「アクア……」
「えっと、君は……」
「あっ、あの子じゃない? 重曹を舐める天才子役!」
相も変わらず失礼な子、私は10秒で泣ける天才子役だと一瞬だけ考えたけど、それはもうどうでもよかった。
「アクアっ!」
足が勝手に動く。両手を伸ばす。指先が学生服の胸元を掴む。
ああ、夢じゃない。幻じゃない。アイツは、ここに居る。私の、目の前に。
「おいっ」
「アクア……アクア……っ」
そこから先は、言葉にならなかった。私は額をアイツの身体に預けたまま、しばしの間、微塵の嗚咽を漏らし続けた。
「なんか私、お邪魔みたいだから先に帰るね」
「ちょっと待て、ルビー!」
「ごゆっくり~」
離れていく足音と気配。アクアは大きく溜息をつき、吐息が私の首筋をくすぐった。思わず顔を上げると、視界一杯にアイツの顔が映し出される。息が止まり、頬が熱くなる。
――綺麗。格好良いとか可愛いとかではなく、そんな彫刻や芸術じみた感想が浮かび上がった。
「お前さ、いい加減泣き止めよ」
「泣いてないわよ……っ」
アクアがポケットからハンカチを取り出す。青みの濃い紫、
ああ……、それは逆効果だっての……。この男はいつもいつも、私の中を搔き乱す。
「思い出した。昔共演した、確か、有馬――」
「そう、有馬かな! 今度は忘れないでよ! もう!」
「あんたドコ中!?」
「ヤンキー女子かよ」
「ねえ、これからカラオケでも行かない!?」
「行かねぇって」
「じゃあ……私の家に来る?」
「お前、もうちょっと危機感もてよ」
「それは、そうだけど……」
12年越しに再会したばかりの男の子を、男子中学生を家に連れ込む。字面からしていかにもアウトだったが、ここで引くわけにはいかない。そんな私の思惑とは裏腹に、アクアはスタスタと歩みを進めていく。
「だって、次はいつ会えるか判らないし……」
「はぁ……付いて来るのは勝手だけど、邪魔するなよ」
「どこに行くの?」
アクアの雰囲気が一瞬にして変わる。その表情は、今までに見たことがないほどに真剣味を帯びていた。
「……墓参りだ」
辿り着いたのは墓地。目の前の墓石には、星野家乃墓、と刻まれている。つまり――
「アクアの、ご先祖様のお墓?」
「……母親の墓だよ」
息を吞む。
アクアの、男子中学生の母親ならば、まだ若かったろうに……。事故か病気で亡くなったのだろうか。
彼の手元には、先ほど学校で私の涙を拭ってくれたハンカチが握られていた。少しくすんだ、ヴァイオレットの手巾。その端っこには「
「ねえ、そのハンカチって……」
「母親の、形見だ」
……やっぱり、そうなんだ。
アクアも、過去に縛られている。私は子役時代の想い出に。彼は亡くした母親の面影に。このハンカチは、失った輝かしい記憶であると同時に、私たちを縛る呪いでもある。
私も、ポーチから「Aquamarine」のハンカチを取り出す。この12年間、私を支えてくれたもの。でもこれは、アクアから奪っていたもの。だから――。
「有馬、それって……」
「ごめん。ずっと、借りてたままで。遅くなったけど、返すね」
風が吹き抜ける。
冬の昼下がり、遠からず日は暮れ、夜になる。昇った日は必ず沈むように、借りたものは返さなくてはいけない。それが道理というものだ。この手の震えも、きっと寒さのせいなんだ。
「何でお前、泣いてるんだよ」
「え……?」
知らず、私の頬を雫が伝っていた。悲しいわけじゃない。悔しいわけじゃない。苦しいわけでもない。
ただ――切なかった。自らの一部が、分かたれて遥か遠くに行ってしまうような気がして。
「お前は、本当に泣き虫なんだな」
「そんな、だって、違う」
「違わないだろ。鼻声で言っても説得力ないぞ」
またもや、菫色のハンカチで目尻を拭われる。
おかしい。今日の私は、まるで制御がきかない。それもこれも、目の前の男のせいだ。アクアはいつも、いつでも、私の中を搔き乱す。
「返さなくていい。そのハンカチはお前にやる」
「え、でも……」
「俺には、これがあるから」
「Iolite」を掲げながら、何でもないように言う。でもきっと、「Aquamarine」は彼の母親から贈られたのだろう。そうそう他人に明け渡していいようなものではない筈だが……。
「それに……」
「それに?」
「思い出したんだ、有馬と共演した日のことを。あの夜、大事なハンカチをお前に持っていかれたことに気付いてな、叱られるのを覚悟で母親に有馬のことを話した。
――そしたら、母親は笑って俺を褒めたんだ。よくやったね、替わりにこれをあげる、ってな」
手元の「Iolite」を眺め、懐かしむ目でアクアは語る。
羨ましかった。私が売れっ子だった時はお母さんと良好な関係を築けていたけど、落ち目になるにつれ、彼女は次第に母親としての役目を放棄していった。別居している今はもう、好きなのか嫌いなのかも、判らない。
「良いお母さんだったのね……」
「……どうかな。シングルマザーで社会常識もあまり無かったし、友達も居なければ家事も苦手。子どもにアクアマリンなんてキラキラネームを名付けるし、俺とルビーをよく間違えるダメな母親だったけれど、それでも――」
風が吹き抜けていく。
アクアの述懐は段々と消えゆくように小さくなり、最後の方はほとんど呟きに近かった。だがこの上なく感情が込められたそれは、中空に溶けることなく確かに私の鼓膜を震わせた。
「生きていて、ほしかった……」
消える。アクアが消えてしまう。理屈抜きでそう直感した。
一瞬だけ迷ったけれど、気合いで
「有馬……」
風が、止まる。
消えそうだったアクアのオーラが揺らぎ、息を吹き返す。静寂の中、一つに交わるお互いの視線。
どちらからともなく、眼差しを墓石に向ける。この中に、アクアの母親が眠っている。話を聞く限り、色々と不器用で足りない所も多い人だったのだろうけれど、それでも子どもたちを愛していたのは間違いないはずだ。
重ねた手と、それぞれの反対の手には母から子へと託された贈り物。宝石に勝るとも劣らない、絆の形見。
ずっと大事にしようと、改めて私は固く誓う。自分と、アクアと、彼の母親に。