「かなさん、わたしたち以外にはアクアさんとの関係を隠して下さいね。あくまで同じ事務所の仲間、友人という体でお願いします」
「ええっ!? なんでよ!」
「当然でしょう。確固たる地位を築けていない若手女優が実は彼氏持ちだなんて世間に広まってしまえば、アイドル程ではないとはいえ芸能活動に支障をきたします。それで困るのは貴女の方ですよ?」
「うっ……」
やはり釘を刺しておいて正解だったと、天河メノウ/姫川愛梨は安堵する。有馬かなを再起させる計画はまだ始まったばかりなのだから、こんな所で躓いているわけにはいかないのだ。
男が出来たばかりの女子高生なんて、周りに彼氏自慢したくて仕方がないに決まっている。しかもその女子高生は
「愚痴や惚気ならわたしたちが聞いてあげますから、それで我慢して下さい。
――それとも、女優を辞めて堅気に戻りますか? もしくは、アクアさんとの関係を切りますか?」
「どっちも嫌よ」
即答だった。彼女の人生を費やしてきた職業と、ようやく実り成就した初恋にして最愛の男と。どちらかを切り捨てるなど考えられなかった。
「アクアみたいに言わせてもらうなら――男の一人くらい隠し通してこそ、一流の女優。女としての幸せと、女優としての幸せ。普通は片方かもしれないけど……どっちもほしい。有馬かなは欲張りなのよ」
「それでいいんです。前にも言いましたが、自分が一番美しいと確信出来なければ到底、一流にはなれません。女優は欲張りなくらいが丁度いいんですよ」
染まりつつある。有馬かなというキャンバスに描かれた絵に、星野アクアの色が重なっていく。自分が為すべきことは、その絵画がただの落書きではなく、後の世に遺したいと思わせる名画に仕立て上げることだと、漆黒の少女は改めて己に言い聞かせる。
「まあ、アクアさんが彼氏だと公表した上で、女優を続けていく方法もあるにはありますよ」
「えっ!? 何々、教えてよ!」
「アクアさんが今参加している恋愛リアリティショーがあるでしょう? あの番組内で公式カップルとして成立すれば、大手を振って彼氏彼女だと宣言出来ますね」
「ちっ! 黒川あかね、私と代わりなさいよ! あの女、恋愛リアリティショーに向いてないくせに……!」
星野アクアに片想いしている純朴な少女、というキャラクターを確立した黒川あかね。だが、以前より大分マシになったとはいえ、ここのところ伸び悩んでいるのも事実だった。
アクアは鷲見ゆきやMEMちょとも絡んで、談笑したりからかったりモーションをかけられたりと、黒川あかねだけを特別扱いしているわけではない。良く言えば八方美人、悪く言えばスケコマシ野郎と視聴者からは評されている。実際に、斉藤ミヤコと有馬かなの二人で両手に花の状態なのだから、その風評は的を射ているのだが。
そういうわけで、黒川あかねはアクアに対しどうやってアプローチすればいいのか思い悩んでいた。番組スタッフから「視聴者はもっと過激なものを観たがっている」と助言され、彼女のマネージャーが事務所の社長に怒鳴られているのを聞いて、焦りはますます大きくなる一方である。
その状況が大きく変わるのは、もう少し先の話。
☆
星野アクアと斉藤ミヤコのこの世の春が梅雨へと移り、入れ替わるように深紅の少女に桜の季節が訪れた。二人の関係は三人の関係となり、それぞれの時間の過ごし方も変わっていく。
「これを読んでおきなさい」
法律の本、会社経営の本、心理学の本、子育ての本、などなど。
光と湿気と手垢で少しばかり変色し、多数の付箋が挟み込まれた随分と年季の入った本の数々。斉藤ミヤコがアクアとルビーを引き取って間もない頃に読んでいたものである。
「この本は……?」
斉藤ミヤコから渡された数々の本に対し、有馬かなは一定の有用性は認めてはいるものの、それは今必要なことなのかと疑問を抱いた。というより、日を追うごとに女として磨かれていく自分やアクアとの蜜月が最高に充実していて、他のことに手を取られたくないというのが本音だった――のだが、
「私はこれらの本を参考にして、アクアのことを篭絡したのよ。いずれ必ず役に立つわ」
「1ヶ月で読んでみせましょう」
深紅の少女はあっさりと掌を返し、そのやりとりを聞いていた星野ルビーは「うわっ…私の先輩、チョロすぎ…?」と呆れた目で二人を見ていた。
斉藤ミヤコからして、これは自分の後継者育成の一環という側面もあるのだが、無論それだけではない。アクアは最近、有馬かなに多くの時間を割いていて、自分と二人で過ごす時間が大幅に減ってしまったことへの意趣返しである。アクアの篭絡に役に立つと言いつつ、少しでもアクアの手を空けさせようとする不倫女の画策であった。母性や慈愛、善意と表裏一体の打算や計略、狡猾さという点において、有馬かなはまだまだ斉藤ミヤコには遠く及ばない。この辺りはやはり、積み重ねた人生経験の差がモノを言う。
姫川愛梨は兎も角として、アクアが信奉する斉藤ミヤコもまた、綺麗なだけの女ではない。
家族会議の時に、星野アイへの愛を、神木ヒカルへの憎しみを自分に集め、星野アクアにとって唯一無二の絶対へと成り上がったこと。先日、有馬かなの宝物である「
「綺麗な薔薇には棘がある」、「白鳥の水かき」といった言葉通り、美しい顔の裏側には醜い欲望や打算が渦巻いている。だが、そういった負の側面も含めて相手を受け入れるのが真の愛であり、良い所だけに惹かれているうちはまだまだ恋の域を出ない。この点でも、有馬かなは斉藤ミヤコに水をあけられていた。
☆
「……できた」
有馬かなの舌先に乗った、さくらんぼの茎。その形は見事に結ばれており、弛まぬ努力がようやく実を結んだのだ。
「舌でさくらんぼの茎を結ぶことが出来る人間は、キスが上手い」という定説があるが、これにはそれなりの根拠がある。男女の情交はキスにしろ愛撫にしろ奉仕にしろ、とにかく舌と顎を酷使する行為であり、この訓練によって舌の柔軟性と制御能力、持久力を複合的に鍛えられるのは間違いない。
斉藤ミヤコから手ほどきを受けた時も、「裏筋が――」、「蟻の門渡りが――」、「皺を一本一本なぞってほぐすように――」、「舌先に力を入れ尖らせて――」「円を描くように絡みつかせて――」と彼女のオーダーを一つ一つこなしていくうちに、顎が疲れて喋ることすら億劫になったものだ。
また一つ、深紅の少女は新しい武器を手に入れた。
☆
雨が降っている。
微睡みの中、有馬かなは薄っすらと目を開けると、ベッドサイドに置いてある箱がまず視界に入ってきた。
避妊用ゴムの詰め合わせ、
――0.02。
それが、有馬かなと斉藤ミヤコの間に横たわる差だ。
たかが0.02。されど、0.02。紙の中でも特に薄いレシート用紙の、さらに半分以下の厚みしかないにも関わらず、それは絶対的な差となって彼女の前に立ち塞がっている。
(どうすれば、どうすればミヤコさんに追い付ける? ミヤコさんを追い越せる?)
いっそのことゴムに穴をあけてやろうかと一瞬考えたが、すぐに却下した。
それに――有馬かなは星野アクアを困らせたくはなかった。結婚や出産なんて、今の自分にはまだピンと来ないけれど、せめて生まれてくる新しい命は祝福と共に迎えてやりたいとは思っている。父親からも母親からも認められた、望まれて生まれた子なんだと言ってあげたいのだ。
星野アクアのような父なし子に、幼くして母親を亡くした子にしてはいけない。
有馬かなのように、商品価値が無くなった途端、親から見捨てられる子にしてはいけない。
当たり前の幸せを、当たり前に与えられるような子に――。
「アクア……」
手を伸ばし、隣で眠っている金紗の少年の頬に触れる。……温かい。
彼の部屋に備え付けられた、クイーンサイズの大型ベッド。斉藤ミヤコも交えた三人だと流石に手狭だが、小柄な有馬かなと男としては細身のアクアの二人だと、かなりスペースに余裕がある。広い世界の中、二人は身を寄せ合って、ひっそりと生きている。
二人の流した汗と涙と涎と鼻水とそれ以外の液体が気化し、湿度の高い大気に混ざった空間。お世辞にも良い匂いとは言えないが、不快ではない。この匂いにも、随分と慣れてしまった。
そういえばこの前、天河メノウ/姫川愛梨が言っていた。約20年前に彼女が、まだ小学生だった神木ヒカルと共に居た頃の話だ。
彼女らは時折、連れ立って廃墟を巡るのが趣味だったらしい。それは何とも風情のある趣味だなと感心したのも束の間、あの女は事もなげにこう言い放った。
『ヒカル君と廃墟でセックスするのは、最高に気持ち良かったわ。日常での嫌な事を全部忘れられた。余計な事がみんな頭から抜けていった。滅んでしまった世界で最後の二人、アダムとイヴになれた。まるで、神様になったような気分を味わえたのよ。――良ければ、ミヤコさんも試してみたら?』
『……考えておくわ』
この女、絶対やる気だな――と。その場に居た全員がそう確信したものだ。
斉藤ミヤコは成人で、有馬かなは未成年だ。酒も飲めない。煙草も吸えない。犯罪を犯しても実名報道はされないが、選挙権も無い。まあ、政治にさして興味は無いからそれは構わないが。
それに、車の免許を持てない。斉藤ミヤコは好きな時に、好きな場所へ行くことが出来る。いろいろと
逆に、自分にはそれがない。基本的に運転手任せだ。タクシーに乗って行先を指定することは出来ても、ステアリングを握って実際に運転するのは他の大人である。
そして何より――好きな人と結婚することも、出来ない。
「早く、大人になりたいなぁ……」
「どうしたんだよ、かな」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「それは構わないが。何か、悩みでもあるのか」
「えっと、悩みというか……」
星野アクアの一番になりたい。有馬かなの心の奥底に秘められた、本当の願い。
男だけではなく、女とてやはり欲深い生き物である。一つを手に入れればその上にまた一つと、欲望には際限がない。ちょっと前まではアクアと男女の関係になれただけで満足だったのに、今は彼の一番になりたいと思ってしまっている。
有馬かなは斉藤ミヤコに感謝しているし、尊敬もしている。彼女を、裏切りたくはなかった。何よりも、アクアの不興を買いたくなかった。下手に斉藤ミヤコの居場所を奪おうとすれば、彼に疎まれ別れ話を切り出される可能性だって、無くはないだろう。
「アクア……」
「何だ?」
「もう一回、して」
「あれだけやってまだ足りないのかよ。身体は大丈夫なのか?」
「問題ないわ。最近は体力もついてきたしね」
膝立ちになって、身を起こしかけた少年の肩を掴んで再びベッドへと沈め、その上に覆いかぶさる。暫し、互いの間に静寂が流れ、雨音しか聞こえなくなる。
(ああ……こういうことなのね)
眼下には、己の手で組み敷かれる美しい金紗の少年。姫川愛梨が神木ヒカルを支配したがっていた気持ちが、言葉ではなく心で理解出来た。
有馬かなにとって、星野アクアはこの上なく特別な存在だ。では星野アクアからして、有馬かなはどれくらい特別なのだろうか。
その疑問に蓋をするように、深紅の少女は少年に身を預けると、再び唇を重ね合わせた。
雨が降っている。
重曹ちゃん魔改造回は次回で一区切りつけて、その次で姫川大輝の話に合流する予定です。