人類――
一つ。発達した大脳と、これによってもたらされる高い知性。
一つ。様々な道具を作り、取り扱うことの出来る繊細な指先。
一つ。優れた音声言語能力による他個体とのコミュニケーション及び、後世への知識や文化の継承。
そして――、
これらの利点の
本来ならば。道具とは、人類種を食わせ、生きながらえさせ、繁栄させることが目的だったのだ。それが時代が下るに従い、同じ人類の異なる陣営を攻撃するものへと変化していった。車輪に火薬、航空機。ひいては、指先一つで発射可能な大量破壊兵器に至るまで。
そして、現代では。物理的な破壊を伴わずに、敵対する人間を集団から村八分にして終いには自殺に追いやることも可能な電子機器へと、一部の道具は異形の進化を遂げていった。
星野アクアの指先に載っているアフターピルもまた、そうした道具の一つである。
「だったら……アクアが決めて」
「ミヤコ?」
生まれてくるかもしれない子どもを、新しい命を生まれる前から断ち切ってしまうかもしれない、薬。
人間が社会という概念を得て以降、好き勝手に生殖行動を取ることが好ましくないとされる状況は増える一方である。この水の惑星の上に、人類が今もなお繁殖し続け資源を食い潰している現状では、尚更に。
種の存続という、生物の最も根幹に位置する原則に反している、その業を凝縮した結晶の、一粒。
「この薬を使うか使わないかは、貴方が決めて」
「……判った」
星野アクアは思い切り振りかぶり、
「だったら――、」
手にした錠剤を、明後日の方向にぶん投げた。
人類が生態系の頂点に君臨出来た理由の一つ――「投擲」能力。他生物の爪も牙も届かない場所から一方的に攻撃することの出来るこの力は、獲物と捕食者の立場を逆転させた。
アフターピルの錠剤は木々の間に着弾し、その近くに留まっていたと思しきカラスが驚いて飛び去っていく。鳴き声の残響が、閑静な墓地の中にゆっくりと拡散していった。
「これが、俺の答えだよ」
「アクア……」
振り返る金紗の少年。その表情は「どうだ、見たか」と得意気な様子で、さながら小中学生の男子が己の掴み取ったトロフィーを誇らしげに自慢しているようでもあり。
――だが。その表情が一瞬にして凍り付いた。
「……は?」
妙齢の美女の、掌の上に。
先刻投げ捨てたばかりの錠剤が、手品かと勘違いするくらいに物の見事に収まっていたからだ。
「だったら……これが、私の答えよ」
硬直したままのアクアの前で、あっさりと予備のアフターピルを飲み下す斉藤ミヤコ。止めることも待てと叫ぶことも出来ずに、少年はただただそれを見届けることしか叶わなかった。
「……ふぅ。これで良し、と。アクア、今日から私は貴方の女になったわけだけど、だからと言って貴方の母親でなくなる訳ではないわ。私だってアクアの子どもは欲しいし、産んであげたいって思うけど――貴方が成人するまでは、お預け」
「……だったら、何でわざわざ俺に薬を渡したんだよ」
本当に避妊するつもりだったのなら、アクアの意志など確認せずにさっさと飲めばよかったではないか。それに、大抵のアフターピルの効能は事後72時間以内で、その間に四六時中ずっと一緒に居るわけではないのだから、いくらでもその機会はある筈なのだ。では何故――?
「それは勿論、貴方の意志と覚悟を見たかったからよ。全く、アフターピルは保険が効かないんだから安い買い物じゃないのよ。それをあっさりと投げ捨ててくれちゃって……」
そう言いながらも何処となく嬉しそうな義母の表情を見ながら、少年は安堵と落胆の入り混じった溜息を吐いた。
アフターピルは堕胎手術と同じく保険適用外であり、一回の使用で万札が飛ぶことも珍しくない。先程アクアがぶん投げた錠剤の費用、そのいくらかはぴえヨンの稼ぎから出ているであろうことを考えると、途端に彼に対して申し訳ない気持ちが浮かび上がる。まさか彼も、一部とはいえ自分の稼ぎがこんな痴情のもつれに使われているとは夢にも思うまい。
「でも、貴方の本当の気持ちが聞けたから、価格に見合う価値はあったわね」
「俺はミヤコに嘘を吐くつもりはないぞ」
「そうね。でも人間は、私の知る男たちは、いざその時が来ると躊躇ってしまう。迷ってしまう。
――アクアだけよ。私の気持ちに、真っ直ぐに向き合って応えてくれる男の人は……」
「ミヤコ……」
学生時代も、社会に出てからも、芸能界においてでも。男という生き物はそのほとんどが、斉藤ミヤコの類いまれなる美貌と豊満な肢体にしか目を向けなかった。彼女の内面に対し、誰も真剣に向き合わなかったのだ。
そんな男たちに斉藤ミヤコもまた、上辺だけの付き合いしかしてこなかった。斉藤壱護と結婚したのも、彼に愛情を抱いたからではなく、彼の持つ眩い夢に魅せられたからである。
「ね、アクア。さっき私が飲んだ錠剤が実はアフターピルじゃなくて、ただの栄養剤だとしたら――どうする?」
「どうもしないさ。なあ、さっきから俺を試すようなことばかりして……もう十分満足しただろ?」
「何言ってるの。ようやく、私たちの新しい関係が始まったのよ。やってみたいことがまだまだ一杯あるんだから、アクアには沢山付き合ってもらわなきゃね」
斉藤ミヤコは浮かれていた。その様子はさながら、初めて彼氏が出来た女子中高生を思わせて。
さもありなん。彼女は生まれて初めて、恋をしていた。愛を、手に入れたのだ。
「やれやれ……。こいつは、とんでもないお転婆のお嬢さんだ。
――では、聞かせてもらおう。君は……何をお望みかな?」
金紗の少年は腹を括り、姿勢を正し、片手を差し伸べて彼女の手をそっと包み込む。
彼女に仕込まれた通り、彼女の望むように。ベタでも気障でも歯が浮くような台詞だとしても、映画やドラマのような口舌でもって、妙齢の美女を誠心誠意もてなし、口説いてみせる。心の奥底に秘められた本音を、引き出してみせる。
「アクア、私はね――不倫をしてみたかったの」
「……ミヤコって、悪い女だよな」
「なあに、今更気付いたの? 芸能事務所の社長が自社の未成年タレントを手籠めにした、それも義理の息子に手を出した女なのよ、私は。
でもね、女として生まれたからには、一生に一度くらい本気の恋愛をしてみたかった。身を焦がすような恋を、全てを投げうってでも惜しくない恋を。法も常識も、道徳も倫理も、社会の
対立する家という許されない関係でありながら、
婚約者というものがありながら、
斉藤ミヤコは、星野アクアという少年を見つけてしまった。少女の頃に夢見た憧れを、思い出してしまった。
そういう風に、育てた。育て上げてしまったのだ。彼女にとっての、理想の男を。
金髪碧眼で、眉目秀麗で、家事や子育てを一緒にやってくれて、自分が本当に辛い時には傍に居て支えてくれる男の子。自分に真っ直ぐに向き合ってくれて、自分の醜い所も受け入れてくれて、言って欲しい言葉をくれて、本当の愛を与えてくれる、男。
そういった正と陽の面だけではなく、復讐という負と陰の面が合わさり、光と影となって彼をくっきりと浮かび上がらせ、星野アクアという男により深みを与えている。
まさに、奇跡。銀幕の向こうにしか存在しないと諦めていた男が今、目の前に居る。
――なら、走るしかない。
彼女が本気で好きになった男はこの世で星野アクアだけであり。きっと、今後も現れることは無いだろうから。
「それで――俺は、ミヤコのお眼鏡に叶ったかい?」
「アクアがいいの。アクアじゃなきゃ駄目なのよ。
アクアが居ないと私は――生きていけない」
星野アクアが、斉藤ミヤコによって男になったように。
斉藤ミヤコもまた、星野アクアのおかげで、女であったことを思い出した。
だから、彼女は。
「You jump,I jump,right?(貴方が飛び降りたら、私も飛び降りる。そうでしょう?)」
少年は一瞬だけ瞠目すると、唇の端を吊り上げ、彼女に付き合うことにした。
女の望みを可能な限り叶えてあげるのが男の甲斐性なのだと、彼女に繰り返し言い聞かされてきたからだ。
「……Right」
「At least I’m with you(最後まで、貴方と一緒に居るから)」
沈みゆく豪華客船。数少ない脱出ボートは富裕層しか乗れず、二人はあえなく引き裂かれてしまう。
だが女は脱出ボートから飛び降り、最後の時まで青年と運命を共にすることを選んだ。
流されるまま生きてきた箱入り娘が安寧を捨てて、苦難であっても己の望む未来を選び取らんと、その一歩を踏み出したのだ。
たとえ間違っていても、馬鹿なことをしたと周りから見下されても。それでも、己の愛に殉じるその行動は何よりも――尊い。
「さて、アクアには次の課題があるのだけど」
「何なりと、お嬢さん」
私――斉藤ミヤコは、義理の息子と不倫している。
赤子の頃から知っている少年と、不倫している。
「私たちのことをルビーに報告しなきゃいけないから、何か気の利いた言い訳を考えてくれるかしら」
「うっ……」
私は、星野アイの息子と不倫している。
彼女と共に育ててきた、昔はおむつを替えたこともある子どもと、不倫している。
「私から説明してもいいけど、こういうことは男の人が言うべきだと思うのよね」
「……判った。任せろ」
私は、星野アクアと不倫している。
文字通り、親と子ほど年齢が離れた若い男と、不倫している。
「何て話すつもりなの?」
「別に、奇をてらうつもりは無い。君のお母さんを俺に下さいって言うよ」
少年が彼女を安心させるよう笑いながら、手を差し出す。
女は彼に応えるよう微笑みながら、手を取って繋ぎ合わせる。
そうして、二人はまた――歩き始める。
原作では結局叶えられなかった彼女の野望を形にしてみました。久しぶりに純度100%のミヤコ話が書けて楽しかったです。
個人的に、斉藤ミヤコはただ美しいだけの女ではないと思っていて、誰よりも女らしい情念に溢れドロドロとした内面を抱えています。その点は本作の姫川愛梨とどっこいどっこいですね。
こうやって、アイの墓前でアクアとイチャイチャしながら、かつての憧れであり嫉妬の対象だったアイに向けて「貴女の息子は私が貰うわよ」と内心でマウントを取っていたり。
アクアが成人するまで結婚や子どもはお預けと諭しながらも、子どもができたらできたで構わない、むしろそのスリルを愉しみたい、とか。
10代の女子高生ヒロインたちとは情念の度合いが段違いです。
遅くなりましたが、ようやく今ガチの話に戻ります。