舞台劇「雨に唄えば」。黒川あかねは、ヒロインの片割れである駆け出しの女優キャシーを演じていた。
舞台は
これまでの無声映画ならその声も問題ではなかったが、これからの時代はそうはいかない。美しい歌声を持ち評価されつつあるキャシーのことが気に食わないリナは、契約を盾に彼女が表舞台に立てないよう画策する。そこでドンと彼の親友コズモ、それにキャシーは一計を案じて――という筋書きだ。つまりは、新進気鋭の女優が時代遅れのスター女優にとって代わり、意中の男であったドンと結ばれるという下克上の物語、ある意味ではシンデレラストーリーである。
この物語、自身の経歴と重なる部分もあって、黒川あかねには非常に理解しやすいものだった。
ただ一つ懸念事項を述べるならば、彼女はそれまで恋をしたことがなかったという点だろう。未知の領域ならば、想像で補い手探りで演じるしかない。子役ならば恋を知らなくてもさして問題ではないが、女優となると死活問題だ。何事も経験、一流の女優になるには本気の恋愛を知る必要があるという姫川愛梨の言はまさに的を射ていた。
そんなわけで、黒川あかねの演技は立ち上がりが悪かったのだが、とある出来事からその状況は一変した。
『考えすぎなんだよ、君は。恋愛は頭でやるものじゃない、心でやるものだ』
恋愛リアリティショーの場にて、青空の下で。
手を差し伸べてくれた金紗の少年、彼と踊る屋上でのダンス。
その時、黒川あかねに初めての感情が沸き上がった。その気持ちが何なのか、彼女が理解するには今暫しの時間を必要とするのだが。
それからというもの、蒼玉の少女の演技は少しずつ変わっていった。恋愛表現に色艶が、真に迫る感情が上乗せされ、少女は名実ともに劇団ララライのエースとして認められるようになる。
――もう離れません。二人の愛は星絶えるまで。
姫川大輝演じるドンのことを星野アクアだと思い込むようにして、彼の顔を真正面から見てうっとりとした表情を浮かべる
姫川さんとアクアくん、どこか似ているような気がするな……と。
☆
ゆっくりと、しかし軽い足取りで近付いてくる有馬かな。星野アクアの、姫川愛梨/天河メノウが掴んでいる方とは逆の腕を取り、胸元に抱え込む。そのまま睨み合うこと暫し、数秒のことなのか、何分にも渡るのか。
瞬きを忘れたかのように鋭い眼光の深紅の少女と、余裕の笑みを崩さない漆黒の少女。一触即発の空気は時間の流れを歪め、音を掻き消し、初夏の汗ばむ大気が次第に冷え込んでいく。
ちなみに。この時、金紗の少年は投げやりになっていた。考えていたことといえば「この二人、大きさは同じくらいだが天河の方が女子中学生だけあってやや固いか。けどやっぱりミヤコのが一番だな」という最低な感想だった。男なぞ、内心はそんなものである。
だが、一瞬にしてその目が見開かれる。
姫川大輝からは見えなかったが、有馬かなの腕が背後から差し込まれ、星野アクアの背中を撫でていた。その指が、つい最近にできた傷を這うように触れられる。
姫川愛梨は生前、神木ヒカルの背中によく触れていた。行為の最中、絶頂が近くなり無我夢中でしがみつくと、爪で背中を引っ掻くことがままあったのだが、その時にできた傷を撫で慈しむのが好きだった。
生きている実感。愛する人に、文字通り爪痕を残すという行為。それは姫川愛梨から有馬かなへと受け継がれていたのだ。斉藤ミヤコからは「(私の)アクアを傷物にしないでくれるかしら」と苦言を呈されてはいたのだが。
「……で、何か申し開きはある?」
「無いわね。ただ、かなさんの先を往くものとして助言させてもらうなら、今の貴女には足りないものがあるわ。――危機感よ」
「何ですって?」
「かなさんは急速に成長している。正直、わたしの想定を超える速度でね。見事よ、実に素晴らしいわ。今の貴女は『あの人』を射程圏内に捉えている。『あの人』に追い付き追い越すという目標が、夢物語ではない所まで来ているの。
――でも。だからこそ、危うい。獲物を狩る寸前の動物はね、獲物しか見えていない。路傍の石に、横あいから思い切り殴りつけようとする輩に気付かない。それでは足元を掬われるわよ」
「……」
「そして、今貴女が感じている苛立ち、アクア君を持っていかれるかもしれないという焦燥感と危機感は、誰よりも『あの人』が一番感じていることよ。獲物を捕らえる為には、獲物の立場に立って考えるのが最善手。それが出来れば、相手をコントロールすることだって不可能じゃないわ。
追われる立場の『あの人』と、追う立場のかなさん。より苦しいのは確実に前者よ。ならば貴女はその分、策を巡らし工夫する余裕がある筈だわ。ただ闇雲に追いかけるより、その方がずっと確実だと思うけど」
「……相変わらず、口の上手いこと」
「当然よ。今、貴女が立っている場所は既に、私が20年前に通過した場所だもの」
「年季が違う、ってやつ?」
「ええ。女優にとって年季とは経験、言わば樹木の年輪のようなもの。これを一つ一つ積み重ねていかなければ到底、
不敵な笑みを交わし合う女たち。その中心で、彼女らに挟まれる形の星野アクアは、いつその矛先が自分に向けられるのか気が気でなかった。両腕を取られている以上、逃げることも至難の業。その上、姫川愛梨/天河メノウの方は腕を抱えるだけでなく関節を極められてしまっているのだ。今日は厄日だったか? と少年は半ば現実逃避に陥っていた。
「前に言った筈よ、『恋は戦争。そして、愛は生存競争』とね。生きるか死ぬかが掛かっている時に、悠長に口上を述べている暇なんて無いわ。申し開きなんて言っている時点で認識が甘いわよ、かなさん。――どう? 納得した?」
「……ええ。アンタにはまだまだ届かないってのがよく判ったわ」
「そう腐らないの。わたしがここまで時間や労力を費やしている人間なんて、片手で足りるくらいしか居ないんだから。誇りに思いなさい」
かつての雇い主であり愛人関係だった、神木ヒカルの父親「旦那様」。
生まれ変わってなお執着の対象である、神木ヒカル。
夫、上原清十郎。
息子、姫川大輝。
そして、有馬かな。
姫川愛梨の人生を構成する、最も大きな5人の人間たち。
有馬かなは目を閉じ、先程の助言を飲み込んで咀嚼し。次に目を開けた時には気持ちを切り替えていた。
「まあいいわ。――それで、アクア」
「何だ?」
「
「……おう」
アクアの耳元に口を寄せ、実にいい笑顔で
「こんな所に居たんですか、姫川さん!」
突如として響き渡った、駆け寄ってくる足音と声。つい
「随分と探しましたよ! 取材の人たちは待たせていますし、金田一さんが宥めているところです。早く戻って下さいね」
「黒川……」
「えっと、そちらの方たちは……アクアくん!? それに……かな、ちゃん?」
「久しいわね、黒川あかね。さっきの舞台、良かったわよ」
「観に来てたんだ……。でも、どうしてアクアくんと一緒に……?」
「それは当然、アクアと一緒に観に来たからに決まってるでしょう。ねえ、アクア」
「……まぁ、な」
背中の傷跡を、指先が蛇のように這いずり回っていく。「判ってるわよね?」という無言の圧力を受け、星野アクアはもはや有馬かなのbotと化し、今年は厄年だったかと嘆いていた。後ろからその様子を見ていた漆黒の少女は、懐かしそうに唇を吊り上げるだけだ。
「
「ああ、これ? アクアが髪の長い方が好みって言ってたから、今伸ばしてる最中なのよ」
「そう、なんだ……。男の人の好みに合わせるなんて、かなちゃんも随分と甲斐甲斐しくなったんだね。子役の頃からずっと同じ髪型だったのに、どういう心境の変化なの?」
「毎日が勉強で、私も成長してるってこと。男の好みを知り、時にはそれに合わせるのも
カチンときた。別にあの番組は男漁りの為に出演しているわけじゃない。
仕事だから。恋愛を勉強したかったから。自身の成長の、何かの切っ掛けになればと思ったから。
アクアにアプローチしているのは、その切っ掛けをくれた彼に惹かれているからなのだ。
「……さっきから聞いていれば、アクアくんのことばっかり話すんだね。かなちゃんとアクアくんって、ひょっとして、その……」
「何よ、はっきりと言いなさい」
「もしかして……付き合ってるの?」
その時。深紅の少女の笑みが一段と深くなった。その質問を待っていたと言わんばかりに。
小さい頃からの知り合い、実質幼なじみだから――というのは間違いではないが、今言うべきなのはそんな生易しい台詞ではない。
以前。斉藤ミヤコが、有馬かなの持つアクアへの恋心に終止符を打とうとした気持ちが、よく判る。
自分の持ってないものを持ち合わせる恋敵が羨ましくて、妬ましくて。淡い恋心であるうちに、本気になる前に排除しようとした。
同じだ。天才子役だった有馬かなが落ちぶれていく一方で、天才役者と持て囃されている黒川あかね。蒼玉の少女が本気でアクアに惚れる前に、彼女の恋心を苦く、甘酸っぱい想い出へと変える為に。
「ふふ……」
有馬かなはようやく少年の腕を解き、黒川あかねのもとへと歩み寄る。ゆっくりと背後へと回り込み、耳元に唇を寄せ。
「黒川あかね、」
初心な少女には強すぎる毒を、流し込んだ。
「私、アクアと寝たの――」
次回、修羅場の後半戦。