Black Star Aquamarine/ブラックスターアクアマリン
アクアマリンの一種。
アクアマリンの中でも黒色寄りのものがブラックアクアマリンであり、更にその中でも星空を映す夜の海のような美しい輝きを持つものがブラックスターアクアマリンと呼ばれる。
「メノウちゃん、何やってるの?」
「アクアさんに渡したレインコートの生地の裏に、集音器を仕込んでおきました。家族には言わない面白い話が出てくるかもしれませんからね。貴女たちも聞きますか?」
「「聞く!」」
「ミヤコさんはどうされます?」
「……聞かせてもらうわ。ところで姫川さん、この家にも集音器をこっそりと設置していないでしょうね?」
「してませんよ」
「本当に?」
「ええ、してませんよ。ええ」
☆
黒川あかねは理想的な家庭に生まれた、理想的な娘である。
父親は警察のエリート。厳格でありながら、有馬かなに憧れていたあかねの芸能界入りを認める柔軟さも持っている。
母親は専業主婦であり、あかねと一緒に料理教室に通う程に関係も良好、娘に対し惜しみない愛情を注いでいる。
あかね本人についても、優れた容姿、優れた知能、優れた演技力を併せ持ち、天は二物も三物も与えた類稀なる少女である。
だがそれが、芸能界で役に立つかと問われれば、必ずしもそうではない。
芸能界が求めるのは、大抵の場合が替えの利かないタレント性であり、万能さよりも尖りに尖った長所の方が重宝される傾向にある。人間性や母親としては欠けていたところのあった星野アイが、その圧倒的なアイドルの素養でもって頂点に駆け上がったように。
だから、黒川あかねは優れた少女、優れた役者、優れた人間であっても――決して優れた芸能人とは言えなかった。少なくとも、今この時点においては。
『最近は素直に謝ることの出来ない人間が多すぎる。決して自分の非を認めず、図星を突かれたら話を逸らしたり、挙句の果てには逆ギレする幼稚な人間が当たり前のように我が物顔で歩き回っているんだ。――あかね、お前はそのような人間になってはいけないよ』
警察の上層部として、正義感だけでは通用しない立場に置かれている父親の、せめて娘には正しくあって欲しいとの願い。黒川あかねは父のその教えを忠実に守ってきた。狭いコミュニティ間であれば、尋常な小社会の中であれば、この上なく正しい教育であった、のだが。
『人は謝ってる人に群がるんだよ。謝罪って日本人の道理的には正しいけど、炎上対策としては下の下なんだよ』
芸能界やSNSの場においては、そうとは限らない。
MEMちょの忠告を忘れたわけではなかった。だが人生の指針、尊敬する父親の言葉を思い出し、蒼玉の少女はスマートフォンを手に取って、震える指先で謝罪の文言をツイートした。
それが、引き金だった。
燃焼の三要素――酸素、可燃物、点火源。
『本当に番組の迷惑』
『二度と人前に出てくるな』
『事務所責任問題だろこれ』
『今ガチから早く消えろ』
『失望しました。フォロー外します』
『凄い勢いでフォロー減ってて草』
『王子の顔を傷物にした罪は万死に値する』
『生きてて恥ずかしくないの?』
『映す価値無し』
『生きてる価値無し』
実のところ、本気であかねを叩く人間はそれほど多くなかった。だが人は行列を見ると興味がそそられ、面白そうな騒ぎを聞きつけたなら目敏く嗅ぎまわる生き物である。ただ「話題になっているから」、「このムーブメントに乗り遅れたくないから」、「何でもいいから騒ぎたい」といったような、大した理由も無いのにひと噛みしようと押し寄せる連中が後を絶たず。元から居た人間が訳知り顔で解説しようと、まとめ記事や切り抜き動画をアップし、炎上は更に加速していく。
『トレンド上がってたあかねって人、誰かと思ったら知らない人だった』
『今北産業』
『黒川あかね
王子の顔に 傷を付け
見事炎上 人生終了』
『把握』
それだけならまだ、耐えられた。
生真面目な黒川あかねは目を逸らしては駄目だと、全部の意見を受け止めようとし、ベッドの上で膝を抱えながらスマートフォンを眺め続ける時間が過ぎていく。
だから、気付いた。批判や誹謗中傷が彼女一人のみならず、両親へと飛び火していることに。
『親の顔が見てみたい』
『こんな地雷女の母親なんて、教育もまともにできないBBAだろ』
『DQNの子はDQN、はっきりわかんだね』
(お父さん、お母さん……ごめんなさい。私のせいで……)
昔の写真がネットの海から掘り起こされるだけでなく、あかねが参加した過去の作品に対し、見てもいないのにレビューサイトで低評価爆撃する連中まで出てくる始末。黒川あかねが出ていた、ただそれだけの理由で。
(ごめんなさい、ごめんなさい……ララライの皆さん……)
自分のせいで、自分の大切な人たちに泥が塗られていく。それは、限界に近かった蒼玉の少女へのとどめの一撃となり。
『あかね大丈夫? ちゃんとメシ食ってる?』
『みんな心配してるよ~』
最初のうちは心強かった今ガチのメンバーからの励ましも、ただの文字の羅列にしか見えておらず。昨日から何も食べてなかったという事実に、ようやく思い至るのみだった。
『ご飯買ってくるね』
『いくなw 台風来てんやぞw』
その後の事は、自分でも判然としない。無意識のうちに着替え、誰も居ない家を出て、近くのコンビニで目に付いたものを買い、帰宅途中で足が滑って転倒した。ビニール傘が風で壊れたこととか、買い物袋から品物が零れていることとか、自分が今歩道橋の上に居ることとか――何もかもが、もうどうでもよくて。
ただ、眼下を行き交う車のヘッドライトとテールライトが幻想的で綺麗だな、と。ぼんやりと……そう、思った。
例えばの話だが。高所に立つ被験者に対し、その柵を飛び越えて自殺しろと催眠術を掛けようとしても、人の持つ生存本能により上手くいかないことが多い。
しかし。その柵の向こうに幸せが待っていると、その柵を飛び越えれば幸せになれると被験者の精神に刷り込めば、成功の確率は飛躍的に上昇する。両者の結果が同じ「死」だとしても、だ。ものは言いよう、という慣用句の一例である。
今の黒川あかねは、これに近い状態だった。
ここに居たくない。
遥か遠くに行ってしまいたい。
何処でもいい。
何も考えたくない。
だから、
「――疲れた」
「それはこっちの台詞だよ」
「……え?」
「ようやく見つけたぞ、あかね。随分と手こずらせてくれたもんだ」
のろのろと振り向けばそこには、街灯の光を反射した金紗の髪を持つ少年が立っていた。
「なんだよ、幽霊でも見たような顔して。それとも、俺の顔に何か付いてるのか?」
「……ほっぺに、傷が……付いてる」
「ああ、そっか。お前に付けられた傷だもんな」
「何で……ここに居るの」
金紗の少年は少しだけ考えて、やがて良いことを思いついたとばかりに相好を崩すと、両手を前に軽く突き出した。それはさながら、
「『少年! 何だかわかんないけど、人生そんなに捨てたもんじゃないぞ。おじさんなんか、競馬で負けて今60円しか持ってないけど、がんばって生きてんだ。キミが死んだら、お父さんお母さん、どう思うかなぁ?』」
「……?」
私は少年じゃない、とか。未成年のアクアが競馬で負けた、とか。腑に落ちないことは色々あったが、お父さんお母さんというフレーズが飛び出してきて、ぼんやりした意識がはっきりと輪郭を帯びていく。
「……何の、つもり?」
「あかねがアイキャンフライしそうな雰囲気だったからな。それなら、こう言うしかないだろ」
「……アクアくんが何を言ってるのか、全然判らないよ」
「まあ、20年以上前にやってた映画の台詞だからな。その頃にお前は生まれてもいないし、知らないのも無理ないか」
21世紀初頭の邦画、卓球を題材にした漫画の実写化映画が封切られた。
物語の冒頭、主人公は橋の
――なお。その主人公の苗字は「星野」であり。演じた俳優は現実においても、自宅があるマンションの9階から飛び降りて重傷を負ったという逸話があり、アイキャンフライは飛び降り(自殺)の隠語となったのである。
「あかね。お前さっき、そこから本当に飛び降りようとしたのか?」
「……アクアくんには関係ないでしょ」
「否定はしないんだな」
「……」
恋する乙女、というのは己を飾り立て、意中の相手に綺麗な所をアピールし、夢中にさせ惚れさせるのが仕事のようなものだ。……それがどうだ?
死にたい、しにたい、シニタイ――自殺。さっき自分がやろうとしていたことを他人に指摘されて、のみならずよりにもよって好意を抱いている少年から、一番知られたくない人物から突き付けられて、黒川あかねは酷く陰鬱な気分になった。穴があったら入りたい、泡になって海に消えたい、とはこういうことを言うのだな、と痛いほどに思い知らされる。
「辛いか?」
「……っ!」
――言わないで。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「苦しいか?」
「……ぅ……」
――それ以上、言わないで。
少年の眼差しが怖くて、目を合わせられなくて、自然と俯いてしまう。
「そんなに、死にたいのか?」
「……ぁ……いやぁ……」
――惨めな気分にさせられるから。
枯れたと思っていた涙が溢れてきて、床についた手の上に零れていく。
「だったらさ――
一緒に死んでやるよ」
「……。えっ……?」
「何だよ、不満か?」
この人が何を言っているのか、判らない。
言われたことは判る。その言葉の意味も、判る。
でも、それ以外のあらゆることが、判らなかった。
「……そんな事、気軽に言わないでよ」
「そうだな、全くもってその通りだ。――ああ、一緒に死んでやるってのは嘘だ。忘れてくれ」
動揺している人間が、自分よりも動揺している人間を見て、逆に冷静になることがある。異常な精神状態の人間が、自分より異常な人間と出会い、急に我に返ることがある。
「アクアくんは、さっきから人を食ったような事ばかりして……! 私のこと、馬鹿にしてるの!?」
「別に、そんなつもりは無いさ。これでも俺は、お前の話を聞くためにここに来たんだよ」
「え……?」
「MEMのやつが言ってたことだけどさ。炎上ってのは真面目な子ほどダメージが大きい、真面目な子は全部の意見を真正面から真摯に受け止めようとする、ってな。――お前、番組を休んでる間ずっとSNSに張り付いて、その手の書き込みを見てたんじゃないのか」
「……っ!」
「図星みたいだな。で、その結果メンタルを病んだ果てがこれか。MEMに忠告されたにも関わらず、どうしてそんな真似をしたんだ。炎上対策は放置が一番、謝罪なんて下の下なんだって聞いてただろうに」
「だって……悪いことをしてしまったら、素直に謝れって、お父さんが……」
前世といい今世といい、雨宮吾郎/星野アクアは父親には恵まれなかった。多分に私情交じりではあるが、少年は父親という存在そのものに対し、懐疑的な印象を拭えなかったのだ。
「人様の父親を悪くは言いたかないけどな、それはケースバイケースだろ。特に、今回のように目に見えない相手なら寧ろ悪手になる。謝罪ってのはお互いに同じ土俵に立ってやるもんなんだよ」
「……ぃ……」
「今回のことは高い授業料だと思って、あかねは家でゆっくりしていればいい。それか、自然の豊かな場所で静かに療養するのもいいな。宮崎の高千穂なんかどうだ? なに、お前ひとり居なくたって、番組は何とか回してみせるさ」
「……る……ぃ……」
「でもな、今度こそSNSからは離れろよ。というか、いっそのこと母親にスマホを預けとけ。高校生にもなって恥ずかしいだろうけどさ、それくらいしないとお前は絶対に見るだろうから――」
「うるさい!!」
演劇の場以外で、黒川あかねは生まれて初めて、他人に大声で怒鳴りつけた。あの有馬かな相手であっても、挑発や敵意をぶつけることはあっても、激情を叩きつけることまではしなかったのだ。
「さっきから何なの!? 上から目線で、全部判ったような口を利いて……!」
「……」
「何も知らないくせに……! 私がどれだけ辛い目に遭っているのか、何にも知らないくせに……!」
黒川あかねは星野アクアほどではないにせよ、親と喧嘩する機会に恵まれなかった。
「皆、寄ってたかって私を悪者にして……! アクアくんの顔に傷付けたことは悪いと思ってるけど、何で関係ない他の人たちから責められなきゃいけないの!?」
「……」
父親も母親もあかね自身も、理性的で良識を備えた人物たちであったがゆえに、本気で感情を吐き出す喧嘩をしたことが無かった。それは家族仲が良すぎたが故の、弊害。
「番組スタッフも、私が悪女に見えるように編集して……! あれじゃ、わざとアクアくんを傷付けたように見えるじゃない! 私はそこまで酷い女じゃないよ!!」
「……」
黒川あかねは誰かに激情を叩きつけること自体、これが初めてだった。人を、憎いと思ったことが無かったのだ。
箱庭の環境で育ってきたが為の、耐性不足。悪意に対する免疫が、圧倒的に足りなかった。
「学校の子たちも、この前までは私にすり寄ってきてたのが、急に掌を返して陰でこそこそ悪口ばっかり……! 言いたいことがあるなら堂々と目の前で言えばいいのに……!!」
「……」
いつの時代も、人が集まる限り、他人の悪口で盛り上がる井戸端会議が絶えたことはない。それは、日々の不満を吐き出し鬱憤を晴らす最も手軽な手段のひとつなのだから。21世紀になり、いつでもどこでもネットワーク越しに井戸端会議が行える現代では、もはや制御も抑制も至難の業となっている。
「どうして……私が、こんな目に……」
ララライや芸能事務所で怒鳴られることはあっても、その内容は道理の通ったものであり決して理不尽なものではなく。今回のように謂れなき悪意に晒され罵詈雑言の嵐に巻き込まれるのは、彼女の許容量を遥かに超えていた。10代の少女に、辛い現実からの逃避先として死を選ばせる程に。
「あかね、」
それでも、金紗の少年は。
だからこそ、星野アクアは。
「言いたいことはそれだけか?」
その全てを、斬って捨てた。
「え……」
「学校の人間は兎も角として、お前を叩いてるのは殆どがネットの向こう側の、顔も名前も判らないどうでもいい奴らだろ。そんな連中の言葉が本当に大切なのか? そいつらは、お前の命を懸けるに値する奴らなのか?」
少年の雰囲気が、変わっている。
さっきまでは、冗談を言いながらも
「アクア、くん……?」
でも今は、違う。
金紗の少年の右目は、黒く昏く染まっていた。黒川あかねは、星野アクアの地雷を踏み抜きすぎた。
「こいつが、お前を苦しめてるんだな」
星野アクアが屈みこみ、地面に崩れ落ちていた黒川あかねの近くから、何かを拾い上げる。
それは、彼女がここ最近肌身離さず持っていたスマートフォン。未だに画面は映し出されたままで、そこにはあかねに対する無責任な罵詈雑言で埋め尽くされている。
「いやっ……、返して……!」
「こんなモノがあるからいけないんだ。――だったら、俺が壊してやる」
取り戻そうと伸びてくる腕を振り切って、少年は手の中のスマートフォンを、躊躇いなく宙空へと放り投げた。
――それはさながら。少し前に、姫川愛梨が息子の呪いとなっていた己の形見である携帯電話を、川の中へと投げ捨てたように。
「あっ……」
雨風に掻き消され、地面に落ちる音は聞こえなかった。黒川あかねの持つ最新式のスマートフォンは防水仕様であり、歩道橋から落下してなお、画面が割れてはいたがその機能を辛うじて保っていた。
だが、ちょうどその時通りがかった大型トラックの下敷きとなり。彼女のスマートフォンを構成する1500個以上の部品と、映し出されていた無数の悪意は、見るも無残に粉々に打ち砕かれてしまった。
「ほら、これでもうお前を苦しめる奴らは見えなくなったぞ。ここに居るのは、俺とお前だけだ」
「あ……、ああ……」
「あかね。正直な話、お前がどれだけ辛いのか俺には判らない。でも、いっそのこと死んでしまいたいってその気持ちは理解出来るよ。俺にも、そんな時期があったからな」
「え……?」
黒川あかねには信じられなかった。常に自信や余裕を絶やさず、奥手な自分を振り回して、未熟な自分を導いて、いつもいつも障害を乗り越え壁を打ち破ってきたこの少年が、過去に死にたいとまで考えていた、なんて。
「今までやってきたことが無駄だと思い知らされて、それまで積み上げたものが崩れ去って、自分には何も無いと思った。何も残ってないと思った。生きる価値が無いと思った。虚しくて、何も考えたくなくて、何もかもがどうでもよくて、消えてしまいたいとさえ考えた。
その結果、周りに八つ当たりして、大切な人たちを傷付けて。……全く、思い出したくもない黒歴史だよ。
――でも。そのおかげで、今の自分がある。大切な人たちが居てくれるのは、決して当たり前ではないことに気付かされた。人は簡単に死ぬなんてこと、俺は身に染みて判っていた筈なのにな」
「何を……言ってるの?」
「
病院は常に、死と隣り合わせの場所。医者は日常的に死に接していて、心が麻痺していたり達観した人間ばかりだ。その中には心身の調子を崩して辞めていく人も少なくない。誰しも、見たくないものを直視するのは耐え難いものだ。
それでも、
「でもな、あかね。そういった人たちは皆、生きたかった。生きるのに必死だった。みんな、死にたくはなかったんだ。ただ、健康や運、愛情やお金に恵まれなくて、生きることが出来なかっただけなんだ。ほんの少し、何かが足りなかっただけで――」
黒川あかねは理想的な家庭に生まれた、理想的な娘である。
父親は警察のエリート。厳格でありながら、有馬かなに憧れていたあかねの芸能界入りを認める柔軟さも持っている。
母親は専業主婦であり、あかねと一緒に料理教室に通う程に関係も良好、娘に対し惜しみない愛情を注いでいる。
あかね本人についても、優れた容姿、優れた知能、優れた演技力を併せ持ち、天は二物も三物も与えた類稀なる少女である。
「でも、お前は全部持っているだろう? 他人が羨むものを、望んでも得られなかったものを沢山持っているだろう? 誰よりも恵まれているお前が、どうでもいい連中のどうでもいい言葉に負けてその人生を投げ出すなんて――俺はそいつが、どうしようもなく気に食わない……!」
右目に浮かぶ、黒く染まっている星の光。だがそれは、ただ昏いだけではなく、夜の海に反射する天河のように。宇宙の闇に瞬く星々の煌めきのように、強く眩しく輝いていて。
「アクア、くん……」
「お前が以前プレゼントしてくれたクッキー、母親に手伝って貰いながら作ったって言ってたよな。料理教室に一緒に通うほど、母親とは仲が良いんだろう?
――あかね、俺はさ。家族を、母親を裏切るやつが大嫌いなんだよ。お前が命を投げ出すのは、産んでくれた母親に対する最大の裏切りなんだ。
俺はあの時、もう少しで裏切るところだった。母親の味わった痛みを、苦しみを台無しにするところだったんだ。でも、俺の大切な人が、大切な人たちがそれを止めてくれた。母親の命を無駄にするなって叱ってくれた。俺の為に命を懸けてくれた。俺の為に、涙を流してくれたんだ」
光が強くなる。
夜の
「だから俺は、その人の為に生きると決めた」
光が、更に強くなっていく。
雨の嵐にも打ち消せない、光。
「その人の為に、戦うと決めた」
黒川あかねは、その輝きに目を見開く。
宇宙の深淵にも呑み干せない、光。
「世の中の有象無象が何て言おうと関係無い。俺にとって本当に大切なのは、俺の身内だけだよ」
星野アクアにはもう、医者は
医者という人種は聖人君子である必要は無いが、それでも他の職業よりも余程、命に対し公平性が求められる。
如何に知識や技術があったとしても。他の人間全てを天秤にかけても尚、少年は大切な人たちの方を選ぶと、決めたから。
「あかね、お前さっき言ったよな。悪いことをしたら謝るのは、父親にそう教えられたからだって。たかだか数ヶ月しか付き合いのないMEMの忠告よりも、十数年も一緒に暮らしてる家族の教えを取ったってのは、俺にもよく判るよ。
でもな、顔も名前も判らない連中の書いた便所の落書きの方が、お前にとっては家族より重いのか? 家族を裏切って死を選ぶほど、その落書きに価値があるのか?」
「……違う、よ」
「だったら、話は簡単だ。――立て」
蒼玉の少女が、ゆっくりと顔を上げる。
「戦え」
そこには、金紗の少年がこちらに向けて、手を差しのべていた。
「
黒川あかねが腕を伸ばせば、届きそうな距離で。
「お前は、女優だろう。なら、どうせ死ぬなら舞台の上だ。俺の知ってる女優は、周りから馬鹿にされても、家族から見捨てられても、独りぼっちになっても、決して諦めたりはしなかったぞ!」
有馬かな。彼女に脳を焼かれた厄介ファンである黒川あかねには、アクアの言っている女優が彼女のことだと、直感的に理解出来た。
……アクアくんは卑怯だ。そんな言い方をされたら、
「さあ――さっさと立てよ! 黒川あかね!!」
かなちゃんをダシにされたなら、何が何でも立ち上がるしかないじゃない。
もう、迷わなかった。身体の痛みも、吹き付ける風の寒さも、濡れた服の冷たさも、関係無い。
足首に、膝に、背に、お腹に次々に力を込める。きっと今の自分は、生まれたての小鹿みたいなんだろうなと想像する。
ゆっくりと手を伸ばす。地上の星に、金紗の少年に向けて、震える手でそれでも、精一杯に。
「あっ……」
もどかしくなったのか、少年に手を掴まれ、一気に引き上げられた。勢いあまって彼の胸元に飛び込む形になってしまい、だが不思議と嫌悪感は湧かなかった。演劇の場以外で男性と密着することなど初めてのことだったが、決して不快とは思っていない自分に驚く。
(……温かい)
顔を上げる。吐息が感じられそうな程に、近い距離。
どこまでも先行きが不透明で、あやふやで暗い見通しの中で。
彼の瞳に渦巻く光と闇が、銀河の星々を思わせて。
昔読んだSF小説において。遠い未来、人類がこの水の惑星を飛び出し宇宙船で天を行き交う時代。人々は星の位置を頼りに航路を決める。
どこまでも暗黒が支配する宇宙の只中にあって、彼らにとって星の光は何よりも心強い道標となっただろう。
少年がハンカチを取り出し、少女の目元の涙を拭っていく。
その
アイオライトは、「海賊が航海する時に羅針盤代わりにしていた」という迷信があったとされ、そこから転じて、夢や目標に向かって進む時に迷わないよう進むべき道を指し示す、という意味を持つ。
その宝石言葉は「誠実」、「貞操」、「道を示す」、
そして……「一途な愛」。
彼に涙を拭われながら、黒川あかねは思う。
自分はやっぱり、この少年のことが好きなんだなあ、と。
お待たせしました。
自分としては随分多い文章量ですが、これでも1万字に達していない事実に驚きました。普段から長い文章を書いている作者さん方は本当に凄いと思います。
次回、「ここがあの女のハウスね」