「ルビー、大丈夫?」
「……うん。もう平気だよ、ミヤコさん」
胸元から顔を上げた星野ルビーは、いつもの闊達な様子を取り戻していた。斉藤ミヤコはポンポン、軽く頭を叩くと身体を離し、中断されていた話を再開する。
「さて、3つ目は……と言いたいところだけど、ここから先はアクアが帰ってからにしましょう。夜には戻ってくる筈だから」
「だったら、私はお洋服を――」
「ルビー、宿題はどうするの?」
「うっ……。明日やるから……」
「昨日も同じことを言って、かなさんの家に出かけたわよね。まだゴールデンウィークに入ったばかりなんだから、宿題くらいさっさと片付けておきなさい。前みたいに、連休の最終日にアクアのノートを丸写ししないようにね」
「え~っ、そんなぁ……」
「あんまりゴネると、お小遣いを減らすわよ? 私も見てあげるから、さっさと勉強道具を持ってきなさい」
「はい、やります!」
いくらぴえヨンのアシスタントとして大金を稼いでいるといっても、ルビーの意志で自由に口座から引き出せるわけではない。アクアならばいざ知らず、ルビーの好きなようにお金を使わせるのは危険だと判断したミヤコによって管理されているのだ。財務省にノーと言われれば逆らえない政権与党と同じである。
ばたばたと勉強道具を取りに行ったルビーを、有馬かなは感心した様子で見送った。
「ルビーの扱い方が上手いですね……」
「当然よ。アクアと一緒に、赤子の時から面倒を見ているんだもの。
――かなさん、覚えておきなさい。人を使うのは
「覚えておきます」
「それと、人間はやっぱり我が身が可愛いものだから、都合が悪くなった途端に『言った言ってない聞いてない』と逃げようとするものなの。そうなった時は、立場の弱い方が泣きをみることになる。その点で、苺プロのような小さなプロダクションは大手には敵わない。だから口約束は信用せず、書面で契約をしっかりと確認しておかなくてはならない。大手に喰い物にされない為に、契約と証拠と法律を敵に回さないよう気をつけなくてはならないの。忘れないでね」
「はいっ」
「随分と実感がこもってますね、ミヤコさん」
「全くよ。飲みの席での口約束ほど、信用ならないものはないわ。いくつの企画がポシャったことか……」
資料作成や営業にどれだけ手間暇かけようとも、実際に採用されて企画が動き出さなければ徒労に終わる。過去を思い出して軽くブルーになっている所に、宿題一式を片手にルビーが戻ってきた。
「……どうしたの? ミヤコさん」
「ちょっと昔のことを思い出していただけよ。それよりもルビー、私はそこで仕事してるから、判らない所があったら聞いて頂戴」
「はぁ~い……」
「良かったらわたしが教えましょうか、ルビーさん」
「メノウちゃん、いいの!?」
「ええ、構いませんよ」
「天河さん、あまりこの子を甘やかさないでくれるかしら」
「大丈夫ですよ、ちゃんと自分で考えさせるようにしますから」
「……ならいいけど。それじゃ、頼んだわよ」
そうして、斉藤ミヤコはノートパソコンに向き合い仕事を始める。
その横で、天河メノウ/姫川愛梨と共に問題集に取り組む星野ルビー。女子中学生から女子高生が勉強を教わるという、字面にすると妙な事態ではあるが、実際の二人を見ていると不思議としっくりとくるのだから判らない。
手持ち無沙汰になった有馬かなは、スマートフォンを取り出していつものようにお気に入りのサイト巡りやエゴサをしていたが、いつもと違ってまるで集中出来なかった。頭に浮かぶのはアクアの、アクアの――、
「はぁ……。――え?」
他の全員が、有馬かなをまじまじと見ていた。先程の溜息は、思いの外部屋に大きく響いていたようだ。
「どうしたの? 先輩」
「い、いえ。何でもないわよ!?」
「どうせ、アクアのことでも考えていたんでしょう?」
「でしょうね。
「うっ……!」
「何か、悩みがあれば聞きますよ。
――ほらほら、お姉さんに何でも言ってみなさい」
「えと……アクアって、その、いい身体してるなって……」
「「「ああ~」」」
母音の混声合唱が起こり、差し合わせたように全員が同意する。異論を唱えるものはここに誰も居なかった。
アクアはいわゆる細マッチョとスリムの中間に位置する体格である。ぴえヨンのように過剰な筋肉に覆われた体型は、女性から逆に引かれることも少なくないが、細マッチョを嫌いな女は居ない、というのが斉藤ミヤコの持論である。
10代半ばの、成長途上の少年の肉体。大人ではなく、さりとて子どもでもなく。女とは明らかに違う、それでいて必要以上に男くさくもなく。様々な要因の境界線上にある、奇跡のようなバランスの上に成り立った今だけの存在は斉藤ミヤコを魅了し、有馬かなをも一夜にして虜にしている。
「それはそうよ。食事に運動、睡眠。私がああなるように調整しているもの」
「ミヤコさん、GJよ。あの年頃の、あの体型からしか摂取出来ない栄養はあるものね。
「気持ちは判るけど、貴女はアクアに手を出さないで頂戴ね。そういえば、半月くらい前にアクアが言ってたんだけど――」
『俺、もっと筋肉をつけた方がいいと思うか?』
『どうしたの、アクア』
『ミヤコはさ、お姫様抱っこに憧れることはないか』
『それは勿論、あるわよ』
『でも、今の筋肉量じゃミヤコを抱きかかえるには足りないかな、って』
『それって、遠回しに私の身体が重いって思ってるのかしら?』
『思って……ねぇよ? でも――』
『でも?』
『最高の抱き心地だとは、思ってる』
『全くこの子は、本当にもう……』
『ミヤコ……』
『貴方は、そのままでいいのよ。そのままの貴方が、好きなんだから』
………………。
…………。
……。
「ミヤコさん、それって自慢ですか?」
「あら、事実を言っているだけよ」
「自慢だよね」
「自慢ですね」
「そこの二人、うるさいわよ。
――折角だから、もう一つ講義しましょうか。かなさん、男には3つの袋があると言われているの。何だと思う?」
「聞いたことがあります。確か……『お袋』、『給料袋』、『堪忍袋』だったかと」
「それも正解の一つよ。でも私が言いたいのは『胃袋』、『給料袋』、『玉袋』の3つね」
「玉袋って……」
「夜の生活のことよ。貴女もアクアと男女の関係になった以上、もう他人事じゃないんだから。
それで、この3つの袋をいかに掴んでおくかが男女関係においては大事なことなんだけど、一説では全部支配すると危険、という話があるわ。1つしか掴んでいないと浮気されるけど、全てを掴むと男は駄目になる、だから2つ掴んでほどほどに遊ばせ、ほどほどに支配しろという説ね」
「そういうものですか?」
「面白いわよね。で、本題なんだけど、かなさんは料理は出来なかったと記憶しているのだけど」
「……ええ、まあ。一人の時はウーバー頼みです。外食は栄養が偏るので控えてます」
「得意になれとは言わないけど、少しは身に付けておくことを勧めるわ。アクアが疲れて帰ってきた時、簡単なものを作ってあげられる程度で良いから。空腹は最高の調味料、それを味方につけるのよ。そうすれば、料理が苦手という印象は無くなる。教わるのは私でもいいし、ルビーも簡単なものなら作れるわ。天河さんは――」
「出来ますよ。
――これでも人妻だったんだもの」
「そういうこと。別に必須のスキルじゃないけど、料理は出来ないより出来る方が絶対にいいわ。食事は生きていく上で必ず必要なものだから。
貴女はまだ、アクアの袋を何も掌握出来ていない。今のままじゃ、いずれ逃げられてしまうわ。今後に期待してるわよ」
「努力します。――ところで、私も聞きたいんですけど」
「何かしら?」
「その、3つの袋の話ですけど。ミヤコさんの方はどうなんですか?」
すると、斉藤ミヤコは妖しくも美しく笑った。その質問を待っていた、と言わんばかりに嬉しそうにして。
「私? アクアの袋は全部支配してるわよ。私はアクアの食事を作っている
「さっき、全ての袋を掴むと男は駄目になるって言いましたよね? 話が違いませんか」
「そういう説もあるってだけ。それに、女にとって二枚舌のダブルスタンダードはあって当たり前。普通なら筋が通らないと非難される態度も、美人であれば許されるのよ。覚えておくといいわ」
「……勉強になります(この女狐が)」
「何か言ったかしら?」
「気のせいです」
「これが噂の嫁姑バトルってやつなのかな、メノウちゃん」
「ええ、本当に見ていて飽きませんね。彼女たちは」
「そこの二人、聞こえてるわよ」