
「大げさだよ」
「大げさなもんか。ハンカチを差し出して、涙を拭ってやっただろ? イケメンにこれをやられりゃあ、大抵の女はイチコロだ。その後はホテ――いや、何でもない」
ホテルに連れ込める、とでも言おうとしたのだろう。俺を何だと思っているんだ、全く。
少なくとも、三十路のおっさんと子役のガキの間で交わす話題ではない。でも、どこか心地良さを感じていた。
☆
「星野、アクア」
帰りの車の中で、台本の端に追加された名前を見やる。本名か芸名かは判らないが、この名前を忘れぬよう、しかと心に刻み込む。
「……次は、負けない」
そう呟いたところで気が付いた。あの時のハンカチを返していないことに。
懐から取り出す。「Aquamarine」と刺繡がされた、緑がかったブルーの手巾。アイツの瞳と、同じ色。
森林の薄暗闇の中、木漏れ日を受けて光り輝く、金色の髪。
自然体でありながら、異質さを当たり前に身に纏う雰囲気。
この胸に宿った炎が、ただの意地ではないことを自覚するのは、もう少し先の話になる。