「服は洗っておくから、洗濯機の横のカゴに入れといて」
「わ、わかった」
「バスタオルはドアの横の棚にあるわよ。見つかった?」
「……うん、大丈夫」
「服と下着はウチのお母さんの未使用のやつがあったから、今日はそれで我慢してくれる?」
「あ、ありがと。でも、洗って返すから……」
「何なら貰ってくれて構わないわよ。買ってから何年もタンスに入れっぱなしだったものだし、服だって着てもらえる方が幸せだもの。そもそもお母さんがこの家に戻ってくるか怪しいしね」
有馬かなが子役時代に稼いだ金で買われた、母親の衣服の数々。当然ながらその全てを持っていったわけではなく、それどころか一度も着ていない服が少なからず存在していた。
「……そうなの?」
「お父さんもお母さんも結構前に家を出ていって、私もここには時々(アクアを連れ込む時など)しか戻ってこないから。――あ、これはオフレコで頼むわよ。この辺りは治安は良いけど、最近は闇バイトで空き巣強盗とか珍しくないし」
「そう、だね」
「それじゃ、ゆっくり温まりなさい。あ、ドライヤーとかは洗面台にあるのを好きに使って頂戴ね」
そう言い残して、ぱたぱたと扉越しにスリッパを鳴らして去っていく有馬かな。なんだか、とんでもないことになったなあ……と黒川あかねは文字通り冷えた頭で思考する。ちょっとコンビニで買い物するだけだったはずなのに、そこから半ば無意識の自殺未遂と、そこへ現れた星野アクアとの会話と叱咤激励。スマートフォンは投げ捨てられ、少年に促されるまま車で運ばれたその先は何と、あの有馬かなの自宅ときた。先日までの自分なら信じられないような、現実。
「……っ、くしゅん!」
ぶるりと身体を震わせ、考え事をしている場合ではないと思考を停止する。冷え切った身体を早く温めなければ風邪を引いてしまうだろうと、濡れた服に手を掛けたところで、気が付いた。
洗面台に乗っているコップと、そこに入っている歯ブラシ。
それが、2セット。深紅と水色の色違いの、同じものだ。
それはあたかも、
(お父さんもお母さんも結構前に家を出ていって、私もここには時々しか戻ってこないから)
コップはともかく、歯ブラシはそう長い期間使うものではない消耗品。「結構前に家を出ていった」という言葉が本当なら、有馬かなの両親のものとは考えにくい。
では、誰のものなのか?
そんなのは、問うまでもなかった。
黒川あかねの胸の中心、心臓の辺りがずきりと痛みを覚えて。暫くの間、自分が寒さに震えていたことを忘れていた。
☆
「かなちゃん、お風呂ありがと――って、ええっ!?」
黒川あかねが居間に戻るとそこには、現在進行形で衣服を脱がされている星野アクアと、嬉々として少年の服に手を掛けている有馬かなの姿があった。
「随分と早いわね、黒川あかね。ちゃんと温まったの?」
「か、かなちゃん! 何やってるの!?」
「アクアが疲れて寝ちゃったのよ。濡れた服のままじゃ風邪引いちゃうから、着替えさせないといけないの。アンタだって、自分のせいでアクアが風邪で寝込むことになりました、なんて嫌でしょう?」
「そ、それはそうだけど……!」
光が強ければそれだけ、輝き続ける時間は短くなる。エネルギーの消費が激しいからだ。
天体の星ならば、強い光を放つ星であればあるほど一般的に巨大になり、内在するエネルギーも飛躍的に膨れ上がる。大きな星ほど強く輝くという図式が出来上がる。
だがそれが、人間大のサイズならばどうだ?
その答えは自然の理。極端に強い光を放った星野アクアはひどく消耗しており、風呂が空くのを待たずして眠ってしまったのだ。
そうこうしているうちに、手早く少年の衣服を剝ぎ取っていく有馬かな。止めることも逃げることも出来ずにいた黒川あかねの前で、金紗の少年はあっという間に裸に剥かれてしまった。
「~~っ!?(これが、男のひとの身体……!)」
顔面を両手で隠していても、指の隙間からこっそりと覗いている黒川あかね。表面上は恥ずかしがりつつ内心では興味津々なあたり、実はむっつりな性分である。顔が熱くなっているのは風呂上りだからではあるのだが、決してそれだけではなかった。
額に張り付いている、濡れた金色の髪。
豹のようにしなやかな体躯に無数の水滴が浮かび上がり、それぞれがLEDの人工の光を反射して輝いている。
女の身体とは明らかに違う、それでいて必要以上に男を主張しすぎないそれは、世の女の多くを引き寄せるに足るもの。
もう子どもの身体ではなく、だが大人の男とも言えない星野アクアのこの肉体は、斉藤ミヤコ手ずからによって作り上げられたものであり。今この時期にしかない、境界線上の絶妙な色気を備えていた。
天河メノウ/姫川愛梨がアクアを欲しているのは、かつて神木ヒカルの最も美味しい時期を食べ損ねたという後悔が大きなウェイトを占めているからである。
もはや言葉も忘れてしまった黒川あかねを尻目に、深紅の少女は手にしたタオルを使い、少年の身体を丁寧に拭き取っていく。その様子を見ながら蒼玉の少女は何故か……
これは、確か――前に大型ショッピングモールへ買い物に行った時。お手洗い場のおむつ交換台で、若い母親が赤子の世話をしていた光景に、重なる。
(かな、ちゃん……)
黒川あかねには、自分より10cm以上小柄なこの少女が何故か……とても大きな存在のように感じられた。
そうやって呆けている間に、アクアに替えの下着と服を着せていく有馬かな。その時、黒川あかねの心中に気になることが浮かび上がる。
「……かなちゃん。その服って、出ていったお父さんのものなの?」
「違うわ。これはアクアの持ち物よ」
「そう、なんだ……」
替えの服を相手の家に置いてあるなんて、それはつまり――
「黒川あかね、アクアの脚の方を持ってくれる? そこのソファに運ぶわよ」
「う、うん」
二人掛かりでソファに寝かせ毛布をかけ、暖房を少しだけ強めに設定し――とりあえずの応急処置は完了した。
「さて、アクアの方はこれで良し、と。次はアンタの番ね」
「……私?」
「単刀直入に聞くわ。今日は帰りたい? 帰りたくない?」
「えっと……私、は……」
半ば無意識とはいえ、高所から身を投げて自殺する寸前だったのだ。歩道橋の上で少年に言われた「命を投げ出すのは、母親を裏切ること」というフレーズが頭をよぎり、今帰って母親と顔を合わせるのはとても気まずいだろうなと想像する。
「それが答えね。なら、今日はウチに泊っていきなさい」
「え、えぇっ!?」
「アンタ、スマホは――って、そういえば壊れちゃったんだっけ」
「どうして、かなちゃんが知ってるの?」
まさか、アクアのレインコートに仕込まれた集音機で一部始終を聞いていたから、などとは言えない。有馬かなは、とりあえずはそれらしい言い訳で誤魔化すことにした。
「……さっき、アクアから聞いたのよ。それよりも、アンタ今も実家に住んでるの? 電話番号は昔から変わってない?」
「う、うん……」
「じゃあ私が話をつけるわ。えっと、確か……」
有馬かなは自分のスマホのアドレス帳を検索する。初めて黒川あかねと共演した際、お互いの母親が番号を交換し合っていたのを聞いており、その情報は彼女にも共有されていたのだ。
「……。……もしもし、黒川さんのお宅ですか? お久しぶりです、有馬かなです。……ええ、ええ。本当にお久しぶりですよね。……いえいえ、こちらこそ黒川さんにはお世話になっております。……はい、それでですね。実は先程、家に帰る途中であかねさんを見かけまして。こんな台風の中で何をしているのかと思って声を掛けさせて頂いたんですが、どうやらスマートフォンを失くしてしまったようでして。この天気の中では危険だと思いまして、差し出がましいようなんですが、私の家に避難させることにしたんです。……ええ、ご連絡が遅れてしまってすみませんでした。……いえいえ、お礼には及びませんよ。……娘さんですか? 今、私の前に居ますが。……はい、では換わりますね」
差し出される有馬かなのスマートフォン。一拍だけ躊躇ってから、おずおずと手を伸ばして端末を受け取り、スピーカーに耳を当てる。
「お母さん……うん、私。……身体は大丈夫。どこも怪我してないから……、うん。……え?」
スピーカーから聞こえてきた母親の声。娘の安否を気遣うのは、判る。だがその次に出てきた台詞に、黒川あかねは目頭が熱くなった。
『あかね。スマートフォンは壊れても失くしても、また新しいものを買えばいいの。でもね、心や身体が壊れてしまったら、そう簡単には治せないし、新しいものと取り換えることも出来ないのよ。――私の言いたいこと、判る?』
「お母、さん?」
『それはね、あかね。貴女の代わりは、他に誰も居ないってことよ。最近の貴女は何だか、ずっと悩んでるみたいだった。そのうち話してくれるんじゃないかって思ってたけど、貴女は賢いから大抵のことは自分で解決しちゃうし、何より貴女は、全部自分で抱え込んじゃう癖があるから……』
「お母、さん……」
『家族だから、逆に話しにくいことってあるわよね。折角、憧れのかなちゃんの家にお泊りできるんだもの。この機会に、貴女の悩みを聞いてもらいなさいな。同い年の、同じ女優なら、私なんかよりも貴女の悩みをずっと理解してくれるかもしれないわよ』
「お母、さん……!」
『不甲斐ないお母さんでごめんね、あかね』
「そんなこと……ない……! 私こそ……ごめん、なさい……!」
『お前が以前プレゼントしてくれたクッキー、母親に手伝って貰いながら作ったって言ってたよな。料理教室に一緒に通うほど、母親とは仲が良いんだろう?
――あかね、俺はさ。家族を、母親を裏切るやつが大嫌いなんだよ。お前が命を投げ出すのは、産んでくれた母親に対する最大の裏切りなんだ。
俺はあの時、もう少しで裏切るところだった。母親の味わった痛みを、苦しみを台無しにするところだったんだ。でも、俺の大切な人が、大切な人たちがそれを止めてくれた。母親の命を無駄にするなって叱ってくれた。俺の為に命を懸けてくれた。俺の為に、涙を流してくれたんだ』
……ああ、そうか。星野アクアも、こういう気持ちを味わっていたのか。
自分に降りかかった苦難を嘆くばかりで、悲劇のヒロインぶって、人生が終わったと錯覚して。
もう少しで母親を、家族を裏切るところだった。あの時少年が止めてくれなかったなら、自分は今頃きっと物言わぬ遺体と化していたのだろう。病院に駆け付けた父親と母親を絶望の底に突き落として、世間からの好奇の目が黒い雨となり、両親を溺れさせていたのだろう。愛すべき家族を、この手で壊していたのだろう。
でも、そうはならなかった。
ソファの上で静かに眠る金紗の少年と、彼を取り巻く人たちのおかげで。
(ありがとう……アクアくん。ありがとう……かなちゃん)
『それじゃ、あかね。明日には、気を付けて帰ってらっしゃい』
「うん……うん……!」
蒼玉の少女は涙声になりながらも返事をし、通話が切れても暫くの間、震える手でスマートフォンを握り締めていて。
深紅の少女は労わるように、優しげな表情で母子の語らいを見守っていた。
『関東地方を襲う台風はこのあとも東寄りに進み、本日未明から明け方にかけて太平洋側に抜ける見込みです。
では次のニュースです。明日――』
母性や包容力が備わりつつある重曹ちゃんの回でした。
有馬かな VS 黒川あかねは次回に持ち越しです。