星の子どもたち   作:パーペチュアル

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Carbuncle 8

 

 

 

「♫~、♩~」

 

 鼻歌を口ずさみながら、有馬かなは軽快に野菜を切っていた。トントントン、という小気味いい音がリズムを刻み、リビングに居る黒川あかねの耳にまで届いてくる。 

 

 キャベツを千切る。

 ニンジンを乱切りにする。

 玉ねぎを薄切りにする。

 じゃがいもを一口サイズに切る。

 ソーセージを四分割にする。

 

 これらを、あらかじめ水を沸騰させた鍋に入れ火にかけて煮る。じゃがいもなどの煮えにくいものから先に、キャベツのように温まりやすいものを後に入れるのは、基本。全部入れ終わったら弱火にして、じっくりコトコト数分間。

 今ここには無いが、場合によっては椎茸やほうれん草にトマトなど、野菜のバリエーションを工夫するとなお良し。

 因みに。トマトは植物学上では果物とされているが、一般的には野菜に分類されている。果物と野菜のどちらになるのか1883年にアメリカで裁判が行われ、最高裁に至るまで議論された結果、基本的には野菜として扱われることになったという経緯がある(斉藤ミヤコ談)。

 

 野菜が煮えるまでの数分の間に、冷蔵庫から()()()()()()()()()()取り出した。

 優しく指を添え、這い回す。

 手のひらの上で、ころころと転がす。

 弱すぎず、強すぎない塩梅で揉みほぐす。

 これも、星野アクアの胃袋と玉袋を掌握するための訓練だ。どんなに屈強な男であろうと()()は絶対の弱点であり、()()を支配すれば男を意のままに操ることが出来る――と、不倫女(斉藤ミヤコ)托卵女(姫川愛梨)から言い聞かされていた。並の女子高生には及びもつかない、幾多の男たちを手玉に取ってきた女にしか出せない圧倒的な説得力である。

 

 

 

『私? アクアの袋は全部支配してるわよ。私はアクアの食事を作っている母親(胃袋)で、給与を払っている上司(給料袋)で、あの子の欲望を受け止める(玉袋)なんだから。当然『お袋』でもあるし、『堪忍袋』にも自信があるわ。アクアの生殺与奪は私が握っているのよ』

 

 

 

 以前、斉藤ミヤコに取られた強烈なマウント。

『お袋』は恐らく、どう頑張っても彼女には叶わない。というより、有馬かな自身が彼女の母性に魅せられてしまっている。

『堪忍袋』は一朝一夕に身につくものではなく、今後も継続して養っていく必要がある。今はまだ、雌伏の時。

 子役時代に引く程稼いだ有馬かなの財力をもってすれば、アクア一人をヒモにするくらいは余裕である。これで『給料袋』は解決――とは、遺憾ながらそういうわけでもない。彼には女のヒモで満足するような小さな男にはなって欲しくないし、有馬かなの女心としてはやはり、アクアには基本的に自分をリードしてもらいたいと思っている。その時の感情や状況によりけりだが、最後の最後には男の人は頼れる存在であって欲しいのだ。

 

 というわけで現在、深紅の少女は芸能活動を事実上中断して、直ぐに手が付けられる料理と性技を磨くことに専念していた。師の女二人からも飲み込みが早いとお墨付きをもらっており、「己の技量が確実に上達している」という達成感は久しく味わうことのなかったものだ。急がば回れ――多少遠回りでも、今は女子力や人間力を高めることこそが一流の女、ひいては一流の女優への近道なのだと信じている。

 

 ひとしきり玉二つを弄んだあと、ボウルに中身を入れてかき混ぜ、鍋の中に円を描くように流し込んでいく。

 固形コンソメを落とし、塩とコショウを少々入れて味を調(ととの)え、さらに数分間煮込む。

 最後の隠し味に、一つまみの愛情を。

 

 ――以上が、天河メノウ/姫川愛梨から教わった野菜卵スープのレシピである。

 手軽に作れて、栄養価も抜群。彼女も生前、息子の姫川大輝の健やかな成長を願って、幾度となく作ったことがあると語っていた。

 

 それから、完成するまでの数分間で、食卓に華を添える一品を。

 林檎(りんご)を取り出し、8等分に切り、芯を落とす。

 皮の部分にV字に浅く切り込みを入れ、その部分まで皮を剥く。

 皿の上に円形に並べ、(いろどり)を良くして――完成。うさぎ林檎の出来上がりである。野菜卵スープともども、健康にも美容にも良いお勧めの品であった。

 

 さて、そろそろ配膳を……と考えたところで。視界の端に映った黒川あかねが、キャビネットの近くで何やらごそごそと怪しい動きをしていることに気が付いた。こっそりと背後から近付いてみれば、複数の小箱を前にして、興味深そうに中身を検分しているようである。その手に乗っているのは――、

 

「何こそこそしてんのよ、黒川あかね」

「……か、かなちゃんっ!?」

 

 蒼玉の少女の手には、避妊用ゴムが握られていた。以前、有馬かなが通販で購入したものである。下は0,01mmから上は0,1mmまで、感触がどう異なるのか試してみようと複数種揃えてみたのだ。そういえば、前に使った時にキャビネットの上に置いたままで、片付けるのを忘れていた。

 

「なあに、アンタも興味あるの?」

「えと……これは、その……!」

「欲しいなら、何個か持って帰っても構わないわよ。でも、私から貰ったってのは内緒にしといてよね」

「えっ……?」

「どのみち全部使うわけでもないし、捨てるのも勿体ないから構わないわよ」

 

 避妊用ゴムの使用期限は3年から5年程度である。古くなったものは劣化して使用中に破れるリスクが増大するのだ。

 目に見えて慌てていた黒川あかねが、きょとんとしたのち困惑した表情に変わる。

 

「でも……」

「それに、もしアンタにも男が出来たらきっと必要になるんじゃない? 備えあれば憂いなし、よ。アンタの将来の彼氏が、ちゃんと避妊に気を遣ってくれるのか判らないものね」

「……やっぱり、いらない」

 

 手のひらに握られていたゴムを突き返され、有馬かなはやれやれと嘆息してポケットの中に仕舞った。

 今、自分には男が居るのに、お前には居ない――という言外に込めたマウントに機嫌を損ねたようだ。

 

「もうすぐ晩御飯が出来るから、手を洗ってきなさいよ」

「……わかった」

 

 憮然とした様子で洗面台の方へ歩いていく黒川あかね。それを見送ると有馬かなは鍋の様子を確認し、ちょうどいい具合になっていると判断して火を止めた。

 

 

 

 

 

 

 居間のTVの前、カーペットの上に置かれたローテーブルを間に挟んで、二人の少女はクッションと座布団の上に座って向かい合っている。キッチンのテーブルと椅子よりも、こちらの方がくつろげるだろうとの判断だ。

 

「……美味しい」

「味薄くない? 塩とコショウは控えめにしたんだけど」

「ううん、丁度いい」

「そう? それは良かった」

 

 皿から漂ってくる香ばしい匂い。黒川あかねはその香りを嗅いでようやく、自分が空腹になっていたのだと認識する。有馬かなに促されるままスプーンを持ち、スープをすくって口に運ぶ。そこで自然と、美味しいの感想が零れ出てきた。

 空腹は最高の調味料、とはよく言ったものだ。何の変哲もない野菜卵スープではあるが、空腹であったことに加え「あの」有馬かなが手ずから作ってくれた料理ということで、黒川あかねにとってはこの上ない特別な食卓である。

 そのまま二口目、三口目と次々にスープを口に運んでいき、その様子を見た有馬かなは満足そうに頬を緩めている。料理を作った人間にとっては、食べる人が美味しいと喜んでくれることこそが喜びであり、やりがいでもある。役者業にしか興味が無かったかつての有馬かなにとっては想像もつかなかったことであり、それは彼女の成長の証でもあった。

 

 ガラス越しに聞こえる雨風の音。

 音量を下げたTVの控えめな音。

 食器が鳴る小さな音。

 少女二人がスープを啜る音。

 そしてさらに、ソファで眠る金紗の少年が立てる寝息の音。それらが渾然一体となって、この空間を形成していた。

 

「かなちゃんって、料理出来ないって言ってたと思うんだけど……」

「最近勉強してるのよ。これも花嫁修業の一環ってやつ? そういうアンタこそ、母親と一緒に料理教室に通ってるんでしょ? 私よりもっと手の込んだものを作れるんじゃない?」

「それは、そうかもしれないけど。……かなちゃん、随分と変わったね」

「そうかしら?」

「うん。なんて言うか……」

 

 恋する乙女。そう言おうとして、止まった。

 黒川あかねが見る限り、有馬かなは恋をしている。そしてその相手は、ほぼ間違いなく自分と同じ人物であり。

 そうなれば当然、競争になる。だが、今の自分では勝てる気がしなかった。彼女は「彼」と、どう見てもただならぬ関係に見えたから。

 

「……かなちゃん」

「ん?」

「えっと……」

「何よ、はっきりと言いなさい」

「アクアくんと、その……どこまで、いってるの?」

 

 今までのやりとりや先程の避妊用ゴムの件などから、肉体関係があるのだろうとは黒川あかねにも想像がついた。だが、本人の口からはっきりと聞いておきたかったのだ。

 

「どこ、って?」

「その……キス、とか、えっちなこと……とか」

「ああ、そういう意味ね。ふふ、そうね――」

 

 有馬かなは、笑った。黒川あかねは与り知らぬことだが、その表情は斉藤ミヤコや姫川愛梨の笑みに、よく似ていた。

 

「子づくりしてるわよ」

 

 カシャン、と。黒川あかねの手に持っていたスプーンが、音を立ててテーブルに落ちた。

 

(子づくり、こづくり、コヅクリって……、ええっ!?)

 

 黒川あかねは学業において、偏差値78の才媛である。その成績は上位0.26%に食い込むという、上澄みの中の上澄み。

 具体的な例を挙げるならば。毎年およそ7000頭ほど生産される競走馬のうち、国内最高峰のGⅠレースの一つであり同世代の最強馬を決める、東京優駿(日本ダービー)に出走出来るのは選ばれた18頭のみであり、上位0.26%というのはこの割合とほぼ一致するのだ。

 そんな彼女でもやはり、経験の無い事象には対応出来ず、少しばかり呆然自失となってしまった。いくら学業や演技力に秀でていても、こと色恋沙汰に関してはそこらの女子高生にも及ばないのが実情である。

 

「嘘よ」

「……、えっ?」

「だから、嘘だってば。いくら私でも、そこまで考え無しじゃないわよ。もし赤ちゃんがデキちゃったら、高校と女優をお休みしないといけなくなるもの」

「そ、そうだよね……」

「まあ……アクアが私の人生に責任を持ってくれるなら、本気で考えてもいいけどね」

「む……」

 

 ふふん、と得意げな有馬かなと、眉間に皺を寄せる黒川あかね。だが、その対峙も長くは続かない。

 

「……かなちゃんって、人生楽しそうだね」

「今は、そうね。でも、アクアと再会する前の数年間はまるで……暗闇の中を歩いているみたいだったわ」

「かなちゃん?」

「アンタも知ってるでしょ? 天才子役も適齢期を過ぎると仕事がすぐ無くなって、私がどんどん落ちぶれていったのを」

「……うん」

 

 売れなくなって、掌を返したように消えていった周りの人間。誰も彼も、父親と母親でさえ彼女の下から居なくなった。

 落胆は無関心へと変わり、期待どころか気にかけてももらえなくなったのが、酷く彼女の心を苛んだ。

 

「その時は本当に……辛かったわ。何度も諦めかけた。芸能界を引退した方が楽だろうって、何度も考えた。でも、私にとって役者業は赤ちゃんの頃から続けてきた仕事で、私の生き方そのものだもの。途中で投げ出すなんてことはしたくなかった。諦めずに走り続けた。そのおかげで、人との出会いにも恵まれたのよ」

 

 姫川愛梨。

 斉藤ミヤコ。

 星野ルビー。

 そして……星野アクア。

 今の有馬かなを構成する、大切な人たち。

 

「だから私は、もう大丈夫よ。いずれ、アンタに持っていかれた天才の称号を奪い返してやるから、首を洗って待ってなさい」

「……私だって、負けない」

 

 そこまで話して、有馬かなはうさぎ林檎を手に取って一口齧りついた。ほどよく固い感触と、僅かに酸っぱい甘みが口の中に広がっていく。

 いつもより弱々しいけれど、黒川あかねが負けん気を覗かせていた。この状態ならもう自殺を図ることはないだろうと判断して、深紅の少女は話を続ける。

 

「で、アンタの方はどうなの? 愚痴くらい聞いてあげるから」

「え、えっと……」

「何を今さら躊躇ってるの? どうせここには私たちしか居ないわよ。こんな機会、もう二度と無いかもしれないわね」

 

 黒川あかねは少し俯き、同じく林檎に手を伸ばして、同じように一口齧った。

 ……美味しい。こんなにも甘く、そして酸っぱい林檎は彼女の人生で初めてのことだった。

 

「……かなちゃんは、今の私の状況を、知ってる?」

「ええ。今ガチなら私も観てるから、大体のことはね」

「じゃあ、前置きは無しにして。……私は、どうすればよかったのかな」

 

 共演者の顔に、不慮の事故とはいえ爪痕を残してしまった。

 番組側がそれを編集し、悪女に見えるよう仕立て上げた。

 今ガチの中心だった星野アクアと鷲見ゆきの敵というポジションに、貶められてしまった。

 視聴者の最も大きな派閥である彼らのファンから、叩かれる事態となってしまった。

 それに対し釈明と謝罪の書き込みをしたことで、炎上は一気に拡大し、番組外からも注目を集めることとなった。

 

「そんなの、全部を受け止めずに放っとけばよかったのよ。人間一人が背負える量なんて、たかが知れているわ。それが良いものでも、悪いものでもね」

 

 周囲からの期待や羨望でも、過ぎればそれは重圧となる。ましてやそれが、悪意や罵詈雑言となれば言わずもがな。器から溢れるほどに溜まってしまえば、遠からず器そのものを壊してしまう。

 

「本当に必要なものだけを受け止めて、それ以外を右から左へと受け流す。アンタにはそれが足りなかった。明らかにキャパオーバーよ」

 

 強固に設計されているダムといえど、決壊や氾濫を防ぐために随時、貯め込んだ水を下流へと放水し、それが洪水や流木による水害を防止することにも繋がる。人間とて、同じことが言える。

 

「言い方はアレだけど、『見たくないものは見ない』。もうちょっと肩の力を抜いて、気楽に生きた方が人生幸せになれると思うわよ」

「そう、なのかな……」

「――と、ここまでが一般論。ここからは私の個人的な意見になるけど、聞きたい?」

 

 有馬かなは再び林檎に口を付け、食べかけの一切れを口腔に収め咀嚼する。

 相対する黒川あかねは少し考え、深紅の少女が食べ終わるのを待って、こくんと静かに頷いた。

 

「いっそのこと、番組に乗っかって悪女になりきってみるのも一つの手よ」

「え……?」

「アンタだって、芸能人の端くれなら知ってるでしょ? バラエティー番組の多くはヤラセ。嘘でも誇張でも、面白いように捏造して編集する。――それが、芸能界。視聴者だって、ヤラセだの何だのと文句を言いながら、結局はそれでも観てしまう人間が多い。言わばショーマンシップよ。プロレスの悪役(ヒール)だって、試合を盛り上げる為に、観客を喜ばせる為に、わざと悪に見えるように演じている。でも、実際の彼らが悪人かと言えば、そうじゃないことの方が多いわよ」

「……つまり?」

「番組側も視聴者も、黒川あかねの本来の人間性には興味が無いの。嘘でも何でも、アンタが番組で面白いことをしでかすのを求めている。以前のアンタは、はっきり言って今ガチで空気みたいな扱いだった。居ても居なくても大して構わなかった。

 ――でも、今は違う。アンタが望んでた方向ではないけれど、視聴者はアンタの一挙手一投足に注目している。諸刃の剣だけれど、見方を変えればこれはチャンスでもあるわ」

「私が悪役って、そんなの……」

「まあ、これは極論よ。でも、素のアンタはバラエティーには向いていない。私が言いたいのはね、悪役(ヒール)でも善玉(ベビーフェイス)でも、何かしらのキャラ付けをしろってことよ。演技は得意なんでしょ?」

「むしろ、それしか取り柄無い……」

「アンタだって、恋愛ものの映画やドラマはいくつも観てるでしょうに。それを参考にして、恋愛向きのキャラを演じてみたらいいんじゃないかしら。――どう、参考になった?」

「う、うん。頑張る……」

 

 言い切って、有馬かなは二切れ目の林檎を手にし、黒川あかねも食べかけだった欠片を口にした。先程の言葉を咀嚼し、反芻し、林檎と共に飲み下していく。

 

「……かなちゃんは、凄いね」

「どうしたの、急に改まって。煽てても何も出ないわよ」

 

 煩悶する黒川あかねを見ていて、何故だか……看過しがたい苛立ちを覚えた。

 

 実のところ、先程の有馬かなの言は、半ば以上が師の女二人の受け売りである。それを凄いと誉めそやされても素直には喜べず、どこか居心地の悪さを感じていた。だがこの苛立ちはまた、別のところに起因しているように思えて。

 

「私、不器用だから……。目の前のことを一生懸命頑張ろうとしか、考えてなくて……」

 

 黒川あかねは役に入り込む没入型の役者。そしてそれは人間性においても同様であり、深度は深いが範囲は狭い。目の前に集中することにかけては随一だが、周囲を広く俯瞰することは不得手である。

 

「どうしたって、人には向き不向きがあるのよ。アンタに出来ないことは他の人に任せればいいし、アンタはアンタにしか出来ないことをすればいいのよ」

 

 あの星野アイとて、アイドルとしては空前絶後ではあっても、他の事については軒並み平均以下であり。

 かの斉藤ミヤコとて、母や女としては圧倒的な魅力を備えていても、芸能人としては大成しなかった。

 それでも。彼女たち二人は星野アクアにとって、他の追随を許さない存在として最上位に君臨している。

「彼女たちを、超えたい」。有馬かなが密やかに秘めた願望であり、新たな目標。

 

「私に出来ること、かぁ……」

 

 ――だが。

 

(何故だろう。今の黒川あかねを見ていて、妙に……苛立つ。腹が立つ)

 

 考える。

 林檎を齧る。

 顎を動かし、顔周辺の血流が増加し、それに伴って脳の働きが活性化されていく。

 

(……ああ、そういえば)

 

 少し前のあの日、とある一日の女子会にて。恋愛リアリティーショーでの黒川あかねを見て、天河メノウ/姫川愛梨は語っていた。

 

『黒川あかねのことはあまり好きにはなれませんね』

『彼女は、昔のわたしに似ています。自分の未熟さを思い出させて、見ていて恥ずかしくなりますね』

 

 子役の全盛期だった頃。有馬かなは、自分は何でも出来ると思っていた。誰もを従えることが叶うと――否、従えて当たり前だと、本気でそう考えていた。あの、幼い金紗の少年に出会うまでは。

 若いゆえの、昇り調子にある者が抱く全能感。幼い子どもであれば大なり小なり誰しもが持っているものだ。しかし、井の中の蛙が大海に出た時、自分がいかに矮小だったかを知り、打ちのめされる。

 今の黒川あかねは恐らく、この段階(ステージ)。彼女はそこまで驕っていたわけではなかっただろう。調子に乗っていたわけではないだろう。だが世の厳しい現実に晒され、精神的に弱っている。自分が持っていないものを持っている他人を羨んでいる。

 

 あの時の、自分のように。

 幸せそうな星野アクアと斎藤ミヤコ。長年の想いが叶って、積年の苦難を乗り越えて結ばれた二人を、指を咥えて見ているしかなかった、少し前の自分のように。

 

 思えば。この黒川あかねという少女は、初めて会った時から気に食わなかった。

 丁度その時、有馬かなは絶頂から落ち始めた頃。幼いながらも芸能界に身を置き続けていた天才少女は、自分の人気に陰りが見え始めたことに焦っていた。スポンサーは自分に対し演技力ではなく、知名度や商品力を、「有馬かな」というネームバリューを求めていることに気が付き、憤りを抱いていた。

 そんな時に現れたのが、自分に似せた髪型をして、同じような帽子を被って、憧憬の視線を隠そうともしない同年代の少女。有馬かなが演技力なんて二の次三の次なんだと現実を思い知らされていた時に、演技力が一番大事なんだと臆面もなくのたまった世間知らずの少女。

 

「ねぇ、黒川あかね」

「何? かなちゃん」

 

 あの時は。痛いところを突かれて、何も知らない癖に分かった様な事を言う彼女が気に食わなくて。

 彼女の帽子を叩き落として、アンタみたいなのが一番嫌いと、苛立ち紛れに罵声を浴びせることしか出来なかった。

 

「逆に聞くけど、アンタはキスとかえっちなこととか、したことある?」

「え、ええっ!? そんなの……言えない、よ……」

「なんでよ。私には聞いておいて、自分は言わないなんてフェアじゃないわ」

「うぅ、それはそうだけど……」

「ほらほら、さっさと答えなさい。心配しなくても、誰にも言いふらしたりはしないから(嘘だけど)」

「えっと、その……まだ、だよ」

 

 今の自分なら、何が出来る?

 

 

 

「ふぅん、そうなんだ。

 

 ――それは良かったわ」

 

 

 

 何でも、出来る。女優という生き物は、何にでもなれる。一流の女優なら皆、それくらいのことはやってのける。

 少なくとも、そう強く確信して板の上に立てと、姫川愛梨に教わった。

 他人を羨むだけでは女という生き物は醜くなっていくだけだと、他人から羨ましがられる女になりなさいと、彼女に何度も言い聞かされた。

 

 

 

『これから貴女も、身をもって知るのだから。かなさんはアクアのこと、まだ何も知らないでしょう? どこを責めると感じるのか、ほくろが何処にどれだけあるのか、お尻の穴の皺の数とか、全然――知らないわよね。私が一から全部、手取り足取り教えてあげるわ』

『やっぱり、物事って最初が肝心なの。動物の躾けでも、まず初めに上下関係を覚えさせるところから始まるのよ。それを怠っていると、飼い主に噛みついたり周りに迷惑を掛けたりして、全員が不幸になってしまうのよね』

『――さあ、かなさん。覚悟はいい? 今夜は寝かせないから、そのつもりでね』

 

 

 

 あの夜、アクアとの初夜の直後。逢瀬(浮気現場)に乱入してきた斉藤ミヤコ(不倫女)が放っていた、圧倒的なまでの美と色香。

 盗んでやる。いずれ、この身に取り込んでモノにしてやる――と意気込み、季節が一つ移り変わった。果たして、今の自分にどこまで再現出来るだろうか?

 

「かなちゃん? ……っ!?」

 

 そして目の前には、うってつけの獲物が一頭。若く、真面目で、生娘であり。幼い頃から有馬かなに幾度も突っかかってきた――つまり、彼女に対しある種の因縁、執着心を持ち合わせている。おまけに今現在、精神的に弱っている状態だ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 この少女を御せないようでは、斉藤ミヤコには到底、勝てない。

 ならば、やってやる。斉藤ミヤコを、星野アイを、栄華を誇っていたかつての自分を、超えてみせる。

 だから――、

 

「んんん……! っ!!」

 

 テーブルから身を乗り出して、蒼玉の少女に口付けた。

 

「んっ、んんん……!」

 

 有馬かなのファーストキスは、鉄のような血の味であり。

 黒川あかねのファーストキスは、甘酸っぱい林檎の味がした。

 

「……か、かなちゃん!? 何するの!?」

 

 深紅の少女は舌を伸ばし、唇に付着した二人分の唾液を舐めとっていき、

 

「ふふっ……」

 

 人妻の不倫女と見紛うような悋気(りんき)を、醸し出していた。

 

「――さあ、黒川あかね。覚悟はいい? 今夜は寝かせないから、そのつもりでね」

 

 

 

 

 

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